8.爆発
廃工場はまだ安全が保たれている。倉本と木島が周囲の見張りをしているが、SATに動きはなさそうだ。睦美と金原の女二人は食堂で昼食を作っている。ちなみに工場内は水道以外全て止まっているので、電池式のランプやガスコンロを使っている。
外は静かだ。雨は降っていない。柏木は反物の材料がたくさん置いてある部屋の天窓を見つめて、退屈な時間を潰している。近くでは桐平という顔の綺麗な若い男がギリシャ神話の本を読んでいる。頭の弱い小菅もその傍で、ポータブルのゲーム機をいじってシューティングゲームを楽しんでいる。
篭城生活は続いている。皆なんともないふりをしているが、心の中では嫌な予感が高まっている。いつ攻めてくるかわからないSATに囲まれて息が詰まっている。溜め込んだ食料品もいつまでも持つわけではない。こんな状態がいつまでも続くわけがないと小菅さえも感じている。
桑野はトイレから出てきて大きな溜息を一つ付いた。食堂に、機械室、断裁室、作業部屋、トイレ、どこを見てもそれなりの広さのある工場だが、さすがに2週間も続くと、工場は異様に狭く感じられる。普段から走っているわけでもないが、走り回れるスペースでも欲しくなってくる。退屈な時間だ。それでも堪えていられるのは、この先の達成されるものがあるとまだ信じているからだ。皆、若手を慕い、最終的にはうまくいくと心の奥底で信じている。
小さな事務所では若手と響が幾日も変わらない時間を過ごしている。響が口を割らないと先へと進めない。
「確かに俺は知っている。あなたが知りたいと思っている事実を知っている」
とても長い時が流れて、響はやっと口を開いた。
「やっと話してくれる気になったんだな」
「それで、それを知ってから、あんたはそいつをどうするつもりだ?」
「そうか、それが知りたいか。いいだろう。教えてあげよう。君にも知る権利がある。君から得た情報は、世の中に公開する。その人物がこの世にいかに愚かな行為をしてきたか、そしてそれ相応の罪を償ってもらう」
「それじゃあ、駄目だ。あなたには何も教えられない。教える気になれない」
「どうしてかな?」
「俺は、あんたよりずっと強く、あんたの求める人物を恨んでいる。だから処罰は俺が下す。つまり、俺がそいつを消すんだ」
「そうしたいわけか」
響は頷く。
「それでここに来たわけだね」
再び頷く。
「君は、そいつを殺したいというわけだな」
響は三度頷いた。
「君は、人を殺したことがあるか?」
「ない!」
きっぱりと言い切る。
「それなら、やめておいた方がいい。もしそれをすれば、君は一生人を殺したという罪の意識を引き摺ることとなる。人生にはしないほうがいいこともある」
「知ったような言い方をするんだな。あんたは人を殺したことがあるのか?」
若手は鼻で笑い、「君の想像するとおりだよ」と答えた。
それがどちらを意味するのか、響にはわからなかった。響は目の前にいる男が人を殺したのかどうか、それがいかに重要な問題かを考えたが、それを重要とは思わなかった。
「さあ、答える気はあるのかな?君が知る上位の人物を」
響は再び口を塞いだ。口に鍵を掛けてまた会話を止めてしまった。今のままでは話しても自分の思うようには行かないとそう感じて口を閉ざした。
「青々とした空が見たいな」
小さな曇りガラスの天窓を見つめながら、桐平は言った。
「そうだね。空がみたいね。綺麗な青い、ありのままの空を」と柏木は答えた。
柏木は近くに立てかけてあったギターを手に取った。そしてゆっくりと小さな音色を奏で出した。音色にそって、柏木は柔らかい声で歌い始めた。
その歌声は裏の部屋にいる響たちへも微かに届いた。遠慮がちな声だが、澄んだ空気の中で音色が優しく伝わってきた。
響は歌い人の歌声が好きだった。その歌は知らない歌だったが響の心を優しく包み込んでくれた。歌い人は、『BANKBANDのはるまついぶき』を歌い上げた。響にはその歌が何の歌かはわからなかったが、その歌声から伝わってくる優しさは行き詰っていた気持ちをふと楽にしてくれた。響だけでなく、その歌声はメンバー全員にそっと優しく伝わっていた。
「可能性はまだあるのかな?」と、桐平は呟いた。
近くにいた桑野が「さあな。でもきっと若手さんが何とかしてくれるだろうよ」と答えた。
「食事ですよ」と睦美が言って、若手は厳しい顔を解いた。食堂から出てきた睦美が皆に食事が出来たことを知らせていた。
「今はやめよう」と、若手は響に言った。
詰まっていた状況が一旦緩まった。響は若手の意見に頷き、昼食を取ることにした。
「柏木や睦美がいなかったら、俺たちはもうすでにここにはいられなかっただろうよ」と、若手は言った。
響はその言葉の意味がよく理解できた。そして居酒屋「ふくちゃん」を思い出していた。この廃工場にいる連中は響の仲間ではないが、「ふくちゃん」の常連と一緒にいるような居心地のよさがあった。その感じを響は感じ取っていた。
昼食はつかの間の休息となった。でもその安らぎの時は長くは続かない。誰もがわかっていたが、その時が現実となるまではもう少しだけ時間が残されていた。
馬込はいつもどおり上野響が住んでいたマンションの前へとやってきていた。市谷からの連絡が入るまで上野響をもう少し探してみようと考えたからだ。
『彼はあの日、ここから出ていった!つまりそれはどうしてか。んふ~、はい、そうです、つまりですね』と、腕を組んで、人差し指を額に当てながら古畑任三郎の真似をして上野響の行き先を考えた。だが上野響がどこへ行ったかという手がかりは全くもって見つかりそうになかった。馬込には何の予測も浮かばなかった。
結局、馬込はいつものようにマンション前の花壇脇に座り込み、ただぼけっとするだけの時間を送った。すでにいなくなった男が戻ってくる確率はとても低かった。それでも馬込には上野響を待つしかできなかった。
『この先、僕はどうしたらいいんだろうか』なんてニートの悩みが浮かんでいた。
1時間が経過した。辺りを通りすぎる人を見つめながら時を送っていた。やがて一人のおっさんと目が合った。おっさんは青いジャンパーにベージュ色のチノパンを穿いていた。角刈りの似合う40過ぎの人の良さそうおじさんだ。だから馬込は宗教勧誘者かなんかだと感じ、目を逸らせた。
「すみません」
おっさんは予想どおり馬込に話しかけてきた。
「いえ、間に合ってますから、大丈夫です」
何が間に合っているかは不明だが、馬込はとにかくそう答えた。
「あの、そういうことじゃなくて、ひょっとしてあなたは馬込さんではないでしょうか?」
