5.停滞
上野響は恨んでいる女、嶋咲枝の殺害を目標としている。しかしその目標はなかなか果たせない。同じような目標を持つ若手旋斗との出会いもあったが、響はまだその男と手を組む気にはなれていない。若手旋斗は麻薬への恨みを持っている。麻薬の運び屋である響とは本来敵対関係にあるからだ。
一方、馬込警部補は日暮里スーパー爆破事件の真犯人を追っている。そこには響の育ての親である、まさや田山夫妻との関連がある。しかしスーパー爆破事件の真実を知る者はいない。その事件に関わった人物はほとんど死んでしまったからだ。
響は迷い出していた。いろいろ迷いが多く、何に迷っているのかさえわからなくなっていた。
嶋咲枝を殺害する目標だけが今日も忘れられない。それでもどこへ向かえばいいか方向を見失っていた。嶋咲枝の部下である木崎に、彼女にもう一度会わせてほしいと頼むのはもはや不可能だ。響には、今は嶋咲枝がどこで何をしているを知るすべもない。
いろいろ考えていると方向が一つだけあった。前野正というフリーライターだ。嶋咲枝を追い続けているあの男なら彼女の居場所を知っているにちがいない。前野は嶋を好むフリーライターだ。それゆえ響が嶋咲枝の殺害を考えていると前野正に知られてしまったら、彼はすぐに響への好意を損ねるだろう。
チャンスは何度もあるわけじゃない。前野というカードを使えるのも、ただ一度だけになりそうだ。
さてどう動くか。まだその方法までは見出せない。答えに至らないまま、毎日は過ぎていく。ずっとぼけっとして家の中で無駄な時間を送る。
ある日の夜だった。響が住む地下の部屋の玄関口に人の気配がした。部屋の玄関までは地下へ下りる入口の鍵を開けないと入ってこれない。響以外で鍵を持っているのは、マンションの管理人と木崎だけだ。唯一それを構わずに入ってきた男が一人いる。響に殺しの依頼をしてきた斉藤だ。
響は玄関口まで行って中から構わずドアを開けた。そこにはやはり斉藤が立っていた。木崎に拳銃を奪われて以来、拳銃を与えてくれた斉藤に会うのは気の引けることだった。だからずっと連絡もせずにいた。
爽やかなサラリーマン風が常だった斉藤だが、その日は少し違い、極めてどんよりしている。
「どうかしたか?」と尋ねようとした響だが、先に尋ねたのは斉藤の方だった。
響はむしろ『おまえこそどうかしたのか?』と言いたかったがその言葉を飲んでただ玄関のドアノブを押さえて立っていた。
次の瞬間、響は後ろに倒れていた。そして斉藤が響の上に乗っかりマウントポジションを取っていた。
「おい、きさま、何やってんだ!ああ、もう1カ月も経つじゃねえか!その間連絡もなく、何もしてねえのか!!」
玄関の扉が自然と閉まると同時に、斉藤は響にそう罵倒を浴びせた。いつもはただのサラリーマン風の男がその日は借金の取立て人のように恐ろしい顔を浮かべていた。
響はあまりの豹変振りに、呆気に取られるしかなかった。
「おい!!なんじゃ!何か答えろや!」
胸倉を掴んで体を揺すられ、息が詰まる。それから呼吸を落ち着かせて口を開いた。
「やろうとはした。まだ途中なんだ。準備が整っていない」
斉藤は般若のような表情で響の顔をなめるように見つめていた。
それから表情を変えて斉藤はにやりと笑った。響は少しほっとした。
しかし次の瞬間、響の顔面は鈍い痺れを感じていた。斉藤が響の顔面を殴りつけたのだ。瞬時に響は腕で防御体勢を作った。それでも斉藤の拳は容赦なく飛んできた。顔面を防御すればボディーに、ボディーを防御すれば顔面に、フック、ストレートと斉藤の腕は伸びてきた。的確なそのパンチを響は防ぎれずにぼこぼこにされていた。響は恐れというよりどうしようもない諦めを感じていた。反撃をする気にもならなかった。
「いいか!よく聞け!貴様のやるべきことは生ぬるい考えでできるもんじゃない。貴様はとんでもなく大きな事をしようとしているんだ。のんびりやってる暇なんてない。貴様の考えなどどうでもいい!用はやるかやらないかだ!正直に言え!やる気はあるのか!?」
「やる気はある」
震える声でそう答えた。声は自然と震えていた。「ただ…」
「何だ。他に何か言いたいか?」
「銃をなくした」
響はもはや隠し事もできなくなり、素直に答えていた。もはやこれ以上にぼこぼこにされようとどうでもよくなっていた。嘘をつく気力も無くなっていた。
しかし予想に反して斉藤の手は飛んではこなかった。斉藤は背広の胸を開いて、内ポケットから小さな拳銃を取り出した。そしてそれを床の上に置いた。
「いいか。これが最後のチャンスだ。まあ、おまえに頼りっぱなしの俺にも問題があった。俺はおまえが仕事を済ませてくれればいい」
斉藤はそう言って、響から身を離した。
「悪かったな。もう一度だけ、あの女を殺る機会を作ろう。その時に連絡する」
