3.機会
橘玲香。今回はこの女の視点で話が始まる。
この女のプロフィールを紹介しよう。
橘玲香、29歳。彼女はごく普通の家庭に生まれ育った。彼女の父親は商社のサラリーマン。母親は専業主婦。年が5つ離れた妹が一人いる。4人暮らしで、家は西東京にあった。
玲香は当たり前の家庭に育ってきた。両親は普通に喧嘩もするが離婚とまで行くこともない。妹は今風で、玲香はそんな妹があまり好きではなかった。
玲香の見た目は若く、グラビアアイドルのような感じだ。彼女は今、某化粧品会社で普通に事務員をしている。実家を出て中野のアパートで一人暮らしをしている。
ある日、水道橋駅のベンチに腰掛けていた。玲香は日曜なのに黒いタイトスカートのスーツを着ていた。暑い一日で彼女は首筋から流れ落ちる汗を白いハンカチでぬぐった。玲香は待っていた。その日、彼女はある男に会える予感を抱いていた。そしてその予感は18時35分に的中した。
彼女はアキバ方面に向かうベンチから反対ホームを眺めていた。向こうのホームから背の高い男が玲香の方をじっと目つめていた。
この物語の主人公、上野響だ。玲香は響を見て微笑んだ。響は改札方面を回り、玲香のいる反対ホームへとやってきた。
「あんた、暇なんだな。毎日ここにいるのか?」
「そんなわけないでしょ。予感がしたの。今日あなたがここに来るってね」
「まあ、どっちでもいいさ。俺は別にあんたに会いたいわけじゃないからな」
「そうね。別にいいのよ。それでも」
響はいつものように女を抱きたいと思ってナンパをしに来ていた。そこへちょうど玲香がいただけだった。最初の出会いもそうだった。初めて会った日、二人は抱き合った。
「わたしはあなたに逢いたかったのよ。なんとなく顔が見たくなったの」
「どっちでもいいけど、どうする?」
二人は飯も食わずに早速ホテルへ行った。前回はビジネスホテルだったが、今回はわかりやすいラブホテルだ。二人が求め合っている感情はすでに一致していた。だからわざわざ手順を追う必要も、気を遣う必要もなかった。
前回と同じように玲香はシャワーを浴びた。
ベッドの上で、玲香はシーツにくるまり、響を待った。響の落ち着かない興奮しきった感情が玲香を興奮させていた。
やがて響がシャワールームから出てきた。
事が終わり、玲香は昏睡状態のように動かず、ただ天井を見上げていた。
「何か悪かったか?」と響は玲香に言い捨てた。
玲香は思い出したかのようにその言葉に反応する。
「やり遂げるのは、これだけにしておいて。それがあなたのために言えること。醜い連中があなたのやり遂げようとするエネルギーを利用して近づいてくる。心の内にあるそれを、それがない底辺の連中が利用しようとしているの。あなたはそんな事に巻き込まれてはダメよ」
上から物を言うように玲香を感じ取ったのか、響はめんどくさそうに何も答えなかった。そそくさと服を着て、鋭い目を玲香に見せて、去って行こうとする。玲香のまわるい目はその響の目を見返していた。
「もう、あんたに会うこともないな」と、響は玲香に言った。
玲香は何も言わずににっこりと笑みをみせた。響は不思議に感じた表情を浮かべたが、何も言わずにベッドしかない部屋を出ていった。
「これがわたしの趣味、わたしの楽しみ、わたしの生き方だから」
玲香は一人でつぶやく。
「あなたにはまた会うわ。それが今のわたしの趣味だから」
一人になった響は妙にさくらに会いたい気持ちになっていた。今の時間なら居酒屋「ふくちゃん」に行けばまだ会える気がしていた。
電車を乗り継いで上野に着いて、駅を降りた。すると響の考えは変わっていた。さっきまで女を抱いていた体でさくらに会えない気になった。いつもなら冷静さを取り戻すための行為も、その日の玲香との行為には苛立ちしか残っていなかった。
響は素直にまっすぐ家に帰り、家に着くなり熱いシャワーを浴びた。冷蔵庫からハイネケンを取り出し、グビグビと一気に飲み干すと少しだけ冷静さが戻ってきた。明日になったらさくらに会える気がした。冷静になってさくらへ会いたい気持ちを明日まで抑えることにした。明日はどんな形でもさくらに会いに行こうと響は考えていた。
夢の中でも響はさくらに会った。愛だの恋だのとは言いたくない。そんな感情など響は信じない。でも、夢の中で響は少しだけ遠くにいるさくらの姿に声を投げかけていた。
『君に逢いたいと思ったんだ。何の理由もなく、ただ君に逢いたかった』
彼女は響の方を見つめて爽やかな笑みを注いだ。
『どうしたんですか?急に。そんなに汗をかいて』
『走ってここまで来たんだ。君に逢いたいと思ったんだ。それでどうしようもなく、時間がなくて、とにかく君に会いたかった。今言える事はそれだけだ。もっと近づいてもいいか?』
『ええ、どうぞ。ご自由に』
風景が生まれる。彼女は小さな木の橋の上にいて、日傘を差していた。太陽の光が燦燦と照っていて、橋の下を流れる小川の水の音が涼やかに響き渡っていた。
響はさくらに近づこうとした。でもさくらはそこにはいなかった。もう跡形もなく消え去っていた。
上野響、20歳、麻薬の運び屋。美坂さくら、19歳、巫女。
二人は響の育ての親であるまさとさくらの祖父かんさんとの関係を通じて繋がっている。
響は大物女政治家の嶋咲枝を消すという使命を負っている。さくらは巫女として神社を支えてゆくという使命を負っている。互いは悪と善の対照的な関係にありながらも微妙に似た境遇にあり、互いを意識し合っている。