馬込は顔を上げた。そしてその男の顔をまじまじと見つめた。角刈りにほりの深い顔立ち、馬込にはまるで見覚えのない顔だった。
『いや、知らない』と、心の中で呟いた。『待ってください。たしかこの男は、ひょっとして、と言いました。ということはですねえ、つまりそれは、彼がわたしを本当に知っているわけではない。でもわたしの名前は知っていた。それはつまり、急にわたしが有名になってしまって人々に知られたなんて話がない限り、わたしの名前を知っているなんてありえない。最近わたしに起こった出来事といえば、市谷班長に会ったこと。市谷班長は若手という男の手助けをしてほしいと言っていた。ここは上野響の住んでいるマンションである。という事は、上野響を知る者であるのは確かだが、何者かははっきりしてこない。んんん』と、一人長い推測を行う。
「わたしは金子と申します。馬込さんでしょうか?」
角刈りのおっさんが先に名乗ってきた。それに馬込は反応する。
「ええ、そうですが」
「じゃあ、柏木さんという方をご存知ですよね」
「ええええ~とお」
馬込はその名前が思い出せない。
「なんといいますか、ギターを弾く男でして、居酒屋ふくちゃんというところで会ったかと」
「ああ、ああああああ。お世話になった人だ」
頭の中にピンとくるものがあった。何かが繋がりつつあった。
「ええ、わたくし、彼の知り合いでして、彼からの頼みでここに来ました」
「…?、どういう理由でしょうか?」
「まず、わたくしたちがどのようなものかをお伝えしておこうと思います。わたくしたちは麻薬に対して恨みを持っている者の集まりでして、麻薬の駆除を行っています」
「そうですか。という事は、あなたたちはですね、若手という男と関係しているわけですね」
馬込にしては珍しく飲み込みが早い。市谷班長の前情報を聞いていたおかげではある。
「ええ、すでに、その方の名前をご存知なのですね」
「つまり、若手の指示であなたはここに来た」
「おそらく、そうですね」
「それで、彼は今、どこに?」
「まあ、その事は後にして、先にお話させてください」
馬込はしぶしぶ頷く。
「わたしたちは麻薬を恨んでいる集団です。そしてわたしたちはそれを無くしたいと考えている。それであなたにぜひ協力がしていただきたいと思い、あなたを探しておりました。あなたには麻薬を扱っている組織のボスを捕まえていただきたいのです」
「でも、わたしはすでに知っておられるかわかりませんが、警官ではないのです」
「いえ、それは構いません。あなたは組織のボスに、自分が麻薬を預かっていると説明し、この犯罪に関わっている警察関係者の名を伝えていただければいいのです。まだ麻薬組織のボスが何者なのかは判明していませんが、わかり次第実行してほしいのです。ボスと思われる人物に揺さぶりを掛け、麻薬と関わっている証拠を見つけ出してほしいのです」
9割方の話は馬込に理解できていた。市谷班長たちと話した件が今の話に繋がっていた。警察関係者とは警備部の石間部長だ。『石間が麻薬と関わっていた事を自供した』とボスとなる人物に伝えれば、麻薬のボスにも逃げ道はない。頼みの警察を失えば捕まる覚悟をするしかないだろう。しかしボスとはどこのどんな人物なのか、馬込にはまるで想像が付かなかった。だから馬込はその点に関して金子に尋ねた。
「ボスが何者なのかはわたしたちもまだ判明できていません。わたしたちはすでにある人物を味方に付け、物を手に入れました。そしてその人物から、ボスの名を聞き取ろうとしています」
「ある人物ですか?」
「ええ、運び屋で、上響響という人物です。ひょっとしてあなたはその人を探しているのでは?」
もちろん知っている。
「運び屋、運び、運ぶ、運送業。なるほど、そういう事か」
馬込は一気にいろいろな謎が解けた気がした。そしてそれはあまりにすっきりした解答だったので、思わずとてつもない笑顔になってしまった。でも次の瞬間には嫌な気持ちが湧いてきた。全てにおける謎が解けたと同時に、浮かび上がってきたのは自分が何を追いかけてきたかという疑問だった。馬込がずっと追いかけてきたのは日暮里スーパー爆破事件の犯人だった。しかし先日の夢見警部の話と今日の金子の話を足すと、その犯人はほぼ若手かが決定付けられてきた。
日暮里のスーパーに麻薬を運んでいたのは、麻薬の運び屋であったまさだと考えられる。まさが爆発物を仕掛け、松嶋を殺す理由などどこにも見当たらない。そんな真似をすればむしろ自分の飯の種が減ってしまうわけだからその可能性は低い。日暮里スーパー爆破事件の犯人はむしろ麻薬の売人である松嶋を恨む若手たちの集団だと考える方が自然だ。
今日まで馬込が推測してきた考えは全て外れていて、真相がはっきりしてきた。犯人はまさではなく、目の前にいる金子と名乗る男も含む若手らのグループである。馬込が長年追ってきた相手は麻薬のボスではなく、日暮里スーパー爆破事件の犯人なのだ。そして馬込はもう一つの真相も理解できてきた。それは上野響に関する件だ。先日訪れた居酒屋「ふくちゃん」で聞いた上野響とまさの生活、その前の田山家で見つけた上野響の写真を総合して考えると、田山夫妻の家にいた少年涼である上野響は田山夫妻が亡くなり行き場を失ったことで、その場にいた麻薬の運び屋のまさに引き取られたのだ。上野響がなぜ田山家で生活していたのか、そしてなぜそれが誰に知られずにいたのか、また、なぜまさが上野響を引き取ったのか、疑問に残る点は多々かあるが、大筋で全貌は見えてきた。
馬込が追いかけるべき相手は日暮里スーパー爆破事件の犯人である若手らであって、上野響でも、まさでも、麻薬のボスでもない。それが馬込の答えに近かった。
「あなたは、日暮里スーパー爆破事件というのをご存知ですか?」と金子に尋ねた。
「ええ、聞いてはいます。あれは事故だったのです」
「事故?爆発物を仕掛けた事故なんてあるんですか?」
「火薬量を間違えたと聞いている。若手さんたちはただ松嶋という売り手を警官に捕まえさせたかっただけなんです。そのための小さな仕掛けだった。それが大きな事故になってしまった」
爆破事件が起きた時、その場に最初に駆けつけた警官は馬込だった。つまり本来想定していた爆発だったなら、馬込は爆破した辺りにあった麻薬を押収して、松嶋を逮捕するという手はずに到っていただろう。馬込は麻薬取引犯逮捕という華々しい初仕事を終え、昇進していたことだろう。そしてそれを仕組んだ若手も満足して、麻薬捜査の件を警察に任せてテロ行為から手を引いていたかもしれない。