斉藤はポケットからハンカチを出して額の汗をぬぐった。そしてそのまま閉ざされた玄関のドアを開き、その外へと出て行った。
響の体はボロボロで痛みをあちらこちらで感じていた。起き上がると自然とむせ、咳き込み、血を吐いた。玄関のドアに鍵をして、ふらふらの足で洗面所に向かった。そこで何度も血の唾を吐き水を飲んだ。顔を上げると酷く腫れた顔の自分が映っていた。
『酷いな。しばらく誰にも会えそうにない』
心の内でそう呟いた。何もしなくても、動き出した列車はレールに従い進んでいく。自ら選択せずとも答えは一つしかない。嶋咲枝殺害に向かうことのみしか、響の進むレールは残されていなかった。
※
鏡には情けない顔をした男が映っていた。自分だ。自分の顔に向かって笑みを投げかけてみる。二日前よりはましだ。腫れは引いている。でもまだ顔のあちらこちらが青かったり赤かったりしている。
誰もここにはやってこないから問題はない。だけどそれがむしろ不安でたまらない。もう誰もここにやってこないまま、この世の中から自分の存在は忘れ去れてしまうような気分だ。
だから鍔付き帽子を深々とかぶって家を出た。
どこへ行く当てもなくふらふらと歩いていたら水道橋のベンチにやってきていた。夕方前の時間、夏休みで東京ドームに向かう家族連れが多く見受けられる。仕事帰りの背広の男たちもあちこちに見受けられる。人に溢れた場所だった。
響は橘玲香に会いたかった。酷い顔をしていたから、誰にも会いたくなかったが橘玲香だけになら会っても構わない気がしていた。『きっと後腐れもなく別れられる仲だから』と、響は頭の中で呟いた。
しかし会えるかどうかはわからなかった。一度目は偶然、二度目は、橘玲香が『会いたかったから会えたんだ』と言っていた。実際は二度目も偶然だったのかもしれない。三度目の偶然が起きることはないだろう。
水道橋の駅のホームを電車が何本も過ぎ去ってゆく。乗っては降り、降りては乗っていく乗客の流れを見て過ごす。誰も駅のベンチに座る男の姿など気にも留めない。たまに疲れたサラリーマンが響の横に座り、ちらっと響の方を見るが電車が来ればすぐに立ち上がり次の目的地に向かっていく。
どれだけ時が過ぎたろう。1時間、2時間。あきらめてその場を立ち去り、反対ホームに回った。帰りの電車はやってきたが、心残りがまだありベンチに腰を下ろそうとした。ふとそのベンチに落書きがされているのに気付いた。お決まりの卑猥ないたずらマークと謎の電話番号が書かれていた。古いものではなさそうだ。こんなとこに書かれたら駅員がすぐに消しに来るだろう。その番号を頭に覚えはない。でも響は思い切って公衆電話から電話をしてみた。
「はい、YMSK出張サービスセンターです」と、女が出た。
「玲香か?」と、響は尋ねた。
「レイカさん?レイカさんは土日のみの登録となっています。他の出張レディーでよろしければ」
どこかの店のようだ。レイカというのはそこに登録している女の名前だろう。普通に考えて、その女が橘玲香と一致することはないのだが、響はなんとなくひっかかりこんな回答をコールガールにしてみた。
「玲香に今、連絡してほしい。水道橋の駅で一時間ほど待っていると」
「えええと、連絡は取ってみますが、ダメだった場合は、いかがなさいますか?別の相手を送りますか」
「その必要はない」
響はそうとだけ言うと電話を切った。
橘玲香がやってきたのは、ちょうどきっかり一時間が経った頃だった。彼女は深々と帽子をかぶる背の高い男がベンチに座っている見つけるなり側へ寄ってきた。
彼女は響の帽子を取って顔を見た。
「酷い顔ね。間違った方向へ進んでしまったのね」
「そんな事はどうでもいい。今日はいなかったな」
「わたしだっていつも暇なわけじゃない。それにあなたにはだいぶ会ってないから、しばらくあなたの事を忘れていたの。でもあなたはいつかわたしに会いに来る。そう思ったからそうしておいたの」
「いいのか?そんなわけのわかんないところに入って」
「変な心配してくれるのね。大丈夫よ。つまらない男とはある程度までしかしないから」
「そうか」
「それより、酷い目に遭ったのね。それでわたしに会いたくなったんでしょ?」
「別に会いたくなったとか、そんなんじゃない。ただ他に会う相手がいなかった」
「誰でもよかったの?」
「そうではない」
「じゃあ、わたしに、会いに来たってことね」
「そうじゃない、そんなんじゃなくて、たた‥‥」
「まあ、いいわ。行きましょ?」
二人はホテルへ向かった。その日は1階にレストランがある少し高級なホテルだった。
部屋に入る前にレストランでディナーを取った。玲香は響の顔がどうしても気になるようだ。響の顔をじろじろ見つめる。響が玲香に会うのは嶋咲枝に銃を向ける一件よりも前だ。橘玲香は響に関して何も知らないが、とても不思議な、人の内面を読み取る力を持っている。玲香は響から何かを読み取ろうとしているように見つめている。