響は目を覚ました。すでに夕方だった。いったい何時間寝たのかを考えた。疲れているわけでもないのにとても長い時間寝ていた。そしてたくさんの夢を見た。でもそのほとんどの夢を忘れてしまった。思い出そうとしても思い出せない。ただ一つ、さくらの夢は覚えていた。橋の上にいる彼女に会う必要があった。
シャワーを浴びた。そして冷蔵庫の中にあったオレンジジュースを飲んだ。寝すぎたためにぼうっとしていた。ソファーにドカッと座り、もう少しだけ目が覚めるのを待った。
今日はお気に入りの黒いシャツを着た。一番新しいジーンズも穿いた。
『さあ出掛けよう』
家の玄関を出る。地下から地上への階段を上る手前で気づく。誰かがやってくる気配がする。しかも地下への入口の鍵を開けようとしている。響の知る限り、それが出来るのは嶋咲枝の部下の木崎か、嶋咲枝を殺す依頼をしてきた男である斉藤のどちらしかいないかった。
扉はゆっくりと開いた。そこに立っていたのは斉藤だった。響は大きく溜息をついた。何かふと現実に戻されたかのような嫌な気分になった。
「やあ、お出かけかい。すまないな。ちょっとだけ付き合ってくれよ」
「何の用だ?」
「立ち話もなんだ。中へ入ってもいいか?」
響は出掛けるのをあきらめて斉藤を部屋の中に招き入れた。斉藤を二人掛けのソファーに座らせ、自分は一人掛けのソファーに腰を下ろした。
「この前はすまなかった。変な男がいたんだ。それでチャンスを逃した」
まず響は五十嵐邸で嶋咲枝殺害に失敗した件を謝った。
「しかも雨が降っていて、嶋咲枝はずっと家の中にいた。チャンスはほとんどなかった」
斉藤はそう付け加えた。
「そう…だな」と、響は頷く。
「分かっている。そんな事はわかっている。むしろ君は一発も弾を撃たなかった。それがいい判断だった。あの場面で弾を放っても君は彼女を殺せなかった。運がよくても彼女に傷を負わせるだけ。その程度しかできなかっただろう。いい洞察力だ。むしろ僕は君を評価している。焦らずにその場を離れたこと、それが素晴らしい」
「それで、何の用だ」
「君はまだ銃の使い方をよく知らないだろ?教えてあげようと思いましてね」
「…」
「今日でも、明日でも、いつでもいいが、あげた銃を持ってきてもらえれば訓練場に案内するよ。そして訓練が終わったら、また嶋を殺るチャンスを窺う。まあ、その後はその後だ」
「それなら、俺の思うままにやらせてくれ」
響は嶋咲枝を殺るチャンスについて自分なりに考え始めていた。
「何か当てでもあるのか?」
響は何も言わずに頷いた。
斉藤は響の鋭い目をじっと眺めていた。当てがありそうだと勘繰って、斉藤は笑みを浮かべ理解した。
「どうする?今から練習しに行くか?」と斉藤は響に尋ねた。
響はそれを断った。そして斉藤は自分の連絡先を響に伝えた。
「ここへ連絡してくれ」と。
斉藤が去っていた後も、響はソファーで考え事をしていた。忘れていた記憶が戻ったかのようだった。
『俺は何をしているんだ。あの女を殺らなければならない。くだらない性欲ばかりだ。俺には俺の運命がある。俺は俺の道を歩む。それだけだ』
自分にそう言い聞かせていた。そしてさくらに会いに行こうとする思いを再び封印した。全ての思いは抑え込まれ、居酒屋「ふくちゃん」にさえも行く気がなくなった。
大きく深呼吸をして、響は天井を見上げていた。一人きりの暗い地下の部屋の中に自分はいる。そう感じると、また自分は暗い場所に戻ってきたと感じた。でもそれが自分の場所であると響は認め、顔を引き締めた。
※
いつもの暗い部屋で目を覚ました。響はいったい今が何日で何時なのか、日にちも時間も分からなくなっていた。ここ数日は昼や夜に目を覚まし、不快な覚醒と睡眠を交互に繰り返していた。24時間という周期リズムが完全に破壊されいる。
時計を見れば時間は分かるが、時計を見る気にならなかった。ここ数日はずっと家で酒を飲んでは寝てしまっていた。だから何も考えずに久々に家の外に出てみようと思い立った。
今着ている服は外にもそのまま出れる普段着だった。だから響は暗い部屋の中で財布と家鍵だけを取ると、そのまま家の外へ出ていった。
空は曇って太陽は見えなかった。それでも空気の質からして今が朝であると感じ取れた。熱していない空気、仄かな明かり、裏路地からマンションの正面側に移動すれば、そこにはスーツ姿の会社員がちらほら見受けられる。これから仕事といった感じの人々だ。
響は確信した。今は確実に朝である。しかもまだ7時前だ。曜日はよくわからないが歩くスーツ姿の人々から平日だとわかる。
「どうも、こんなところで会うとは」
響はその声に振り返った。珍しく油断していた。その声の主がすぐ傍にいたのに気づかないくらい集中力を欠いていた。そこにいたのは馬込警部補だった。まさの命日に群馬県にある彼の墓まで出向いていた刑事だ。
「いやあ、こんなところでお会いできるとは、ホントに思ってもいませんでしたよ。覚えてます?私の事?月島雅弘さんの一周忌で‥。馬込純平と申します」
「ああ、覚えてますよ」
「このマンションに住んでおられるのですか?」
「何か?」
「いやあ、いいマンションですねえ。月払いで20から30万はするんじゃないですか?」
「何か?」
「お住みですか?」
「ええ」
「ここって月島さんが亡くなる前に住んでおられたマンションですよねえ」
「ええ、譲ってもらったんですよ」
「こんないいところをですか?家賃は?」
「すでに完納済みで、他に住む人がいなかったから」
「まあ、月島さんは親族とも疎遠でしたからねえ。でも普通これくらいのマンションなら、他人に売却するんじゃ。結構な金になるでしょ?」
