9.居場所
つまらない日々を家でダラダラ過ごす。八畳一間の女の部屋でテレビを見ている。見ているというよりテレビの映像が流れているだけといった方がしっくり来るかもれない。響は自分が何をしようとしているのか忘れてしまった。もうやる事は何もないかのようだった。
ニュースは刻々といろいろな事件を伝えようとしている。今は食品内にトルエンが混入した事件など食の安全についての話題を取り上げていた。響にとってはもちろんどうでもいいニュースであった。
伊豆の工場が爆発した事件も数日間は3番目くらいに大きなニュースとして取り上げられていたが、どの映像も全て焼けて無くなった工場跡とそれを処理する消防隊の姿しか映さなかった。響に起きた真実を伝える映像はまるで見られなかった。
2日後には工場に火を付けた犯人として、柏木守容疑者が逮捕されたニュースをやっていた。最初の日は放火の理由を不明としていたが数日後には爆弾の実験を行っていたという内容のニュースが見られるようになり、ニュースも大々的に取り上げるようになった。火災による死者も公表された。死んだのは全て爆弾を作っていた仲間である事を冒頭に伝え、『カナハラ、キシマ、キリヒラ、クラモト、クワノ、コスゲ、ムツミ、ワカテ』の8人の名が挙げられた。響の名前は出てこなかった。と同時に、死体は損傷が激しく、死体の数と柏木容疑者が告げた人物の人数が一致しないと伝えていた。
自衛隊の役人が更迭されたというニュースがあった日には、柏木守と日暮里スーパー爆破事件が関連している可能性があるとニュースは特集として挙げていた。柏木守は日暮里スーパー爆破事件の直接の実行犯ではないが、その爆破事件と今回の伊豆工場模作爆弾爆破事故(ニュースでは一般的にそう呼んでいる)とに爆弾の造りなどから関連性がある事を挙げていた。しかし伊豆工場模作爆弾爆破事故が麻薬と関連しているとは、どこのニュースを探しても伝えている報道機関は一つもなかった。麻薬のニュースはどこかの大学生が大麻を栽培したとか、どこそこの芸能人が再犯で捕まったとか、そんなニュースしかやっていなかった。
あのトランクはどこへ行ってしまったのか、その真実は闇の中に葬り去られてしまった。
有名作曲家の詐欺事件、米大統領の決定がニュースで流れる頃には伊豆での事件はまるでなかったかのようにニュース番組という枠から消されてしまっていた。時は過ぎ行く。響はただそんなニュースばかりを見る日々を送っていた。
響がどこにいるのかといえば、 今帰ってきた女の家だ。
「ただいま。いい子にしてた?余計な事しちゃだめだからね」
女は猫なで声で、響の顔を覗き込んだ。人の心を読む女、橘玲香だ。
柏木守と別れた後、響はまず銭湯に行って体を洗った。近くのユニクロで服を買い揃えて着替えた。それから近くの散髪屋で髪をとても短く切り、伸びた髭を全てそり落とした。そしてどこかのロックンローラー風だった男はどこかの高校野球児のように変身した。響に変装しようという魂胆があったわけではない。たた全てをすっきりさせたい思いが自然の成り行きで変装しているかのように風貌を変えさせた。
響には帰る場所がなかった。このままどこか知らない街へ行ってしまっても良かったが、遠くの街を知らない響は小田原に行こうと考えた。でもその考えを止めた。嶋咲枝への復讐という思いがまだ残っていた。それはとても弱いもので今すぐどうしようという気にもならず、結局行き着いた場所が水道橋の駅だった。全てはどうでもよくなっていた。
玲香はそんな時に限ってしっかりそこにいた。
「ずっと待っていたのか?」と響は混雑した夕暮れ過ぎのホームにいる玲香に尋ねた。
「そうね。そうかもしれない」と彼女は答えた。
玲香は響をいつものようにどこかのホテルに連れこもうとしたが、響はそれを断った。
「そうじゃない。今日はそうじゃなくて、行き場がなくなった。それはそれでいいんだけど」
玲香はその言葉で察して、そのまま総武線に乗って、中野区にある玲香のアパートまで響を連れてきた。小さな建物だった。
「いいわ。ここに住んで」
「金はある」
「お金は要らないわ。その代わり、わたしがしたい時に相手して欲しい」
「それは・・・」
「いやならここでお別れよ」
「構わない」
そして響は玲香に手を引かれ、部屋の中に入り込んだ。電器も付けないまま二人はその場で抱き合った。
居候となった響はそのまま猫のように玲香の家に居ついてしまった。玲香は「単身用の家だから静かにしててね」と言って響を家に閉じ込めた。響は言われるままにおとなしくしていた。小さな音でテレビを見て、冷蔵庫にあるアサヒを飲んだ。他は何もなかったし、何もしなかった。
幼い頃の田山家での生活に戻ったかのようだった。苦痛ではなかった。息苦しい感じもあったが、それは響の気持ちを苦しめるほどの息苦しさではなかった。
玲香は毎日どこかに出掛けた。たいていは会社のようだが、会社が休みの日もどこかに出掛けた。男を抱きにいったのかもしれないが、響はそれを言及しなかった。
響は玲香が帰ってくると嬉しかった。どこかで彼女を求め出していた。一人きりからの開放は彼女の帰宅と共に訪れた。それは響が13歳まで過ごした田山家での日々に似ていた。
眠りに就く頃になると、響は自分が何をしているのかとふと疑問を持たせられた。でもそれを考えるのもどうでもよくなって、すぐに眠ってしまった。玲香もまた響になぜここに来て、これからどうするのかと尋ねてはこなかった。
一人の時間が来るとこれからどうするかを考えさせられた。こんなところでいつまでもこうしているわけにはいかないこともわかっていた。でもここは安全だった。嶋咲枝の手下である木崎も、嶋咲枝殺害の依頼者である斉藤という危険な人物も、ここにやってくる可能性は低かった。その日々に甘えていた。甘えるだけ甘えた。玲香と一緒にいることが楽だった。たまに服を脱ぎ散らかして怒られるくらいの楽な生活だった。酒は好きなだけ飲める。響は無趣味だし、他に欲しいものもない。本当なら復讐の思いを燃やし、追求しないといけないのだが、実際のところその思いは若手旋斗に放った銃弾に込められた思いともに飛び散ってしまったみたいに消えてしまっていた。
感情のなく堕落した時間が続いていた。
響は女を満たすためのただの男という存在になっていた。
※
曇り空の日比谷公園は昼間だというのに夜更け過ぎのように暗かった。雨も降りそうなのでゆっくり過ごす人もいない。そんな中、一組の男女がベンチに座って休日の昼間であるかのような、ゆったりした時間を過ごしてた。
女は男に言った。
「あなたは何のために生まれたの?」
「僕は、絵を描くために生まれました。僕に出来るのはそのくらいですから」
画家である五十嵐卓人はそう答えた。
肌寒い風が吹いていた。静かな時間の中に二人はいた。もう一人は嶋咲枝だ。彼女はいつものようなブランドものの格好はしておらず、紺のスカートに青いハイネックのセーターを着て、ベージュのカーディガンを羽織っていた。装飾品は全く身に着けていなかった。化粧も軽いファンデーションのみだった。
「私は何のために生まれてきたのか、わからない。この日々が何のためにあるのか、私にはわからない。人は高性能ロボットのようなものよ。神が創り出した高性能ロボット。人は特別な生命として使命を追ったかのように生きてゆこうとするけど、生命である以上、ただ生きるだけ。食の味わい、美の堪能にしても、私たちは個人の好みを追求しているだけ。ただ好みを探して生きている。私はそんな生き方に飽きたみたい」
嶋咲枝はそんな不思議な話をした。その話は彼女らしくなく、いつになく落ち込んでいるように、五十嵐には感じられた。
「そんな事をおっしゃらないでください。あなたにはあなたの才があるのですから。それを世の中の為に使ってください」
五十嵐はそう言って彼女を勇気づけようとした。
「きっとそれはあなたの思う嶋咲枝という人物の事ね。私はあなたの思うような人じゃないわ。私はもっと貪欲で、煩悩だらけの人間よ」
「僕にはそんなふうに見えません。あなたが今思うあなたこそ、あなたらしくはない。自分らしい自分なんて、自分の思う所にあるものではありませんから」
「そうだとしても、私には私の思う自分が内にあるのよ。だから私はこういう生き方をしてきた」
「わかりました。それでも構いませんよ。僕も『世の為、人の為に』なんてもう言いませんよ」
いつもは気の弱い五十嵐が嶋咲枝に慰められるのだが、この日逆となった。そのせいか、あまり人を慰めたことのない五十嵐の言葉は彼女を元気付けられない上に、彼はそれ以上、何を言えばいいか言葉も出てこなかった。
話し出したのは嶋咲枝の方だった。
「あなたと私が出会ったのはパリの美術展だった。あなたは『水色の光景』というセーヌ川に佇む少年の絵を出展していた」
「そうですね。あの時、僕はあなたがどのような方か知らずに失礼な事を」
「それはよかったのよ。ただ私は気になった事が一つあっただけだった。本当を言えばわたしには芸術的感性なんてない。あの時はあなたの絵を褒めたけど、本当はそうじゃないのよ。私はただ、あなたの書いた絵が気になっただけだった。どうしてあなたはあんな絵を描いたの?」
嶋咲枝は侘びるわけでもなく、ただ当時の誤りを訂正した。五十嵐も特に残念がる様子もなく、彼女の質問に回答し出した。
「どうしてでしょうね。僕はあの美術展の前に、パリを訪れたことがあります。その時は感性を磨くとか言って、友人と訪れたのですが臆病者で思いきったまねは何もできませんでした。ただ来る日も来る日も、セーヌ川の畔にカンバスを広げて何かを書こうとしていました。でも絵は全く描けなかった。何のイメージも浮かばないまま、ただそうしていました。近くを通り過ぎる人は僕のカンバスを覗いて、何も描けていないのを見て通りすぎていきました。『何も書かないのか?』と聞いてくる人もいましたし、笑ってバカにする人もいました。それでも僕は何も描けなかった。でもある日、そこに10歳くらいの少年がいるのを見ると、その少年を描きたいなと思いました。でも少年は絵を描いている時にはいなくなっていました。最初からいなかったのかもしれない。僕はその少年がそこにいた表情を思いながら『水色の光景』を描きました。一気に描き、後は部屋で修正を重ねました。とてもいい絵に仕上がった」
「私はあの絵を見たとき、気づいてしまったの。だから私はあの瞳を求めて追った。その全ては幻だとわかっていても。でも人は不思議と繋がり合う。それは偶然かもしれない。求め合いの結果かもしれない。どちらにしても私たちは出会った」
五十嵐は嶋咲枝が何を言おうとしているのか理解できなかった。それは自分との出会いを言っているのかもしれないし、芸術というものとの出会いを言っているのかもしれない。しかし嶋咲枝の言おうとしているのはそのどちらでもなかった。
「私には生んだ子供がいた。私はあなたの絵にその子を思い出した。いいえ、思い出したというより、より確かにその子に会いたいと感じた」