「手を出してはいけないところに手を出したのね」
玲香はそう勘繰る。
「そうかもしれないけれど、それ(嶋咲枝殺害)は俺の問題だ。俺にしか出来ない」
「思い込みすぎよ。あなたでなくても、誰かが結論の出る方向へ進めてくれる。あなたが関わる必要はないんじゃない?解決しない出来事はない。無視していればいい。全ての人が忘れてしまえば、それはそれで解決よ。わたしはそう思うけれど」
「俺の気持ち(嶋咲枝に対する恨み)はどこへ向かう?」
「それなら、わたしにおいで。わたしがいただくわ。いくらでも、どんなに大きなものでも、わたしが吸い取ってあげるわ。答えに急ぐことはないよ。もしピンチならその時はその時になってから考えればいい。あなたは今を急ごうとしすぎるのよ」
「俺は進みたいんだ(嶋咲枝を殺したい)。答えの出る方へ」
「そうだとしたら、あなたは向かう方向を間違っているわ。あなたはあなたが思う一番大切な人にあなたを伝えるべきよ。それが本当のあなたがしたいこと?あなたが向かう方向なの?」
「大切な人なんて。俺にはいない」
「しょうがないなあ。だとしたら、まずはわたしがあなたの気持ちを吸い取ってあげるわ」
二人は夕食を済ませるとホテルの一室に向かった。そして激しく抱き合った。
「素敵よ。それでいいの。だから間違った方向に向かわないで」
玲香は何も知らない。響の暗に込められた言葉の真実を知りはしない。でも玲香は響が向かおうとしている方向が正しくないと感じ取っていた。響の体から溢れ出す怒りの感情を愛するという想いに変えてしまいたかった。弟を思う姉のように玲香は響を愛した。
不思議な感情だった。惹かれるものがお互いにはあるが、恋人や結婚相手になる相手ではない。ただ愛しいというエネルギーが働いて二人を結びつけあった。玲香は響に他の男にはない特別な魅力を感じていた。愛おしさを感じさせる強いエネルギー、玲香はその愛おしさが欲しくて、ただ欲しいだけで響に会っていたのかもしれない。
※
玲香と会った翌日の昼間、響はかんさんの神社にいた。昨日までの暑さが嘘のように涼しい。神社は静寂に包まれていた。蝉の声も聞こえなかった。
どこからかやってきた観光客がちらほら見受けられた。年齢は若干高め、若者が少ないのも静けさを感じる要因かもしれない。響は本殿を通り過ぎ、裏にある社務所に向かった。
入口では2人の巫女さんがお札やお守りを売っていた。響は年上の方の巫女に尋ねた。
「美坂さくらはいますか?」
年上の巫女は顔を上げて、響の顔を覗き込んだ。
「少々お待ちください」
そう言うと、彼女は裏の方へと行ってしまった。数分待った後に、美坂さくらは社務所の入口より外に出てきた。彼女は巫女の姿でなく、グレーのスカートタイプのスーツを着ていた。
「響さん、どうされたんですか?」
「いや、ちょっと」
「珍しいですね。こんな時間に」
響は深々と被っている帽子を鍔を下げて頷いた。さくらは近づいてきて、深々と被る帽子の内側を覗き込んだ。
「どうされたんですか?その顔」
「いや、ちょっと」
「家へいらしてください。手当てしますから」
さくらはお札を売る巫女に挨拶をする。
「ちょっと外すわね。上をよろしく」
「ええ、構いませんよ。どうぞ」と、年上の巫女は嬉しそうな顔をして答えた。
二人は本殿の前を過ぎて、境内の階段を下っていった。そして美坂さくらとかんさんの家に着いた。
さくらはそのまま玄関の扉を開けようとしたが閉まっていたので鍵を外した。
「おじいちゃあん」とさくらはかんさんを呼ぶ。が、かんさんの声はしない。「どこかいったのかなあ。どうぞ、あがってください」
家に上がり、入って廊下の最初の左手にある居間に通される。ちゃぶ台やテレビの置かれた和室だ。新聞が開いたまま置かれている。スポーツ面で野球に関する事が載った記事だ。
響は新聞の置かれた反対側へと周り、そこにある座布団に座った。さくらはサイドボードで何かを探している。障子はあるが窓のない部屋なので、部屋は仄かな明かりしかない。今日は曇っているせいもあるのか、なんとなく暗い。
さくらは救急箱からいくつかの薬を取り出してきた。そして響の前に座った。
「喧嘩でもしたんですか?」
彼女は薬の口を開けながら、響にそう尋ねた。
響は答えなかった。
さくらは響の深々と被った帽子を取って、長い前髪を上げて顔を覗き込んだ。とても近くにさくらの顔があった。少し化粧をしていた。眉の辺りの化粧が少しザツだった。さくらの長い髪がぱさりと前に落ちてきた。黒く艶のある綺麗な髪だった。いい匂いが響の鼻孔をくすぐった。さくらはそんな気持ちも気にはせず、響の顔に綿棒で薬を付けた。
「沁みますか?」
「少しだけ」
さくらはにこりと微笑んだ。「これで大丈夫かな?」と言って綿棒を離し、姿勢をまっすぐして正座し直した。