「住み主が自殺したって話だから、売るにも面倒だったみたいでね。別にいいって感じで、譲ってもらったんですよ」
「そうですか。世の中にはラッキーな事もあるんですねえ。ああ、よろしかったら喫茶店にでも入りませんか?」
「まあ、いいですよ」
二人は場所を移動して、近場の高級喫茶店に入った。モーニングセットを注文してすぐに、馬込はトイレに行った。戻ってくると置かれていたモーニングセットのゆで卵を丁寧にスプーンで割り、殻から取り出した卵にかぶりついて、口の中に含みながら話し始めた。
「この辺りは日暮里爆破事件に関わる同僚がふらふらしてまして、私が歩くと何してんだって感じの目でにらみつけられるんですよ。だからなるべく近寄らないんですが、まあ朝一なら、奴らもまだ大して活動してませんからね」
「それで何か用が?」
「いやああ、正直にこんなところであなたにお会いするとは思ってもいませんでしたので、何を聞いたらいいものか。そうですねえ、あのマンションは譲ってもらったんですか?」
「そうですが」
「ホントに運がいいですね。私なんて、狭い六畳のアパートに詰め込まれてますよ。隣は下手なギターを弾いててうるさいし、いつかは私もああいうマンションに住みたいなあと思いますよ。ああ、話を変えますが、あなたのお名前とか訊いていませんでしたねえ。身分証明書になる免許証とかお持ちではないですか」
「いや、車は運転しないんで。それから他の物も全部家に」
「ああ、そうですよね。朝のこんな時間にいちいちそんなもの持って外に出ないですよね。ちょっとコンビニに煙草を買いにって程度でしょ?小銭くらいしか持ってないですよね」
響は何も言わずにこくりと頷いた。
「じゃあ、お名前は?」
「ナカモトです」
「下の名前は?」
「リュウヘイです」
「中本龍平、リュウヘイはタツにタイラでいいかな?」
「ええ」
「齢は?」
「二十歳」
「辰年?」
「ええ」
「ふううん、なるほどね」
響は適当な名前を繕った。正しくは響が使ういくつかの偽名の一つだ。たとえばホテルのチェックインやちょっとサインが必要な時にこの名前を使うことがある。ちなみに上野響、この名前も完全な偽名である。響はまさが好きなウイスキーの名前から、まさが勝手につけた名前だ。上野は「上野」に住んでいるという安易な理由から付けられた苗字である。だから、正しくは彼の本名は無い。彼の両親は彼を涼と名づけた。さらに両親は田山という姓だったので、彼の本名は田山涼となる。しかし不思議なことにこの名前は戸籍にも住民票にも申請されていない。やはり実情、彼は名無しなのである。
「そうですねえ。月島雅弘の仕事ですが、ここにおける不明な点が多いんですよねえ。前に中本さん(響の事)は彼に仕事を紹介されてって言ってましたよねえ。ご職業は今も運送業を?」
「いや、あれはバイト程度、重いものを運ぶ手伝いですよ。仕事は夜の仕事、風俗店の仕事を、友人の手伝いでその程度しか」
「ふう~ん、そう」
「どこの店とか、言う必要があるの?」
「いや、特に結構です。わかりましたあ。とりあえず今日はそんなところで」
馬込は一気にアイスコーヒーをストローでジュルジュル飲み込み「どうもお邪魔しました。また今度お話聞かせてください」と挨拶をして伝票を取って出て行った。
響はちょっと面倒な事になったなと思いながら、一つ溜息を付いてからゆっくりとモーニングのトーストを食べ始めた。久々に喰うまともな食事のような気がした。甘みのあるトーストは胃にしっくりと入り込んでいった。
夜になっていた。もう遅い時間だった。響は歌い人の歌が聴きたくなって居酒屋「ふくちゃん」へと行った。
開いた扉の内では、尾崎豊の『I LOVE YOU』が歌い人の声で響いていた。その日の響の気分にはベストな曲だった。響はろくに歌い人と話した記憶もないのだけれど、彼とはどことなく馬が合う気がしていた。その日のその選曲も響にそういう感情を抱かせた。
それは心のこもった歌声だった。いつもよりも調子のいい歌声だった。前にふくちゃん(居酒屋のおかみ)が歌い人に「尾崎が好きねえ」と訊いていた。響の年齢はもちろん、歌い人の年代でもまだ昔の曲だ。彼は、「齢の離れた兄貴がよく尾崎を聴いていて、それで好きになったんです」と答えいた。その兄貴はすでに他界してしまったそうだが。
響も尾崎が好きだった。尾崎の詩は意味のない虚しい感情に訴えかけてきて、熱せられ、燃えに燃えて、焼き尽くしたところで、すっと引いてゆく心地よさがあった。その感情が生まれては去る。いつの間にか好むようになっていた。でもその歌声は尾崎豊という偉大な存在でなく、その詩を好む歌い人という人物の声で馴染まされていた。
『I LOVE YOU』が静かに歌い終わるまで入口で聞いていた。響はそれからふくちゃんの店へと入っていった。客席からは小さな拍手も起きていた。
「久しぶりだねえ」と、入ってきた響にふくちゃんが話しかけてきた。
響は何も言わずに頷いた。
店の常連さんであるとっちゃんが座っている席の隣に腰を下ろした。とっちゃんは店の近くで印刷会社を経営している社長さんである。
ふくちゃんは何も言わずに、生ビールをすぐに用意してくれた。
「さっきまでかんさんもいたんだけど、さくらちゃん来て、連れてっちゃったよ」
とっちゃんがそう言ってきた。響は生ビールをグビッと飲んでからそれに頷いた。
「さくらちゃんも、『響さんは今日もいないんですね』って残念そうにしてたよ。いやあ、もったいない」
