2.仕事
五十嵐邸での殺害計画失敗から、数日が過ぎていていた。
響は毎日に近いペースで通っていた居酒屋「ふくちゃん」にも行かず、毎日を家で過ごしていた。今日もソファーに寄りかかり、グラスに注いだスミノフをツマミも取らずにロックで飲んでいた。この数日間ただ酒を飲むだけの毎日が続いている。
一丁の拳銃がガラステーブルの上に置かれたままになっている。空になったビールの空き瓶の横に存在感を見せている。
嶋殺しを指示した斉藤は五十嵐邸での失敗以後、一度もやってこなかった。単純にミスした響を使うのを止めて別の殺し屋を探しに移っただけなのか、今は様子見ていてやって来ないのか、理由はわからない。響は頭を巡らせるがその答えは見つかりそうにない。やはりどこか別の場所で適材でも探しているのだろうと決め、気持ちを落ち着かせた。
『十万円も、拳銃も、斉藤にとってはどうでもいい代物。金はおそらく大量にあって、可能な限り、嶋を殺すために金を使っている。可能性の一端として俺に任せ、試みてみたが失敗に終った。もう俺は用無しとなった。いちいち俺を消すのも余計な手間だ。だから斉藤は俺の前から何も言わずに姿を消した』
響はそう結論付けて斉藤を忘れることにした。
斉藤の替わりに響の住処を訪れたのは、木崎だった。
木崎は響に麻薬の受け取り場所を指示してくる男だ。背が高く、無口。少し響に似ているが、木崎は三〇過ぎくらいで、体もがっちりしている。背広を着ていてわからないが、彼の体はプロレスラー並みの鋼の肉体を持っている。
木崎はその日もいつものように無口だ。少し周りを気にしながら響の隠れ家(マンションの裏口を地下に下りていったところにある一室)に入ってきた。
響は拳銃を机の中にしまい込み、木崎を家の中に迎え入れた。
彼はいつもと変わらず、一枚の指示書と五十万の束が入った封筒と、その半分の金が入った封筒を響に渡した。指示書は麻薬の受け取り場所と日時が書かれていて、五十万の束は響のもの、その半分の物は麻薬を運んできた男に渡す金だ。
麻薬そのものの金は裏口座で取引されている。彼ら(裏組織の者たち)には裏口座どころか公ではない隠し銀行も存在している。だから金のやり取りはそこで行われる。響のような末端の仕事をしている人間にはその銀行に入らせないよう、現金でやり取りが行われる。
銀行だけでなく、裏組織の者たちは金でない物のやり取りも上手い。一目では金になるのかならないも取引に使っている。彼らはそういう点に関しては最も抜け目なくやり取りを行う。
『じゃあ、よろしく』とだけ言って、いつもならすぐに立ち去る木崎だが、その日は珍しく一杯のビールを望んできた。
「すまんが、ムシムシとしていてねえ、喉が渇いて仕方ない」
木崎は真面目にそう願った。響は冷蔵庫からバドの缶ビールを木崎に渡した。木崎はそいつのタブをプシュッと開けると、グビグビと一気に飲み干した。
「すまんな」
「いえ、結構ですよ」
「助かったよ。じゃあな」
ど太い声でそれだけ告げると、木崎は大きな図体を悠々と動かし、玄関の外へと出て行った。会話はそれだけだった。
響はいつもと違う木崎の行動を疑ったが、去ってゆく木崎を見て単純に喉が渇いていただけだと、その疑いを振り払おうとした。それでもその疑いはすぐには振り払えなかった。
響は考える。木崎は周囲を気にする様子もなかった。周囲の変化を気にするタイプの男であることを、過去の行動から知っていた。響と違い、運び屋にはあまり向かない男だ。ただ信用はおける真面目な男。だから嶋の直属なのだ。木崎が何も聞かされていないだけなのか、嶋自体も気づいていないのか。五十嵐邸での失敗から来る不安を決して払しょくできたわけでもない。
この指示書に罠が隠されているのかを想像すると少し不安を感じた。でも冷静な一面も消えてはいなかった。『きっとまたいつもの繰り返しに戻るだろう』そう考えて心を落ち着かせる。それと同時に、また変わらない日々がこれからも続くことに気を重くした。『俺の人生は変わらない。気に入らない女の下で永遠に裏の仕事を続けてゆくしかない。豚箱に入れられない自信はある。死を選ぶこともない』