「そうですか。そんな事を思っていらしたとは」
五十嵐は特に驚く素振りも見せず答えた。それは世の中からずれている彼らしい態度だった。
「子供の事は私しか知らない。あの子はわたしには気づいていない。何も知らずいる」
「その子に会えたのですね」
「そう。私たちは偶然再会した。でも私は真実を伝えられなかった。そしてその子を見殺しにしてしまった。もっとしっかりと助けてやる事もできたはずなのに、私は…」
そこで嶋咲枝は口を止めてしまった。止めたというより動かなくなってしまった感じだった。
「亡くなられたのですか」
嶋咲枝はそっと頷く。
「それがあなたを苦しめているんですね」
「感情はもっと複雑なの。数日前に、いろいろと気づかされた。思い出したくない出来事もあった。私はそれに触れてしまった。いろいろと感じる中で気づいた。私が生きている理由は、貪欲なものではなく、その子のためだったんだってね。そして私は生きる理由が無くなってしまったの。その感情がとても強く、押し迫ってきたの」
五十嵐はそれに対して何かを言おうとした。しかし嶋咲枝はすっと立ち上がり、「ありがとう。今日はあなたに会えてよかったわ」と、先に言った。
二人が座るベンチに向って、SPの男が駆け寄ってくる。五十嵐はもう時間なのだと感じ、言いたかった言葉を押し殺した。
嶋咲枝はベンチに座る五十嵐に軽く手を振り、SPの男の方へと近寄っていった。
五十嵐卓人は何かを言わなければならないと思ったが、どうしても言葉は口から出てこなかった。
フリーライターの前野正は気づいてしまった事をどうしたらいいか、酷く悩んだ。それは仮説にしか過ぎないが、彼の思うところではそれは極めて真実に近い仮説として成り立っていた。一度は心の内にしまい込もうとしたが、それでは自分のしてきた取材があまりにも無意味に思えてならなかった。
前野は自分自身の人生を振り返っていた。
何もない人生である。ぶ男で女にはもてないし、才能もない。少しだけ仕事ができたけど、それはせいぜい最低限生きてゆくための力にしかすぎない。ただ生きるだけの人生なんて彼には僅かな価値も感じていなかった。
だからフリーライターになった。やるからには何かを成し遂げたかった。一人の気になる女性をずっと追い続けた。その素敵な女性とは会うことすらできないだろうが、何の関わりでもいいから少しでも近づきたかった。そうする事で自分がこの世の中を生き抜いていると自信が持てたからだ。そして前野はその女を調べに調べた。少しでもその女性との繋がりが持てるように。
あなたにお手紙を書くという事。
11月10日、前野正の手紙は嶋咲枝の元に届いた。普段はファンレターなんて読まない嶋咲枝だが、その手紙は書留で届けられ、差出人が「1988年より」と書かれていたので、嶋咲枝は手紙の封を開けた。
『このような手紙を、あなたに送らなくてはならなくなり、わたしも迷いがありました。手紙は送らない方がよいのではないかとも思いました。それでもわたしは嶋咲枝様にどうしてもお伝えしたいと思い、この手紙を書かせていただきました。
わたしはフリーライターをやっている前野正という者です。あなた様には前々から各所で遠くより拝見させていただいております。わたしはフリーライターであると同時に、あなた様のファンであります。だから世の中のあなた様に対する誹謗中傷の記事にはいささか憤りを感じる次第であります。だからわたしはあなた様の真実を世の中に伝えたいと思っておりました。
わたしは知っております。あなた様が全国の孤児院に多大なる寄付をしておられる事を。それから、世の中の若者のためになるための政治対策を打とうとしている事を知っております。あなた様が身分の弱いものに対し、手を差し伸べようとしている多くのことをわたしは知っております。
わたしはその想いがいったいどこから浮かび上がってくるのかを知りたく思い、あなたの色々な過去を調べさせていただきました。そしてある事実と出会いました』
忘れたい真実が、嶋咲枝の心の内から湧き上がってきていた。失っていたもの、失おうとしていたもの、その虚しさが心の内から溢れてきていた。
人はどうあっても孤独なのか?それとも家族と呼べる相手が傍にいれば、孤独な思いは消えるのか?と、心の内で呟いた。
手紙は続いた。
『わたしはあなたの過去を探っていく中で、一枚の手紙を入手しました。その写真にはあなたの姉とあなた、そして中下丈という男が写っていました。わたしは中下丈を見たときに気づいてしまったのです。これ以上、わたしは何も申し上げたくはありません。しかし伝えなければなりません。
今年の7月にわたしはその中下丈にそっくりな男に会いました。彼はあなたのボディーガードをしている方の車から降りてきました。しかし中下丈は今から19年前に亡くなっていますからその人物が中下丈ではありません。
わたしにはもうこれ以上を申し上げません。ただ言えるのはあなたがどうして幼い恵まれない子のため、また若者のために力を注いでいるのか、その理由がわたしにはわかりました。そしてわたしとしてはただ、あなた様がその中下丈に似た人物と共に過ごせる時間が少しでも多く出来る機会を願っております。
わたしはとても小さな人間ですが、わたしなりに何かできないかを考えております。わたしは世の中の若い女性たちがあなたに憧れ、あなた様のような立派な人を目指す若者が多くこの世に現れることを望んでおります。わたしはただそれだけの人間です。だからこそ、わたしはあなたの幸せを願っております』
手紙はそこで終わっていた。しかし嶋咲枝にとってそれは余計な手紙のように思えた。なぜなら彼女は知っていた。中下丈は、ただ自分の体に興味があるだけの最低な男だった。それでも恋愛ベタだった咲枝は口説いてくる自分の姉の夫に体を許してしまった。そして深く愛してしまった。
半年後には子を身ごもってしまった。咲枝はどういう形であれ、愛する中下の子を産みたいと中下に告げた。中下は知らないふりをした。最後には『そんな事をしたら君の家族も、君もどうなることか、よく考えるんだな』と冷たく言い放たれた。
咲枝は家族に知られないように一人暮らしを始めた。そしてお腹の中の中下丈の子を生もうと考えた。でもその頃の咲枝には愛する中下丈の子を生むことなんて考えはなくなっていた。思いはすでに激しい憎悪に変わっていた。お腹の子を産んで、中下の変わりに殺してやるつもりだった。誰も知らずに産んで、誰も知らずに殺してしまえば何の罪にもならないと思ったからだ。そしてその憎悪のために咲枝はお腹の子を育てた。
そして春先のある日、咲枝はなぜか日暮里を歩いていた。知り合いはいない場所だったし、誰にも会わずに散歩ができそうだったからだろう。気晴らしだったのかなぜなのか、咲枝は理由なく日暮里を歩いていた。お腹の中の子供はそんなところで突然、咲枝のお腹を叩いた。
田山夫妻は咲枝を優しく包んでくれた。そして生まれてくる子を楽しみにしていた。
そして子は生まれ、夫妻は生まれてきた子を嬉しそうに見つめていた。咲枝は生まれてきた子を殺そうとしていた思いを酷く恥じた。田山が生まれてきた子を咲枝の顔元に寄せるとその子は優しく微笑んでいた。その笑顔は世界一愛らしく感じられた。その笑顔を見せる子は咲枝にとって世界で唯一の愛おしい存在だと感じ取った。
咲枝の頬からは自然と涙が流れた。そしてその涙は止まらず、涙に留まらずに酷く大きな声で泣き始めた。そこにはかつて感じた事のない喜びがあり、かつて感じた事のない悲しい思いもあった。咲枝はその思いを止められなかった。そしてどうしようもなく涙が流れ続けた。
喜びと悲しみの混じり合った涙を流す中で咲枝は決めた。感情など捨ててしまおうと。人を愛することは二度とないだろう。人を恨むことも二度とないだろう。喜びは二度と来ないけど、悲しみも二度と来ない。そうすれば涙も止まる。二度と涙は流さない。
咲枝は感じる事をやめた。涙が止んだ。それでも子供の顔を思うと再び涙が流れてきた。だから咲枝は子供を考えるのもやめた。全てを捨てる決意とした。
それから20年が過ぎた。感情のない中で、ただ何かを満たそうと生きてきた。欲望を満たすためのゲームが20年間続いた。でも微かな記憶の中で、嶋咲枝はわが子を忘れられずにいた。
※
青空の下を馬込は歩いていた。いつもと変わらない日、いつものように何かを探している。ずっと変わらないはずだ。
実は馬込はまた馬込警部補に戻っていた。まだ追わなければならないものが残っていた。
話は数日前に戻る。
柏木守と横浜で会った馬込は柏木のスターレットで都内へと向った。そして柏木守と白い粉の入ったトランクを半蔵門にある未然処理課まで運んだ。
車の中で二人はこんな会話をした。
「僕は伊豆工場爆発事件の犯人であり、日暮里スーパー爆破事件の犯人です。僕はそれで捕まります」
「このトランクは、上野響から手に入れたんですよね?」
「すみませんが、僕はその人からそれを手に入れてはいません。上野響さんとは居酒屋で会ったことはありますが、それ以外ではありません。あなたは何か勘違いしている。それはクワノという男が持ってきました。僕たちの仲間です。小田原の辺りで手に入れたそうですが、詳しい事はわかりません」
「そうですか。わかりました。でも金子さんは、それは上野響が持ってきたと」
「さあ、金子さんは何かを勘違いしている。それをあなたが勘違いしたんですね」
「あなたはいろいろと嘘を付く方なんですねえ」
「どうですかねえ。嘘は付かなくはないですけど、正直な方だと思うんですが」
「そうですか。じゃあそれでいい事にしますよ。わかりました。あなたが2つの爆破事件の犯人で、それはクワノという男が持ってきたという事にしましょう」
「そうですか。わかってくれてよかったですよ」
馬込が柏木の作り上げたストーリーに乗っかり、柏木は満足した様子だった。
「いや、わたしは本当に信じているわけじゃないんですけどね。最近思ったことがあるんですよ」
「はあ」
「真実はどうでもいいと思いました。そんなわかりにくいものを追うのは止めることにしました。ただ、わたしはですね、やり遂げるべき事をやり遂げようと考えることにしました。本当にね、わたしは頭が大してよくないんですよ。それはとても残念ですが、人のトリックを暴けるほど頭が回らないんです。誰かの言った事が嘘か本当かなんて、よくはわからないんです。警官なんて、今は警官じゃありませんが、警官の真似事でさえ、わたしには向かない。でもですね。わたしはもう30になりますが、この年までこうやって生きてきてしまいました。今更やり直しは利かないんですよ。ここまで来たらこの道を突き通したいんですよ。結果、わたしはあなたを捕まえられた。真実は別のところにあるでしょう。誰かがそれを求めるかもしれない。でもわたしの仕事はここまでなんです。真犯人じゃなくても、わたしは犯人を捕まえる。真犯人か、犯人じゃないかはどうでもいいんです。わたしは捕まえられる相手を捕まえる。なぜならわたしは頭があまりよくないんです。間違えてばかりなんです。それでもやり遂げないと、気がすまない質なものですから」