しかし事実はこうなった。スーパーは爆破され、6人の死者が出た。最初にその場に駆けつけた警官の馬込は日暮里スーパー爆破事件を解決まで追い続けることとなり、爆破を仕掛けた若手は麻薬もろとも爆破させてしまうという失敗によって、再チャンスを探して麻薬を扱う真の犯人を追い求める続けた。狂わされた二人の7年間は戻ることのないまま、2008年の秋を迎えていた。
「そうだとしますと、それが事故であろうとなんだろうと、わたしはあなたたちを捕まえなくてはならない。あの事件の犯人を逮捕すること、それがわたしの使命なんです」
「協力はしてもらえないという事ですか?」
馬込は少し悩んだ。だが市谷班長との約束がある。
「麻薬の犯人が見つかるまでは手伝いましょう。しかし、それで終りではない」
「わたしたちを捕まえるつもりですね」
「取引なんてしたくないんです。本当は、単純にわたしは犯人を捕まえたいだけなんです」
「わたしも同じです。わたしもただ麻薬がなくなればいいと思っているだけです。今回の件が終りましたら、わたしの知る限りの全てをあなたにお伝えします。若手さんたちがどうするかはわかりませんが、わたしはあなたに約束しますよ。この件が済みましたら、わたしはあなたに協力します」
「それではまず、彼らはどこにいるか、教えてもらえますか?」
「彼らは、伊豆にいる。若手の叔父がやっていた廃工場に彼らはいます。しかし、今は近づけません。彼らは警察の者に囲まれています。近づくのはとても危険です。信じてもらえますか?」
「ええ、だいたいの状況はわかってますから」
馬込は自分の中で一皮向けた気がしていた。焦りや不安が急に減った気がした。謎が解け、犯人を理解してしまった今となっては焦っても仕方ない気がした。後は捕まえるだけ、というはっきりした答えが、馬込にかつてない余裕をもたらせていた。
漆黒の闇が包む。何度目かのトタン屋根を叩く音が響いた。SATの連中がまた突破口を切り開こうと始めているみたいだった。
息が詰まり苦しい感じがするのは皆同じだ。睦美は食料の心配を感じ始めていた。頭の弱い小菅はたまに泣き出しそうな声を発した。
「あああああ、あああああ」
その声が場内に響き渡ると、皆嫌な気分になる。特に倉本は苛立ちを隠せずに足を震わせていた。個々の時間が過ぎ去ってゆく。風のない場所は空気を重く感じさせる。もうやめようなんて気はないと言えば嘘になる。
心の見えない女、金原は誰よりも強く絶望を感じていた。彼女は倉本の呼びかけに応じて仲間になったメンバーだ。だが彼女は麻薬に関して恨みを抱いているわけではなかった。彼女の怒りは麻薬というよりもむしろ世間にあった。だからただ、その世間をひっくり返すような考えを持っている若手という存在に対して惹かれていた。
金原は小学校からずっといじめられてきた。オシャレにも興味がなく、眼鏡を掛け、本ばかりを読んでいる彼女は格好の的となった。誰もが根暗で人と馴染めない彼女を無視して陰口を叩いた。彼女は別にそれでも構わなかった。人と付き合うよりは色々な物の仕組みを解明していく方が何倍も楽しかった。いじめは当り前の出来事だった。無視されるだけなら楽だったが、トイレで水を掛けられたり、机に落書きされたり、時には後ろから突き飛ばされたりすることもあった。
でも本当に彼女が感じていたのは、怒りというより虚しさだった。どうして世の中の人間はくだらないいじめを楽しむのだろうか。その疑問は彼女の心を虚しくさせていった。彼女は周りの人間がもっと自分と同じように、色々な物の仕組みに興味を持って取り組んでいけばいいと望んでいた。
しかし中学校に入っても、高校に入っても、彼女の周りの人間にそのような深い興味を持った人間はいなかった。実際はいたのかもしれないが、話ベタの彼女は自分の世界に入り込むばかりで人と関わろうとしなかったから見つけられなかっただけかもしれない。
結局、一人で家に閉じこもり、パソコンと向き合う生活の方が増えていった。高校を卒業する頃になると、金原は世間に対する怒りを強く感じるようになっていた。世の中の人間はゴミのような奴らばかりだと感じていた。この国が滅ぶのも時間の問題だと感じ、むしろそうなる結果を望むようになった。
爆弾の作り方を掲載するコミュニティーの中で、彼女は倉本に声を掛けられた。倉本は金原が書き込むコミュニティーの細かい説明に興味を持った。『仲間になってほしい』と彼女を呼びかけてきた。最初は何だかわからなかったが、やがて倉本の存在が近づいてくるとそこに未来があるような気がした。金原は思い切って心の扉を開いた。その後、若手と出会い自分が必要とされている存在であると理解した。
深い闇の青、音のない場所、音のない暮らし。胸が苦しい。心が荒む。
救われたはずなのに今また、金原は苦しんでいた。彼女は惨劇の全てを知っている。日暮里スーパー爆破事件の爆発がどうしてあれほど大きかったのか。あれは間違いだったのか、正しかったのか、知っている。若手はあの爆発を『間違えだった』と言った。あの爆発物は間違えて作られた物が爆発したからだと信じている。
金原はあの爆発物が間違えて作った物なのかどうなのか、その事を一番よくわかっている。作った本人はその答えを一番よく理解している。あの爆発物がどれだけの威力のある物なのか金原は理解していた。
わかっていた。あの爆発は間違えではなかった。あれはああなるようになっていたのだ。金原は試したのだ。自らが作った物にどれだけの威力があるのかを。
それは大変な威力だった。あれほどの爆発が起こり、あれほどの人が亡くなったのだ。だから金原は爆発後、若手と会い「間違いだった」と告げ謝った。若手は「仕方ないさ。誰にだって間違いはある。仕掛けたのは俺だから俺の責任だ」と答えた。二人の間違いという言葉には大きな差があった。金原はあの爆発物を作った事自体が間違いだったと言ったつもりだった。しかし若手は、あの爆発物の作り方に間違いがあったと答えた。
「しかたない。間違いもある。あれは強すぎた」
金原はその言葉を聞いて若手の勘違いを悟った。そして金原は自分の心の内に自らの間違いを仕舞い込むこととした。もともと口数の少ない金原だからそれ以上口を開かないのは自然だった。皆あの爆発が間違った作り方によって出来た爆弾が大爆発したのだと思い込むようになっていた。