本当は響には言いたい事があった。『あなたはあなたが思う一番大切な人にあなたを伝えるのよ』と、昨日玲香が響に伝えたその言葉が頭の中に残っていた。響には目の前にいる女性がその一番大切な人に当たるのかはわからなかった。それでも響には他に思い当たる相手がいなかった。
「どうしんたですか?何か、用があったんですよね」
「うん、まあ」
響はそう言って、自分の座る座布団を後ろに少しずらした。さくらとの距離感があまりに近すぎて、頭がぽんわりとしてきてしまったためだ。
「さくらちゃんは、、、、」言葉が出てこない。
「何ですか?」と笑顔で。
「まささんが亡くなって、一年が経つ」話の方向性を替えて、話し出す。「あの人にはいろいろと世話になった。かんさんともまささんがいたから仲良くなったわけで、さくらちゃんともそれで会えた」
「そうですね。わたしはまささんて少し恐い感じの人だからあまり話せなかったけどね」
「俺もあの人の事はよくわかってはいなかった。ただ、いい人だった。周りの人が言うほど恐い人じゃない。あの人は優しい人だった」
「そうかもしれませんね。でもおじいちゃんは、まささんは危険な人だと言ってた。あの人にはあまり近づかない方がいいってね。ごめんなさい。そう言われたの」
「俺にはわからない。それはそれで構わない。でも俺にはまささんが必要だった」
話はそこで止まった。しんとした静けさが辺りを包んでいた。さくらには響が何を言おうとしているのか皆目見当が付かなかった。それは響自身も何を伝えればいいのか全く分かっていなかったからかもしれない。少なくとも嶋咲枝や麻薬の秘密を一言として話すことは出来そうになかった。その秘密を伝えれば全てが壊れてしまうと響は心の内で恐れていた。
自分は自分を伝えることができない。話はつっかえ止ってしまった。恨みだの仇だの口に出来ない。
「何か、飲みますか?」
さくらは間が持たなくなって尋ねて、響は素直に頷いた。さくらは立ち上がり、台所へと行った。響は今のうちに頭の中を整理しなくてはならなかった。
何を伝えればいいか、何を伝えるべきか。
数分後、氷の入れた麦茶をお盆に乗せて、さくらが戻ってきた。彼女はさっきと場所を移し、テレビの前の座布団に腰を下ろした。響の斜め前だ。
「どうぞ」と言って、さくらは響に麦茶の入ったコップを渡した。響はグビッと飲んだ。思ったより喉が渇いていた。だからほとんど中身が空になるくらい一気に飲んでしまった。
「俺の本当の両親は亡くなってしまった。ある事故で死んでしまったんだ」
急な告白に、さくらは何も答えられなかった。
「それでたまたま、まささんに出会った。俺は家出をしてきたわけでもない。帰る場所がなくなった。今じゃ、まささんも亡くなって、本当に帰る場所がなくなった」
さくらにはじっと黙って響の話を聞いていた。何か次の言葉を待っている。次に来るだろう大切な言葉を待ち望んでいた。
「それで、これからどうしようかと思っている」
ただ、そうとだけぼやいて、響の言葉は止まった。
「どうするんですか?」
その次の言葉はすでに決まっているのではないか。さくらは次の言葉を促す。あなたには言いたいことがあったはずだと。
「わからない」と、響は答えた。
「わからない、ですか。響さんはわたしに何か大切な伝えたい事があるのかと思いました。でも、ただはっきりしないだけなんですね」
その言葉はとげとげしく、さくらは真剣な眼差しで響を見つめていた。
「わからない。ただ、何かを話そうとして、さくらちゃんにそんな話を」
それでも響はシャキッとしない。いまだに戸惑って女々しい態度をしている。
「わたしは忙しいんです。そういう用なら、また今度にしてください」
さくらの声は強まった。響は思わぬ反応に言葉を失った。なんて答えていいか、わからなかった。全てがわからないままだった。同情してほしかったわけではない。だけどそんなふうに冷たい態度を取られるとは想像もしていなかった。
これ以上何を言っても仕方ない気がした。気がついたら自分が行き場のない人間だという話をしていた。それでどうするかなんて何も決まってはいなかった。
「ごめんなさい。忙しいんです」
さくらは自分が嫌な言い方をしたと感じて、今度は弱く優しい声で言った。
そして立ち上がり、お盆の上に麦茶を戻し、台所へと行ってしまった。さくらは自分でも響を突き返そうとしたいわけではなかった。でも本当はもっと期待をしていた。もっと自分の人生の全てを変えてしまうような期待を、響に望んでいた。そんな期待を抱いたのが自分でもバカらしかったけど、とても期待していた。そしてとても落胆した。『わからない』なんて言ってほしくなかった。望むならどんな形でもいいからもっと誘ってほしかった。そんな期待を抱いた自分も、期待ばかりしているだけで何もできない自分も情けない気がした。