それはとんでもない、独りよがりのようでもあった。間違えた犯人でも構わないなどというのは常識的に考えられないだろう。しかし馬込は言い切った。その思いが柏木逮捕に繋がったのも確かだ。手土産に薬入りのスーツケースを持ち帰った。的は獲ていない。それでも価値はある。馬込は誰よりもそれをよく知っている。諦めずにやる事が何をもたらすか、その答えをここに出していた。
馬込は警部補に戻った。それは異例だったが、爆破事件犯の逮捕を一人でやってのけたのはそれ以上に大きな価値のあるものだった。辞職の取り消しだけでなく昇進の話もあったが、馬込はそれを断った。馬込はお気に入りの古畑任三郎に従い万年警部補でいるつもりのようだ。
そして馬込は再び上野響を探していた。彼氏が事件にどう関わっているかはわからないが事件に必ず繋がっている。そしてその男を逮捕する事が馬込警部補の次なる使命へと変わっていた。
馬込警部補が上野響を追い始めた理由はもう一つある。柏木の話では、工場爆破事件での生き残りは柏木一人だった。柏木はメンバー全員の名前を述べたが上野響の名は述べなかった。その後、金子も逮捕されたが彼もまた上野響については一言も語らなかった。
柏木の取調べを行う刑事は、馬込から聞いた上野響の名を何度か出したが、知っている様子はなく、やがてはその刑事も上野響という謎の人物についてはどうでもよくなって出さなくなった。柏木にはまだ話してもらわなければならない事件の真相がたくさんあったからだ。
廃工場の焼け跡からは、5人の遺体しか見つからなかった。その内、身元が判明できたのは木島と睦美の遺体のみだった。他は損傷が激しく、もともと身寄りのないメンバーだったので確認する資料が出てこずにわからないままとなってしまった。他のメンバーについて姿形も残さずや焼かれてしまったのだろうという意見が主流となり、全員の死が警察内では黙認されるようになっていた。
柏木が持ち込んだスーツケースについては、ある暴力団幹部の指紋に認証システムが反応して開いた。本人は知らないというが、確認作業が進み逮捕状が出れば、その暴力団幹部が主犯かくとして逮捕されるだろう。
そのスーツケースがどこからどのように手に入ったかという話までには到っていない。その暴力団幹部が逮捕されたところで流通経路までは特定されないと予測され、全ての事件はその幹部の逮捕で終わりとなるだろう。
一人だけ、馬込警部補だけがその事件の続きを追っていた。上野響は生きている。馬込警部補はそう信じて追っていた。それは亡くなったとされる若手旋斗という男が追おうとしていた人物が何者なのかを知りたいという好奇心もあった。若手とは同じ道を歩まなかった馬込だが、若手という男には興味を惹かれていた。馬込は若手という男もまだ生きているのではないかと考えていた。
だが正直、馬込は何を追っているのかわからなかった。それでも追わなければならないものを追えば何かが見えてくる気がした。若手が知ろうとしていたことだけでなく、何か大きなものに近づける気がしていた。
※
時ばかりが過ぎてゆく。時間というのは無駄に使えばいくらでも無駄にできる。体たらくに過ごし出せば、いつまでもそこから抜け出せなくなってしまう。
また新しい朝を迎えていた。橘玲香の部屋には東の窓に日の光が入り込み朝は明るい。彼女はもう出て行った。響は玲香が出発したのに気づいていたが、ずっと彼女が出てゆくまで眠ったふりをしていた。彼女の香りが今も鼻をくすぐっている。柔らかい愛情がそこにはあった。
『このままの日々で、終ってしまうこともできるだろうか?』と、響は自問した。それは頭のどこかにはあったけど考えてはいけないと、ずっと頭の端っこに置いたままにしていた。響は嶋咲枝を殺害するために生き残ったわけだし、それをしなければ死んでいった廃工場の連中に申し訳ない気がしていた。
若手旋斗の言っていた光の者、闇の者、光と闇を操る上位の者について考えた。ここは光ある場所に思えた。それは橘玲香という女がいかに性というものに対して貪欲であるにしても、彼女の持つ運勢が光ある者の方だと感じられたからだ。そして自分自身がどれだけ光を求めても、闇の方の人間であると感じてしまう。両親(田山夫妻)は光があったがその子供であるはずの自分は闇だった。だから両親にも不幸が起き、育ての親であるまさにも不幸が起きた。それは自分自身が闇の存在だからかもしれないと、響は感じた。
「わかっていたことなんだ」
響は呟いた。そして微かな涙が頬を伝った。
体を起こしたのは昼過ぎだった。
テレビを付けるとNHKの昼のニュースをやっていた。元厚生省の偉い人を殺した犯人が警察署に出頭したニュースを伝えていた。それが最新ニュースとなり、工場爆発事故の続報などはもうすっかり見えないところへ消されてしまっていた。トルエン混入のニュースも、自衛隊役員のニュースも、有名作曲家詐欺のニュースでさえも、もう過去のこととして消えてしまった。ニュースなのだから当然過去は伝えないだろう。しかしそれはあまりに何もなかったかのように消え去られてしまった。彼らのしようとしていた全て、やってしまった全ては人々の脳から消え、忘れ去れてゆく。
そんなニュースを見ていたら、玲香が帰ってきた。
「ただいま」
「今日は早かったんだね」
「今日は日曜日よ。休みなんだからいいでしょ?」
「そうか。俺は曜日さえ忘れていたよ」
「ずっと家の中で何をしているの?一人でオナニーしてんの?しょうがないわねえ」
「何言ってるんだよ。俺はただテレビを見ているだけさ」
「いつまでもそうしているの?」
「そうだね。俺はいつまでもここにいるわけにはいかないね」
「そうね。いつまでもそうしているわけにはいかないでしょ」
「出ていこうとは思っている」
「そうじゃない。もしあなたがわたしと一緒にいたいなら、ここを出なくてならない。ここは独身女子専用の住宅だからね。だからわたしがあなたと一緒に暮らすには別の家が必要なの」
玲香は響の言葉を逆手にとってそう言った。でもすぐに響はその玲香の言葉を否定した。
「そうじゃない。俺は、ここを出て行かなくちゃならないと思っている」
「嫌よ。簡単には出て行ってはこまる。わたしの傍からは離さない。世の中の理由とか常識とかは嫌なの。あなたがどこの誰でも構わない。わたしの傍にいてほしいの!」
「君には世話になった。だからこんな事は言いたくないけど、俺はいつまでも君の傍にはいられない」
「このままじゃいられない。それはあなたが勝手に思い込んでいるにしかすぎないわ」
そう言って玲香は響に近寄り、顔を近づけ、響の瞳を見つめる。
「さあ、わたしの場所へおいで。あなたの好きなようにしていいのよ」
玲香の瞳が響を誘う。どこまでも愛おしい唇が響を誘う。柔らかく、優しい香りが響を包み込む。男と女は惹かれ合う。特別な感情なんて必要ない。男と女だから惹かれ合う。いい男に女が惹かれ、女の色気に男が誘われる。ただそれだけだ。男と女の関係なんてそうあればいい。ただその求め合いで、一生そうやって共に暮らしていけばいい。一生かどうかはわからないが、少なくても求め合える心がある内はそうし合えばいい。その感情が響を誘う。どこまでも甘い香り。どこまで柔らかい感触。その誘惑に誘われる。
「駄目なんだ」そう言って、響は玲香の視線を避け、包み込む手を振り払った。「俺にはやらなくちゃならないことがある。あんたには感謝している。でももう感情が抑えきれない。俺はあんたを好きになるだけの感情じゃ生きられない。俺にはやることがある」
玲香は響のその言葉に涙を流していた。激しい涙ではなかった。頬を伝う静かな涙だった。そして玲香は響に尋ねた。
「わたしは、ただの体だけの女かしら。女なんて体だけにしかすぎない?あなたもそういう男なの?男はみんなそうやって自分を肯定する。女の幸せの理由も考えず、わたしが何かを捨ててもいいと思っていたなんて考えもしないのね」
響は何も答えられなかった。玲香が何を言おうとしているかは憶測でわかった。ずっと自分と一緒にいようと考えていた玲香の気持ちはわかった。自分がそれを利用しようとしただけの愚かさが、響の胸を打った。
「でもいいわ。あなたがそう言う事はわかっていた。わたしはこういう日々を送っているだけだから、それは別に構わない。あなたと会えてよかったとも思う。もしこのままの日々が続くなら、それが幸せだとも思ったの。でもそうならない事はわかっていた」
「俺も君の気持ちに応えたかった。君がそう思っていることをどこかで感じてはいた。でも俺はこのままじゃいけないのもわかっている。君と俺とは住む世界が違う。俺は最後までやらなくてはならない。押し出してほしい。このままここにいないように、俺を押し出してくれ」
「引き止めたいわたしに押し出してくれなんて、あなたはホントにわがままな子ね。あなたは全てわがままなのね。しょうがない子ね。行ってしまいなさい。あなたが願うままの行為に到りなさい。わたしはそうなるってわかっていたのよ。でもそうならない可能性も望んでいたの。それがわたしに言える全てだから、あなたはあなたのしたいようにすればいいわ」
少年は女の体を振り払うと寝巻きから普段着に着替えた。そしてずっと部屋の隅に置かれたいたスポーツバッグを背負った。その間、女はじっと座ったままだった。
こんな強引な別れは響も望んではいなかった。そっと居なくなっていた方が良かったのかもしれない。こんな別れがいいとは考えていなかった。でもタイミングはそんな時にしかやってこなかった。
後ろにいる女を振り返ることもできた。振り返れば気が揺らぐ。それと同時に後ろから抱きしめられ、引きとめて欲しい願望もあった。そうすれば響は足を止め、間違えなく今日の所を諦めてしまうだろう。けど、その柔らかい温もりが響の背中を覆うことはなかった。響は靴を履き、3週間前に訪れたその部屋を後にした。久々に眺める外の太陽は眩しかった。心地よさも感じた。玲香の声をもう一度聞きたいとも思った。
『君で駄目な理由など、俺のわがままにしかすぎないんだ。君は十分に素敵だったし、俺は十分に幸せだった。いけない理由があるとすれば俺が俺であることだけなんだ』
響は声にならない言葉を頭の中に並べた。それが玲香に対する最後の言葉だった。
玲香はまたどうしようもない相手に恋をしてしまったと諦めた。そしてまたいつもの生活に戻る。
響の頭の中には何の答えもなかった。何もないが、動かないわけにはいかなかった。
今まで暮らしていたマンションの地下室に戻ってきた。響は表から入らずに裏路地を通って、地下室への入口までやってきた。
ずっと気を張って、辺りを注意しながら歩いてきた響は、周囲に自分を知る人物がいないと確信した。木崎もいなければ、斉藤もいない。
日暮れは早く、辺りはすでに暗闇に包まれていた。ただでさえ暗い裏路地はすでに何も見えない世界に変わっていた。ここに来る者はもういない。この袋小路の路地に入り込むものは、響を別とすれば野良猫ぐらいのものだろう。