だが、今のままの毎日を変えたいと望んでいる心もある。その感情が響を揺らす。その虚しさが響の心を荒ませている。
「はあああ」
どうしようもなく行き所のないような感情が、響は大きな溜息をつかせた。
※
麻薬の取引をする指定の日までにはまだ一週間ほどの猶予ある。響はそれまで気ままに過ごすこととした。
気晴らしに水道橋駅まで来ていた。新宿行きのホームの長椅子に女は座っていた。その女の名前は玲香と言った。本当の名前かどうかは分からない。響にはそう名乗った。
「それってナンパしているの?」と彼女はストレートに聞き返した。
響は微笑んだ。
「ああ、ただ、初めてなんだ。なんて声を掛ければいいかわからなかった」
玲香は妖艶な瞳で響を見つめていた。響はうまくいったかどうなのか、気になって仕方なくドキドキしていた。
「かわいいわね」
そう言われて、響は不服な顔をした。
玲香。年齢はだいたい二四、五歳。しかしその落ち着いた態度から本当は三〇を少し越えているのかもしれないと感じさせる。一方、顔だけ見ていると、彼女は響と同じくらい(二〇くらい)にしか見えない。
彼女は派手な柄の入った青いワンピースを着ていた。海のうねりか、太平洋の天気予想図か、そんなよくわからない模様のミニのワンピースだ。下には何も穿いていないかのような露出感があった。
胸の谷間はくっきり見えて、白い美脚が太ももの上の方まで見えていた。
数十分前に話を戻す。響は風俗店の店長をしている式羽と共に総武線沿いをうろうろしていた。
「今日は時間ないんだよ」と、式羽は言った。
その日、響はいつものように何か抑えきれないムラムラとした感情を持っていた。
一七時に響は、『MAKE LOVE 1 HOLE(式羽の経営する店)』の前で式羽を誘い、一緒にナンパをしに街へ出た。今時、街で声を掛ける男も少ないが、式羽は十年来このスタイルを変えていない。それでも女はしっかり引っかかる。
響はいつも式羽の裏でスタンバっている。
しかしこの日の式羽は、風俗店に女が面接にやってくるという予定が入っていて早く戻らなくてはいけなかった。
「おお、運がいい。響、よかったなあ」
響と式羽は御茶ノ水方面行きのホームから反対ホームを眺めていた。
「あそこに女がいるだろう。時刻は一八時。夜のお仕事じゃなければ、間違えなく、ただの暇な、やりたい女だ。俺が声を掛けるまでもない。自分で声を掛けろ、いいな」
「式羽さん」
「大丈夫だって」
響は久々にたじろいだ。が、式羽は次に来た電車に乗って戻っていてしまったため、仕方なく反対ホームへと一人で駆けて行った。
そして、最初に戻る。
「どうなんだ。飯をおごるから」
玲香は響のその言葉ににこっと笑って、いいわと応えた。
二人は水道橋の駅をそのまま出て、東京ドームとは反対方面の道を歩いていき、途中にあるこじんまりしたダイニングバーに入った。
お互いにほとんど会話はなかった。料理と酒の名前、それが好きか嫌いかという話だけをした。酒が出てきたらグビグビと飲み、料理が出てきたら黙々と食べた。
三,四〇分程度いて二人はその店を出て、さらに歩いていったところにあったビジネスホテルに自然と入っていた。そしてダブルの部屋に行き、玲香は服を脱いだ。
「シャワーを浴びさせて」
響が近づくと、玲香はそう言った。
ベッドの上で二人は終った後の余韻に浸っていた。
響は玲香の指をただ眺めていた。
「本当に初めてなの?ナンパね」
「いや、一人では初めてだ」
「彼女はいないの?」
「いない」
「うそ!いないふりをしている。あなたの周りにはたくさんの女の子がいるのに、あなたはその気持ちに応えようとしていないだけ」
「そうだとしても、彼女はいない」
「あなたは何を隠しているの?」
響は玲香の顔を見つめた。
『警察?組織のもの?記者?恨みのある者?』