台所の流し台でぼうっとしていると、響が居間から出てきた。彼は台所をちらっと覗き、「行くね」とさくらに伝えた。「ええ、どうぞ」と、さくらは答えた。さくらはまたそんな態度を取ってしまった自分に後悔したが、どうしてもそんな態度しか取れなかった。
さくらの家を出て、響は自分が何をしているのか、より一層わからなくなっていった。頭が混乱していた。
帰り道では考えるのを止めた。『どこかに少しだけ、幸せを望んでいた自分がいたのだろう。だけどそれを考えれば混乱する』だからただ流されようと決めた。嶋咲枝、木崎、斉藤(殺しの依頼人)、若手旋斗(謎の組織のボス)、そういった意志を持った存在にいいように扱われた方が楽な気がしてきた。心が痛かったから、幸せな方へと進むのを止めるしかない。
いつものマンションの中を抜け、いつもの裏路地から地下への扉を開き、階段を降りてゆく。暗い地下のドアを開き、中へ入って電器を付ければいつもの場所に戻る。
『どうなるかなんて知らないさ。ここが自分の場所なんだ』と、響は自分の心に言い聞かせた。
※
前野正は嶋咲枝の居場所を突き止めようと追いかけ回す行動を止めていた。それは彼が嶋咲枝に関する記事を書くのを止めたというわけではない。彼は嶋の過去に調査の重きを置くようになっていた。今の嶋咲枝ではなく過去を探る。その方に興味を持ち出したのだ。
手始めに、嶋咲枝が以前務めていた会社を訪れた。会社の入口で社員の出待ちをし、出てくる社員に嶋咲枝の事を聞き回った。しかしほとんど誰も相手にしてくれなかった。それでも続ける中で、少し歳のいった一人のOLが前野の問いかけに答えてくれた。
「嶋さん?ええ、もちろん知ってますよ。彼女が勤めているとき、わたしも見かけたことくらいはあるわ。全然部署は違ったけど、嶋さんはうちの部署にもやってきたから覚えている。うちの部長も彼女が来るとたじたじで、言い負けしてましたから。彼女の傍には確か、山下さんという女性がよく一緒にいたわ。彼女なら詳しいかもしれないけど、ずいぶん見ないから辞めちゃったのかな?」
それで前野は今度、山下という女性を探した。これにもだいぶ時間が掛かった。なぜなら山下は結婚して吉原という姓に変わっていたからだ。彼女は会社を辞めて専業主婦をしていた。唯一運が良かったことは社内結婚だったことだ。今は別の事業所に移ってしまっていたが当時一緒に働いていた男性と結婚していた。夫の吉原に問い合わせ、さらに旧姓山下である妻に繋がることができた。
旧姓山下こと吉原実紀子さんは前野の取材を快く承諾して、家にも招いてくれた。吉原実紀子は荻窪にある立派なマンションの9階で暮らしていた。
「こんにちは」
「いらっしゃい。どうぞ」
「あ、おじゃましてもいいですか」
「ええ、もちろん」
「では、失礼して、お邪魔します」
吉原実紀子は前野正を玄関口で迎え入れると、コーヒーを出し、前野をダイニングの椅子に座らせた。
「すみません。今日は」
「いいんですよ。取材なんて初めてで、楽しみにしてましたから」
「そうは言いましても、まだろくに記事を載せたことのないフリーライターですから」
「よくはわかりませんが、子供も幼稚園に行き出し、夫は忙しいので、最近昼間は退屈で。そんなわたしに用があるだけでも、嬉しいかぎりです」
「いえいえ、ほんと、わたしなんかですみません。それで、知っている限りでかまいませんので、嶋咲枝さんについてお話いただければ」
「そうですね。彼女とは会社ではよく一緒でしたが、ほとんど仕事の話しかしませんでした。わたしは彼女が誰と何を話したかをしっかり記憶しておけばよかっただけなんです。言った言わないの証人みたいなもので。嶋さんは仕事熱心で、信念も強く、こうと決めた事は曲げない人でしたから、よく上司の許可もなく、別の部署にいろいろなプレゼンをしてました。内容がいつもしっかりしていて筋が通っていたので、やり方に反発する人もいましたけど、ほとんど通してしまって。とにかくすごかったです。わたしは特にあれこれ言うタイプではなかったので、彼女にはわたしがちょうどよかったのかもしれません」
「そうですか。それが今の彼女の政治家としての活躍に繋がっているのですね」
「そうかもしれませんね。たまに彼女をテレビで見かけますが、彼女は一緒に仕事をしていた頃とほとんど変わっていません。というか若すぎますよね。10年前と彼女は何も変わってない感じがしますから」
「私生活について、何かご存知ではありませんか?」