そして時はいつの間にか過ぎていた。金原という存在がいなければ、若手らはまだテロリストと呼べるほどの集団ではなかっただろう。そしてあの事件がなければ、彼らはそこまで危険な集団として考えられなかっただろう。彼らがテロリストだというのは実際のところ、工場内にいるメンバーと未処の市谷と夢見警部、それから馬込純平くらいしかいない。現実では彼らはまだ誰にも、と言っていいくらい知られていない。しかしあの事件犯だということが知られれば、彼らはいずれテロリストととして世間に知られるようになるだろう。
闇の中で恐れている。SATの連中はまだトラップの内側に入ってこない。
『本当に間違いだったのか、正しかったのか』
金原はもう一度、自問する。自分が作った物がどれだけの威力があるかを試したかった。ずっとパソコンの中で理論立ててきた物が形になった。金原が一言、欲しい部品や化学薬品を言えば、桑野と倉本は時間を掛けてでも、その物を調達してきてくれた。そしてそれらを使って実際に作り、理論の越えた世界が金原に楽しみを与えてくれた。失敗は失敗で楽しめた。それは金原にとってかつてない楽しみだった。
そしてここまで来た。廃工場を覆う数々の爆発物、その全てがどうなるか、金原だけが知っている。彼女のしたい事はSATを入らせない罠よりもむしろそのトラップがしっかりと出来ているかという結果にあった。そして彼女の苛立ちはSATに囲まれているためではなくて、むしろ自分が仕掛けたトラップにいまだ誰も引っかからないことにあった。
『もう、ここまでやってしまった』
彼女は心の中でそう呟いた。誰もいない機械室で一人息を詰まらせていた。人を殺した罪悪感がないわけではいない。しかし彼女はその悪の根源は自分をそうさせた世の中にあると捉えていた。彼女は今、自虐的に全てを終わらせようと考えている。ドミノの最初の一押しみたいなスイッチを彼女は手にしている。ある部分が少しずつ熱を帯び、やがて火薬が発火するようになっている。ろうそくに火が付き、やがて溶けた蝋が零れ落ち、熱せられ、熱が伝わる仕組みになっている部分もある。それらの一つ一つがうまくいくのか、計算上ではうまく行くはずだが実際にどうなるかはやってみないとわからない。
『もう時は迫っている』
金原はそれを知っていた。だから彼女は自分を満たせると微笑んだ。
そして最初のスイッチを押した。一気には何も起こらない。少しずつ時間が過ぎ、やがて爆発が始まる。彼女はそれを知っている。
世間に対する恨み、憎しみ、心の見えない場所でずっと一人持ち続けてきた。全てが今、満たされ、終わりを向かえようとしていた。誰も知らない真実は金原の中にだけあり、若手らのメンバーは個々の場所で個々の時間を送っている。
上野響は嶋咲枝がどんな人物なのか、詳しくは知らない。響の知りえる大まかな情報としては、嶋咲枝は政治家でありながら麻薬で金を儲けている女という人物像くらいだ。嶋咲枝という名は世の中に広く知れ渡っている。だからその名を口にすれば若手もすぐに解るだろう。響と嶋咲枝の繋がりがあると伝えれば、すぐには理解できないくらい驚くだろう。
嶋咲枝は少なくても表向きにはクリーンなイメージの政治家だ。彼女がクリーンでないのは、そのルックスから来る男絡みの問題だけであって、その他の面ではクリーンだとして知られている。だから世の中にも受けがいいし、彼女を嫌う人間もいれば好き好む人間もいる。それが嶋咲枝に対する世論の評価といったところだ。
真実の嶋咲枝は不思議な魅力を持っている。上野響は少なくとも彼女をそう捉えている。実際に会ったのは殺害を試みたあの一夜限りだ。響は嶋の不思議な魅力に心を揺さぶられた。その揺さぶりを掛ける感触を響はしっかりと覚えている。あの感触に誰もがやられていくのだろうと、響は後で感じた。感触は女としての弱さ、その逆の内面の強さ、と同時に捉えきれない感情のようなもの。一種の女の勘とでもいうのか、嶋咲枝にはそういった女としての独特の感性を人一倍強く持っているという印象があった。それが嶋の力であると響は感じていた。
若手と響の長い会話は続いていた。長い会話と言っても、無口になる時間が多く、話は一向に進まなかった。
響はまさについての話をした。彼は麻薬の運び屋ではあったが、その面を除けば人のいいおじさんだった。誰もが持つ金欲や性欲を思うままに満たしている人だった。そして社会に対する欲を持たない人間だった。上手に稼げて、上手に遊べる金が欲しかっただけの男なのだ。響は若手に対してまさをそう説明した。
若手はその人物が自分の間逆にいるタイプの人間であると理解した。若手は自分が社会欲の強い人間だと感じている。そうでなければわざわざここまで麻薬に取り組んでこなかっただろう。金や女に対してはさほどの興味がない。食欲や性欲がないと言ったら嘘になるが、欲望に順番付けばそれはとても低い方に値する。彼にとって大切なのはあくまで自分がこの世に何を残せるかという事だけだ。それを果たせずして、金も女も欲する気持ちにはなれないのだろう。
響は木崎についても、名前こそ出さなかったが話をした。それはつまり響の仕事について教えたようなものだった。木崎がやってきて、金を受け取り、ある場所に麻薬の入った物を頂きに行く。そしてそれを手に入れて戻って木崎に渡す。木崎はがたいがよく、真面目で硬い男だと、響は説明してやった。
嶋咲枝を取り囲む環境についての話だけはした。しかしその頂点に立つ本人の話になると、響の仁王像のように口元を瞑って固まってしまった。響はどうしてもその先を口に出せずにいた。
なぜ話せないのか、響は一人になったときに何度も考えた。一つは若手との考え方の違い。自分は嶋を殺すチャンスを狙っているのに、若手は嶋を捕まえる方法を考えている。狙いが違うからだ。でもその点に関する問題だけなら現状の篭城生活を続けるには何の得もない。なぜなら嶋咲枝自身がこの場に失われた麻薬を取り戻しに来るとは到底考えられないからだ。
響は現状から抜け出す道として若手の仲間になると決めたが、それが嶋咲枝殺害へどう繋がるかまでは、その時点で考えていなかった。一度思い切って殺害の狙いを若手に告げたが、実際にはとても無理難題が多いと響は理解していた。
有る可能性を考えるのなら、嶋咲枝という名を若手に告げてしまった方が得なのだ。殺害に関しては嶋咲枝が追い込まれてからチャンスを窺えばいい。現状追い込まれているのは響の方だ。打破するには若手に嶋咲枝という名を告げるべきだ。そう理解しても響は若手に嶋咲枝の名を口にすることができないでいる。どうしてなのか、そこには嶋の不思議な魅力があるせいなのか、響にはわからなかった。
