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運び屋さんの殺害計画  作者: こころも りょうち
6/9

6.逃亡

 何もしないまま数日が過ぎた。日曜の夕暮れ時だった。最近はこの時刻になると雨が降り出す。響は1本の傘を手に家を出た。

 マンションの前には珍しい訪ね人がいた。馬込警部補だった。彼は響が声を掛けるより先に響の存在に気づいた。と言っても気づいたのは響が馬込の姿を10秒近く直視してからだった。

「お会いできてよかったです。今日できなかったらどうしようかと思っていました」

 馬込は響に近づいてきて、そんな挨拶をした。


 二人は一緒に居酒屋「ふくちゃん」に行った。まだ時間も早く客はほとんどいなかった。常連客も誰もいない。その日は歌い人がいた。しかし彼は歌を歌わずに何か小さな音を奏でて、ギターの練習をしているようだった。

「いらっしゃい」と、ふくちゃんは言ったが、いつか見た例の警官が一緒だと思い、響を知らないふりをした。

 響は手前の座敷席に靴を脱いで上がった。馬込はそのあとについて上がり座布団に座ると話し始めた。

「実は、わたくし、警察を辞めようと思っているんです」

「急にどうかしたの?」

「この間、部署を異動されて、わたくし、内勤の仕事になりまして。日暮里の事件を追う事ができなくなりました。不甲斐(ふがい)ない限りで、一層のこと辞めてしまおうと考えているんですよ」

「俺には関係ない話ですね。辞めるなら好きに辞めてくださいよ。あ、瓶ビール2本くださーい!」

 響はカウンターにいるふくちゃんに声を掛ける。

 その日は娘の由佳がバイトしていた。ふくちゃんは娘の由佳に響の事を知らない人のふりをするように説明しているみたいだった。

 由佳はよそよそしく瓶ビール2本とお通しを置いていった。響は2本のコップにビールを注いだ。馬込は軽く礼を言って、そいつをグビッと飲んでから話を始めた。

「確かに、中本さん(響の偽名)には何の関係もないですよねえ。わたくしもそのように思っていますよ。ですが、どうしてもあなたにこの事をお伝えしなくてはならないと思いまして。いや、というよりは、わたくしまだ諦めきれていないのですかねえ。つまり、まだあなたから何かをお聞きしなくてならないと考えているんですよ」

「俺は、前にも言ったように、まささんの事はよく知らない」

「どうしても引っかかるんですよ。何も知らないあなたがどうして、月島雅弘まささんのマンションを譲り受けることができたのか、それからどうしてただの運送屋(まさの職業)があれほどいいマンションを買うことができたのか?庶民ならそうは簡単じゃない。宝くじでも当てたというのなら話はわかりますが」

「じゃあ、宝くじでも当てたんじゃないですか?」

「あなたは、そのマンションを住む人がいないから譲り受けたと言っていた」

「そうですよ。いいじゃないですか?」

「違う。わたしは自信がある。そうではない。彼があのマンションを買ったのはあの爆破事件以後なんです。わたしは彼が何らかの報酬を得たと考えている。仕事を月島さんに与えた人物からです。中本さん、あなたもその人物と繋がっている。だからあなたはあのマンションを譲り受けることができた。だからあなた自身は日暮里スーパー爆破事件の真相を知らないかもしれないが、あなたの上にいる人物は日暮里スーパー事件の真相を知っている、と考えている」

『でもそれは違う。まささんが嶋咲枝と繋がるようになったのは、日暮里スーパー爆破事件、つまり俺がまささんと会った日から2年後。少なくとも事件が起きた頃、嶋咲枝は一般市民だったし、それほどの力はなかった。俺もいろいろと調べたんだ。日暮里スーパー爆破事件と嶋咲枝とは何の関わりもない。俺は知っている。馬込の言う一部、まささんと自分のボスが同じであるという点とかは当たってる。でも爆破事件の真相と、嶋咲枝が関係するとは思えない』

 響は頭の中でそう考えていた。

「残念だけど、そんな関係はありませんよ。俺は貧乏人。まささんがどうやってあのマンションを買ったかはわからない。あなたの言うように日暮里の事件で得たお金かもしれません。でも俺はただの金のない無職の難民ですよ。運がよかっただけです」と、自分とまさの関係を遠ざけるような言い回しをした。

「わたしには時間がない。本来なら今日も休出して仕事をしろと言われていたんです。最近思うのですが、わたしは何かの真相にぶつかろうとしているんじゃないかと感じるんですよ。そのせいで誰かがわたしに真実を知らされないように動いている。冗談じゃなくこの事件は警察組織その物が絡んでいる気がするんですよ。組織事情を暴露してしまうなんて正直警官として失格ですが、わたしはもうどうでもいい。あの事件の真相が知りたいだけになってきました。そのためなら自分の隠す部分の全てを見せてでも、あなたの知る限りの真実を知りたい」

 馬込の目は本気だった。だから響は酒を頼んだ。由佳が「浦ヶ霞」を一升瓶ごと持ってきた。響はコップに注ぎ、コップを馬込に渡す。

「熱い話ですねえ。話せる限り、話したいですよ。思い出してみます」

 馬込は熱した勢いでコップに入った「浦ヶ霞」をグビグビ飲んだ。

「まささんは、そうですねえ。酒が好きでした。自分でも酒を運んで、その酒をもらって、よく酔っ払ってましたよ」

「そんな事はどうでもいいですよ。それより月島雅弘は何かに恨みを持っていませんでしたか?」

「どうかな。よくわからない性格だったけど、特に人を恨むような人じゃなかったな」


「日暮里爆破の真相としては、恨みとか…」

 馬込は響に乗せられてどんどん酒を飲んでいった。話しては飲み、話しては飲んだ。馬込はだんだん響の言っている事がわからなくなり、仕舞いには自分が何を言おうとしているのかも忘れてしまっていた。