響は逆に玲香の顔から彼女の正体を探ってみようとしたが、彼女の顔は想像する限りどの的に当てはまらることもなかった。
「君は何の仕事をしているんだ?」
響は寝る女にそう質問をした。かつてそんな質問を投げかけたことは一度もなかった。それは響が初めてする女への質問だった。
そんな質問をすれば余計な事を聞き返される。自分が麻薬の運び屋だとは答えられない。余計な嘘をつくのも面倒なだけだ。だからなるべく関わらない。それが普段の響だった。だけど、その時に限っては別だった。
「ただのOLよ」
「それはつまらない質問をしたな。そんな事は聞くべきじゃなかった」
「そうね。つまらない質問ね。聞くのなら、もう少し別の事を聞いて欲しいわ。私の質問にも答えていないのに」
そう言われて、響は自分が質問されていたことを思い出す。
「隠し事なんて、誰だっていくらでもあるだろう」とぼやかす。
「それはそうね。でもあなたはもっといろいろ深い何かを持っている。私にはそれが覗けない」
「覗けない?」
「そう、覗けない。私は意外と人の顔を見るだけでいろいろなことがわかるの。その人の周囲の環境、仕事、家族構成、その人の人間性。私は気の晴れない日にはいろいろな男に抱かれるの。出会い系とかじゃなくて、ちゃんと会ってその人の顔を見て決めるの」
「君を誘ったのは、俺の方だぜ」
「あなたじゃなくても、どこかの男がいずれ私を誘ったわ。自慢じゃないけど、私はいくらでも男を誘えるのよ。私はそうやって気に入った男にだけ抱かれるの。そしてその男を知るの。お金のある、いい男。それから一度きりの関係で、もう二度と求めてこない男、私はいつもそういう男を求めているの。あなたもその二つには当てはまっているはずよ。でもたいていの男は、何処かの社長だったり、金持ちの小僧だったり、IT関係で稼いだ男だったりするの。でもあなたはそのどれとも違う。そういう男は家族環境もたいていマザコンに近いような男よ。でもあなたには親の匂いがしない。一人っ子っていうのは当たってる?」
「もし当たってても、どっちでもいいだろ?」
「ええ、どっちでも構わないわ。ただ、私は人の事がわかる。そしてあなたの心も分かる。あなたには好きな女性がいる。本当はその女の子を幸せにしてあげたい。でもあなたは何かのためにそれを避けている。そうでしょ?」
何も答えなかった。全て当たっていた。
響はさくらを好んでいる。そして彼女を本当は愛したい。でも運び屋というどうしようもない仕事をしている自分と、神主の孫娘で、巫女さんである彼女とでは到底つり合わない。女を抱くのに抵抗はないが、さくらと一緒になるのは簡単なことではない。
響はさくらを思ったが、口には出さなかった。
玲香は続けた。
「私は思うの。あなたは幸せを掴める可能性を持っているんじゃないかって。でもあなたは普通じゃない。だから私にはこれ以上何も言えないわ。一つだけ言うのなら、あなたは今まで会ったどんな男より興味深い男ね」
響は眉間に皺を寄せて、玲香を睨んだ。
玲香は微笑んでいた。
「そんな怖い顔しないでよ」
落ち着かない感情が響を包んだ。
「ちょっとお、いきなり…」
『おまえはただの女だ。俺がナンパした女だ。偉そうに上から者を言うな!』
響は心の中でそう叫んでいた。そしてその女を支配した。その全てに響は満足していった。
『俺の気持ちに触れようなどと、この女!』
よくわからない苛立ちがこみ上げていた。
『ただの女だ』
さくらを特別なものとし、その女をただの女にして一線を引こうとしたのだろう。響は玲香をただの女としたかった。そのただの女が人間味を持つことが許せなかった。
支配してやろうとした。
『俺はただ、落ち着かない感情を抑えたいだけなんだ』
運び屋の仕事まではまだ数日ある。一ヶ月に一度程度のその仕事に全神経を集中する。だから今は全てを忘れていたい。全ての欲望をむき出しにして、その日その時に余計なものに誘われないようにしている。金を楽して稼ぐにはそれなりの力が必要なのだ。響は自信を持っている。だから全ての欲望を吐き出す行為を肯定している。その日のために。