地下への扉の鍵を差し込み、扉を開けた。響は今もその鍵を持っていた。この場を出て2ヶ月近くが経つ。それでもその場を出て行ったのは昨日だったかのような気持ちで階段を下っていった。
暗闇の中にあるドアの位置もわかっている。そこにある鍵穴に鍵を差し込むのは探さなくてもできる。鍵穴に鍵は入り込む。そしてドアの錠が外れる。ドアも開いた。
中には何もなかった。何もない空間が広がっていた。全ては片付けられた後だった。響は心の震えるような思いがした。何もない部屋に明かりを付けた。だから何もないのがはっきりとわかった。そのがらんどうを目の前に、自分の帰る場所が本当に無くなってしまったと知らせていた。
「いいんだ。これでいい。俺はここに帰ろうと思ったわけじゃない」
響は自分の心にそう言い聞かせた。そして目を閉じ、扉の内鍵を掛けた。震えるような思いはやがて落ち着き止まった。
冷静になると別の事を感じ始めた。扉が開いたのは意外だった。鍵はまだ替えていなかっただけなのか、替えるつもりがなかったのか、それも響にはわからなかった。
「つまりは、俺が帰ってくると想定していなかった」
わかるのはそのくらいだった。片付けたのはきっと木崎か、それ以外の嶋咲枝の部下か、マンションの管理人かもしれない。管理人も響がここに住んでいるのを知っている。いずれにしても嶋咲枝は響がここへ戻らないと判断して全てを処分した。そして鍵は替える必要はないと思った。鍵を持っているのは、響と管理人だけだった。この地下の一室を知る者はマンションの管理人と響と木崎だけだった。
ただし斉藤という男がこの場を知っている。それを知っているのは響だけ。そして斉藤はどこへ消えたかはわからない。彼もまた響がここへ戻らないと感じて、どこか別の可能性を探しに行ってしまったのだろう。
ここには誰もいない。やがて誰かがまた居つくかもしれない。それでも今は誰もいない。そして誰も来る気配は今のところ、ない。
「ここから、俺はどこへ行こう」
行く場所も思いつかなかった。嶋咲枝はどこにいるかもわからない。連絡を取れる相手もいない。
「ここへ誰かが来るだろうか?」
自分にそう尋ねたがその答えは自分の内から出てこなかった。ただ行き場がなく帰ってきた場所でしかなかった。しかしそこにはもう何もなかった。
「今日はここで考えよう。明日の居場所を明日探そう」
電器を消し、再び部屋を暗闇に戻した。何もない部屋はとても冷えていた。冷暖房が残っていたのでそれを付けた。電気は通っていた。それでも何もない部屋は冷え冷えとしていて十分に辺りを温めてくれそうにはなかった。途中で温かそうなコートを買っておいたことがせめてもの救いだ。響はそいつの襟を立て、その何もない部屋のフロアリングの上にうずくまる。
この場所にいる意味がない。ホテルに泊まる金も十分に持っている。しかし人に触れる場所には近寄りたくなかった。誰もいないこの場所で休みたかった。できれば今までと同じようなソファーと毛布が欲しかったがそれは無くなっていた。それでもこの場が落ち着いた。自分が自分であれる場所がここにある気がした。だからここにうずくまり、自分に戻って明日への可能性を探り始めた。それがせめてものここに戻ってきた理由だ。
目が覚めて、自分がどこで目覚めたのかを考える。ここはどこなのか。昨日の行動を思い返せば自分がどこにいるのかはすぐに思い出せる。ここは5年近く世話になった以前の自分の部屋だ。
「でもこの部屋にはもう何もない。ここはもう俺の部屋ではなくなった」
響はそう呟いた。まだ眠りたりないのか脳は働き出さない。日差しの射し込まない地下では今が昼か夜かもわからない。腕時計はしていない。もちろん全てが運び出されたからっぽの部屋に時計はない。時間をわかる術はない。
昨日の夕暮れ過ぎに着いて、そのままここへ倒れ込み寝てしまっていた。
『まだそれほど時間が過ぎたわけではないだろう。21時か22時か、どんなに遅くても深夜1時といったところではないだろうか?』と推測し時間を判断する。
なんとも言えない異様な気分が響にはある。金がなく、野宿の場所として空いていて部屋に泊まった、そんな気分でそこに寝ている。やがて誰かがこんな所で寝てては駄目だと言いに来るだろうとそんな予感さえ感じながらずっと目を閉じている。
最初に戻って考え直すためにここへ来た。その答えなくしては動き出すことができないというのが実際のところだが、響にはほとんど何も考えも浮かんではこなかった。ただ浮かんでくるものを見つめることはできた。長い旅から帰ってきたように、数日間の出来事が絶え間なく脳裏に浮かんできた。
若手旋斗に銃を撃ち放った時の若手の表情が浮かぶ。彼は笑っていた。その笑みが闇の中にある。
嫌な熱気が周囲を覆っている。それなのにどこか肌寒い。あの瞬間の感触が体中を覆う。耐え切れなくなって、響は頭を揺さぶり、その想像を振り払った。
じっと静かにしていると、冷たくなっている手の甲を玲香が温かい手で包んでくれているような妄想が浮かんできた。理由なく勃起した。彼女のココナツのような甘い匂いを思い出した。蕩けるような瞳を見つめていたかった。彼女はいつも不思議そうに響の顔を覗いていた。いつも優しく甘い目をしていた。
その想像も長くは続かなかった。
また廃工場の機械くさい匂いが鼻に付いた。やはりあそこでの時間が頭を離れない。より昔の記憶を呼び戻ろうとした。
居酒屋「ふくちゃん」を思い出した。女将さんのふくちゃんが作った金目鯛の煮付けの味を思い出すと口の中によだれが溢れてきた。腹は減っていた。それでも胃はそれほど多くの物を欲してなかった。ただあの煮つけなら食べたいと感じた。かんさんや式羽の声が浮かんだ。騒がしく話している姿が浮かんだ。
『そういえば歌い人の件もある。俺はあそこには戻れないだろう』
警察は捕まった柏木守が歌い人と言われて、あの居酒屋の常連だったと捜査をしているかもしれない。誰かが響という人物が歌い人のいなくなった頃と同時期にいなくなったと言えば明らかに怪しまれる人物となっているだろう。
それでも自分には何の身分を証明する物を持たない。すぐには見つからないだろう。そう思うとまた少し安心した。
その時響の頭にふとある人物の顔が浮かんだ。
『会わなくてはならない相手がいる』
そこへ行けば、あるのは死かもしれないが、今の響には他に行く場所が想像できない。
『そこへの行き方は単純明快な方がいい』
だから響は目を開き、立ち上がった。
部屋に明かりを灯した。がらんどうの部屋が一面に広がる。部屋はとても広い。何もないとこれほど広かったのかと感じる。軽い運動ができそうだ。天井も高い。もともと小さな飲み屋として経営できるよう設計された部屋だ。裏路地があまりに暗く入りにくい場所なので、そうならなくなった部屋を改装して響が使っていた。だからその部屋は本当に広かった。
響はトイレに行き用を足した。風呂場を覗いたが風呂には入らないことにした。
『目覚めのシャワーは無事に全てが終わってからにしよう。それまで脳は眠ったようなままの方がいい』と、自分の心に言い聞かせた。
再び玄関口まで来て電器と暖房を消した。そして扉の内鍵を開き、暗闇に慣れた目で入口に誰もいないことを確認してから外に出た。鍵を閉めた。
スポーツバッグは背負っていた。厚手のコートを着ていて、茶色いスニーカーを履いている。ズボンは真新しいリーバイスだ。
地下を駆け上がり外の外に出る。予想通り外はまだ暗闇の中だった。もう遅い時間なのだろう。辺りは静まり返っていた。心地よい寒さの夜だった。布団もなく寝ていたので体が軋んでいた。響はそこで一つ大きく背伸びをした。
マンション裏口のドアノブを捻った。しかしそこは開かなかった。もう誰もここを通る必要がなくなったのだ。
響は表に回った。いつもの花壇に馬込警部補はいなかった。響は彼がどうしたかも知らない。ほんの少し気になったが今は頭から消した。
マンションのエントランスに入ると右手にオートロックのついた入口がある。そのまままっすぐ行くと裏へと抜ける通路が奥に続いている。その途中の左手に管理人室がある。響はその管理人室の扉を叩く。そして斜め上に付けられたカメラに自分を映す。扉はカチャリと開いた。中からは冴えないおじさんが出てきた。高橋克実のような冴えないおじさんだった。響は何度かその男にあったことがある。
寝ぼけ眼のその男は少しだけ驚いていた。
「あんた、生きてたんか。消えたって聞いたんで、死んだんかと思ったよ。ここに帰ってきたって部屋はもうないぞ。それにあんたは死んでいると思われた方がいいかもな」
「木崎さんに連絡が取りたい」
「??」
「俺の部屋を片付けたのは誰だ?それから俺の部屋を所有してたのは誰だ?そいつに会いたい」
困った顔をして「面倒だな。あんたもう死んだと思われてた方がいいぜ。世の中知らないほうがいい事もたくさんある。そのままの方がいい」と答えた。
「そうするわけにはいかない」
少し迷ってから、管理人は応じた。
「まあ、いい。確かに木崎って人が何かあったら連絡をくれと言って、俺に名刺を置いていった。あの部屋を所有していたのはよくわからない会社だから、そんなのは言ったって仕方ない。俺はあの人がどこの誰か知らない。けど、いろいろと見てきてわかるんだよ。ああいうのはあまり関わっちゃいけないってね。だから本当はもうこれ以上関わりたかないけどよ」
さらに少し悩んでから「まあいい。連絡してやるよ」と言った。
響自身は木崎の連絡先を知らない。それはその必要がなかったからだ。本来ならいつもどおりのルーチン(麻薬のやり取りのみ)で済んでいた。
電話を回しながら、管理人は言う。
「でもよ、こんな時間だから、誰も出ねえと思うぜ。これ携帯じゃないし」
管理人室にある時計は夜中の1時10分過ぎを指していた。
電話は長い間鳴った。そして誰かが出たようだった。管理人は急に綺麗な敬語に変わり、電話の向こうの相手と応対していた。
「ええ、そうですか。わかりました」と言って、電話を切った。
「何か知らないけど、女が出た」管理人は言う。「その女があんたに会いに来なさいって言っていたよ。住所はここだそうだ」
管理人はそう言って、一枚の名刺を響に渡した。
『有限会社ブロッサムスプレイ』
それがそこの会社の名前だった。場所は虎ノ門だった。
「ありがとう」
響は珍しくそうお礼を言ってその管理人に頭を下げた。そして急いでその場を走り出ていった。
管理人は恐れるような事が何も起きずにほっと一息ついて、眠りに就こうとしていて起こされた頭を再び寝付かせる方へと切り替えた。
秋葉原を通り、東京駅を過ぎ、日比谷公園を回り、虎ノ門へ、その辺りでタクシーを降り、通り沿いにある地図で行き先を確認する。
「有限会社ブロッサムスプレイ」を探すには時間が掛かった。同じところを何度か廻りたくさんのビルを眺めた。そしてある5階建てのビルの4階にその看板を見つけた。