「そんな事ないでしょ」
付け加えられたとっちゃんの一言にぼそりと否定した。
「そう、そんな事ない。さくらさん、響さんの事なんて、一言も言ってなかったですよ。わたしは響さんがなかなか来てくれなくて残念でしたけど」
話に割り込んできたのは、ふくちゃんの娘である由佳である。
「なああに、何も言わずとも、さくらちゃんはそういう顔をしていたよ」
「わたしだって、残念でしたよ。プール行く約束してたのに、響さん来ないから、仕方なく、友達と二人で行っちゃいましたよ。今日」
「男の子の友達?」
「いじわるですね、響さん。女の子に決まってるじゃないですか」
とっちゃんは大きな声で笑った。
「ほんと、こいつはしょうがねえ奴だ」と言って、響の肩をパシンと叩いた。
話はこの日の昼間に戻るが、響は昼間、前々から約束を果たそうと、嶋咲枝殺人依頼の斉藤に会っていた。
池袋のラブホ街を抜けたパーキングに紺色のクラウンを停めて、斉藤は待っていた。スモークガラス張りのクラウンの後部座席に乗り込むと斉藤は無言のまま運転を始めた。運転中に「外は見るな。しばらく寝てるんだな」と忠告をしてきた。響はどこに連れていかれようが興味はなかったので目を閉じてそれに従った。車の中はクーラーが効いていたが、外が酷く暑い日で熱気を感じながら軽い眠りに入った。
都会の面倒な道を右へ左へと曲がりながらだいたい1時間くらい進み、クラウンはやがてある建物の中に入り込んだ。
「許可証を」とどこかの誰かが言うのを耳にした。響はそれでもずっと目を瞑っていた。車は数秒後に動き出した。ゲートを越える音や周囲の雑音が消え、澄んだ空気になったことで、屋内の駐車場に入っていくのを目にせずとも感じることができた。
クラウンが停まり、運転席のドアが開いた。無駄のない動きで斉藤が回り込み、後部ドアを開けた。
「さあ、下りろ」と言った。
響は目を開けて、素直にその指示に従った。狭い地下駐車場だった。似たような車が何台か停められていた。中へ入り、グレーの絨毯が敷かれた通路を抜け、エレベーターでB2からB5まで下りていった。
下りたところの通路に警備員が立っていて、再び許可証を求められた。斉藤は許可証を警備員に見せた。通路の先にはガラス張りの扉があり、警備員が鍵を開け、斉藤と響が入れるよう通路を空けた。
響は斉藤の見せた許可証が馬込の見せた警察手帳に似ている気がしたが、その事は頭に留めておくだけとし、慣れないスーツ姿の首元に付けられたネクタイを少し緩めて、扉の中へと入った。
警備員は扉を閉めてからも後ろから付いてきて、ヘッドホン付きの銃を二丁、斉藤に手渡した。響は斉藤から渡されたそいつを言われるままに装着した。狭い部屋に10ばかりの人型の標的が並んでいた。
まずは斉藤が手本を見せた。斉藤の放った弾丸は標的の胸のど真ん中に命中した。
「そんなに難しくはない、ほんのちょっとの知識と経験があればいい。後はいかに冷静であれるかだ。ただそれだけ。それさえあればいい」
斉藤の指導に従って、響は拳銃を構えた。そして10mくらい向こうの標的に向けて、1発、2発、3発と放った。銃口音が辺りにこだました。響の放った弾は全て胸のほぼ真ん中を捕らえていた。
「十分だ。それだけ覚えておけばいい。後は冷静であればいい」
練習はそれだけだった。それだけで十分だった。響の手に銃というものが馴染んでいた。通常のピストルとリボルバーの違いはあるが響の手はすでにその感触を確かなものとしていた。
居酒屋「ふくちゃん」では、歌い人の本日2曲目が歌われていた。歌は尾崎豊の『太陽の破片』だった。歌い人の今日の歌声はいつもよりもしっとりとしていて澄んでいた。その声が響き渡る中、とっちゃんの声が聞こえ、また周りの客の笑い声が聞こえていた。響には『太陽の破片』の歌詞しか耳に入ってこなかった。
焼き魚をつまみながら冷酒をクイッと飲んだ。心は不思議と落ち着いていた。それと同時に不思議と寂しさが溢れていた。それでもこの場の空気がその寂しさをほんの少しだけ和らげさせてくれていた。
『俺はどこへ行くんだろう?俺はどこへ行こうとしているんだろう?この先に何があるというのだろう?それでも俺はあの女を殺る。その先に何が待っているだろう?希望だろうか?絶望だろうか?』
歌い人の切ない声と群集の笑い声、それが懐かしくなり遠くに去っていくかのように、響はその場の空気を味わっていた。
※
7月22日に木崎はやってきた。
いつものように響の住む地下の部屋の入口で待っていた。まだ真昼だった。響が部屋のドアを開けると木崎は体格のいい体を縮めて部屋の中に入ってきた。暑そうなスーツ姿だった。
「今度はここだ」
木崎は何の前触れのなく響にそう告げるといつもの封筒を2枚渡した。いつものように封筒の中に入っている金を確認して頷くと、木崎はすぐに部屋を出て行こうとした。
「ちょっと待ってくれ」と、響は木崎を引きとめた。
今まで一度呼び止められた覚えのない木崎は意味もなく笑顔を浮かべた。
「何だ?何かあるか?」
少し間を置いて、響は口を開く。
「ボスに会いたい」
「…」
木崎は口を開かない。
「話したい事がある」と響は言う。
「ボスが誰だか、おまえは知っているのか?」
響は強い目で木崎を見つめて頷いてみせる。
少し考え込んだ後に、木崎は口を開く。
「まあ、いいだろう。だか、あの方は忙しい方だ。いつになるかはわからない。用件があるのなら、俺に伝えたほうが話が早いがな」
「直接会って、話がしたい」
「…」
木崎は響の顔を見つめるだけで答えない。