「そうですね。嶋さんと私生活で会うことはありませんでした。まあ、ほとんどの人と会社の付き合いはその程度でしたが、彼女の場合、特に私生活は見えませんでしたね。家に帰ってからの話とか、恋愛話とか、過去の話とか、嶋さんと話した記憶がないんです。彼女は本当に仕事の話しかしませんでした。普通、忘年会とかでは私生活の話も出ますが、彼女の口からは何も出てこなかった気がします。そういう話になると彼女は徹底的に聞き役に回るんです。だから逆に彼女には、変な噂が絶えませんでした。こんな事をいうとあれですけど、今と変わらず、彼女にはいろいろな男沙汰が付いて回ってました。どこどこのだれだれと不倫してるとかね」
「今と変わらないですね。その、他に何か、彼女が執着していた事とかなかったですか?」
「執着?んんんん、全然、思いつきませんねえ、ごめんなさい」
「そうですか。ありがとうございました」
話はそのくらいで終わった。前野が知りたかった重要な部分は、吉原からは出てきそうにはなかった。前野は嶋咲枝のオーラの基が知りたかった。彼女の話では『あの頃からオーラがあった』と言う。だから前野は吉原への取材を止めた。それ以上は無意味だと感じたからだ。
前野は数日後、思い切って、嶋咲枝の実家を訪れた。世田谷にある閑静な住宅街に、嶋咲枝の実家はあった。今も嶋咲枝の両親が暮らしている。
『ピンポーン』と外玄関のチャイムを鳴らした。
「はい」
運がよく、一人の男がすぐに出た。
「あ、すみません、わたくし、前野正という記者です。今日は嶋咲枝様のお父様にほんの少しでいいので、お話を窺えればと思いまして、お伺いさせていただきました」
前野はレコーダーをインターホンに当てて、音を録る。
「わたしが咲枝の父親だが、特に話す事はありませんが」
「すみません。彼女が政治家として活躍している事について一言」
「特に言える事はないね」
「そこを何とか」
「わたしはね、あの子には普通の女性になってほしかった。普通に結婚して、子供生んで、そういう子であってくれればよかったんでね」
「と、いいますと、彼女が政治家になったことには反対で」
「余計な事はいいたくないが、そう受け取ってくれてもかまいませんよ」
「彼女について、他に何か…」
「すみませんが、これくらいにしておいてくれませんか。あの子とはあまり話もしてませんし、言える事はそのくらいですよ」
「あの」
しかし、すでに応答はなかった。
前野は嶋咲枝のオーラについて、少しだけ何かが分りかけた気がした。その根源は彼女の家族にあるのでは?と、前野は疑った。
取材はまだまだ続く。この先も前野は嶋咲枝の家族を追ってみることにした。
※
「馬込くん、ちょっといいかな?」
人の良さそうな班長の市谷は馬込の座る席の側まで来て、馬込の肩をポンと叩き、声を掛けてきた。
馬込警部補は日暮里スーパー爆破事件の手がかりを何も掴めないまま、テンションの落ちる毎日を送っていた。
ここは馬込の職場、警視庁生活安全課未然処理特殊捜査班の事務所である。事務所は半蔵門付近にあるビルの二階にある。見た目はどこかの人材派遣センターみたいなつくりをしていて、とても警察関係の職場には見えない。
ここの仕事はお悩み相談所のようになっている。悩みある若者の話を聞き、大きな事件に進展させないというのが、この部署の目的だ。なので表目は警察に関係のない法人のような看板を立てている。しかし実際の管轄は警視庁となっている。
メンバーは全員で9名いて、班長の市谷初を中心に『犯罪に発展しそうな出来事をいち早く発見し、事件に繋がらないようにする』という題目を基に各自が職務に当たっていることとなっている。
この部署は十数年前に発足した。当初は特殊な能力を持ったメンバーを募り集まったが、その後いくつかの事件で殉職者が出るなどの問題があり、メンバーは徐々に異端児といった感じの警官が集まる部署となっていった。今は大した機能を果たしておらず、宣伝もしていないため、ほとんど人も訪れない。人気のない探偵事務所のようになっている。
馬込警部補も異端児として異動してきた人物の一人であるが、本人はそれを理解していない。そんな部署で早2年、何の命令も受けないままに馬込は身勝手に日暮里スーパー爆破事件を捜査する日々を送っていた。権限はないが、彼にとっては自由に何でもできるいい部署ではあった。
「何でしょう?」
話は最初に戻る。班長である市谷が馬込を呼ぶことはめったにない。なので馬込にはなぜ自分が呼ばれたのか全く理解できなかった。
市谷は来客用の小部屋に馬込を呼んで、ドアを閉めてから話を始めた。
「実はね。君は今日で、この部署を異動してもらいたい」
「本当ですか!」
「ああ、本当さ。それでね、今度は公安に行ってもらいたいんだ」
「本当ですか?公安といえば、一級事件を捜査する、あの」
「それで、君には、資料整理をしてもらう話が入っている」
「…。え、資料整理って」
「なあに、この部署よりは重要な仕事だよ。いろいろな事件の極秘情報を整理するんだ。そこからいろいろな知識を得て、上に上がることだってできる。今は我慢だよ」