 酷く酔っ払って気がつけば外にいた。雨は降っていなかった。腕にはめていた時計はまだ10時を指していた。もう酷く酔っていた。

 一人の男が馬込に寄ってきた。馬込は最初、中本(響)かと思ったがそれは違う男だった。確か居酒屋でギターを練習している男だと馬込は思った。

 歌い人(柏木)は馬込に言った。

「だいぶ、酔っていますね。お送りしますよ。いや怪しいものじゃないです。そこの居酒屋にはいつもお世話になっているんで、ちょっとお客さんの事が心配になったと女将さんが言っていたから、代わりに僕が送りますよ」

 馬込は酔っていたので、そうして欲しかった。歩くのも面倒になっていた。

 何だかよくわからなくなって路上にドテッと座っていると、一台のコンパクトカーがやってきた。柏木は降りて、馬込の肩を抱え、後部座席に馬込を乗せた。

 乗ってしまうと馬込は眠くて仕方なかった。そして目を瞑りうとうとし出した。

『この車はどこへ行くのだろう?どこへ行くかも告げてない。でももう面倒だ。きっとどこかのホテルに連れて行ってくれるだろう』と馬込は頭の中で思った。

 やがて車は何処かに着いたようだった。見ず知らずの家だった。

「僕の家です。よかったら、泊っていってください」と柏木は言った。

 郊外の一軒家のようだった。築30年といった感じだろうか。若干古さを感じた。

 狭い家の玄関を上がり、客間に入れられた。ソファーに寝転がる。電機は付いたままだった。柏木は酔い覚ましの一杯の水を持ってきてくれた。

 馬込はそれを飲んで酔いを醒まそうとしたが、眠気を消すまでには至らなかった。柏木が出て行くと馬込は眠りに堕ちていった。

 心地よい眠りは、また知らない男の声に起こされた。

「馬込君だね」と男は言った。男は何故か、自分の名前を知っていた。

「君は今、大きな局面を迎えている。俺は君がここに来てくれるのを待っていた。そして君は俺の望みどおりここに来てくれた」

 薄目を開けるとそこには長髪の男の姿があった。一瞬、その男を馬込は中本だと感じたが、それは違った。その男はもっと鋭い顔立ちでいい年をした中年だった。

「君は一つの真相を暴かなくてはならない。それは君がいる組織に関わる話だ。君は裏の顔を持つその人物を表の世界に引きずり出さなくてはならない。それは君一人で出来るものではない。君には頼れる上司もいる。しかし自由に動けるのは君だけだ。真実を追って求めればいい。ただ君の上司を信じるべきだ。市谷というのが君の側にいるはずだ。彼を信じ、君はもう少しだけ真実を求めろ。そしてその真実が少しだけ見えたとき、君は君の信じる答えに向かえ。まずは原点に戻り、君が調べ逃していたものを探るんだ。亡くなった被害者やその周りを調べてみるがいいさ。そうすれば必ず真実に辿り着ける。いいね」

「あなたは誰だ」と、寝ぼけ(まなこ)で聞いてみたが、長髪の男は何も答えなかった。

 馬込はいつの間にか再び眠りに落ちていた。深い眠りだった。


 翌朝、馬込は目覚めた。やけに気持ち悪かった。トイレで吐いていると、柏木がやってきた。

「大丈夫ですか?」

「いやあ、すみません。昨夜のことはあまり覚えていないのですが」

「ものすごい酔ってましたから。ここ、分かります」

「ええ、どこだかはよくわかりませんが、あなたの家だとは、わかります」

「そうです。僕の家です」

「ところで、誰かと一緒に住んでいるのですか?」

「いや、一人ですけど」

「そうですか?昨夜、やたらと僕に詳しい人がいて」

「そんなわけありませんよ。僕はたまたま女将さんの代わりにあなたを送ろうとして、車で寝てしまったものですから家に連れてきたんです」

「そうですよねえ」

「夢でも見ていたんじゃないですか?」

「夢?そうですね。夢ですねえ。あれは」

 それは夢ではない。いずれ馬込にわかる日が来るだろう。真相のたどり着ければ、自分が若手旋斗のコマである事実を知るだろう。

 柏木守は心の中で思っていた。柏木は自分もどうなるのかはよく分かっていなかった。全ては若手の思いのままに進んでいた。やがて来るという警官を、柏木はずっと待っていただけだ。そしてその日が訪れた。何かが起ころうとしている予感だけがしていた。

 全ては若手の仕組んだシナリオの上に成り立っている。馬込も、響もその事実をまだ知らない。若手の描いた結末に向けて、脚本どおりのシナリオが進められ始めただけだ。この物語に関わる全ての人物がその結末にやがて出会うであろう。柏木はそうなると信じている。


 ※


 話は一週間前に戻る。ある大学の講堂で嶋咲枝の講演が行われた。前野正はその講演会に紛れ込んで講話を聞いていた。これから就職をする学生向けの講演だった。話はまとまっていて、説得力のあるものだった。笑える話もあり、一般的には非の打ち所のない内容だった。しかしその話にはある部分が抜けていた。前野正はそのある部分について考えた。それは嶋咲枝の体験だ。普通、人に何かの話をするときは自分の体験を交えて語るものだ。しかし彼女の話には自分の体験がまるでない。新聞に載っている知識や過去の偉人の話は出てくるが、自分の話がまるっきり抜けていた。つまりその話は誰か別の人でも語れる、一つの完成された発表例のようなものに聞こえた。

 その講義は嶋咲枝とは関係のない有名私立大学で行われていた。前野の知る限り、彼女は自分の大学で講演をしたことはない。差して気にするようなところでないかもしれない。お呼びがなければわざわざ自分から講演に行くこともないし、時間の都合が合わなければ断ることもあるだろう。選挙区も違うし、自分の母校で講演を行う理由はないといえばない。だからそれは当然といえば当然だ。でも、前野正は嶋咲枝の学生時代が気になった。


 前野は嶋咲枝の母校が気になり、彼女の大学時代を探ってみることとした。前野は大学に潜入し、何とか嶋咲枝と繋がる人を探そうとした。しかし彼の入れる場所は限定されていて、嶋咲枝に繋がる手がかりは見つかりそうになかった。大学はちょうど夏休みで図書館や各部の棟に入るにはカードが必要だった。