不調和だった。この流れの中では何も見つからない。同じ流れの中では先に進む要素が見つからない。若手は今の打破を考えている。
「何か別の話をしよう」と、若手は提案する。
「何を?」
「君にとって、楽しみとは何かか?」
「酒、女、くらい。煙草は吸わない」
「君はまだ20歳くらいだったかな?」
「そうだけど」
「ふふ、20歳とは思えない考え方だな。誰かに似たのか、それとも、もともとそういう人間性なのか」
「人間なんてそんなものさ。実際はただの欲望の塊なんだ」
「それは君の意見か?それとも君を育てた人の意見か?」
「どっちでもいい。ただ、俺はそう思っただけだ」
「じゃあ、君の育てた人の話はやめよう。それは聞いたからな。君の実の両親は健在か?」
響は口を結んだまま、開かなかった。
「そうだな。長い間、会っていないのだろうから、それもわからないのだろうな」
「両親は、死んだ」
「そうか、君も不幸な人生を送ってきたというわけか。不幸と言い切ることもできないし、君の人生は俺の人生とも違うから一概には言えないがね」
「両親に対しても、まささんに対しても、不幸は感じていない。ただ、彼らを俺から奪ったものに恨みがあるだけだ」
「まさという男に対しては、君のボス。両親は?病死か?事故死か?君を見ていればわかる。両親は優しい人間だった。君はその愛情に育てられたのだろう」
響は黙っていた。
「子供の頃なら、酒や女じゃなく、別の楽しみもあっただろう。友達と遊んだ楽しみもあっただろう」
「子供の頃に友達なんていない。俺は普通じゃないんだ。そういう育ち方はしていない。一般的な物の見方で判断されても困る」
「そうか。ならどう違う?引越しが多かったとか、病弱だったとかか?君を見る限り、周りにいじめられるような人間には見えないが、それともそういうことかな?」
「どれも違う。俺は、独りで育ったんだ。ずっと狭い部屋で、俺は両親しか知らずに育った」
「なるほど、それは確かに変わっている。君の言うようにそれは一般的じゃないね」
響の少年時代はずっと両親しかいなかった。遊びはいつも一人遊びで、嬉しい事といえば勉強をして両親に褒められることくらいだった。両親は響にテレビも見せなかったし、テレビゲームもやらせなかった。一般的な社会に関係する遊びは一切させてくれなかった。その生活は田山夫妻(両親)が涼(響)に、自分が人と違う生活をしていると悟られないためのものだった。それでも自然と物心が付けば、何かおかしな生活をしていると気づき出す。両親のいない時にはテレビの盗み見ていた。全くの監禁ではなく、外を知ることも出来たし、勉強もさせられていたから知識は徐々に付いていっていた。
「そして、君の両親は亡くなり、君は麻薬の運び屋であるまさに出会った。確かに変わっているな。普通じゃない」
突如、焦げ臭い異臭の漂う匂いが鼻に付いて、若手は会話を止めた。
「倉本!」
若手は倉本を呼び寄せた。倉本は二人が話をする事務所へと駆けつけてきた。
「異臭がする。睦美の昼食の調理ミスでもなければ、やつらが攻めてきているのかもしれない。食堂を覗いた後、木島と一緒に周囲を見渡せ。それから、これが毒ガスか何かでないか、金原に聞け。そうだったらすぐにマスクを用意させるんだ。いいな」
「わかったよ。確かに変な臭いがする」と、倉本は答えた。
「話はしばらく中断だ。いや、本来なら中断している暇もない。何かが迫っているのかもしれない。全ての鍵は君が握るのだからな」
若手のその言葉に、響は黙っていた。どこからともなくやってくる不安な気持ちが響の心を捕らえていた。響の勘は別のところに働いていた。何かが攻めてくるというより、別の何かが起ころうとしてると彼独特の嗅覚から感じていた。
倉本が食堂の扉をガラリと開けたとき、木島はテーブルの上に座っていた。入口側から一番奥にあたる部分にあるガスコンロと流しだけがある調理場では睦美が一人、昼食の準備をしていた。食堂には食欲をそそるシチューの甘い香りが漂っていた。
「どうした?」と、木島は倉本に尋ねた。
倉本は木島の質問を気に止めずに食堂の奥、トイレへと通じる方の扉へと向っていった。シチューのよい香りからして、焦げ臭い匂いが睦美の調理ミスでないのはすぐに分かっていた。
息を呑むような真剣な表情をした倉本の姿が木島と睦美には伝わり、二人を緊張させた。睦美はコンロの火を止めて木島の方へと近寄っていった。木島はテーブルから降りて立ち上がった。
次の瞬間だった。倉本の前から大きな爆風がやってきた。倉本はその爆風に飛ばされ、尻もちをついた。ボンという大きな音が当たりに響いたがそれだけで終り、後はまた静けさに変わった。
灰色の煙が食堂の方へと入り込んできた。誰も身動き一つ取れなかった。木島と睦美は爆風に吹き飛ばされた倉本の姿を見て、ただ呆然として立ちすくんでいた。
瞬時に顔の前で腕をXにして体を丸めたため、倉本には大きなダメージがなかった。そして煙の立ちこむ向こう側を見ようとしていた。
『どうしてそこで起こったのか?』という疑問が倉本にはあった。爆風のやってきたところは工場の外部からではなく内部の辺りだった。トイレから攻め込まれて起こった爆発とも考えられたが、それなら睦美が調理していた流し台の方にも何らかの異常が見られるはずだ。だが流しはなんともなく、シチューは無事で、それは内部で起こった爆発だと考えるのが自然だった。
『おそらく内部防御のための扉』
爆弾は工場内にも仕掛けられていた。それは工場にSATが入り込んだ時に内部で防御するための爆弾だ。爆発したのはおそらく防御システムの爆弾、だから自分たちを守るために強い爆発はしない。
「金原、どうなっているんだ」と呟き、倉本は立ち上がった。そしてちらっと木島の方に目をやった。
「そこから動くな。俺は金原を探してくる」
倉本は煙の立ち込めるトイレの方の扉を潜っていった。
「倉本!」
木島は呼び止めたが、すでに遅かった。倉本は煙の中に消えてしまっていた。
その爆発は工場内の全てに伝わっていた。事務室に若手と響がいて、作業場に柏木守がいた。食堂には木島と睦美が残って、倉本は爆発の起きた方へと飛び込んでいった。金原は機械室にいて、桐平と小菅、桑野は材料室でゲームをしていた。裁断場には誰もいなかった。
『あの煙はどこからともなくやってきて、僕らを包み込んでゆくのかな?無関心な出来事かもしれない。きっと誰もそんなに憎んではいなかっただろうし、恨んでもいなかったのだから。むしろその憎しみや恨みは自分自身に向っていたんだ』