1階の入口ドアは閉ざされていた。郵便受けとドアベルがあったので4階の「ブロッサムスプレイ」のベルを鳴らした。数秒後、ドアがガチャリと鳴る音がした。響が入口のドアを引くと、ドアはすっと開いた。ドア奥のエレベーターは1階で止まっていた。
4階へ上り、エレベーターが開く。明かりは非常用の弱い光しか届いていない。「ブロッサムスプレイ」の扉は閉じていて、中は見えない作りになっている。今度は呼び鈴もインターフォンもないので、木製の扉をノックする。「コンコン」と音は響き渡る。
数秒後に扉は開いた。差し込む明かりから顔を覗かせたのは嶋咲枝だった。響は特に驚きはしなかった。むしろ彼女の方が響の顔をじっと見つめ、彼の存在を確かめているようだった。
嶋咲枝は何も言わずに響をフロアの中に招きいれた。
フロアは事務所になっていた。閉ざされた部屋が正面と左手にあったが、そちらは応接間や給湯室になっているだけのようだった。右手には机が5つとソファーとそれを囲む棚が並んでいた。
咲枝はソファーに座り、響を低いガラステーブルを挟んで反対側のソファーへと誘った。響は流されるままにそこに腰を下ろし、鞄を下ろし、コートを脱いだ。
「髪を切ったのね」
「変装するつもりじゃない。ただ何となく邪魔に思っただけだ」
「そう。その方が似合うわよ」
「…」そして少し照れる。
しばらくの沈黙が続く。
「木崎はね、今日は休みよ。彼はああ見えてマイホームパパだから、今日は家族の世話をしているはずよ。彼がやってくることはないわ」
意味深にそう言う。
「そうですか」と、単調に答える。
「さて、今日はどういう目的なのかしら。何か話があるんでしょ?」
「あなたがどこまで知っているか、俺は知らない。だけどあなたは俺が死んだと思っていたはずだ。そうでなくてもここに帰ってくるはずなどないと思っていた。俺はもうあなたにとっては要らなくなった存在のはずだ。そんな俺から会いに来たのに、あなたは会うと言った。それも木崎さんもいない中、一人でだ」
「そう。わたしもいろいろと飽きてしまったみたいでね。何か変わったことがあればいいと思っていたところなの。そこへあなたからの電話があった。こんな楽しい話はないじゃない?」
彼女はテーブルの上にあったバージニアスリムを取り出て、ライターで火を付け、それを吸い出した。響は煙草を吸わないのでその煙さが少し気に掛かったが、なるべく気にしないようにした。そしてじっと嶋咲枝の顔を見つめる。こんな時間でもしっかり化粧をしていた。手にはプラチナのブレスレットを嵌めていた。彼女もじっと響の顔を見つめていた。その視線を気にして響は咲枝の顔から目を逸らした。
「話があるんじゃないの?」
「俺は仕事に失敗した。というよりはあなたを裏切った。そして大切な物をテロリストに預けた。テロリストは警察にそいつを差し出した。あなたもまた捕まるかもしれない」
「わたしは捕まらないわ。そんな簡単に捕まらない。あのスーツケースからは捕まらない。捕まるのならせいぜい木崎までね。認証システムによって、木崎の指紋で開くようになっているからね。万が一木崎が捕まっても、彼はわたしの事を言わないでしょうね」
「俺はあなたの仕事から手を引いた。テロリストたちの仲間になったつもりはない。ただ俺はもうこんな生活は嫌なんだ」
「それはわかっている。でもあなたはわざわざわたしにそんな事を伝えに来たの?そんなの伝えずにどこかに消えてしまった方があなたにとっては良かったのじゃないの?別の用があってここに来たんでしょ?」
「テロリストはあなたを恨んでいる。彼らは麻薬を恨んでいる。彼らは麻薬によって人生を狂わされた。だからそれを扱うあなたを恨んでいる。彼らの目的はあなたを捕まえることにあった。彼らはあなたをおびき寄せようとしていた。でもあなたは冷静に彼らの誘いには乗らなかった」
「言ったでしょ。わたしは捕まらないって」
「でもどうしてあなたはそんな危険なものを扱っているんだろう?」
「そうね。なぜかしら?稼ぎがいいからじゃないかしらね」
「彼らはそんなもののために苦しんでいた」
「あんなものは煙草と同じ、お酒と同じよ。嵌らなければいいの。ギャンブルだってそう。何事にも理性が必要なの。それがあれば後は個人の自由。個人で規制できればそれでいいの。法も要らない。バカな人間が自主規制できないから法がある。そしてそれでも自主規制できない人間はどうやっても規制はできないのよ。法で縛っただけはルートが狭まるだけよ。それでも欲しい人には与えてやればいい。わたしはそうできるルートを開いていただけよ。うまくやっている人間はいくらでもいるからね」
「それでもあなたは恨みを買った」
「そうでなくてもわたしはたくさんの恨みを買っているの。わたしが偉くある以上はたくさんの妬みや恨みが周囲に渦巻く。あなたが絡んだ点で言えばその麻薬の話だけ。実際にはより多くの人にわたしは恨み妬まれているの」
「いったいあなたはなぜそんな事をしているんだ。恨み、妬まれて、どうして偉くなるんだろう」
「そうね、あなたというとおり、どうしてわたしは偉くなったのかしら?そしてこれ以上に偉くなろうとしていたのかしらね。ただ、貪欲に望んでいたらそうなっただけ。人にはね、皆、欲望がある。そして何かを満たしたいと思う。わたしはその欲を社会的権力につぎ込んだだけ。きっとそれだけなんだと思う」
「彼らは死んだんだ。そういった権力に潰されるようにして死んだ。俺には彼らが恨む理由がわかる。あなたが偉くなりたい理由よりはっきりと」
「恨む人がいて、恨まれる人間がいる。そうでしょ?恨まれる人間が貧しくて死にそうな生活をしていたら恨むのもやめてしまうでしょ。わたしは恨まれるに等しい生き方をしているから恨まれるのよ。あなたはわたしを殺しに来たの?」
響はそう訊いてきた咲枝の顔を見て黙った。煙草の吸い終わった咲枝は二本目に火を付けるかどうか迷いながら、響の次の言葉を待っている。しかし響は何も言わない。
「拳銃はないけど、包丁なら給湯室にあるわ。何もなければそれを持ってくればいいわ。わたしはどこにも逃げないわよ。逃げるなら最初からあなたをここに呼ぶような真似はしないでしょ?」
「違う。そうじゃない。それなら、あなたはなぜ、まささんを殺したんだ。恨みや妬みがあの人にあったからなのか?」
「そうね。それは恨みでも、妬みでもない。それは、そうね。恐れ、というよりは、安心が欲しかったから」
「あの人があなたを殺そうとしていた。だからあなたはあの人を殺した?」
「正しくはそうじゃないわ。あの男はわたしを殺そうなんて考えていなかった。ただ、わたしは案じたの。案じて、その為にあの男を殺した」
「よくわからない」
「そうね。よくわからないことを言っている。綺麗事は嫌いだけど、綺麗事を言えば、そこには愛があった。わたしはね、ある人と出会った時に心が張り裂けるような想いがしたの。それは初め恋かとすら思った。でもそれは恋じゃなくて愛だった。どんなに心を忘れたつもりのわたしでも、愛する想いが残っていたのね。だからわたしはその愛のためにあの男を殺したの」
いい歳の女が愛だの恋だのいう事、それによって人を殺すなんていう真似に到った行為に、響は酷く憤りを感じた。
「あなたは愚かですよ。俺はあなたの愚かさを感じて、ただその全てから離れたくなった。もういい。俺はあなたのくだらなさを感じた。とてもあなたをバカにする。それだけだ。それを言うために俺はここへ来たのかもしれない。もしくはその逆に、あなたを認めるつもりでもあったのかもしれない。でも、あなたが言った言葉を聞いて、俺はあなたをバカにする。それだけです。俺はそれだけです」
「そう。それだけ?あなたはわたしを殺しはしないの?」
嶋咲枝はがっかりしたようにそう言って、煙草に火を付けた。そして煙を吸い込み、大きくその煙を宙に吐き出した。
時計は深夜2時を回っていた。響は立ち上がり、その場を離れようとコートを着た。
彼は去ろうとしている。この場から去ろうとしている。咲枝はじっとその男を見つめていた。やっと再会できたはずのその男の顔を咲枝はじっと見つめていた。
響はコートを着て、部屋を出てゆこうとした。真夜中2時のオフィスを去ってゆく男の姿を目で追う咲枝にはまだ言い忘れていたことがある。
「待ちなさい」と、咲枝は響に言った。
響は数秒足を止め、次の言葉を待った。しかし咲枝の言おうとしていた言葉は、迷いのままに口の外へは出てこなかった。
だから響は再び歩き、フロアの外へのドアを開けた。
と、その時に咲枝の口が開いた。
「もうやめるわ」
響は外に出ようとした足を止め、嶋咲枝の方を振り返った。そして、「何を?」と聞き返した。
嶋咲枝はいまだにソファーの上に座った態勢でいた。
「このつまらない日々をやめるのよ。わたしもあなたと同じくやめるの」
「そうか。そいつはよかった。工場で死んだ奴らも喜ぶよ」
「そうね。これでいいでしょ。そうして、わたしは周囲から見放され、わたしの口封じに何者かがやってくるかもしれないけど、それはそれでよかったとなるのね」
「あなたがどうなろうと、俺には関係ない。そんな心配事は木崎さんにでも話せばいい」
「いいえ。心配事というより、これはあなたにも関わってくることだと思う。わたしのバックアップのないあなたは狙われるでしょう」
「そうだとしても、どちらにしても、俺はここから離れる。そして何者かに狙われるかもしれない。それでも俺はあなたの手助けを受けるつもりはない」
「いいわ。わかった。どちらにしても、わたしはあなたに渡しておきたいものがあるの」
嶋咲枝はソファーの脇に置いてあったショルダーバックからつつみに入った何かを取り出した。そして立ち上がり、入口で待つ響のところまで近づいていった。差し出した物に反応しない響の手を掴み、それをしっかりと手に握らせた。
「俺は別にあなたからの物なんて受け取りませんよ」
そう言う響だが一応そいつが何なのか確かめてみようとつつみを解いてみた。中に入っていたのは赤い手帳、いや、それはパスポートだった。響はそれを理解すると咲枝の顔を見つめた。
「それで好きな国に行くといいわ。あなたがパスポートを持っていないのは知っていた。だからそれを作っておいたの。本当は航空券も渡せばよかったけど、急だったから準備できなかったけどね」と、咲枝は答えた。
咲枝は響が伊豆の工場に行った時から彼を海外に逃がそうと考えて、偽造パスポートを準備していた。咲枝は響にそれを渡すのをずっと考えていた。
「お金はあるの?」と、咲枝は響に尋ねた。
「俺は、あなたにこれ以上世話になるつもりはない。まあ、こいつはもらっておこう」
響はそう言ってパスポートを肩の位置まで上げて示し、嶋咲枝の顔を見つめた。そして心の内で嶋咲枝の真意を見つけようとしてた。
なぜなら自分が殺そうとした相手にしてはやけに丁寧で優しすぎるからだ。そこには裏を感じずにはいられなかった。でも響は恩義など感じることもなく、今は目の前にいる女を利用しようと決めた。真意は後で考えるとして今はパスポートはもらっておく。もう何も残されていないこの国を離れて海外へ行くのも悪くはない。