 事務局で対応をしてくれた局員が唯一教えてくれたのは、嶋咲枝が大学時代に専攻していたゼミの教授が今も同じ大学の同じ所で仕事をしているということだけだった。その教授は20年間変わらずに同じ場所で同じような研究を続けている。

 前野はその教授に連絡を取ろうと学部の電話に連絡してみた。期待していなかったが、意外にも教授は前野の取材を快諾してくれた。嶋咲枝が講演を行った日から一週間が経っていた。

 百合崎久江(ゆりさきひさえ)教授は事務局までわざわざやってきて、前野を出迎えて自分のゼミ室に案内してくれた。彼女の年齢は53歳、ほっそりというよりやせ細った印象の女性だった。

 彼女は政経学部で現代社会学についての研究を行っていた。

「突然訪れてすみません」と、断りの一言を入れた。

「いいえ、構いませんよ」と、にこやかに返す。

「それで、わたくし、嶋咲枝さんについていろいろと調べているのですが」

「ええ、彼女は大学時代から政治に興味があったみたいで、とても熱心に学んでいました。成績も優秀で、レポートもとてもよくまとまっていました」

「ええ、その辺りはだいたいよく存じています」

 嶋咲枝の過去についてのプロフィールにはたいてい彼女が大学時代に政治について勉強していた内容が書かれている。それは彼女の大学時代を示している表の部分なのだ。

「こんな質問もどうかとは思うのですが、百合崎教授は嶋さんの大学時代について、はっきりとした覚えはおありですか?」

「そうですねえ。何人もの学生を相手にしてきましたので、彼女について思い返したのは彼女が有名になってからですが、彼女を最初にテレビか何かで見たときに、とても笑顔が素敵になったなと思いました。私が教えていた当時、彼女はまるで笑顔のない子でして、私の前だったからかもしれませんが、とても静かでおとなしかった感じがします。成績は優秀でしたが、どちらかというと目立たずに友人も少ない感じでした」

 前野ははっとした。彼女が大学時代成績優秀だったのは有名である。だから彼女はリーダーシップがあり、学生の中心にいるような大学時代を送っていたと想定していた。その人物像は社会人以後の嶋咲枝から想像できなかった。

「嶋咲枝さんは目立たない存在だったのですか?」と聞き返す。

「そうですね。彼女と接する機会が多かったのは彼女が4年生の頃でしたが、その頃の彼女は本当に物静かでした。黙々と勉強をしていて、話すにしても余計な話はしない。後で思い返したのですが、確か彼女は大学3年の時にお姉さんを亡くされていて、その事もあったのかもしれませんね」

 姉の話は前野も何かの記事で少しだけ見たことがある。彼女の家族について、父親は一流企業の役員で、母親は専業主婦、姉がいたがすでに病で他界しているという話である。ただそれだけの記事だった。確かに姉を亡くしたというのは大きな出来事である。その事が彼女の人生を大きく変えたとしても何の不思議もない。

 前野は先月、嶋咲枝の父親に取材をして以来、家族間で何かあったのではと感じるようになっていた。それが姉に関する件だったと考えればしっくり来る。前野は姉の問題に興味を持ち始めた。

「あ、それから」

「ええ、何か?」

「彼女は大学2年の後期後半、つまり1月から3月頃に長い間、姿を見せなかったことがあったそうよ。私も当時はそんなに彼女を気にしていたわけではありませんでしたし、これは後になって成績優秀のはずの嶋さんが思ったより単位の取得が少ないと感じて周りの学生に聞いて知ったのですが、そういうこともあったみたいね。でも多くの大学生は受験疲れで、遊びに走ったり、趣味に夢中したりする時期もあるから、彼女にとっても特別じゃないって思っていましたけどね」

「そうですか。人にはいろいろとあるんですね。輝いている人間がいつも輝いていたとは限らないと言ったところでしょうか」

「そうですね。嶋さんは今でこそとても輝いていますが、やはりつらい時期もあったと思います。私はそんな彼女を応援しています」

「ええ、わたしも彼女は本当に素敵な政治家だと思います」

「そうですか」

「今日は本当にありがとうございました」

 前野は新たな真実を手に入れた。そして、彼は嶋の父親に手紙を書いてみることにしてみた。

 その手紙は先日の突然の訪問をわびるところから始まり、娘を亡くした父親の想いを暗に感じて綴った内容の手紙であった。そしてその手紙にはもう一点、嶋咲枝の姉が亡くなった時にどんな事があったのかを何とか聞き出そうする内容が裏に隠れて書かれていた。

 前野はその手紙を嶋咲枝の父親に送った。

 返信があるかはわからない。それでも、少しだけ真実に近づけた気がして、前野はにやりと笑んだ。ストーリーが繋がる事に前野はライターとしての楽しみを感じていた。


 ※


 だらしない日々が続いていた。響は目的も目標も失っていた。恨みも憎しみも無く、何もかも無くなった状態の毎日となっていた。ふと自分がまさになってしまったような気がしていた。

 昨日抱いた女を思い出した。ぺちゃくちゃうるさい女だったが乳はでかく、絞まりも良かった。綺麗でかわいいだけの女よりも、抱くというだけの目的なら最適な女だった。

 毎日酒を飲んで、朝方に眠る。気が向いたら女を抱きにゆく。そんな日々を繰り返している。

『あの人もこんな日々を続けていたのだろう』

 ふと響はそんな風に感じた。単調な日々を送ることで、人はいかに楽な生活をするかという目的だけになってしまうかもしれない。そんなどうでいい物思いに耽っていたら眠ってしまった。

 誰かが部屋のドアを開けようとしている。響はそれに気づかず未だ眠りの中にいる。その人物は気配を消すのが上手なようだがいつもの響なら周りの気配に敏感で気づくはずだ。でもその時の響は男が迫っているの気づかなかった。