「まささんもたまに会っていたはずだ」
木崎は頷く。
「あの人は特別だ」
「俺は駄目か?」
木崎は少し、間を置いて答える。
「まあいいと言っただろう?伝えておいてやる」
7月25日、一日中暑い一日だった。
響は10時15分に家を出て、目的地に向かった。平日の午前というのは、意外にも麻薬の引渡しには持って来いの時間だ。こういった時間の方が目立たない。人々が当り前に仕事をしている時間に仕事をする。飲酒運転も昼間じゃ目立たないし、空き巣も昼に行動する。目立たない犯罪はたいてい平日の昼間に行われる。
場所は東京都葛飾区。中川を上流域に向かっていたところへ電車とバスを乗り継いで向かった。いつもの学生風の格好をしていた。
指定された場所には一時的に建てられたプレハブがあり、近くで河川の補修工事が行われていた。河川では工事が行われていたが、まだ昼前だったためプレハブは静かだ。
入口の扉に手を掛けると鍵は掛かっておらず開いた。中はひっそりと静かだった。作業員が休むための簡易なパイプ椅子とテーブルがいくつか並べられていて、奥の窓際に大きなブラウン管テレビが置かれていた。高い所に設置された扇風機が回ったままになっていた。
一人の作業服を着た男が給湯室からコーヒーを口に付けながら現れた。コーヒーを一口啜ると男は言った。
「あれか?」
響は何も言わずにこくりと頷いた。
男はコーヒーの入ったカップをテーブルの上に置くと、今度はロッカールームへと消えていった。1分後に顔を見せ、響に手招きをした。ロッカールームの入口にスーツケースが用意されていた。
「これか?」
作業員は何も言わず頷いた。
響は肩掛けかばんからいつもの封筒を取り出して渡した。
作業員は封筒を開き、中にある札束をぺらぺらと軽く指でなぞって簡単に確認した。そしてその封筒をロッカーの中にしまい込んだ。
彼は戻ってきて、響に言った。
「面倒なところだろ?送っていってやろうか?」
響は表情に悪意がないのを感じ、素直に頷いた。
プレハブの外に置かれていたカムリに乗って、響は最寄の駅まで連れて行かれた。そしてスーツケースを下ろし、何事もなく作業服の男と別れ、その仕事を終えた。
家に帰ったのは12時過ぎだった。お湯を沸かし、カープラーメンを啜った。それから眠くなったので昼寝をした。
目が覚めたら18時になっていた。再び外に出て、今度は近場のラーメン屋でこってりラーメンを食べた。
家に戻って、シンハーを飲みながらボーっとしていた。
木崎がやってきたのは21時過ぎだった。数日前と同様、暑苦しそうなスーツ姿をしていた。そしていつものようにスーツケースの鍵を開け、中身を確認してまた閉じた。
「おつかれ」と言って、響に札束の入った成功報酬を渡した。
何も言わずに、スーツケースを持って出て行くのかと思ったところで木崎は振り返った。
「運がいいな。あさっての夜、ここへ来い。あの方が会っていいと言っている。三日と待たずに会えるとは、運のいい奴だ」
木崎は投げ捨てるように一枚の紙切れを、背を向けたまま投げ渡した。響に紙切れをしっかりと掴んだ。響も何も質問しなかった。
木崎は出ていき、響は一人残された。
その突然の機会は予想もしていなかった。斉藤に電話するかどうか考えたが、どうでもいい事だと思い、電話はしないこととした。目を瞑り気持ちを落ち着かせていた。後はその時が来るのを待つだけだと自分に言い聞かせた。
※
木崎と会ったのは19時30分だった。待ち合わせ場所の路上に立っていると10分後に木崎のベンツはやってきて、そしてタクシーのように停まり、響を拾っていった。
2時間近く、車は走り続けた。ただ車は遠くへ行くわけではなく、池袋、新宿、六本木、品川の辺りを何度か行ったり来たりしているようだった。
今、上野響は自分の育ての親であるまさを殺したとされる女、嶋咲枝に復讐を企てている。依頼人斉藤の助けによりもらった一度目のチャンスは失敗に終わったが、二度目のチャンスが早いタイミングで訪れた。大物政治家であり、自分の仕事(麻薬の運び屋)のボスである嶋咲枝に会えるチャンスが近づいてきている。
22時、木崎は誰かと連絡を取り、六本木か麻布あたりにある大きなホテルの裏から駐車場へと入っていった。
駐車場にベンツを停めて車を降りた。ホテルの正面から周り込み中へ入ろうとすると若いホテルマンの男がやってきて木崎に話しかけてきた。木崎はホテルマンの耳元で何かを呟くと男は一礼して二人を中へと招きいれた。
豪華なシャンゼリアが垂れ下がるロビーでは多くの客がいた。待合室の客は入ってきた背の高い二人の男など気にすることなく個々の時間を過ごしている。彼らは皆、自分が主人公のように振舞っていた。辺りをきょろきょろしているのは壁際で形よく立っている数人の警備員くらいだ。しかしその彼らも背の高い二人の男には特に関心がないようである。
その日の響は、まさが嶋咲枝に会う時にいつもそうしていたように、しっかりとスーツを着込んでやってきていた。かばんもいつもの汚い肩掛けかばんではなく、ビジネスバッグを手に持っていた。だから響はその高級ホテルの客としてうまく溶け込んでいた。
木崎はフロントを無視してエレベーターへと向かった。エレベーターガールの女の子がボタンを押し、下りてきたエレベーターに乗り込み、最上階18階へと上った。降りると一人の黒いスーツ姿のガードマンが待っていて、木崎に声を掛けてきた。木崎は胸ポケットから名刺のようなカードを取り出し、男に見せて自分が関係者であることを証明した。