それから自然と響はパスポートの表紙を開こうとしていた。
「待って!」と嶋咲枝は響の行動を止めた。その声に響は再び嶋咲枝の顔を覗いた。
『どうして?』と言うような顔をした。
「今はまだ見ないでほしい。大丈夫よ、そのパスポートはあなたが使えるから」
「まあいい」と、響は答える。
嶋咲枝はずっと咲枝の方を見ていた。響はその視線を不思議に感じていた。真意を感じ取ろうとしても、真意はありのままにしか見えなかった。その表情は不思議な優しさに溢れていた。響はどことなく響の育ての親である田山さゆりを思い出していた。ずっと心の内の奥深くにしまいこんでいた記憶だった。咲枝のその表情は深い記憶の扉をこじ開け、響に懐かしい思い出させていた。
響はぎゅっと目を閉じ、その深い記憶を頭の中から消し去った。無心になって、自分は今もまだ危険な状況の中にあるんだと言い聞かせた。
『行こう』響の心の内に声を掛ける。『もうこれ以上、ここにいる意味はない』
再び、咲枝の顔を見つめた。彼女は不思議な笑みと、不思議な悲しみの混じった顔をしていた。その顔をずっと見ていると、響はどうしていいかわからなくなってしまいそうだった。
「ありがとう」と、響は咲枝に対して言っていた。
それは別れるための言葉が見つからなかったからかもしれない。単純にはパスポートをもらった恩義からかもしれない。でもなぜ、自分が憎み殺そうとしていた相手にありがとうなどという言葉が出てきたのか、自分自身で言った言葉にさえ疑問を感させられた。
咲枝は響の言葉にこくりとゆっくり頷いた。
その不思議な表情を浮かべる顔を見つめながら響はドアを開き直して、オフィスの外へと出て行った。
一度出てしまうと、かちりと扉の自動ロックが掛かる音がした。何もかもが終ったんだと感じた。そして明日にはどこか別の国へ旅立つ準備をしようと考え、エレベーターへと乗り込んだ。
静かな夜だった。真夜中、幽霊でも出てきそうなくらいの静けさが包んでいた。
静寂に包まれたエレベーターに乗り、響は一階へと下りてゆく。ゆっくりとエレベーターが一階一階下へと移動する。やけに長い時間に、響には感じられる。時間が夜遅い時間であるせいか夢の中にいるようにもさせられる。外はまだ暗闇に包まれているだろう。
エレベーターが一階に着いた。ドアが開いた瞬間、響は何者かの気配を感じた。玲香の家で閉じこもっていたせいもあって、響は周囲の微かな物音や匂いを敏感に捉えられるようになっていた。一階の外扉の外側に誰かがいるのを響は感じている。
『ゆっくりとでいい、ゆっくり扉を開けばいい』と、自分に言い聞かせる。その外にいる相手を響は斉藤ではないかと予測する。もし彼が外にいたとしても、いきなり拳銃を撃ち付けるような真似はしないだろうと判断する。斉藤は用心深い男だから、真夜中と言えどもこんな都会のど真ん中で拳銃をぶっ放すような真似はしない。
ゆっくりと扉を開く。左右を窺うと、路上に前野正が座っていた。外へ出ると入口の扉はカチャリと音を立てて閉まりロックされた。
「あんたか」と、響はフリーライターの前野正に対して声を掛けた。前野は立ち上がり、響にぺこりと頭を下げた。そして不細工な薄ら笑みを浮かべた。
「嶋さんの家の傍で張り込んでいたら、彼女が夜中に出て行ったんで追ってきました。こんな時間だったし特に最近は彼女を追う記者もいなかったので、それに気づいたのは僕だけでした。それからあなたがここに入って行くのも遠くから見てましたよ。でもそこではまだ話しかけるタイミングじゃないと思いまして、それからここで待ってました」
「あの人なら、まだ中だぜ」
「あなたは嶋さんに会ったんですね?」
「ああ、会ったよ」
ここで嘘をついても仕方ないので素直に答える。
「嶋さんと何を話されたのですか?」
「それは言えないね。残念だけど俺はもう今後あの人と会うつもりはないんだ。だからあんたとももう関係ない。調べたいなら、あの人に直接聞くんだな。俺はもう何も答えないよ」
響は前野正が嶋咲枝のファンであることを知っている。
「すみません。それでも僕は一つだけどうしてもあなたに聞いておきたいのですが。一つだけでいいので」
「まあ、一つくらいなら、答えてやってもいいよ」
「あなたはあの人とあなたがどのような関係にあるか解っておいでなんですか?」
「関係なければ、こんな風に会うなんてなんてなかったろうな。それは解ってるよ」
そうとだけ言って、響は前野の前から立ち去ろうとする。
「すみませんが、たった一つの質問です。もう少し、しっかりとした答えを聞かせてください。あなたがあの人とどういう関係かについて」
「まあ、そうだな。つまりは、社長と平社員といったところだよ。ただそれだけだ。これ以上細かく言わないといけないか?」
「いいえ、細かく言う必要はありません。ただ、あなたは本当の意味でのあなたと嶋さんとの関係を理解していない。僕はそんなあなたをこのままここから帰してしまっていいのだろうか?引き止めるべきか?」
前野は独り言のようにそう響の顔を見上げて言う。
「つまり、何が言いたいんだ?」
「あなたはもう、嶋さんに『あなたには会わない』と伝えて別れたのですか?」
「確か、質問は一つのはずだけど」
「そうでした。そうですね。どうも」
前野はそう言って口を塞いだ。それからじっと変に丸い目で響を眺めているだけとなった。中途半端な状態にされて、じれったくなった響が口を開く。
「何だよ。何が言いたいんだ。あの人も俺がもう自分に会わないってくらいわかっているはずだぜ」
「嶋さんはあなたにまだ伝えきれていない話があったはずです。何かを言おうとしていた」
「何を?」
「僕の口からは、言えませんが」
「おいおい」
「ただ、嶋さんがあなたに会うのが最後だと考えていたら、あなたは何らかのヒントをもらっているのかもしれませんが」
「ヒント?」
響は思い出しかのように、コートのポケットにしまいこんであったパスポートを取り出した。そして、嶋咲枝がそいつを渡した際に、響に言っていた言葉を思い出した。
『待って。ちょとしたことよ。ただ今は見ないで欲しい』
そう言って、嶋咲枝は響がパスポートを開こうとするのを制止した。
「それは?」と、前野は尋ねた。
響はその問いをには相手せず、パスポートの中身に目を当てた。
『 嶋 涼 』
そこにはそういう名が、響の字体に真似た文字で、サインとして書かれていた。そこにはたくさんの不思議があった。
第一に、嶋咲枝の苗字である嶋が、上野響の苗字として使われていたこと。
第二に、響が幼い頃、本名として使われていた『涼』という名が、知るはずもないのに使われていたこと。
それと、字体がうまく真似されていたことだ。
苗字の嶋はパスポートを作りやすかったからと考える。字体は何かを書いた際にそれを真似てプロに書かせたと考えれば納得できる。しかし『涼』という名はずっと秘密にしてきたはずだから知るはずがない。まさでさえその名は知らない。
前野がそのパスポートをちらっと見ていた。
「そう。それが彼女の伝えたかった事。それがあなたの本名」
前野は言った。
響はその言葉を聞いて、一瞬にして混乱に陥った。しかし数々の思い出がその事実を真実味のある言葉として作り上げていく。
響は田山家で育った。田山夫妻の子であるはずだが、戸籍がない。そして隠されて育った。響は自分が両親と思っている相手に少なからず疑念を抱いていたのも確かだ。ふと浮かんでくるのはさっき会った時の嶋咲枝の表情だ。母親を思い出させる表情だった。
前野は響に写真を見せた。それは中下丈、つまりは響の父親にあたる男の写真だった。写真は古いものだったが、背が高く、ほっそりとした顔立ちは自分に似ていた。というより、髪の短くなった自分と瓜二つに思えた。
「これがあなたの、そして、嶋咲枝さんはあなたの、」
前野ははっきりとは言わなかったが、もう響はそれを理解しないわけにはいかなかった。だからといって、それで響は何もできなかった。
「この方、中下丈さんはすでに亡くなっています。でも、あなたには嶋さんともう一度会って、真実を確かめるチャンスがある」
そう言われても、響は素直に足をビルの中へと向わすことができなかった。考えが思いつかなかった。響はこれが本当の驚きなのだと思うしかできなかった。
前野は動かない響に痺れを切らして、『ブロッサムスプレイ』のインターフォンを鳴らした。反応はない。前野はそれから何度かそのインターフォンを鳴らした。でも反応はなかった。響は呆然と立ち尽くしているだけだった。
朝になれば彼女は出てくるだろうと前野は考えていたが、その考えは甘かった。それから数分後、パトカーのサイレンが聞こえてきた。その音は遠いものだったが、やがて近づいてくるのを感じた。上野響もその音にはしっかりと反応した。ここに来るのを感じ取った。
二人は慌ててその場から遠のいた。そして遠くから様子を窺っていた。パトカーは『ブロッサムスプレイ』が入っているビルの前に止まった。そして警官が出てきて、彼らはビルの中へと入っていった。やがてパトカーは遠くからもう何台かやってくるようだった。その音が遠くから鳴り響いていた。
「どういう事でしょうか?」
「あの女が呼んだんだ」
「しかしなぜ?」
「わからない。ただこの場にうろちょろしているのは危険だ。離れないと」
響は知らされた真実を忘れ、普段からの慣れで逃げる選択をしていた。響は小走りにその場を離れ、前野がその後ろから慌てて駆け寄ってきた。二人は小走りに遠のき、大通りまで出て足を止めた。
「やばいかもしれないな。これから、どうすればいいだろう」
「一つだけ、もしそうなら、僕は一つだけ、あなたが行くべき場所を知っている」
前野は響の独り言のような言葉に答えていた。前野の顔を見つめ返し、響はその策に乗ってみることとした。何の想像もつかないまま、前野の考えに自分の身を託した。
12月某日日曜、五十嵐卓人の家に一通の手紙が届いた。青山の自宅にいた五十嵐卓人は差出人不明のその手紙を居間でゆっくりと開き、心を驚かせた。それは嶋咲枝からの手紙だった。
『全ての事実というのは、有って無いようなものかもしれません。だからこの手紙は私があなたに伝えたかった事でしかなく、真実ではないのかもしれません。それでも私はあなたに伝えたい事があり、この手紙をあなたへ送りました。
私があなたにこのような手紙を送る理由は、私があなたを信用しているからです。他にも信用できる人がいないわけではありませんが、その人たちへの信用とあなたへの信用は別なのです。言うなれば、あなたには他の誰よりも、純粋という言葉が似合っています。その純粋さが今回の信用にはとても重要なのです。余計な詮索なく、私の話を聞いてくれそうな、あなたにこの手紙を読んで欲しいと望みました。
私は今、脱税の容疑である場所に拘束されています。ここはとても静かで安全な場所です。私は、自らの望みでこのような場所に移され、拘置してもらいました。なぜなら私が全ての真実を語る上ではとても安全な場所が必要だったからです。そうしなければ私は命を狙われ、殺されてしまう事になるかもしれません。一月前は、それもいいかと考えていましたが、その気持ちはある人物に会えた事で変わりました。