 ドアがガチャリと鳴って開いたときに響はやっと目を覚ました。そして慌てて身を起こした。

「君にしては少し無用心じゃないか?いや、部屋の鍵はしっかり閉まっていたよ。こいつを開けるのは手間が掛かるんだよ。よくできた鍵なんだ。十分な技量と運に近いコツが必要なんだ。技量が十分でそれがうまく掛かるべき場所に掛かって初めて開くんだよ。それを完了させるには5分、10分は掛かる。いつもの君なら俺の存在に気づいて先にドアを開けてくれる。けど君は俺がドアのピッキングに成功するまで気づかなかった。いつもの君らしくない。どうした?その無様な態度は?最近は鏡も見てないのか?見ていれば気づくものでもないかもしれない。でも君は1ヶ月前に会った時より遥かに衰えている」

 斉藤は入ってくると共に暗い部屋のソファーに横たわる響に言った。それは的を獲ていて、響は何も言えない。

「それはとても良くない。なぜなら君には今週末にぜひ実行してほしい仕事がある。この願いが何なのかはわかっているよね?君は忘れてしまったわけじゃないよね?」

 響は何も言わずこくりと頷く。斉藤は何も言わずに背広の内ポケットから1枚の紙切れを取り出し、それを響に手渡す。

「次の土曜、そこで彼女(嶋咲枝)は食事会に参加する。君もニュースで知っていると思うが、政界は今いろいろなところで変革中なんだ。彼女と何人かの議員がそこで会合を行う。部屋は四方とも囲まれていて、とても君の入り込める隙は無い。一級の料亭だからめったな客は入れない。あまりチャンスのある場所とは言えない。しかし全くチャンスがないわけではない。まず第一としてこの情報は裏の筋から手に入れたオフレコの内容だ。報道陣や雑誌記者は一人としていないだろう。第二にその店には細い路地を抜けていかなくては入れない。つまり彼女を殺れるチャンスは彼女が帰る頃、その料亭を出たところだ。小路を歩かなくては車には乗り込めない。俺の知るところでは彼女のボディーガードはその日休みとなっている。だから彼女はお忍びでタクシーか何かでやってくるだろう。チャンスはそこに十分にある」

 響は神楽坂の料亭と略図の書かれたメモをじっと見つめていた。

「どうした?何か不満か?」

「いや」

「今回はわざわざ細かく説明してやったんだ。この意味がわかるか?多少難しい条件だという点もある。でもそれだけじゃない」

 響は斉藤の引き締まった顔を眺めるしか出来なかった。

「いいか。今回はこれで3度目だ。4度目はない。君は俺の顔を見すぎているし、君のボス(嶋咲枝)もそろそろ俺の存在に気づき始めている。俺もこれ以上、君に近づくのは危険だ。俺は君が目的を達成してくれる事を何よりも願っている。君の失敗なんて俺には何の価値もない。成功してくれれば俺も万事上手く行く。俺は目的を達成できる。君には多額の報酬を用意しておくから、それを基にどこにでも行ってしまえばいい」

 斉藤は一度話を止め、天を仰ぎ、次に床を見つめて響に問う。

「でも君が失敗したらどうなる?君は俺の顔を見ている。その事をよく覚えておいてくれ。この間、俺に会ったときに君は俺に歯が立たないことを理解しているはずだ。これは脅しじゃない。そうするしかないという流れなんだ。わかるか?こんな時に腑抜けになっている暇なんてないんだ。君に同じ日々はもう来ない。来るところまで来てしまった。ここで気楽にやっていける人生は終わりだ。君がそう望んだ。俺から仕事を請けたろう?その時点で君はもう戻れない選択をしている。君だってわかっていたはずだろう?」

 暗い中で綺麗に並んだ前歯が不気味に輝いてみえた。

 響は何も答えなかった。

「一言くらい返事をしたらどうだ?イエスかノーか。ノーならこの場で君をどうにかしないとならないがな」

「いや、もちろん、イエスだ」

 響は恐れのままに即答した。

「君は自分の状態を心配しているんだろ?俺にだってわかる。君は栓が抜けてしまっている。何がそうさせているのかは知らないが、君はその栓をどうにもできない。ここしばらくは栓を閉める必要がなかったのだろう。昨夜も女を抱いて満足だったんだろ?君は俺がどこにいたのか、気づきもしなかった」

「つけていたのか?」

「つけるつもりはなかったさ。昨日は間が悪かったんだ。俺がここに来たときに君はちょうど出てゆくところだった。引き止めるのもなんだったんで、少しだけ後をつけさせてもらった。コンビニに行って帰ってくるだけならすぐにそのあとを追ってもいいと思ってね。人に敏感な君なら俺の存在に気づいてくれるはずだった。でも昨日の君は女の乳やケツばかりを追っていた。ただのそこらの欲求不満な若者にしか見えなかったよ。君は意外といろいろなところに恵まれているんだな。ぶ男ならそんなまねもできないだろう。君は顔もいいし、フェロモンも持っている。頭も悪くないし、鋭い勘をしている。それはそれでどこでも生きていける。だからチャンスはある。俺はそんな君の人生を終りにするつもりはない。勿体無いからね。今は大きな時が来ている。人生を誤っちゃいけない。俺は君の成功を望んでいる。それ以外は望んじゃいない。ただもし君が失敗したときは自分を守るための行為もしなくちゃならない。わかるかい?君のところにもう一度来たのは俺の賭けでもある。よく覚えておいてくれよ」