廊下は無駄に広く部屋数も数えるほどしかないようだった。響は木崎の後に付いて、左奥の通路へと曲がっていった。そして一番奥にある扉のブザーを鳴らした。
1分くらい間が空いてからドアは開いた。響は少し離れて、木崎の背中を見ていた。中は窺えなかったが、木崎は中の誰かと話をしていた。
「中へ入れ」
木崎は響を呼び寄せた。ゆっくりと響は歩み寄り、中を窺った。小さな女が開いたドアを支えて待っていた。テレビで見たことのある女だ。嶋咲枝、印象よりもずっと小さい。そしてとても華奢に見える。
「俺はここで待つ。話を済ませたら出て来い」
木崎はそう言って、外の壁にもたれかかった。
「さあ、どうぞ」と、嶋咲枝は言った。テレビで聞くテキパキした声よりは遥かに柔らかい声だった。
『この女がまささんを殺ったとは思えない』
響は頭の中でそう呟いた。頭の中はとても不思議な気持ちになっていた。嶋咲枝は人を殺すようには見えない綺麗な目をした女だと、響の目には映ったからだ。
広いスイートルームに通され、ソファーに掛けるよう促された。広い部屋は草原のような安らぎも感じられる。シベリウスの組曲が流れていた。響はクラシックの事など何も知らないが、何か安らげるような空気を感じていた。
「何か飲む?」と嶋咲枝は尋ねた。
響は「いや」と一言だけ発して、それを断った。
嶋咲枝は響を見つめた。
「緊張しているのね?わたしの事、知っているよね?」
嶋咲枝は初対面とは思えないような口ぶりで響に話しかけてきた。響は何も喋らない。
咲枝は自分用のグラスにブランデーを注いでそれに口をつけ、響の対面のソファーにそっと座る。
「それで、何か用なんでしょ?」
響は何も喋らない。喋りたくなくて喋らないわけじゃない。いくつか考えてきた段取りの全て忘れてしまっていたのだ。頭の中は真っ白になってしまっていた。目の前の女が人を殺すような女には見えない。響が住む世界のあらゆる種類の人間と違う、高級な種類の人間に戸惑っている。
『まささんはいったいこの女とどんな会話していたのだろう?』
そんな意味のない疑問も浮かんでいた。
「ねえ、わたしも戻ってきたばかりなの。汗だくで、疲れているの。シャワーを浴びたいんだけど、いい?用件があるのなら今言ってもいいし、まだ話せないなら、わたしはシャワーを浴びたいの。少し待っていてくれる?別におばさんのシャワーなんて気にならないでしょ?だからここでゆっくりくつろいで待っていてもいいのよ」
すっかり嶋咲枝のペースになっている。目の前にいるその女がとても遠くの存在に感じられる。響の中にあった憎き嶋咲枝の像はすっかり崩れ、よくわからない存在となっている。
怖い顔で嶋咲枝を睨んでいた。
「いいわ。そうしてなさい。わたしはシャワーを浴びてくる。少ししたら落ち着くでしょ?そうしてなさい」
嶋は立ち上がりバスルームの方へと消えていってしまった。すると金縛りが溶けたかのように、響に冷静さが生まれた。
『こんなチャンスは二度とないはずだ。なんて無警戒な女なんだろう』
活動し出した脳は思考し始めた。響はもっと警戒心が強く、相手の動きを細かく洞察するような女だと想像していたが、事実はまるでその反対だった。
『どうしてあんな女が政治家になれるのだろう?どうしてあの女が麻薬の取引をしているのだろう?どうしてあんな女がまささんを殺せたのだろう?』
全てがダミーのようだった。響の想像と真実は全く別のところにあるようだった。真実は全て嶋咲枝自身の行為ではないのかもしれない。でもその逆も浮かんだ。もしくはそう思わせようとしているのかもしれない。今見ていた嶋咲枝は彼女の演技なのかもしれない。
思い立って響はかばんの中に入れていたサイレンサー付きのリボルバーを取り出した。そして立ち上がり、バスルームの覗ける通路まで場所を移した。響はそこで嶋咲枝が出てくるのを待つことにした。出てくると同時に引き金を引こうと考えた。
ゆっくりと呼吸をした。時は刻一刻と迫っている。この時を待ち侘びていたのだ。
目を瞑り、時が来るのを待っていた。
じっと静かにその時が来るのを待っていた。
シャワーの音だけが続いていた。
シベリウスの音楽もすでに止まっていた。
他には何も聞こえない静かな場所だった。
自分の呼吸する音と心臓の音だけが響いていた。
シャワーの音が鳴り止んだ。
響はリボルバーのロックを解除する。
引き金に手をかけ、銃を構える。
何日か前に、斉藤と行った射撃訓練所を思い出す。
自分はそこにいる。
射撃の的が現れたら、そのど真ん中、心臓部を狙って撃てばいい。
ただそれだけだ。
視界は銃口の先へと定まってゆく。
ゆっくりと呼吸をして、気持ちを落ち着ける。
『いかに冷静であれるかだ。ただそれだけ。それだけあればいい』
斉藤の言葉が聞こえてくる。
そうそれだけだ。
バスルームのガラス扉が開いた。
バスローブを身にまとった嶋咲枝の姿が現れる。
標的はそこにある。
引き金を引くだけの指先はまだ動かなかった。
響の目には微笑む嶋咲枝の顔が映っていた。
とても嬉しそうに、彼女は笑みを浮かべていた。
銃口を突き付けられているのに、彼女は笑顔だった。
不気味だった。だから響は固まっていた。
メドゥーサの瞳のようだった。
「それで、わたしをどうしようというの?」
嶋咲枝は響に尋ねた。
「まささんの仇」
響は声を絞り出して、そう答えた。
嶋はバスローブの紐をするりと解いてみせた。40歳とは思えないスタイルのいい裸体を響に見せる。
「いいじゃない。ほらね、ここが左胸よ」