桐平は爆発して起きた煙を見ながら、そんな事を思っていた。
『若手さんや倉本さんは知らないだろう。僕らがどんな人間なのか。最初から何かを成し遂げようとか、世の中をあっと言わせようとか、そんな気はなかった。僕らは僕らの程度を知っている。そんな僕らを若手さんは快く迎え入れてくれた。そして僕らにも出来る事があると勇気付けてくれた。僕らは皆生きる意味を持たされた。その事が嬉しかった。僕らにも生まれてきた意味があると教えてくれた。本当の僕らは存在意義も持てない人間たちの集まりだ。理想ばかり高く、現実と向き合おうとしない人間たちだ。僕らはそんなどうしようもない人間たちなのに、若手さんは僕らの味方になってくれた。道を踏み外してしまった僕らの道をしっかりと作り直してくれた。若手さんの優しさを僕らは十分に感じてきた。ずっと深い闇の中にいた僕に、小さな蛍を投げ入れてくれた。僕はずっと闇の中にいるのだけれど、その蛍が僕の関心を誘う。何もない暗闇ではそんな小さな関心さえ持てなかった。若手さんが与えてくれた小さな明かりに僕は感謝している。だけど僕らはずっと暗闇の中にいるんだ。そしてただ若手さんが投げ入れてくれた蛍を見つめる。それしか出来ないんだ』
次の瞬間、二度目の爆発が起きた。爆発は再びいくつかの通路を塞いだ。材料室と裁断室はもう繋がってはいなかった。作業室と材料室も繋がってはいなかった。二度目の爆発が工場をいくつかに分断した。
事務室では若手が苦い表情を浮かべていた。
「また回路が狂ったか」と呟いた。
響はどうしようもない状況に追い込まれていた。爆発による熱のせいか、はたまた冷や汗か、額には玉粒状の汗が滲み出ていた。
倉本は爆発を掻い潜り機械室までやってきた。金原は椅子に座ってじっとしていた。丈の長い白衣を身にまとい、ただ実験の結果を見守っている研究員のようにコンピュータの画面を見つめていた。
「金原!」
その声に金原は振り向き機械室の入口に煙に巻かれて汚れた姿の倉本が立っているのを見た。
「どうして、ここまで来れたの?」と、金原は倉本に尋ねた。
「おまえ、どうしてこうなった?」
金原は仕掛けた爆発を知っている。内側の爆発は自分のため、誰も近づけさせないための爆発でもあった。いくつかの扉の爆発で自分が孤立する。最初の爆発は本来自分を一人にするための爆発だ。
次の瞬間、また別の爆発が起こる。今度の爆発は結構大きな爆発だ。倉本は身構える。
「大丈夫よ。その爆発は、材料室と裁断室、それから作業室を分離するための爆発だから。まだここに危害は及ばないわ」と、金原は答える。
倉本は金原に近づいて、じっと金原の顔を見つめた。
「金原、おまえが仕掛けたのか?」
「色々な事が煩わしくなった。わたしたちが何をしてもうまくはいかない。そろそろこうする時間になっただけ。飢え死にはしたくない。死ぬなら自分で作った装置を試してから死にたいから」
「俺は、最初から、おまえを信用したくはなかった。若手さんがおまえを庇わなければすぐにでも追放してやった。もっとまともな人間を仲間にすればよかったのさ」
「そう。そのとおりね。そうすればよかったのに」
「おまえみたいな奴の考えなんてわからねえよ」
「そう。あなたにはわからない。でも、皆、遅かれ早かれ、こうなると思っていた。皆怯えていた。いずれ連中に攻め込まれる。そして捕まるなら死んだ方がましだって。苦しまないように、わたしはじっくりと煙を充満させてゆく。そして死ぬ。皆」
「俺は望んじゃいない!」
「それならここに来なければよかった。ここには出口がない。あなたは最も間違った選択をしてしまった」
「なんてこった」
そして、再び爆発は起きた。爆発は裁断室の方から起きた。外側からの爆発で、大きな爆発だった。
材料室の桐平はそれでも動こうとはしなかった。頭の弱い小菅は横になって、金縛りにでもあっているかのようにプルプル震えていた。桐平はそんな小菅の頭を優しくさすって上げた。
「このままじゃどうにもならない」
桑野はこのまま死んでしまうのを恐れた。心は怯えていた。こうなる事態もどこかで予想していた気がした。桑野は立ち上がった。このまま死にたくはないと体が勝手に動き出した。
作業室への扉も、裁断室への扉も爆発されてしまった。トイレへ向うのも不可能だ。向かえる方向は外への扉しかなかった。そこにも爆弾が仕掛けられている。桑野はそれを知っている。しかしその爆発がどうするとどのように爆発するのか、桑野は知らない。
「きっとそれしかない」
桑野は桐平の側にいたが、そこから離れて外への扉へと向っていった。桐平は桑野のその行動に気づいたが何も言わなかった。
『そうだよ。それでいいんだよ』と心の内で優しく声を投げかけただけだった。
桑野は外へと扉に手を掛けた。そして扉の内鍵をゆっくりと外した。ドアノブに光の筋が走った。そしてその光はドアの内側に付いていた細い紐を伝わった。爆弾は足元に仕掛けられていた。桑野の足元から全てが破壊され、桑野は一瞬にして煙の中に消えていった。光の筋はさらに辺りを駆け巡り、大きなシャッターが一瞬にして倒壊した。天井が崩れ去り、辺りの全ては煙に覆われた。地上からさらなる爆発が起き、桐平と小菅もその爆破の中に消えていった。
『さようなら。僕は何も悔やんでいないよ』
全ては一瞬の出来事だった。
機械室にいた倉本はその爆発に身の毛がよだつ思いがした。どうしようもない恐れで体が震えた。
「今のは、何だ?」
震える声で、金原にそう尋ねた。
「材料室のシャッターが爆破した。あれは誰かが扉を開けなければ起きない。誰かが開けた」
金原はそう答えた。
倉本にはもう時間がないと悟った。たとえ絶望に近くてもこのままここで終りたくはない気持ちが働いた。震えている暇はなかった。
「俺は生きる!俺はここから出て、生き延びる」
倉本は金原にそう伝えた。金原は相変わらず座ったままの姿勢で動こうとはしなかった。だから倉本は金原に背を向けた。そして煙の増した機械室の外へと飛び出していった。
金原の目からは自然と涙が零れ落ちた。
『誰もわからない。誰も理解できない。人間なんて、皆、個。個人の勝手。理解なんてし合えない。皆、やりたい事を勝手にやっているだけ。わたしはそうしただけ。こうしたかっただけ』
金原はパソコンのZキーを押した。それが一つの答えだった。機械室は内側から爆発を起こした。それもまたとてつもなく大きな爆発だった。金原は誰とも理解し合えないままに消えていった。愛も知らない。本当は幻想でもいいから誰かを愛したかったのだろう。その想いは遂げられないまま、機械室と共に金原は消えていった。
