ルート、エル 1
レストランのバイトの帰り道、信号待ちをしていた公平のお尻を、エリーが蹴りあげたのは、二年前の冬のことである。
逃げ出すエリーを「クソガキ!」と追いかけ回し、彼女の襟を掴んだのは緑地公園の入り口でのことだった。
「なんでいきなり僕のこと蹴ったん?」
「言いとうないないわ、ボケ」
少女は整った顔立ちをしていたが、口が悪く、不服そうに頬を膨らませているので、腹が立つのに時間はかからなかった。
公平は拳骨をエリーの頭頂部に食らわせた。
「痛っ! いきなりなにすんねん!」
「それは僕のセリフやな。なんでさっき蹴ったんか聞いとるんや」
「だから、言いとうないって言ってるやろ。あ、痛っ!」
交差点で信号が青になるのを待っていただけなのに、いきなり背後から蹴られたら、頭にもくる。逃げ出したクソガキを捕まえて、理由を尋ねたら、「言いたくない」の一点張りだ。もう数発なぐってやろう、拳を固めたら。
「はぁー、いっつもこうや」
と少女はその場にしゃがみこんだ。
「いっつもいつも。ほんま嫌んなる」
「君はなにを言うとるん? 怒らんから素直に謝り。間違ったことをしたら、謝らんといけんって幼稚園で教わらんかったんか?」
「なんで助けてやったんに、アタシが謝んなきゃあかんの」
少女は眉間にシワをよせて、公平を睨み付けた。街頭の明かりが彼女の瞳を輝かせている。なにかに期待するような、そんな目をしていた。
「なにを言うとるんか、キミ。いきなり人を蹴り飛ばしといて。車が来とったらひかれるところだったんよ」
「言っても信じんから、言いとうない。時間の無駄やから」
よし、殴ろう、と心に決めた瞬間、
「わーた! 言うよ。言うから、怒らんといて」
と慌てたように、エリーは両手の平を公平に向けた。
「アタシは未来が見えるんや」
公平はゆっくりと深く息を吐いた。白く染まった吐息はタバコの煙のように夜空にあがって、静かに消えた。
「ほら、信じとらん。だから言いとうなかったんや」
「……いや」
公平は首を捻りながら尋ねた。
「もし、仮にキミが未来が見えたとして、僕を蹴りあげる意味がわからんねん」
「あのままあそこにおったらアンタはトラックに牽かれてたんや」
「んなアホな」
「あんたはアタシを追って、あの場所から移動した。悲惨な事故は起こらんくなったいうわけ」
公平が妄想症をこじらせた世迷い言に呆れ顔を浮かべたとき、先ほどまでいた交差点の方から、ドォンと大きな音がした。轟音が反響して、深夜の公園に響き渡る。
「な?」
エリーがしたり顔でにやついた。
ビリビリと震える空気に正気を失いかけながらも、公平は「そういうことで」とその場をあとにしようとしたが、今度はエリーが彼の裾を掴んだ。
「間違ったことをしたら、謝るんやなかったんか?」
ニタニタと片頬にエクボを浮かべてる。公平は恐怖を感じていた。未知なるものを恐れるのは人間の本能だ。
「大袈裟やなぁ。ただの偶然やんけ」
「いいから、頭さげぇな。偶然でもアンタはアタシに命を救われたんやから」
「……」
現場を見ていないので明確にはわからないが、トラックが縁石を乗り越えて歩道に突っ込んだ、ような音は聞こえた。
仕方ないのでペコリと頭を下げたら、「もっと深く!」と怒鳴られたので、今まででしたことがないくらいの角度で頭をさげた、時だった。ブーメランのように飛んできたトラックのナンバープレートが彼の頭上を掠めて、街路樹の幹にガツンと突き刺さった。
「えー……」
公平が恐る恐るエリーを見ると、彼女はケラケラと可笑しそうに笑った。
「ほら、なっ、だから言うたやろ、なっ」
笑いすぎて息が出来なくなっている。
深夜の公園に少女の笑い声が響いている。
「ほら、あんた、アタシに言わなアカンことあるんやない?」
息を「ひーひー」と吸いながら少女が訊いてきた。
「あ、ありがとうな」
悔しいが認めざるを得ないだろう。公平はグっと不満を飲み込んで、さらに深く頭をさげた。
「お礼よりも先に、まず謝らんかい」
鬼の首をとったように、エリーははしゃいでいる。
「あ、ああ。そうやったな。拳骨したりして、ほんまにすまんかった」
「許すわけないやろ、ボケ」
エリーは思いっきり公平の向こう脛を蹴飛ばした。火花が散った、ような気がした。
「痛っうー!」
痛みにたまらず、うずくまる。
「アンタはアタシに借りができたんや。命を救われるいう、一生もんの借りや。アンタは一生をアタシに捧げなあかんねん」
公平の本来の性格なら、今すぐ踵を返して走り出すところだが、足が痛くて動けなかった。
「ほら、身分証出しぃ」
「なんでそんなこと……」
「免許くらい持っとるやろ。さっさと見せい」
渋々ポケットから二つ折りの財布を取り出し、免許証を彼女に渡す。
「こいつは預かっとく。明日、市役所前に午前十時に来たら返す。ほんじゃまたな」
受け取った免許証をポケットにしまうと、エリーは軽く手を挙げてその場をあとにした。
脛の痛みから立ち上がって追いかけることは出来そうにない。
真冬の深夜一時。吐いた白い息のように少女は暗闇に消えてしまった。真っ黒な空に星座が瞬いている。
「つぅ」
冷たい空気に鼻がツンと傷んだ。
誰かが呼んだのだろうか、静かな町にサイレンの音が近づいていた。