咲枝はバスローブを脱ぎ捨て、むき出しの体で、左の乳房を左手で持ち上げ、心臓の辺りを右手の指先で擦った。
「さあ、ここよ」
響は大きな生唾を飲み込んだ。
「あんたは…」と、響が言いかけたところで、咲枝は答える。
「あの男は、わたしが殺したの。そうよ。その通り。裸で抱き合って、くだらない会話をした後に、面倒になって殺したの。信用がなくなったの。それで殺しちゃったのよ。刃物で彼の首を刺して掻き切ったの。『氷の微笑のシャロンストーン』みたいに、刺して、刺して、刺しきったの。酷く血が溢れて飛び散ったわ。もう二度とあんな真似はしたくないわ。処理するのも大変だった。嫌な気分だったわ。あなたはどうする?わたしを撃ち殺す?処理するのは大変よ。でもどうでもいいのよね。あなたは守りたい地位も何もないから処理も何も必要ない。わたしを殺す。それで満足なんでしょ?たったそれだけで。さあ、撃って。ここが胸よ」
咲枝は妖艶な声で、響を誘う。
まさが嶋咲枝に刺し殺されるイメージが響の脳裏に過ぎる。同時に強面ながらも、優しく微笑むまさの顔が浮かぶ。いくつかのまさの思い出が浮かんでは消えてゆく。
「さあ、ここよ!」
咲枝は強い声でそう叫んだ。衝動と共に、響は引き金を引いていた。弾丸はまっすぐ飛んだ。貫通し、後ろの壁にめり込んだ。
大きな衝撃の後にはとてつもない静寂が辺りを包んでいた。耳鳴りがしていた。サイレンサーをしていても音は壁に打ち込まれた衝撃音が漏れた。
嶋咲枝は立っていた。立ったままだった。彼女の体を貫通はしていなかった。体は綺麗な肌色を保っていて、どこも赤く染まっていなかった。弾丸は乳房を持つ左手と左腕を張った左肘の間、つまりは左脇の間を見事に通過したのだ。
「どうしたの?どこを狙っているの?」と、咲枝は言った。
彼女は不思議と悲しそうな顔をしていた。
部屋のドアが開いて、誰かが駆け寄ってくる足音がした。すぐに響は後ろから強い力で抑えつけられた。拳銃を持つ手を強く叩かれ、拳銃が床に落ち、響はうつ伏せて押し倒された。
嶋咲枝はバスローブを身に纏った。
響が顔を上げるとそこには木崎のでかい顔があった。木崎は腕が折れるくらい強い力で腕を固めていた。
「てめえ!なにしてんだ!こら!ぶっころすぞ!」
木崎のでかい怒鳴り声に、響は何も言えなかった。ただ本気で腕が痛かった。
「先生、大丈夫ですか?」
今度は優しい声を木崎は咲枝に投げかけた。
「そうね、ちょっとびっくりしたけど、大丈夫よ」
「こいつ、どうしましょう?」
咲枝は少し考えて首を捻る。
「そうね、とりあえず、内々に処理して。外に音は響いたかしら?銃の音」
「それほどではないかと思いますが、同じ階にはわずかに衝撃音が伝わったかと。ですが、内々に何とか処理しておきます。それで、こいつはどうします?どこかに捨てますか?」
咲枝は首を振る。
「いいのよ。大丈夫よ。ちょっと若すぎたのよ。考え方が少し甘かったの。外へ連れて行って、頭を冷やさせて、家に帰しなさい。別に大した事じゃないわ」
「しかし、先生。こいつは先生を」
「大丈夫。大丈夫よ」
響もあまりにも意外な答えに声を失った。まるで釈迦の掌の上にいるかのようだった。木崎に銃を取り上げられ、腕を引っ張られながら立ち上げられた。
「さあ、来い!」
そしてそのまま、部屋を連れ出された。
「これ以上変な真似はするな」
部屋の外に付き出され、響は掴まれていた腕を解放された。
異変を感じたのかエレベーターの方向からガードマンがやってきて尋ねた。
「どうかされましたか?」
「いや、ボールを壁にぶつけたらしく、たいしたことではありません」
「はあ、そうですか」
ガードマンは木崎の変な言い訳に不思議そうな目をする。しかし下手なことも言えずガードマンは木崎の言い訳に納得したふりをする。
「お帰りですか?」
「ああ、警備をよろしく頼む」
木崎は響が変なまねをしないよう肩を抱きながらエレベーターのある方へと連れていき、やってきたエレベーターに乗り込んだ。ガードマンは敬礼していた。そして嶋咲枝の滞在していた階のエレベーターのドアは閉ざ去れた。
※
五十嵐邸の時に引き続き、嶋咲枝殺害を失敗に終った。しかも今回のミスで、嶋咲枝に殺意を読み取られてしまった。もう3度目はないだろう。
響は途方にくれる。本来なら自分が殺されてもおかしくない状況だが、嶋は響を生かした。それは結局、生殺しにされた状態、響はただの運び屋として嶋の下でずっと働いていくことにしかならないのだと痛感する。
まさの仇を打てなかっただけでなく、嶋咲枝殺害の失敗はより絶望的な結果をもたらした。行き場を失い途方に暮れるしかなかった。
捨てられた犬だけ。他には誰もいない公園にいた。数分前、響は木崎に連れられ、この公園付近に降ろされた。降ろされたというよりは降りた感じだ。なぜなら木崎はいっさい口を開かなかった。彼の煮え切らない気持ちが響にも伝わっていた。
木崎はただ黙って、ホテルを出ると、適当な住宅街に入り、人気のない路上に車を停車した。何も言わずに響が降りるのを待っていた。響はそれを感じ取り、何も言わず車を降りた。ドアを閉めると、木崎は一切目をくれずに去っていった。
捨てられた犬を見つめる。犬は一瞬響の方を見返したが、すぐに目を逸らした。帰らない主人を待っているようだった。
次の瞬間、心に痛みを感じた。痛烈な痛みだった。恥ずかしさや情けなさが心を責めていた。どうしようもなく行き場の無い感情が込上げてきた。五十嵐邸とは比べ物にならない苦しさが生まれていた。