※
いつもの夜だった。そこにはいつもの夜があった。
居酒屋「ふくちゃん」。なんとも地味な名前の居酒屋。名前のとおり、ふくちゃんという女性が女手一人で切り盛りしている居酒屋である。
上野響はそんな居酒屋に13歳の頃から通っている。常連であった響の育ての親に連れられて、毎夜毎夜通っていた。そこは現実感の与えてくれる明るい場所だった。ずっと外にも出られず家の中で育てられていた響が、初めて人と接する機会を与えられた公共の場だった。
周りの人はとても愉快で、明るい。いつからか歌い人と呼ばれる男が現れ、ギターを弾きだすようになったし、いつからかふくちゃんの娘である由佳が店を手伝うようになった。響はそんな居酒屋を帰る場所としていて、その日も帰ってきた気持ちになってカウンターで飲んでいた。
時間は21時を過ぎていた。
その平日の夜は、神主のかんさんがいて、商店街の活気のなさを題材にして響に熱弁していた。バックミュージックとして、「TEACH YOUR CHILDREN」が、歌い人によって歌われていた。
かんさんは言う。
「だいたい若い奴らはコンビニだの、スーパーだのあんなところばかりしか行かねえ。昔は商店街で話ながら買い物をしたものだ。そして年に一度の祭り、商店街を中心とした活気に溢れる祭りじゃ。今じゃ、ただの見世物じゃ。携帯電話なんかで撮って。祭りは参加するもんだろ」
そんな話を永遠と2時間、一ノ蔵の一升瓶を響と二人で飲み合いながら、一人で話し続けている。
時間はもうすぐ21時半だ。この時間になると、いつものかんさんの娘さくらが迎えに来る。
酒と一緒に並べられたカウンター向こうにあるフクロウの置時計は21時35分を示している。響はその時計が5分進んでいるのも知っている。
ガラガラと計ったかのように、ふくちゃんの店の扉が開く。そこにはさくらがすらりとした姿で立っている。実際にさくらは計って店にやってきたのかもしれない。
「こんばんは」と元気よく声を上げるふくちゃんに、さくらは軽く会釈を返して入ってきた。
「なに、さくら。もう来たか」とかんさんが言う。
「おじいちゃん。そろそろ帰ろ?」
「かんさん、お迎えね。つけとく?」
「いやあ、わしはまだ、響と話があるんだよ。もう少し待ってろ」
さくらは響に目をやる。
「話があるならよ、送ってくから、そん時に話な」
「ん、なんじゃ、ここで話してもいいだろ?」
かんさは響の返しに慌ててそう言い返すが、もう響は立ち上がり、勘定を払おうとし始める。
「ははははは、響君の方が一枚上手ね」
ふくちゃんが笑って、伝票をレジに打ち込みだす。響は軽い笑みを浮かべる。
「いつもすみません」
さくらが申し訳そうに言う。
そんなわけで響は勘定を済ませ、外へ行く。昼間は暑かったその日だが、夜はすっかり涼しくなっていた。響は若干足取りのおぼつかないかんさんの肩を抱いて、坂道を登ってゆく。
静かな一日だった。
「あのな、響」
「なんだ。ホントに話があんのか」
「話はある!いいからよく聞け!」
「はいはい」
かんさんと響が話をし、さくらは後ろからゆっくりついてきて、二人の話を聞いている。
「まさとおまえが何の仕事をしてるんか、わしはよく知らんが、もうすぐ一周忌だろ?それを機におまえはもう別の道へ進め」
響は黙っていた。まさかそんな真面目な話をされるとは思ってもいなかった。
「どうせろくでもない仕事。あの男はいいかげんな、ああいう男だ。世の中にはああいう男もいる。しかし響、おまえは違う。その道じゃねえだろ?」
「おじいちゃん、ちょっと今日は飲みすぎよ」
響は黙っていた。
「借りを作った男には感謝せねばいかん。しかし、もういいだろ。その気持ちを持つ事とおまえの人生とは別だ。あの男にこだわるな」
13歳からまさに育てられていた響は、実際に感謝の気持ちを十分に持っていた。かんさんの言う事は響の心の内を見透かしているようだった。