「すみませんがその話、少し考えさせてください。僕は出世なんかより動き回って捜査をしたいんです。そうでないのならここにいます」
「でもね。そういうわけにもいかないんだよ。これは上層部からの命令でね。きっと馬込君も上に買われたんだと思うよ。こんな部署にいつまでもいたってしょうがない。僕が言うのもなんだけど、この部署は昔と違って、追いやられてやってくるような部署なんだよ。君にはもうその必要がないって上が判断したのさ。次をしっかりやればさらに望む部署へと移っていけるさ」
「すみませんが、今とても重要な局面を迎えているんです。もう少しで真犯人の顔が見えてきそうなんです。ここまで来ましてこの問題を逃す事はできません」
「それは、つまり、日暮里スーパー爆破事件に関する事だね?」
「そうです」
「僕は、馬込君がその事件に関わる事を反対してはこなかったけど周りからは手を引くように言われていたよ。その事件からはもう手を引いたほうがいいんじゃないのか?事件を追っている警官は他にもいる。君がこれ以上関わらなくてもいいじゃないか」
「市谷さん、前にも言ったように、僕はあの事件に賭けているんです。僕にとっては人生の一大テーマなんです。それを外すわけにはいきません」
「君のその情熱はいい。けどね、時と場合によっては引かなくてはならない時もあるんじゃないのかな」
「それが、今だというんですか?」
市谷はこくりと頷き、「僕はね、君をある人と一緒にしたくはないんだ」と言う。
「…」馬込は何の話をしているのか、思い当たらない。
「かつて、とても情熱的な人物が、未処(みしょ・未然処理特殊捜査班の略名)にいた。その人はとても優秀だったけど、負けん気が強すぎた。僕の尊敬する先輩の一人でもあった。もしあの人がいたら、この部署の班長は彼となり、彼の手によってもっと立派な部署になっていたと思う。でも彼は辞めてしまった。警察官をね。彼も君と同じ、この部署からの異動に不満を持ち、それで辞めてしまった。彼はずっと麻薬に関する捜査をしていたんだ。僕も詳しくは知らない。だけどその事件を途中で放り出せずにそういう形になってしまった。今は何しているかわからないけど、とてももったいない事をした。だから君にはそうなってほしくないんだ。もう一度、冷静に判断して欲しい」
「市谷さん、気持ちは嬉しいですが、僕は何となく納得いきません。もう一度だけ、市谷さんこそ考え直してください。僕は今、事件の真相に迫ろうとしているんですよ」
「わかったよ。できる限りはやってみるよ」
しかし1週間も経たないうちに馬込は別部署に異動となった。異例の早さの出来事だった。市谷の言うように馬込は公安の資料処理室に配属となった。そしてそこで来る日も来る日も資料の整理を行う結果となった。神経質な先輩の下で、あれこれ怒られながら毎日が過ぎていった。
休みさえ与えられず、日暮里事件の捜査も、響に会う暇さえないまま毎日は流れてしまっていた。馬込警部補のテンションはどこまでも落ちる一方だった。
※
上野響にはいつもの日々が流れていた。週の半ばとなる水曜日には神奈川県三浦にいた。海岸沿いを歩いて岬を越えた。
男はそこで待っていた。肌の浅黒く焼けた男だった。松崎しげるのようだった。だけど違った。男はもう少し若い感じだったし、それほど焼けていない感じだった。
「君かい?」と、浅黒い男は響に尋ねた。
響は「そうだ」と言った。
男は浜辺に上げられた自分の所有するヨットから例のトランクを取り出した。
「これでいいかな?」
その問いに響は頷いた。そして代わりにいつもの金の入った封筒を渡した。
いつもの運び屋としての仕事は何の問題もなく終わった。平日の午後3時だった。夏も終わり、9月になってしまったので、海辺には散歩する老夫婦と犬を散歩させる主婦くらいしかいなかった。夏はもう過ぎていた。
20時には台東区上野に戻った。木崎はすでにマンションの裏で待っていた。いつもよりも落ち着かない様子であった。以前のようにはいかない。嶋咲枝を襲って以来、二人の関係は確実に悪い方へと向かっていた。もう二度と復縁しない昔の恋人のように互いは気まずいイメージを崩せずにいた。それでも会わなくてはいけない時間があった。
木崎は地下の室へと入り、いつもの麻薬チェックを行う。そしてそれが済むといつもの金を渡し、トランクを頂いておいとました。
その時間が響にはいつもより早く感じられた。もともと無口な二人だが、その日はいつも以上に静かに感じられた。背の高い大男二人が、互いを気にするなど実に気持ち悪い話だ。
『どうでもいい』と響は心の中で呟く。まだ二丁めの拳銃は机の一番下に眠ったままだ。
その夜、響は居酒屋『ふくちゃん』を訪れた。嶋咲枝殺しの依頼人斉藤に顔を殴られ、顔が腫れて以来、居酒屋『ふくちゃん』へ行ってはいなかった。顔の状態はすでになんともなくなっていた。響自身はいまだに顔が歪んでいる気がしていたが木崎も何も気づかなかったし、そこらへんを歩いても響の顔を気にする人間など一人もいなかった。