 斉藤の笑みは決して不気味なものではなかった。この男はこの男なりに筋を追っている。得体の知れない存在ではあるが、この男はこの男なりの目的を達成させようとしている。

『俺はどうする?』と、響は自分の心の内に自分で尋ねた。

「あの女を()らなくてはならない。その先はわからない。ただそうするしか、俺にはない」

 声に出してそう答えた。

 斉藤は声になって出てきた響のむき出しの言葉に安堵の表情を浮かべた。

「そうだ。それでいい。まだ数日ある。自分がしなくてはならない準備をしろ。そしてその先に進め。成功を祈っているよ」

 そう言うと斉藤は響に背を向けた。

「俺の伝言はそれだけだ。後は頼むよ」

 そして斉藤は響の部屋を出て行った。

 幻のような出来事だった。でも手に握るメモが起こった真実を伝えていた。もうすぐ全てを動かさなくならないときが迫っていた。


 誰かが図ったかのように、斉藤が訪れた翌日に木崎がやってきた。だから響は昨日斉藤という男に会っていたのが木崎に知られたのではないかと恐れた。でもそうではなかった。木崎はいつものように金の入った2枚の封筒と、指示の書かれた紙を持ってきただけだった。

 嶋咲枝殺害が未遂に終った後、先月に会った時のような、ぎくしゃくしていた感じはなくなっていた。

 木崎はサングラスをしていた。薄暗い地下の部屋で時間もわからなくなってしまう。外はまだ昼なのだ。

「最近、うろうろしている奴はいなくなったみたいだな」

 それは馬込警部補の話だ。

『そういえば馬込警部補はどうしたのだろう』

 響は木崎の言葉に思い出す。最後に馬込にあったのは、居酒屋「ふくちゃん」だ。響は馬込の愚痴話が面倒になって、酒をたらふく飲ませて酔わせて帰られた。その後の馬込を知らない。あの刑事はもう仕事を辞めてしまったのだろう。だからもう関わらない相手となった。響はその答えに至った。

 斉藤に関して、木崎はやはり何も気づいていないようだった。斉藤は注意深いが木崎はそれほど鋭い勘を持ってはいない。斉藤は必ず袋小路の入口からやってきて、マンションの表に姿は見せない。一見はただのサラリーマンにしか見えないし、人の中に紛れ込むのが上手い。一昨夜は響でさえ気づかなかった。斉藤は自分の存在がそろそろ気づかれ始めていると言っていたが、木崎にそれらしい態度は見られなかった。響は木崎が嘘を隠すのが下手な事も知っている。斉藤はまだ木崎には知られてはいない。

「ここだ」

 木崎は今度の行き先を示した便箋(びんせん)を響に渡した。場所は小田原。ずいぶん今回は遠い場所だ。響の行った覚えのない未知の場所ではある。

「時間は朝早い。前のりして一泊してもいいだろう。まあ、おまえの好きなようにしたらいい」

 日付はこれも図ったかのように、嶋咲枝殺害を実行する翌日の日曜日となっている。

 この仕事はまず無い、と響は思う。仕事を指示するボスを前の日に殺す見込みになっているのだから、この仕事の計画は実行されないだろう。

 それでも響はいつものように封筒の中身にある札束の枚数を確認し、それを肩掛けかばんに仕舞い込んだ。

「それだけだ」

 木崎は相変わらず言葉少なに伝え終えると、すぐに部屋の外へと出て行った。

 たったの数口しか話さなかった。響においては一言として口を開かなかった。しかしそれは気まずさから来るものではない。最初から木崎と響の間に会話などなかった。二人はいつもに戻っただけだった。

 いつもに戻ったが、彼と会うのも最後であるのも響だけは知っていた。響はソファーに横になって、頭の中で思っていた。

『この当たり前の毎日はもうすぐ終る。大きな出来事だろ?でも俺はまだその実感がない。どうにかしなくてはならなかったのに。全ての生活が変わるというのに。もう居酒屋「ふくちゃん」にも行けないだろう。未来はもう迫っている。明日には俺は旅立たなくてはならない。俺はどうする?もうここには戻れない』

 その事を今日この日まで考えなかったわけではない。でもどこかで全てが終れば今までと変わらない日々が来るという思いが抜けてはいなかった。これからしようとしている事がいかに大きい変化を生むかしっかりと理解できてはいなかった。

『俺はこの生活の中で、何をしてきたのだろう?何のためにこんな毎日を送ってきたのだろう?何もない日々だった』

 さらにそう思い虚しくて仕方なくなった。自分が何のために生きているのか、さっぱりわからなくなっていた。

「ふくちゃん」の店での笑い声や涙声、怒鳴り声が、思い出の中から聞こえてきた。もうその声は聞けなくなる。まさが亡くなってしまった時と同じような虚しさが心を締め付ける。今度は一人を失うだけじゃない。この数年間で出逢った全ての人と別れなくてはならない。

 幼少時代の響は田山家で軟禁されたように育ち、父と母しか知らなかった。田山家から出て、まさに拾われて、田山涼から上野響となり、かんさんやとっちゃんと出逢った。ふくちゃんがいて、娘の由佳がいた。さくらに出逢い、式羽や歌い人とも会うようになった。それはそれで楽しい日々だった。

 当り前の日々がとても懐かしく感じられた。もう同じ日々はやってこない。考えている中でその事実を少しずつ理解できてきていた。

 孤独に育った男が今、別れの意味を知ろうとしている。

「俺はいったいどこへ行くんだろう?俺はいったい何なんだろう?俺はいったい…」

 自分の存在が不安になった。急に誰かに自分を知ってほしくなった。誰かに伝えないと自分という存在が虚しさと悲しさに消し去られてしまう気がした。

 慌ててシャワーを浴び、髪を()かして、服を着て、家を出た。

 外は曇っていた。路地を出て、商店街を抜け、坂道方向を駆け上がり、神社の方へと向かった。神社の社務所に着くと、さくらは巫女の姿で札を授ける窓口にいた。響の心臓はバクバクしていた。それはただ単に急いで来たためかもしれないが。