あなたにもその人の話をしたかと思います。その人物とは私の息子です。息子の涼は生きていました。生きていてくれました。夢ではないかと思いましたが、それはきっと本当の事だったのです。
私は息子と再会することができました。そしてその時、私は思ったのです。私はこの子を生かし、そして涼の生命がある事を感じながら私も生き続けたい。心からの想いはただその一つだけでした。
人生にはいくつかの幸運があるようです。私にとっては涼に会えた事、そしてこれからもあの子を思って生きてゆけると感じられた事、それが何よりも幸運な出来事でした。だから私は生が許される限り、生きてゆこうと心変わりしました。
でも私は生が許されるような人間ではないでしょう。私は数々の罪を犯しました。それはいかなる理由があれ、許されない犯罪です。まず言うなら、私は人を殺した事があります。時として、政治家は間接的に人を殺す事がありますが、今私が言っているのは直接的殺人です。私が直接この手で殺したのです。私は怒りを持って、一人の人間を刺し殺したのです。
殺したのは、月島雅弘という男です。動機は息子の事でした。その男は私の息子を預かっていました。それは私が託したのではなく、極めて稀な運命的な偶然の出来事でした。私はその男と別の理由で出会い、その男が私の息子を預かっている事を後から知りました。
月島雅弘は私と恋人関係でもありました。ですが深い愛など、どこにもありません。こんな事を言えば、あなたは私に幻滅するかもしれませんが、私はあの男に肉体的満足のみを求めていました。あの男に抱かれるのは嫌ではなかったのです。
人としてはどうでもいい男でしたが、肉体のみはあの男を欲していたのです。忙しい生活の中で溜まった想いを数ヶ月に一度だけぶつけていました。
ホテルで会う中で、月島雅弘は自分の話をしました。それには涼の話もありました。始めはどこかの家出少年の話だと思っていましたが、私はその得体の知れない少年に興味を持ちました。そしてある日、その少年を騙して呼び寄せ、遠くからその少年を見ていました。彼には気づかなかったでしょうが、それが私と涼の初めての再会でした。お腹から生んで以来、私が自分の子供にあったことがなかったのです。
私はその少年が私の息子であるとすぐに感じました。なぜならその少年は私が愛した息子の父親である男にそっくりだったからです。
私の愛した男は私の姉の夫でした。まだ大学生だった私は言い寄ってくる姉の夫に恋をしてしまいました。そもそもの私の罪はそこにあったのかもしれません。
あなたはまた一つ私の事を幻滅するかもしれませんが、それもまた私の持つ感情の一つのなのです。今でも私は死んでしまった姉の夫に愛と憎悪を感じています。
きっと姉の夫、中下にとっては私を抱くだけが目的だったのかもしれませんが、私はその男の手で女にされ、激しくその男を望み求めました。全ての精力が失われてしまうまで、その男につぎ込みたかったのです。
でもその想いは満たされないまま、私のお腹に子供ができたことを知ると、中下は私の元を去ってゆきました。
私は抑えられない想いを中下の子である、お腹の赤子に注ぎました。その想いは、愛であり、憎悪でもありました。私を愛さないのならば、私はその愛なき子を殺してやろうと望んだのです。
でも生まれたてのわが子を私は思いのほか、愛してしまった。だから殺すのはおろか、触れる事さえできなかった。私はその子に『涼』という名を残し、その子から遠ざかりました。
中下は私の姉と共に病で亡くなりました。そして私は愛や憎悪を捨てました。あなたが描いた絵に出逢うまで、私はずっと心を失ったまま生きてきました。あなたの絵が私の息子を思わせるきっかけとなり、私は遠くから私の息子を眺める事となりました。
そして私はその少年の命を案じるようになっていました。もし出来ることなら私は息子ともう一度共に暮らしたいと望んでいました。でもすでに私は罪人でした。そして息子をも罪人としていました。
政治家になる際、私は派閥と一つの取引をしていました。それは派閥の裏金となる資金源を麻薬で稼ぐという仕事でした。私はその裏の仕事をまとめ上げる役を受け、派閥からのバックアップにより衆議院選に勝ちました。
政治家になりたての頃の私は善も悪もなく世をだます事も恐れてはいなかったのです。だから裏金作りを楽しんでいました。脱税の容疑となった会社〈ブロッサムスプレイ〉もその裏金を利用して私が立ち上げた会社です。政財界は麻薬と裏金の事実を何らかの方法で捻じ曲げて表沙汰にはならないようにするでしょう。しかし事実、私は麻薬を使って裏金を作っていたのです。私は世に麻薬をばら撒き、世の常人を狂わせた元凶の一人なのです。それは許されざる犯罪です。
そしてその犯罪を通して知り合ったのが、月島雅弘であり、私の息子である涼でした。住む家の無かった私の息子は月島雅弘に拾われて、麻薬を運ぶ仕事を手伝っていました。こんな出会いであった私たちにはもう平和に戻る形など失ってしまっていました。
だから私は息子の命の安泰を望みました。自分の手の掛かるところで、形はどうあろうと置いておきたくなったのです。私はせめてもの償いに、孤児院への寄付を始めました。
ブロッサムスプレイでの仕事の一つに孤児院を調べ、そこに寄付をする活動もありました。あなたと出会ってからの数年間、私にも心と呼べるものが僅かでも戻っていたのかもしれません。正しい形でないにしても、私は息子を想い、息子のような不幸を作らないために力を注ごうとしたのです。
孤児院調査には、月島雅弘の所にいる少年が、本当に私の息子なのかを調べるためでもありました。私の思い込みで、本当は別の所に息子が預けられているのでは?という期待を持っていました。しかし調べれば調べるほど、麻薬の手伝いをする少年が私の息子であることは確証されていったのです。
そして今から一年と五ヶ月前、私は月島雅弘を殺す事となりました。
「面倒な仕事はあのガキにやらせておけばいい。失敗して死んだって、あのガキの身元はわかりゃしねえ。あんたにも及ばない。その分、俺にはもう少し楽な仕事をさせてくれ」
そんな事を口にしたあの男が、私には許せなかったのです。あの男だけでなく、私自身の性癖、それから中下への溜り込んだ怒りが胸の内を貫きました。私はその男を殺そうとナイフを取り出し、男の胸を一突きしました。まさか私に刺されるとは思ってもいなかった、その男はナイフを胸に驚いた顔をして死んでいました。私もその男をそんなふうに殺す事になるとは考えてもいませんでした。
でも怒りは突如私を襲い、どうしようもなく理性を失わせるものだと、その男を殺して初めて気づいたのです。それが人という生き物なのか、私という人間にのみ持ち合わせた性なのか、今でも私にはわかりません。
息子は私を恨むようになりました。息子は育ててくれた男に恩義を感じるような優しい青年に育っていました。
私は涼に殺されるのなら、それが本望だと感じていました。最初はそう思っていたのですが、それは違っていました。息子は私などが及びもしないくらい立派な青年に育っていました。
一ヶ月前に起こった伊豆の爆発事件も私の責任によるものです。そこに集まった者たちは薬物を恨むものたちでした。息子はその者たちの考えを理解し、私の仕事から手を引き、その者たちに加わったのです。しっかりとした意思を持ち、何が正しく、何が誤りかを判断できるほどに成長していました。
何より涼は私を殺さなかった。私への恨みを捨て、私をただ愚かだと言いました。涼にはまだやり直せる道があるのです。
私はそれを感じ、立派に成長してゆく我が子の未来を望みました。そして我が子の成長を感じながら、私自身も生きたいと望むようになりました。
こんな私をあなたがどのように思ってくれるかはわかりません。でもここに書いた全てが私の事実です。
警察や政治家はこの事実を闇の中に葬り去ってしまうでしょう。あなたが何を信じてくれるかはわかりません。でもあなたなら、私の事を信じてくれるのではないかと信じております。
もし私の息子に会う事ができましたら、息子の手助けをしてあげてほしいと願います。このようなお願いは厚かましい次第なのは重々承知しております。しかし息子にはまだ手助けが必要です。
パスポートを渡し、海外で一からやり直すように勧めるまではできましたが、パスポートしかない若者にはまだ多くの困難が待ち構えているでしょう。涼が一人の人間としてこの世に生きられるようになるまで、その力になってほしいのです。
本来なら私がその道を作らなければならないのですが、私にはそれができなくなってしまいました。あなたにお願いするのは筋違いかと思いますが、他に頼れる人が思いつきませんでした。
どうか力になってあげてください。
嶋 咲枝 』
五十嵐卓人は嶋咲枝からの長い手紙に対して優しく微笑んだ。そして便箋10枚ほどになるその手紙を封筒に収め、静かに目を閉じた。
暖かい日差しのある冬始まる日の事だった。
『拝啓 嶋咲枝様
あなたの手紙を受け取り、内容を拝見させていただいて、正直、驚くことばかりでした。私には正直信じられない話ばかりで何と返信すればいいのか、困った次第です。
それでも私はあなたに伝えなくてはなりません。少なくても伝えなくてはならないことがあります。
まずは私事になりますが、私は近々、青山の自宅近くに画廊を持つ事が決まりました。前回の展示会が好評に終わり、また母親の伝になるのですが、その方が私の絵を中心とした画廊を開くと言ってくださいました。
これにより私もニートからやっと画家という肩書きになってやっていくことができそうです。
どうでもいい話をしてしまいまして申し訳ありません。本当はもっと大切な事をお伝えしなければならないのですが、いきなりお伝えするのもしづらく、前書きとしてお伝えさせていただきました。
さて、お伝えしなければならない事をお伝えします。
それはあなたの息子に関する話です。実は、彼はあなたが警察に行かれた直後、私の家にやってきました。あなたが望まずとも、もしくは望んだとおり、彼は私の下へやってきたのです。
彼は元気に、私の下におります。数日は部屋に閉じこもっていましたが、部屋から出た彼はあなたの言うように、海外へ行きたいと言っておりました。しかし彼は行き先も決めていなかったので、彼には私の母がいるパリに行くよう勧めました。
彼が頷いたので、私は彼のためにパリ行きのチケットを2枚取る事となりました。彼にはすでに一緒に連れて行くような相手がいるようです。このような事を言うのもどうかと思いますが、彼を深く案ずる必要はありません。
彼には彼を支えてくれる相手もいます。そして私も、私の母も、彼の手助けを出来る限りしてゆこうと思っております。