そこへ行けばいつもの時間が流れていた。その夜は常連メンバーがやってきていた。珍しく歌い人だけがいなかったが、風俗店店長をやっているナンパ男の式羽もいた。
「久々だねえ。どうしたの?最近、忙しかった?」とふくちゃんが聞いてくる。
「いやあ、最近見ないから、ちょうどおまえの話してたんだよ」
常連のとっちゃんも気にして聞いてくる。
「どうも」
響はそんなとっちゃんの隣に座る。
「女でもできたんじゃないの?って話してたのよ」
式羽はそんな風に言ってニヤニヤ笑う。
座敷席にいる学生の男たちにおつまみを出した戻りにその話を耳にして「そうなの?響さん?」と由佳は心配がる。
「そんなわけねえだろ!」と響は突っ込む。
「相手は、さくらちゃんかなあ。とか」
とっちゃんまで隣でニヤニヤと笑みを浮かべる。響はカウンターの一番奥に座る。かんさんを一瞥してから「何で、さくらちゃんと」と否定する。
カウンター向こうに戻った由佳が嬉しそうに「違うんだ」と言った。さくらの祖父であるかんさんは黙って酒を飲んでいる。
「あ、じゃあ、あの、女か。俺、響ちゃんにあの駅の女と」
式羽は橘玲香の事を言っている。響は慌ててとっちゃんと逆隣に座る式羽の口を塞ぐ。「ホテルに缶詰で毎晩」とよく聞こえない声で言っている。
「どうした?」と、とっちゃん。
「いやあ、何でもないですよ」と、苦笑いの響。
「いつもビンビンで」と、式羽の声が漏れる。
「何、言ってんの。あんた!」と、苦笑いの怒り目。
由佳は聞かないふりをして座敷席の客の方へと向かう。ガラガラっとそこで店の扉は開かれる。そこには美坂さくらが立っていた。
21時30分だ。彼女は正確にその時間になると、祖父のかんさんを迎えに来る。響は神社での一件からずっと顔を合わせたくない気持ちでいっぱいだったから、さくらの方を見れない。彼女がどんな顔をしているのか、自分という存在に気づいているのかも響にはわからない。
「さくらちゃん、いらっしゃい。たまには何か飲んでいけば」
「いいえ、すみません。また今度」
さくらの声はいつもと変わらない、と響は感じ取っている。
「なんじゃ、もう行くのか。せっかく響も来たのに」
「おじいちゃん、もう行くわよ」
「たまにはさくらちゃんも」
とっちゃんがグラスを持ってさくらを誘う。
「すみません。また今度」
近い場所でさくらの声がするが、響は気にせずにビールを飲み続ける。みんなの的はさくらの方に向いている。
「しょうがねえなあ」と言って、かんさんは立ち上がる。
「またな、かんさん」「じゃあ」「ありがとね、かんさん」「気をつけて」なんて声が飛び交ってから、かんさんとさくらは居酒屋『ふくちゃん』を後にした。
それからはしばらく式羽のエロトークが続いたが、話としてはあまりにくだらないので、もしくは使えないネタの連発なので、カットだ。さらに式羽に誘われて、そのまま女でも抱きに行くかという話になったが、響はそれを断り、一人で家路を戻っていった。
マンションの入口には誰もいなかった。最近は馬込という警官もいないし、歌い人とも会わなかった。まさが死んで以来、止まったような時間を過ごしてきたが、ここ数ヶ月でいろいろな環境が響の周りでは変わろうとしていた。その事を響は心の奥底で感じていた。
帰れる場所である居酒屋『ふくちゃん』へも、やがては行けなくなるのかもしれない。何かが変わろうとしている寂しさを、響は心の内で薄々感じ取っている。
『若手旋斗という謎の組織のリーダー、嶋咲枝殺しの依頼人の斉藤、嶋咲枝を追いかけるフリーライター前野、日暮里スーパー爆破事件の犯人を追う警官の馬込』
響には今誰に会えばいいか、いろいろな選択肢が浮かぶ。誰にどう近づくかで道が決まる。それを選ばなくてはならない時が迫っている。選択肢はたくさんあっても選択し直すことはできない。どこへどう進むのか迷いの中にある。たくさん道があっても道は一つしか選べない。
「さくら」
裏路地でふとさくらを思い浮かべる。
『やれやれ』と、響はすぐにさくらのイメージを否定する。彼女とはもう関係ないのだと言い聞かす。地下へと下り部屋に戻る。
「君が待ってくれていれば」
ふとそんな言葉を呟く。
『やれやれ』ともう一度。
「せめて」『今日一目彼女の顔を見ておけばよかった』
響の頭からはさくらが離れない。考えるべき事は他にあるはずなのに、響の頭からさくらが離れなかった。結局、その夜は一日中さくらを想っていた。あれやこれやと想像して一夜が明けた。
どうにもならず、響は想像の中でさくらを抱いた。心地よい想像だった。全てがなくなってしまえばいい。そう思い、想像のさくらを隣に置いて朝の眠りに就いた。安らかな深い眠りだった。