 さくらは響の姿に気づき、社務所を出て近寄ってきた。

「どうしたのですか?」

 さくらは自分の巫女の姿を気にし、すぐに社務所の中へ響を招き入れた。さくらが招き入れたのは社務所内にある、テーブルとテレビくらいしかない休憩室だった。

「どうかしたのですか?」と、さくらはあらためて響に尋ねた。響は何も言わず、鋭い目でさくらの方を見つめていた。

「この間は、ごめんなさい。気にしていたのなら、もうお忘れください」

「そうじゃないんだ。ばかばかしい話をするかもしれない。でもどうしても君にしておきたい話がある。俺は君に伝えたい」

 さくらは顔を上げた。響は久々にさくらと目を合わせた。響は照れもせず、じっとさくらの顔を見つめていた。

「ええ、話してください」

「実は、俺はもう、君に会えなくなる。さくらちゃんにだけじゃなく、かんさんやふくちゃんの店で出逢った皆と、もう会えなくなる。俺はいろいろと全てを変えなくてはならないところまで来ている。それをするのが正しいとは言えないけど、そうしないといけない。そして、君に会えなくなる」

「どこかへ行ってしまうのですね」

 さくらの声には驚きを感じていないようだった。得体の知れない相手だからいずれどこかにいなくなるのを当り前と感じていたのかもしれない。その声を聞いて、響は少し安心した。

「そうだね。俺はどこかへ行くことになる。そこは何もない孤独な場所かもしれない。でも俺はそこへ行かなくとならない」

「そうですか」

「ずっといつかはそうなると思っていた。でも心からそれを理解しようとしていなかった。変わるってことがいかに大きいか、俺は知ろうとしていなかった。でも今、変わることがいかに大きいかを理解した。君と別れなくてはならない。皆とも別れる、それがとても悲しいってわかったんだ」

「それは、私も、とても寂しいです」

「俺は、とても無駄な毎日を過ごしてしまった。とてもバカだと思う。いつか時は変わってしまうのに、それに気づかず、大切な事を見過ごしてきた。どうしてこんな大切な事に今頃気づいたんだろう。君に伝えなくちゃいけない」

 響はさくらの顔をじっと見つめた。さくらもじっと響の方を見つめていた。

「俺はずっと、さくらちゃんが好きだった。今も好きだ。その顔も、その声も、その心も、とても愛らしくて大好きだ」

 さくらはその気持ちに気づいてはいたけど、はっきり言われてとても嬉しい気持ちになった。愛されることがいかに嬉しいかを理解した。そしてそれは好きだと言ってくれた相手が望ましい相手であった。さくらは嬉しくなり涙が零れてきた。それからとても素敵な笑顔を浮かべた。

「俺は、さくらちゃんに最初に会ったときから、ずっと君が気になっていた。でも俺はまささんの下でずっと悪い事ばかりをやっていたから、君とは住む世界が違う。だから伝えるべきじゃないと思っていた。でも、どうしても俺は君が好きなんだ。さくらちゃんに会えて嬉しかった。君がいたから、俺の毎日は楽しかったのかもしれない。君に会えると思ったから、俺はふくちゃんの店に行っていたのかもしれない。いつも、ずっと君の傍にいたかったから」

 響にはたくさんの想いを伝えたかった。その全てを今言わないわけにはいかなかった。恥ずかしい言葉でも、その全てを伝えないと自分の存在が何なのかわからなくなってしまいそうだった。全てを伝えてしまえば、自分の存在がさくらの心に残るような気がした。自分の存在が残る。そうなればいろいろと決心がつく。自分のハートの全てを伝えたい相手に伝えきってしまおうとしていた。

「それでも、行ってしまうのですか?もう、私にも、皆にも会えない場所へ、響さんは行ってしまうのですか?」

「ああ。それでも行かなくてはならないんだ」

「それなら、もう少し早く言ってくれればよかったのに。もう遅いです。でもとても嬉しいです。とても嬉しい。私は、響さんにそう言われたいとずっと思っていた。たとえもう会えなくても、好きだと言ってもらえて、とても嬉しいです」

「そうか。よかった。そんなふうに言ってくれるなんて、思わなかった」

「私は、ここでの日々を続けていかなくてはなりません。だからどこにも行けません。本当は他の世界にも行ってみたいけど、これが私の運命だから、私はここで暮らしていきます。響さんはとても素敵です。私はあなたに好きだと言ってもらえてとても嬉しかった。響さんはどこかもっと素敵なところへ行ってください。あなたに好きだと言ってもらえた、その事だけで私は幸せですから」

 響は少し、渋い顔をした。

「そうじゃないよ。俺は素敵な場所に行くわけじゃない。きっと警察に捕まるだろう。人を殺す事にだってなるかもしれない」

 想像もしなかった答えに、さくらは表情を変えた。

「どうして!?」

「俺は、まささんを殺した犯人を知っている。だからその(かたき)を討たなくちゃならないんだ。それだけじゃない。仇とかそんなんじゃなんくて、どうしてもしなくてはいけない」

「それは…」恋心の世界はパッと覚めていった。

「俺はその犯人を殺す。そして警察に捕まるだろう。逃げる事もできるかもしれない。でもきっと逃げられないだろう」

「駄目です。そんなのは駄目です」さくらは響に近づき、響の腕を掴んだ。「もしそうなら、響さん、あなたをどこかに行かせることなんてできません」

「俺は、どうしても、行かなくてはならない。この事は君に伝えたかった。わかってはもらえないかもしれない。ずっと人の優しさを感じて育った。君の優しさも感じる。俺は、人の優しさがとても好きだ。君はとても優しい。まささんも優しかった。その全ては壊れた。壊れたもの、壊した奴がいる。俺はその壊した奴を消さないといけない。もうどうにもならない。優しさや不幸の根源を作り出すものを消し去りたいんだ。俺にはもうそうするしかないんだ」

 さくらはじっと黙ってその話を聞いていた。でもパッと目を見開いて、響の方を見つめた。

「全てを捨ててしまえ」と言った。「おじいちゃんが言ってた。どうにもならなくなったときは全てを捨ててしまえばいいって。そして生きる事だけを考えるだって。だから響さんも全てから逃げて、そうすればきっと壊れたものも戻ってくる。何もなくても生きていけば、きっといつかはそういう場所に戻れるはずだから、人を殺すなんて駄目よ。私もそれを信じているの」