機械室の爆発は厚い壁を幾つも破壊し、食堂まで響き渡った。食堂では木島と睦美が寄り添っていた。状況が迫りつつあるのを感じていた。それでも二人はその場を動こうとはしなかった。二人は解り合っていた。ここが終わりの場所だと心の内で通じ合っていた。
二人の想いがすれ違う時も過去にはあった。木島は自分がテロリストの仲間になるのに疑問を持っていた。それにそこへと睦美を連れてくるのも抵抗があった。睦美にとっても自分が正しい活動をしていると言える自信はなかった。その場を離れようと何度も考えてきた。互いは何度もすれ違い、何度もまた同じ場所で笑っていた。抱き合えば幸福だった。自由と束縛の合間で日々はいつの間にか過ぎ去っていた。いつの間にか二人は長い時間を共に過ごしてきていた。
睦美はエプロンのポケットから睡眠薬の錠剤を取り出した。いつどうなるかわからない状況の中、食事担当の睦美は時が来れば食事に混ぜてしまおうと考えていた。しかしそうはならなくなった。今となっては二人で飲んで眠るための物としてしか使い道はなかった。
「すぐに眠れるわ」と、睦美は木島に告げた。
木島は睦美の目を見つめ返し、その言葉の意味を理解して頷いた。
『僕らはこうなるしかなかったのかな?』と言いたい言葉を木島は発せずに止めた。それ以上の言葉は要らなかった。煙はすでに辺りを取り巻いていた。
二人は互いの口に睡眠薬の錠剤を入れ合った。そして抱きしめた。これで終わりだとわかっていた。抱きしめて互いを見つめた。襲ってくる眠気と互いを見つめていたい想いが交互にやってきて、二人は時を長く感じていた。最後の瞬間としては十分すぎる時間を感じ合っていた。
響は何度目かの爆発で、日暮里スーパー爆破事件を思い出していた。日暮里スーパー爆破事件の爆発自体を響は目にしていない。それでも響の親である田山夫妻をあの事件で失った。彼の中で爆破事件の記憶は自分に起こった出来事のように心の内に刻まれていた。
また大きな爆発に響は慄いた。でもすぐに気を取り戻し、若手を見つめた。若手は頭を抱えていた。響はそんな若手の態度に見て「何が起こっているんだ?」と尋ねた。若手は何も答えなかった。長い時間を掛けて行ってきた作業が今失敗に終ろうとしている。若手には次の一手が見えていないようだった。戦いの負けを認めるのだろうか。
滅び行く幾つもの爆音が響いた。焼け焦げた嫌な匂いが辺りに立ち込めていた。
「また失敗に終った。俺の負けだ」若手は小さな声で呟いた。「俺は目の前にいるたった一人の男の口さえ割ることさえできなかった。こうなる前に出来たこともあっただろう」
若手はそうとしか言えなかった。起きてしまった爆発よりも起こる前に出来なかった行動を悔やんでいた。現状は前向きに捕らえられない。
自分のした質問に答えない若手を見て、響はくだらない質問をしたと感じた。もう崩壊は始まっている。
何がどうあれこの場にいてはどうにもならない。それと同時に、この廃工場へ来た自分の選択にも失敗を感じた。若手らはテロリスト集団でありながら変に律儀な点があった。こういう状況になる可能性があるのならもっと響に酷い仕打ちもできたし、嶋咲枝を警察などに引き渡そうとする考えなど持たずに暗殺するという考えがあってもよかっただろう。若手旋斗という男はいろいろな点から詰め将棋のように上手な手を打ちながらも、最後の一手に手を掛けられない男だった。失敗は作戦にあったのではない。そもそもこの世界の物事にはルールなどないのだから、突然将棋台をひっくり返される場合もあるのだ。若手はそれがわかっていなかった。だから失敗に終わったのだ。
「俺の考えはあらゆる意味で、甘かったのだろう」若手自身もその事を理解していた。「日暮里のスーパーの時も同じだ。もっとしっかりと確かめておくべきだった」
響はその言葉を聞き逃さなかった。一度は部屋から逃げ出ようと考えていた響だが、若手のその言葉に外に出るのを止めた。
「今、なんて言った?今、なんて言ったんだ!」
響は今まで出したこともないくらいの大きな声を上げていた。若手はその響の声に顔を上げた。彼の目は不思議と笑ってみえた。
「7年前、日暮里のスーパーに爆弾を仕掛けた。従業員の松嶋という男はスーパーの倉庫に麻薬を隠し、路上で売りさばいていた。俺は奴の持つ麻薬を軽く爆破させ、奴のやっている馬鹿げた行いを世に知らしめようとした。だが爆破がでかすぎた。世間に騒がれた世にいう日暮里スーパー爆破事件、あの事件を起こした犯人は俺だ」
響は瞬時に肩掛けかばんの中に仕舞っていた拳銃を取り出して手にした。そしてその銃口を若手に向けた。若手は驚きもしなかった。相変わらず目が笑っていた。それでも自分がなぜ銃口を向けられたのか、その理由については全く理解できていなかった。
また一つ大きな爆発が起こる。今度は作業場の方だ。爆発は少しずつ二人のいる事務室の方へと近づいていた。逃げ場も少しずつなくなりつつあった。次の瞬間には食堂の方で爆発が起きた。辺りは爆発音に包まれ、熱気が増していた。遠くからサイレンの音が聞こえてくる。
最初の爆発からどれだけの時間が過ぎたのか響には想像も付かなかった。一瞬の内に爆発は起きていた。10分20分は経っているように思えるが、実際は5分も過ぎていない内の出来事なのかもしれない。
全ての爆発が起こり、もうすぐ全てが終わる。そう響は感じている。響の額には玉粒の汗が吹き出てきている。空気の薄さも感じ、意識も少し遠のきつつあった。
「あの事件が起きたとき、俺の両親もあのスーパーにいた。あの事件で亡くなった田山夫妻が俺の両親だった」
若手の表情から笑顔が消えた。顔を上げてから初めて真顔を見せた。
「バカな。あの二人には子供はいなかった」
「理由はわからない。どうして俺があんなふうに育ったのか、俺も知らない。でも俺の両親だった」
響のその言葉に若手はさっきまで話していた響の生い立ちについて思い出していた。その話はとても遠い過去の出来事のように若手には思えた。
「そうか、そうだな。確かに、君の変わった少年時代の話からそれもあるのかもしれない」
「俺には仇を打たなければならない相手が二人いる。一人はまささんを殺した女、そしてもう一人は俺の両親を殺したあんただ」
若手は再び笑った。今度は口元を上げて大きな笑顔を作った。
「不思議な組み合わせだな。とても不思議な組み合わせだ。そうだな。俺は君に殺されるべきだ。君は俺を殺す理由がある。そしてその理由は俺を殺す権利でもある。そうするべきだ」