私としてはむしろあなたの方が心配なのです。あなたは自分が愚かな事ばかりをしてきたと卑下しておりますが、それは違います。少なくとも私はあなたに心より感謝しています。もしあなたがいなければ、私は今日もどうしもうなく駄目な日々を過ごしていたでしょう。
あなたの支援と共に、あなたの輝かしい姿があったからこそ、私はこうして画家という肩書きを手にすることができました。
僕にとってあなたはとても輝かしき人です。あなたが自分を愚かだと言うのなら、僕はより遥かに愚かでくだらない人間です。あなたが苦しみの中に迷い込み、どうしようもない毎日を過ごしていたかと思うととても胸が痛みます。でもあなたがその苦しみに耐えてきた結果が、あなたを輝かせていたのではないかと思います。
あなたが愚かなら、僕は本当にどうしようもない愚か者です。僕は、五十嵐卓人は、あなたという存在が恋しくてしかたありません。僕はあなたの思いの全てを信じ、そしてあのような手紙を僕に与えてくれた事を信じ、あなたを愛おしく思う次第です。
僕はあなたからの手紙を読み、幻滅するどころか、あなたが愛おしくて仕方なくなってしまいました。あなたが息子を想うように、僕はあなたの無事を想います。
いずれあなたに再び出会えると信じています。恋を全くした事がなかったわけではありませんが、これほど誰かを心より想ったのはかつてありません。
僕は本当に愚か者です。本当はあなたの息子の近況について、もっと知らせなくてならないかもしれませんが、僕はバカなので、僕の想いばかりを手紙に書いてしまいます。
あなたからの手紙はあなたの息子に預けます。彼はあなたについて何も語りませんが、あなたが自分の母親であるのを知っているようです。ライターの前野という人がその事を、僕に伝えました。
どういう形であれ、僕はあなたに会いたい。十年でも、二十年でも、死んでもあなたを待ちます。僕はそう決めました。
なぜならこんな想いは二度と起きないからです。どんな形であれ、あなたが誰かを愛したように、私もあなたを愛し続けたいと思います。いいえ、愛し続けようとしなくとも、愛し続けてしまうでしょう。
本当はあなたに会った時に、この事を伝えたかった。僕はいつまで経っても駄目な人間です。あなたを求めるなど、とても愚かに思います。それでもどうしてもこの想いを伝えたい。
僕はあなたを愛し続け、待ち続けるでしょう。あなたがあなたの息子を思い続けてきたように。
敬具
五十嵐 卓人』
この手紙は届いただろうか。五十嵐はこの手紙をどこかに出したが、それは届くかどうかわからないものだった。それでも五十嵐は手紙が届くと信じるだけだった。
静かな朝だった。まだ日も昇らない朝方5時だ。五十嵐邸には前野正が迎えに来てくれた。トヨタの白いレンタカーで彼はやってきた。
響は五十嵐と別れの挨拶をした。言葉は上手く出てこなかった。
「また会いに行くよ」と、五十嵐は言った。
響は軽く会釈をした。五十嵐卓人から預かった嶋咲枝の手紙を、響はまだ見ていない。大きな手提げバッグに詰め込んで、いろいろな物はしまわれたままだ。
五十嵐と別れ、前野正の借りたレンタカーは上野に向った。前野は別れ際、軽く会釈をしてこんな事を言った。
「私は脇役ですから、大した事は言えません。これでよかったのかどうなのか、私はわかりません。ただ、嶋さんとその周囲の方々とこうして関わり合えてよかったと思います。本当はライターとしてもっといろいろと聞かなくちゃならないのですが、それはまた後にしておきます。時が過ぎた時に何かを語れたらいいかと」
響は「好きにしな」と、一言いい「じゃあ、ありがとう」と言って、前野と別れた。
響がやってきたのは居酒屋『ふくちゃん』の前だった。店はひっそりと静まり返っていたが、家の脇の玄関口から、ふくちゃんは顔を見せてくれた。
そしてにっこりと微笑み、元気そうな響の顔を見て安心したようだった。
「響さん!」と言って、ふくちゃんの娘の由佳も出てきた。
目が潤んでいて、愛おしさいっぱいといった感じの目をしていた。響は何も言わず、由佳と軽いハグをした。由佳は響の短くなった頭を気にして軽く撫でた。
どこからともなく、とっちゃんが現れた。
「いやあ、昨日はサウナに泊っちゃったよ。家まで帰って、こんな朝方出れるか自信がなくてねえ」と、とっちゃんは言う。
「おいおい、最後の日なんですから、それはないよ。とっちゃん」と響は返し、笑顔を見せた。
そしてさくらとかんさんがやってきた。さくらは大きなトランクスーツを引き摺ってやってきた。
そう、響は3週間ほど前にさくらに会いにやってきていた。神社の境内で二人は再会を分かち合い、それから響がさくらを一緒にパリへ行かないかと誘った。さくらには海外の貧しい人に勉強を教えるという夢があった。だからそれは決してない話ではなかった。祖父のかんさんを気にしていたさくらだが、かんさんとも話し合ったのだろう。響は何度かさくらと会い、一緒に行く事が決まった。そしてパスポートや旅行券の手配を待って、時の経ち、二人は旅立ちの日を迎えていた。
それはまだ目も覚めない夢のような朝だった。
どこからともなく、うるさいエンジン音が聞こえた。式羽は古めかしい、SAABのカブリオレに乗って現れた。
「おお、ご両人待たせたな」
「さほど待ってないけど、何だよそれ」と、響は式羽に尋ねる。
「ちょっと友人に借りてな。最後くらい派手に行こうぜ」
「おいおい、そんな目立つんで来ると、どこかの警官がやってくるぞ」
とっちゃんは馬込の事を言っている。彼は今も響を追いかけ、たまにこの辺りに顔を見せるのだ。
「ああ、あいつはボーっとしてるから大丈夫だよ」
すでにふくちゃん常連には、馬込はおなじみの存在となっていた。
そして二人はそんな車の後部座席に乗り込んだ。
「わたしの事を忘れないでね」と涙ながらに由佳が言う。
「向こうにもおいしい魚があるといいねえ」と響の好物をふくちゃんが心配する。
「パリってシャレてるねえ」と、とっちゃんが無い知識を出そうとする。
「いいから行きなさい」と、かんさんが言った。
さくらはかんさんを気にした。
「おじいちゃん。ごめんね」
「いいってんだよ。最初からこうなるのをわしも望んでいた。これが道だ。むしろおまえに苦労をかけてすまなかった。長い休養をさせてもらったよ。わしは再び神に祈りを捧げるよ。次の後継者が育つまでな」
さくらは瞳を潤ませていた。かんさんはそんな娘を優しい瞳で見つめ返していた。それが本来のかんさんの目なのだろう。それは神に祈りを捧げてきた一人の神主の目となっていた。さくらはその目に懐かしい優しさを感じ、安心した。そして最後はにこりと微笑んだ。
響は何も言わず、ただ前を見ていた。
「あ、あああああ!!!!」と、でかい声が遠くでした。
馬込警部補だ。彼はたまたまこんな朝からこの辺りをうろちょろしていたのだ。
「やべえ。行くぜ」と式羽が言って、カブリオレは発進した。
馬込警部補は必死で追いかけてくるが、当然走って追いつくことはない。やがて馬込警部補が小さく遠くに見え、姿は消えていった。
車は朝一の成田空港を目指していた。
成田空港に着いたのは、朝7時過ぎ、チェックインを通って、式羽と別れる。
「じゃあな」と式羽は嬉しそうな、悲しそうな笑みを浮かべる。
「いろいろと世話になったな」と、響は返す。
「いろいろって、まあ、あっちばかり…」
『ポカ』と、 響がそこで式羽の頭を叩く。
そんな感じで、式羽はいつもと変わらない。いつもと変わらない人がいなくなる。今度こそは本当に長い別れになる。響は知っている。そして共に過ごすさくらとは長い付き合いの始まりでもある。今はまだうまくどうしていいか分からない二人だが。式羽はそんな二人を心配しながら、遠くで手を振っていた。
出発ロビーに辿り着く。
朝のニュースでは、嶋咲枝に代わる補選の選挙人が選ばれた速報をやっていた。
彼女における捜査もまた進展のないままニュースで報道されている。しかしこの不況の中では一議員のどうだこうだは野党の批判を浴びる程度で総理大臣の顔に比べたら出番もとても少ない。
補選で当選した男は選挙区の街頭で大きな声を張り上げてオバマのように叫んでいた。響はその顔を知っている。見た事のある顔、そして二度と会いたくない顔だ。しかしその顔がそこに映されている姿を見て、響は大きく安心した。
その男は斉藤だ。いや、今は平田という名で演説をしている。正しくは平田、それが彼の名前だ。あの男は嶋咲枝が殺されて、勇姿を見せて立ち上がるというシナリオを描いていたのだろう。その思惑は失敗に終わり、今は与党を何とか立て直すための顔を見せている、ただの若手の一議員にしか過ぎない。少なくても嶋咲枝の失脚でチャンスはやってきた。彼はその姿を必死で見せていた。
「時代は変わる。新しい力で、この苦しい時代を乗り切っていかなくてはなりません」
男は声を張り上げて演説していた。
『いや、時代は変わらない。ただ、立場が変わるだけだ。おまえ自身がそれを一番よく知っているはずだ』
響は心の中で、斉藤と名乗っていた男にそう言い返した。当然声は届かないが。
「どうかしたの?」と、さくらが不思議そうな顔をして響に聞く。
「いや、なんでもない」
さくらはまだ何も知らない。響はまださくらに自分の十分の一も話していない。それはいずれ少しずつ語らなくてはならないことだろう。でも話はあまりに複雑で長すぎる。だから今は語れない。それに響もさくらを十分の一も知らない。二人はまだ互いに知らないことだらけなのだ。でも時間はまだまだ長くある。二人はまだ二十歳と十九歳だ。まだまだ長い人生の出発点にしか過ぎない。これまでの事はこれからの長い何十年という時間の中で語り合えるだろう。そして過去を語る以上に、この先長い時間を共有し合えるだろう。
パリ=シャルルドゴール空港行きの飛行機が搭載準備に入る。年の瀬も迫り、人々も多く見受けられる。いろいろな事が初めての二人に不安はつき物だ。
「さあ、行こう」と、響がさくらに声を掛ける。
不安と喜びに胸を躍らせるさくらが頷く。
「俺たちにはこの先の未来がある。君の夢を叶えに行こう」
さくらは嬉しそうに、はにかんだ笑みを浮かべる。
「ありがとう」と答える。
響は俗世から離れる。その先には新しい俗世が待っている。響はその事を感じながらも、手に入れた一つの幸福を絶対に失わないように強く胸に刻み込み、さくらの手を握り締めた。
二人はゆっくりと搭載口の先へと歩みを進めた。
二人は機内に乗り込んだ。
そして外国人に囲まれて、新たな世界を感じ始める。二人はそんな空気を感じながら互いを見つめ合う。互いは互いに安堵する。それが新しい世界での生活の第一歩となる。どんな不安も二人一緒なら乗り越えてゆけるだろう。
上野響の物語はここで終わるが、ここからは嶋涼としての新しい物語が始まる。それは語られる事のない物語だが、長い長いこの先の嶋涼としての物語は彼自身が作ってゆくこととなるだろう。幸せな物語など誰に語るものでもないのだから、暗闇から抜け出した先にある世界の物語は、涼とそれを囲む人だけの物語としておこう。
了