いまだ冷めやらぬ興奮もどこかにあった。震え、恐れ、それから寂しさ、様々な感情が止め処なく交互に押し寄せた。何も考えられず、何も思い出したくなかった。殺害失敗の記憶を全て消そうと脳が足掻いていた。忘れたかった。忘れてしまいたかった。
『いったい何なんだ。いったい何なんだ。いったい何なんだ。いったい何なんだ』
頭の中はそう繰り返していた。何度も何度もやってくる苦しい感情に答えを探そうとしていた。答えを求めたけど答えは見つからなかった。
そして感情を捨て冷静になることだけを求めた。冷静さを求めると少しずつ冷静になれていった。やがて感情はどこにもなくなっていた。
『いつもの日々に戻るだけだ』
ここから自由に逃げ出せる可能性が脳裏をよぎる。全てを捨てれば自由になれる。でもその想像はすぐに消えた。
『いつもの日々に戻るだけだ』
東京都内でも一歩住宅地に入り込めばとても静かだ。蝉の鳴く声が聞こえていた『夏だな』と響は思った。遠くに人がいた。響はその人がこちらを見ているのを感じ取った。
そっちを見返した。そいつは遠くからスタスタと近寄ってきた。小柄な若い男だ。
「すみません。先ほど、嶋咲枝さんのボディーガードの方と一緒でしたよね。嶋咲枝さんとはお知り合いですか?それから、僕、あなたを青山の五十嵐さんというお宅の傍で見かけた気がするんですよ」
近くで見ると、男は小太りだった。目がニヤニヤしていた。
「だとしたら?」と響は答えた。
「いやあ、だとしたら嬉しいな。僕ね、前野正というフリーライターです。この数年間ずっと嶋咲枝さんを追っかけてまして。今日もこの辺りで見失ってしまったんですが、近くのコンビニでボーっとしてましたら、たまたま嶋咲枝さんのベンツを見かけまして、それで追ってきたらあなたが車から降りるのを見まして。まあ、直接はお会いできないので、周りの知り合いの方に声を掛けているんですよ」
「俺は知らないな。さっきの人とは昔世話になった人の知り合いで、彼がたまたま俺を見て、車で送ってくれただけさ」
「そうなんですか。ホントに?」
「それだけ。…、ただ、あの政治家には少し興味があるな」
「そうですか!それはそれは。嶋咲枝さんはとても特別なオーラがありますよね。僕もあれにやられてしまったんですよ。とても興味深い色々な話がありまして」
「たとえば?」
「そうですね。たとえばあの方は芸術に興味がおありで、そういった方面にはかなり力を入れているんですよね。僕はこのあいだ五十嵐卓人画伯の展示会に行きました。彼は嶋咲枝さんのお気に入りの画家でして、とても素晴らしい絵を描きます。この間の展示会も『春空の女』という作品がとても好評でした。僕はあの女の絵を見た瞬間、嶋咲枝さんが浮かびました。彼は彼女を描いたのじゃないかと。笑顔の下の悲しそうな顔、その下にまた笑顔があって、その下はまた悲しそうな顔、その表情が何重にも塗り重ねられたような女の絵なんですが、その表情に嶋咲枝さんを思い出させるんですよね。追いかけている僕にしかわからないかもしれませんが」
響は黙っていたが、少しだけ頷いてみせた。
「少々、話が逸れましたね。五十嵐画伯でなく、嶋咲枝さんの話でしたね。後は、孤児院を回ったり、小中学校で講演したり、子供たちの未来を考えた活動をしている点が素晴らしい。それから貧しい低所得層の若者への労働条件改善にも力を注いでいる。政治のしがらみとかは関係なく、そういった活動を続ける彼女に僕は惹かれるですよ」
「具体的じゃないな」
「そうですね。じゃあたとえば彼女が回った孤児院の人に何度か話を聞いたことがあります。彼女は施設の方の意見を真剣に聞き、人材派遣や紹介会社にも出入りして、若者向けの企業を援助する法案を考えているそうです。これもあまり具体性がありませんがね」
「まあ、なるほどね」
「ですがね、僕が興味を持っているのは彼女が何をしようとしているかという点よりも、彼女がどうしてそこに力を注ぐかという点なんですよ。世間はあの方の美貌とか色気とか、なんだかんだと言ってそういった話ばかり取り上げますが、あれは色気とかじゃなくオーラなんですよ。僕は彼女の持つオーラの根元が知りたいんです。なかなかそこに辿り着けませんが」
「オーラ?根元?そんなものは無いんじゃないかな?」
「え?何でそんな事を?言えるんですか?」
「いや、そういうの俺はないと思ってるんで」
「まあ、それはそれとして、ところで、あなたは本当に、嶋咲枝さんとは未関係なんですか?五十嵐さんの家でも見たような。僕は一度見た人はほとんど忘れないんですよね。そのくらいしか取り柄がないけど」
「五十嵐?それは勘違いでしょ。俺はあの政治家とは今のところ何の関係もないよ」
「今のところ、ねえ」
前野はズボンのポケットから一枚の名刺を取り出した。
「あなたにも少し興味が湧きました。『今のところ』じゃなくなりましたらご連絡ください」
響はにやりと笑って、それを受け取った。
「まあ、金のない貧乏ライターですが、ネタを求めてどこにでも駆けつけますので。じゃあよろしく」
前野はそう言い残して、響の前から立ち去っていった。
何かがふと覚めた。土砂降りの雨が止んだ後のような静けさが響の心に訪れていた。
『今夜の事は何もかも忘れよう』
響は心の内でそう呟いた。名刺を見た。
『前野正』
可能性はまた別のところから湧いてくるかもしれない。その予感に賭ける。
捨てられた犬はどこかへ行ってしまっていた。自分で歩く足を持っていたのだ。響もまた何の答えもないまま一人で道を歩き出していた。
そのままずっと歩いて家まで帰っていった。