やがて神社の脇にあるかんさんの家に着いた。響はかんさんを部屋まで連れて行き、すでに敷かれていた布団に寝かせた。
「じゃあな。おやすみ」と響が言うと、
「いいから、おまえはな」とかんさんは寝言のように言った。
「いつもすみません。コーヒーでも飲んでいきます?」とさくらが気を遣う。
「いや、夜風でも当たって酔い覚ましでもしたいんで、外で缶ジュースでも」
さくらは「じゃあ、私がおごります。そこまで一緒に」
二人は神社のベンチに腰掛けて、缶ジュースを飲んでいた。雨の気配もなく、空には東京なりの星空が見えた。喫煙所があって、仕事帰りの二人のサラリーマンがそこで煙草を吸っていた。
「すみません。いつもおじいちゃんが」
「いや」
言葉のやり取りはそれだけで全く続かなかった。さくらは話をしようとしていた。でも、響の事を聞いていいのか事なのか、それがさくらにはわからなかった。
「さっきの事」
さくらはぼそっとそう呟いた響の方を見た。
「はい?」
「あれって、さくらちゃんに言ってたのかもね。『借りを作った男には感謝しなくちゃいけない。しかしもういいだろ。おまえは別の道を歩め』って」
さくらはその意味を理解した。
さくらは両親を失い、祖父母に育てられた。しかし15の時に祖母を亡くし、祖父であるかんさんにその後を育てられた。といっても、かんさんは15の時から飲んだくれになり、むしろさくらに面倒を掛けっぱなしだ。4年間、さくらは高校・大学への進学も諦め、働かなくなった祖父の代わりに巫女としてその神社を支えてきた。
「わたしは、この神社で育ちました。おじいちゃんも昔は熱心に神様へ奉納してました。わたしはこの神社が好きだし、おじいちゃんも好きです。好きで、好きな事をやっているんです。だからさっきのはおじいちゃんが響さんにですよ。わたしにじゃありませんよ。勘違いですよ」
「そうか」
でも、響には別に自分の道なんてものはなかった。ただ他に何をしていいかわからないから今の仕事を続けているだけだった。
嶋咲枝を殺せば、全てが変わるかもしれない。もしくは全てが終わるかもしれない。それ以外の道など響にはなかった。しかしその狙いは今のところ零に戻ってしまった。
響はグビグビと一気に缶ジュースを飲み干した。そして立ち上がった。
「酔いも覚めたし、もう帰るよ」
さくらも立ち上がった。そして軽く頭を下げた。
「今日はありがとうございました」
「いや、べつに」
響は缶ジュースをゴミ箱に捨てると、さくらを見送りもせず神社の外へと出て行った。
さくらは想っていた。本当の想いは別にあった。彼女は貧しい国へ行き、恵まれない子に勉強を教えるという夢があった。母親譲りの教育観を持っていた。そして少しだけ響の事を想っていた。そんなふうに考える生き方は、さくらの母親にそっくりだった。
さくらはそういった夢は夢のままにしようとして、もしくは決して進んではいけない道だと決心し、今の生活を続けてきた。
『おまえは別の自分の道を歩め』
確かにその言葉がさくらに向けられた言葉だとしたら、さくらは思い当たる節があった。でもそれはきっと気のせいで、あれは響への言葉だとさくらは決め込み、祖父のそんな言葉を忘れることとした。
※
横浜市金沢区並木、工場や物流倉庫が立ち並んでいる。本日の響の待ち合わせ場所はそこだった。
響は白い縦じまの半袖シャツにジーンズといった、ありきたりの服装で並木北の駅を降りる。時間は夜も更け始めた21時。休日なので会社員の姿も見受けられない。海へと繋がる一本の水路で響は待ち合わせの相手を待っている。
たくさんの車は過ぎてゆくが、歩く人の姿はない。せいぜい自転車をこいでいるカップルが通り過ぎていったくらいだ。工場の脇にはいくつかの監視カメラが付いているため、そのカメラに映らないような場所を定めそこから動かないようにした。そして壁にもたれて相手が来るのを待った。
21時35分、遠くからモーターボートの音が鳴り響いてくる。響は人並み外れた聴力でその音を聞き取る。