響は引き金にしっかりと指を掛けた。
「最後に教えてくれないか?」若手は響に尋ねる。「君のもう一人の仇、君はまさを殺した女、と言った。その人物の名前を教えてくれないか?最後にそれくらい教えてくれてもいいだろう」
若手はそう言うと立ち上がった。そして2、3歩後ろに後退し、後ろのドアに背を凭れかけた。そして両手を広げ、大の字となった。
「さあ、名を言え!そして俺を打て!それが俺の本望だ!」
「女の名は、嶋咲枝、俺はその女を打つ。打つためにここで死ぬわけにはいかない」
響は若手に叫び伝え、ガンの引き金を引いた。同時に若手の後ろで大きな爆発が起きた。弾の行方も見届けられないほどの大きな爆発で、辺りは煙に包まれた。全ては煙の中に消されてしまった。
再び事務室の窓側で爆発が起こり、響はもう何も見ることができなかった。次の瞬間には背中側、食堂側が再び爆発し、響はその爆風でその場に倒れ込んだ。
『俺は死ぬのか?』と響は自問した。
意識は遠のきつつあった。何も見えない中で全てが失われていく。見えたのは嶋咲枝の想像上の姿だけだった。やり遂げなくてはならない思いが頭の中に浮かんでいた。しかし体は自由を聞いてくれそうになかった。どうにもならない中、意識は朦朧として完全に消えてしまおうとしていた。
全てが消えていく。全てが終わろうとしている。煙のせいか、はたまた果たせぬ願いのせいか、響の開けなくなり瞑った目から一粒の涙が流れた。
※
明るい日差しを受けているようだった。耳元にはヴーンと唸る音が続いていた。単調な音だった。
目を開いた。車の中にいる。そこは車の中だ。
「目が覚めたようだね」と、車の運転手が言った。
響はその声の主の方に目をやる。運転しているのは柏木守だった。
ここは地獄への入口かもしれない。それをなぜ柏木守が連れて行ってくれるのか。響は現実の想像は出来ずにいた。あの状況の中で自分が生きていられるはずがないと感じていたからだ。
でも生きている。ここは確実に現実なのだ。
「急がなくてはならないんだ」柏木守は言った。「すでに僕らを包囲していた連中は僕のスターレットのナンバーも控えていただろう。SATはおそらく、静岡県警とは完全に無関係だった。だから工場に火災が起きて、消防車やパトカーが工場にやってきたとき県警の人達は僕らの存在には気づかなかった。だから僕はこうして逃げ出すことができた。きっと僕らの存在は、そいつを探している警視庁の一部の人間しか知らないのだろう」
そいつ、と言って、柏木守は響の横に置かれた大きなトランクに目をやった。響には何もかもがちんぷんかんぷんだった。どうして自分が生きているのか、柏木守があの爆発の中からどうやって外へ逃げ出たのか。そしてこのスターレットがどこに向っているのか、まるでわからなかった。
「これから僕らは横浜へ向かう。そこで僕は待ち合わせをしている。君も会ったことがあると思う。中華料理屋を経営している金子という人だ。彼は馬込という人物と一緒にいる。君もその人物を知っているはずだ。僕はその馬込という男にそいつ(麻薬の入ったトランク)を渡し、それを信用のある警官に渡してもらう。僕らの戦いはもう終っている。だから僕は最低限出来る事をするつもりだ。僕自身も自首するつもりだ。これが僕なりのせめてものけじめだから」
柏木はそこまですらすらと動揺もないように話した。
「俺はどうしたらいい?」
まだ現実に戻れていない響は柏木に尋ねた。
「申し訳ないが、その点に関しては、僕には何の回答もできない。君の好きにすればいい。正直、僕は君を助けるつもりなんてなかった。僕は食堂側の入口を遠隔操作で爆破させ、逃げ道を作った後、若手さんを助けに事務室へ入った。でも若手さんはいなかった。代わりに君が倒れていた。僕は若手さんの名を呼んだけど、彼はどこにも見当たらなかった。そして君が意識を取り戻した。目の前でまた爆発が起きて限界を感じた。僕は君を放っておけるほど冷血な男にはなれない。僕が響君の名を呼ぶと君は付いて来た。田舎町だったから人もさほどいなかった。僕らは急いで煙に隠れながらスターレットへと走った。誰にも見られなかったとは言えない。けど僕らを追ってくる者は誰もいなかった。そして僕らはここまで来た。君は途中でまた眠ってしまったけどね」
響には一切の記憶がなかった。だから柏木が言っている事が本当なのか嘘なのかもわからなかった。唯一の真実は響がここにいて助かったということだけだ。
「だから君の好きにすればいいさ」と、柏木は付け加えた。
柏木守は、響が若手に銃口を向けたことはおろか、拳銃を持っていたことさえ知らないようだった。彼が必死で、もしくは煙に巻かれた中で、まるで何も見えていなかったと考えればそれもそうなのかもしれない。でも彼は全てを知っていて嘘を付いている可能性もある。その真実はわからない。しかしそれを知ることによってどれだけの価値があるかと考えれば、それは知る必要もないという答えは出た。だから響は頷いた。そして答えた。
「横浜まで着いたら適当なところで降ろしてくれ。後は好きにさせてもらうよ」
肩掛けかばんをしていた響がそのかばんのうちに手を突っ込むと、中には財布が入っていた。拳銃は入っていなかった。金は十分にあるようだった。だから当分は一人で生きていくこともできそうだった。
柏木はその言葉にしっかりと頷いた。
車は海老名まで来ていた。もうすぐ横浜まで辿り着く。町田ICで降り、16号を下り、西横浜で、二人は別れた。
「どこかに行く前に、まずは風呂にでも行って、服を着替えたほうがいいね」
別れ際、柏木守は響にそうアドバイスをした。確かに顔も服も全てが真っ黒にくすんでいた。
柏木守はそれから車を山下の方へと走らせた。そして山下公園を越えた先の駐車場に車を停めた。そこから携帯で金子に連絡を入れた。金子はすぐに出て、すぐ側にいると返答した。
柏木は追っ手が先にやってこないか恐れたが、そこにはいないようだった。10分後に歩いてやってきたのは金子と馬込純平だった。
車の窓をノックする金子に柏木は窓を開けて答えた。
「予定は変更です」
金子は柏木のその言葉に対して無念そうに頷いた。柏木は金子の横を覗いて、そこにいる気の弱そうな元警官に挨拶をする。
「やあ、久しぶりですね。君に会えてよかった。君の信頼できる警官に僕とこいつ(トランク)を連れて行ってほしい」
馬込はよくわかっていなかったが、その尋ねに二度縦に首を振って答えた。