 響はこくりと頷いた。

「覚えておくよ」

 そしてさくらの頭を撫でた。それ以上、響はさくらに触れられなかった。それで十分だった。響はさくらの掴んでいた手をゆっくりと解いた。

「もう行くよ」

 二人は長い間、見つめ合った。瞳と瞳がお互いの想いを伝え合っていた。どれだけ時が過ぎたのだろう。響はゆっくりと目を閉じた。

 さくらは少しだけ不安な顔をした。響は再び目を開くと、にこりと微笑んだ。その微笑みがさくらの目に焼き付いた。素敵な笑みだった。


 ※


 地下の一室は今日も時間が分からない。しかしここはいつもの場所だ。住み慣れた家とも今日でおさらばだ。もうここに戻ることもない。明日はどこにいるのか、その答えもない。

 目的を達成するという意思だけが響の頭の中にはある。それだけしか考えられなかった。あの女(嶋咲枝)をどうやって()るか、それだけを考えなくてはならない。昨日は下見をしておくべきだったのだが、響はさくらしか思い浮かべていなかった。

 居酒屋「ふくちゃん」にも行かなかった。さくらに会っただけだった。それでも響に後悔はなかった。想いは十分に満たしていた。心には生きる力が湧いていた。後は結論に達するだけでよかった。

 時計は16時を指していた。嶋咲枝が出席する食事会は20時からだ。早ければ19時に料亭に着いているかもしれない。神楽坂までは30分あれば行ける。2時間少しの猶予はある。失敗は許されない。

 まずは目覚めの熱いシャワーを浴びた。少しだけしゃきっとした。目が覚めてくると腹が減ってきた。準備を済ますと、まずはよく利用していた喫茶店に向かった。そこでホットドッグを食べ、モカ・マタリを飲んだ。

 感情は揺れていた。どこかで逃げてしまいたい思いも浮かんでいた。『全てから逃げてしまえばいい』昨日さくらはそう言った。『いざとなったらどこか知らない場所へ行こうか』と弱腰の自分も響の内心にはあった。逃げろと言われても逃げる場所は限られていた。響にはパスポートもそれを取るための身分証明書もない。存在しないはずの男は捕まって存在を示すか、存在しないままこの世から消え去るしかないのだ。選択の全てを迫られていた。時間は刻一刻と迫っていた。

 大江戸線に乗って牛込神楽坂までやってきた。響は斉藤に渡されたメモと地下鉄の出口にあった地図で自分の居場所と目的地を確認する。渡された地図の目的地へと向かってゆく。

 まだ18時だった。時間は十二分にあった。通りを越えて、小道へと入って行く。右手にイタリアンかフレンチのお店があって、目の前に小さな公園がある。メモはその公園を抜けた階段の上を指している。確かに公園の先には階段があって、そこには四方に抜けられる小道が存在する。目的の料亭はその右手だ。

 通りへの出口は斉藤の言うとおり狭く、車の入ってこれるような道ではなかった。しかし小路は四方どの方向にも抜けられて、嶋咲枝がどこから出るかを見極め絞るのは難しそうだ。しかも道が狭いわりには通る客がちょこちょと現れてはまた去ってゆく。一人でこの場にぼけっと立っていては目立ちすぎる。拳銃を構えるような真似をすればすぐに見られてしまう。斉藤の言うような簡単な仕事じゃない。

 まだ嶋咲枝が現れる時間には早すぎる。響は仕切り直そうと一度小路を抜けて、神楽坂より下方の飯田橋方面へ向かった。そして近場の喫茶店で時間を潰すこととした。

 先ほどの場所をもう一度思い浮かべる。小路を右手に抜けていった。先には小さなパーキングがあり、嶋咲枝が食事会を終えて抜けてゆくのはそっちだと推測してもいい。しかし場合によっては左手の中心地に抜ける可能性もあるし、公園のあった方に抜ける可能性もある。じっと身を潜めるのなら公園の辺りの方が無難だが、そこから料亭内は全く目が届かないのでいつ終わるかも予測できない。パーキング側は身を潜める場所もなかった。チャンスはほとんど皆無に等しい。それが響の到った結論だ。

『六本木のホテルが最後のチャンスだった。腕の隙間を抜けていった弾丸が最後のチャンスだった。あの弾丸が当たらなかったことで、すでに俺は負けていた。だからあの女は俺を使い続けた。もうチャンスがないことを分かっていたんだ』

 響は自分がすでにチャンスを失っていると確信した。少なくとも斉藤の計画はいつもチャンスのあるような場面ではなかった。最初の五十嵐邸でも絶対のチャンスとは言いにくかった。もし本当に殺るのなら、この1ヶ月の間に響は自分で動かなかったければいけなかったのだ。しかしその時間ももう無い。斉藤に与えられた期限は今日しかなかった。

 すでに終っていると響は感じ取った。もはや料亭の傍に行く意味がないことを確信していた。そこにいるのは嶋咲枝でなく、むしろ響を消そうとする斉藤が待っているだろう。その場面を想像した。今はまだ斉藤はいない。響はそうと予感している。今日は少なくとも数日前よりは勘が冴えている。

『行き先は?』

 一つだけ選べるルートが思いついていた。それはどこからか生まれていた一つの流れだった。その流れを無視するわけにはいかない。

 20時、可能性の光を追って、響は土曜の夜を遊び疲れた若者で込み合う中央線の電車で新宿方面に向かっていた。全ての流れはその先にある。


 ※


 日曜日の夕方16時、木崎はいつものマンションの地下への入口で響を待っていた。朝も早かったからもうとっくに着いてもおかしくない時間ではあったが、上野響の姿はまだなかった。部屋の中にもいないようだ。だから木崎はしばらくそこで響が来るのを待っていた。