『あと5分以内にここへ来るだろう』
そして事実、音を落としたモーターボートが5分後に響の下へとやってきた。
船に乗った男はガードレールの支柱に縄を結びつけてから、甲板の下に眠る大きなアタッシュケースを持ち上げた。男は雨合羽を深々と被っていて、顔を隠していたが、見る感じでもう60歳前後の男のようだった。その男には何度か会った覚えがある。場所は違うが、同じ仕事で顔を合わせている。
男は慣れた感じでガードレールに手を掛け、重いアタッシュケースを片手で持ったまま、地上へと上がった。
そしてガードレールを跨ぎ、響の前にそのアタッシュケースをドサッと置いた。
響は何も言わずに手を出す。肩掛けかばんの中から先日木崎に預かった封筒を取り出し、その男に渡す。
男はそれを受け取るなり中身を見て、札の枚数を数える。
「ち、これっぽっちか。やってられないねえ。だいたい今時、こんな危険なルートでやってて、これっぽっちとは、何をやっても格差だね。格差」
響はアタッシュケースの重さを確認して納得する。
「このルートはしっかりと約束されたルートだ。相当なへまをしなければ、あんたがどうなるって事はない。ただの運び賃にしては多すぎるくらいだ。それに運び出す前にそこからあんたは別の報酬を受けてるんだろ」
男の目を睨み付けてそう言うと、男は尻込みをした。
「わかったよ。できればあんたのボスにそ報酬の事言っておいてくれよ。俺だって周りから白い目で見られてて、生きた心地がしないんだよ。そういう気持ち、あんただってわかるだろ?そういう分の慰謝料っていうようなもの」
「さあな。俺はこれしか知らない」
そう答えると、男はもう勘弁だ、という態度でひょいっとガードレールを跨ぎ、甲板へと下りていった。
響はそのアタッシュケースというか旅行用のスーツケースをガラガラ引いて、いかにもただの旅行者といった態度で来た道を戻っていく。
その中身を知っている。しかし確認する必要はない。その立場にはない。さっきの男もそうだ。彼らは渡されたそいつを無事に与えられたルートで届ければいいだけなのだ。大きな金のやり取りは裏でやられている。だから運び屋の分だけが現金で行われる。彼らの分だけが博打で得られた金のようにやり取りされている。大きなマネーゲームはもっと別の頭のいい連中がやり合っている。響がそこに関わることは無い。響はそのロックされたケースの開け方さえ知らない。
23時過ぎにはいつものマンションに辿り着いていた。正面から入って、裏口を出て、裏口にあるドアを開け、地下への階段を下りたところにある部屋に戻る。響はかれこれ4年くらいここに住んでいる。
24時に木崎はやってきた。その日は休日だったので、木崎は休日に合わせたラフなポロシャツにチノパンといった姿をしていた。
響は木崎の姿をろくに確認しもせず、部屋の扉を開けて中に招き入れた。そしてあそこに置いたというようにソファの横にあるケースを指差した。木崎は何も言わずケースに近づく。キーフォルダーにくっついている小さな懐中電灯みたいの装置をアタッシュケースに当てる。するとアタッシュケースはピピッと言って反応する。それからアタッシュケースに付けられた暗証番号式のロックをクルクル回して数字を合わす。最後にありきたりの普通のスーツケース用のキーを差込んで回す。するとケースは開く。中には白い粉が満杯に詰め込まれている。
木崎はその中の一番小さな袋を少し開けて、味見をする。その確認が終わる。再び袋を閉じる。一端差込型のキーを閉じたところで、後ろからそれを見ていた響に尋ねる。
「いくらかいるか?ここらでばら撒いてもいいんだぜ。おまえなら捕まんないだろうし」
響はすぐに断った。
「そうか。まささんの頃はよくそうしてたがな。まあいいや。おまえはいろいろと興味ないみたいだし」
木崎はそう言って、全てのキーを閉じ、大きな図体でケースを持ち上げた。ズボンのポケットに入っていた成功報酬50万を響に渡すと、ろくな挨拶もせずに響の部屋を去っていった。