「いつまで待っても、彼は帰ってこないよ」

 その声に目を瞑って待っていた木崎は目を開いた。夕暮れの側に黒い服を来て、黒い帽子に黒いサングラス、白いマスクをした男は立っていた。

「嶋咲枝のSPだね」と、男は木崎に尋ねた。

「あんたは誰だ?」

 その男は斉藤である。しかし斉藤は自分の名を名乗らずにこう答える。

「僕?僕が誰か?そんな事はどうでもいい事だ。それより僕はあなたに重要な事を伝えなくてはならない」

「いいから、名前を言え。それからだ」

 木崎は立ち上がり、自分の図体のでかさで斉藤に圧力を掛ける。しかし斉藤は動じない。

「名前なんてどうでもいい。そんなものは何の価値も無い。それは僕を呼ぶのに必要かもしれない。でも僕はここであなたに会って以降、あなたに会うことはない。だから名前なんて聞くだけ無意味さ。あなたが知りたいのはむしろ僕がどこからやってきた、どういう人間かという事だけでしょう。答えてもいいが、それよりまず、重要な事を伝えなくちゃならない」

「わかった。何が言いたいんだ」

 木崎は諦めて、とりあえず斉藤の話を聞くことにした。

「あなたの待っている男はここには来ない。それからあなたの待っている()()もここに届く事はない。あなたが必要としている物が今どこにあるか、それは僕にもわからないが」

 木崎は少しその言葉の意味を考えてから、尻ポケットに仕舞ってあったモバイルを取り出して開いた。起動させて何やらのGPS機能の付いた地図を見て唖然とする。

「さあ、あなたがそういうのを持っているとは思ったんだ。どうだ?僕の思い通り、その機能の示す位置はこの辺りではないだろう?どこなんだ?今も変わらず最初の位置か?それともどこか別の場所へ動いているのか?僕はそれが知りたいんだ」

「きさま、何者だ!奴をどうした!?」

「おっと。僕も被害者なんでね。僕もこうなるのを望んじゃいなかった。だいたいあなたはあなたのボスがわざわざそういう機能を付けてやっているのに、それを頼りにせず、彼がここに来ると信じきっていた。それは愚かだろう?あなたは彼がここに来ると信じすぎていた。というより、あなたの脳の思考は別の可能性なんて考えもしなかったんだろう?世の中にはありとあらゆる不具合が起きるんだ。その事を注意深く意識しなくちゃいけないのに、あなたはそれができなかった。責めるのは僕じゃない。自分自身だろ?」

「うるさい!とやかく言うな!!きさま、奴をどうした!!」

「それが僕にもわからない。言えるのは彼には別の抜け道があった。彼は少なくとも、あなたが思うよりずっと器用な奴だ。それは僕が思うよりもだった。彼の能力ではないかもしれない。いずれにしても彼には別の方向性が存在していた。彼はその方向へと動いている。それがどこなのか。僕もそれが知りたいところだ」

 木崎はモバイルの地図を見た。GPS機能は伊豆の方へと向かっていた。斉藤はそれを覗き見て感じた。第3の何者かが確かに存在すると。第1を木崎と嶋咲枝とするのなら、第2が自分、そのどちらにも関わらないものが第3の集団だ。


 その3時間前、響は小田原漁港を訪れていた。潮風は秋を思わせる静けさに溢れていた。魚市場はすっかり静まり返っていた。辺りには海釣りを楽しむ釣り人がいるだけだ。それでも結構な数の釣り人がいた。ぶつの渡し役の男は早川の河口で響を待っていた。男はまだ20代の釣り人だった。

「いや、釣りはしてないんですよ」と、男は言った。「でもこんなところででっかいトランク持ってボーっとしてたら怪しまれるでしょ?だからクーラーバック替わりのトランクってところで、釣りをしているふりをしてたんですよ。まあ、この辺りじゃ波が荒すぎて魚はいませんがね」

 響は封筒を見せ、それを男に渡した。

「ああ、これっぽっちですか」

「俺が決めているわけじゃない」

「まあ、そりゃそうだ。やばい仕事で報酬がいいって聞いたんで、いくらもらえるかと思ったけど、これじゃあ車の一台も買えませんね。原付程度だ。原付」

「まあ、この程度の仕事だ。君がそれを持って、待っていて、俺に渡す。ただそれだけの仕事で、それだけの金が入る。十分だろ?」

「そうか。そういや、そうですね」

 響は釣り人が納得したところでトランクを頂き、その場を離れた。男はそこから離れず煙草に火を付けて吸い出すと、また魚のいない波打ち際に棹を投げた。

 それから響は早川の駅前まで戻り、そこにある公衆電話からある男の携帯へ連絡した。男がすぐに出るかは疑問だったが男はすぐに出た。

「もしもし?」

「もしもし、上野響です。といえばわかりますか?」

「響君?ああ、よかった。そうですか。電話してきてくれたか」

「歌い人、いや柏木さんですね」

「ええ、今、どこにいるの?」

「小田原の早川って駅にいる。あなたの嫌いなものを抱えている。このまま逃亡しようと思っているが、どうやってどこへ行けばいいかわからない」 

「小田原?いい所にいるね。それなら急いで向うよ。今、東京だから、2時間以内には車でそこに付くようにするんで」

 そして2時間が過ぎた。

 響は一度小田原に戻り、喫茶店で時間を潰した。それから再び早川に戻り、早川のインターで柏木を待った。スターレットが小田原厚木道路を下ってやってきた。

 柏木はにこやかに微笑んでいた。後ろには若手旋斗も乗っていた。

「さあ行きましょう!」と柏木は言った。

「どこへ?」と響は尋ねた。

「いいから。大丈夫。ちょうど通り道なんで。我らの館には」

 柏木はそう言ってにっこり微笑んだ。響は何も言わずに頷くしかできなかった。そしてトランクを車のバックドアから入れて、自分は助手席に乗り込んだ。

 車は間を置かずに走り出した。響は後ろを振り向くと、若手はにやりと笑った。

「こうなる日を待ち望んでいたよ。思ったよりスムーズに進んでいる。運気は向いてきたみたいだ」

 そしてそう言った。

 響には何の事かさっぱりわからなかった。しかし行き先の思い付かずこの男の考えに便乗するしかなかった。どうすることもできない。選べる権利は何もないのだ。


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