部屋の鍵を掛けると、小さなショットグラスにテキーラを注いでそいつを一気に飲み干した。それから机に向かい、一番上の扉に金をしまう。
今度は一番下を開いた。そこには拳銃が入っている。そいつを取り出し、打つ真似をして標的を探す。想像の女、嶋咲枝が浮かぶ。
『あんたのボスに言っておいてくれよ』という船の男の言葉が思い返される。
『チャンスはいくらでもあるのかもしれない』と響の脳裏に誰かの声がよぎる。その声は死んだまさの声に似ていた。まさも3ヶ月に一度は嶋咲枝に会っていた。響はその事を知っている。
『なら、俺にも、あの女に会うチャンスはあるはずだ』
脳裏に浮かぶ。やがて来るかもしれないチャンス、再び木崎がその部屋をノックする日を思い浮かべる。そしてそのチャンスを作り出す。嶋咲枝を殺害する。
※
7月8日、響は群馬県南部の利根川沿いにある、あるお寺を訪れていた。天気は曇り、静かな一日だった。
その日はちょうど、響を13歳から育ててくれた、まさの一周忌にあたった。
まさは人付き合いが苦手で、特別な友人もいなかった。母親と弟が今でも群馬県の利根川沿いに住んでいる。でも16歳の時に家を出てから亡くなるまでほとんど会うこともなかった。
昨年のまさの葬儀は親族が数人集まり一応執り行われた。まさは15、16歳の頃、手のつけられないほどのワルだったので、誰も近寄らなかった。親族のほとんどは面倒な奴が死んだとせいせいしたという顔をしていた。
一周忌法要が行われるかどうかもわからなかったが、その日、響が墓を訪れるとしっかり前の日か前々日のあたりに行われたらしい痕跡として、線香の消しくずと供えられた菊の花があった。
とりあえず墓の前で手を合わせた。他には何も持ってこなかったのでただそれだけの行為をした。自分にとって唯一の存在だったまさに手を合わせないわけにはいかなった。
そこへ一人の男が近づいてきた。響はその存在に気付いていたが、ここまで来てわざわざその男の存在を避けて手も合わせず引き返す気にもならなかった。
男はずっと前から墓の傍にある木の脇でまさの墓に来る誰かを待っていたようだ。響はできる限り気にしないようにまさに手を合わせ『安らかに休めよ』と祈った。
去り際になってその男は響に声を掛けてきた。
「月島雅弘さんのお知り合いですか?」
その男は、身長170cm程度、やせた30歳前後の男だ。
「まあ」と、響はそっけなく答えた。
「ああ、すみません。そうですか。わたくし…」
男は薄手の上着の胸ポケットから警察手帳を取り出した。
「警視庁生活安全課の、馬込純平と申します。それで、わたくし、一年前に亡くなられた月島雅弘さんについて調査してまして、何かご存知ありませんかねえ?」
響は何も言わずに馬込の言葉を待った。
「昨日、月島さんのお母様と弟さんがこちらに来られまして、わたくし再度、何か知らないかと訊ねたのですが、お二人とも最後に会ったのがもうかれこれ9年前になるらしく、どうも何も知らないらしいので。あの、失礼ですが、月島雅弘さんとはどうようなご関係で?」
「いや、ただ昔少し世話になっただけで」
「どのようなお世話になったのでしょうか?」
「ちょっと仕事を世話してもらっただけだけど」
「確か、彼の職業は運送業だったそうで。でも不思議な事に彼はトラックはおろか、車さえもっていなかったそうで、変わった運送業ですよね」
「…」
「まあ、世の中にはいろいろな運送業者がいるのでしょうね」
「それで、彼は自殺で亡くなったと聞いてますが、何か問題でも」
響は逆に自分から相手が何を探ろうとしているか掴んでみようとした。
「ええ、実は彼の自殺とは関係ないのですが、日暮里スーパー爆破事件というのをご存知ですか?あの時に彼を見かけた記憶がありましてねえ」
「話くらいは聞いた事あるけど」
「実は、わたくし、あの事件の年に、古畑任三郎に憧れて警部補になったのですが、
あの爆破事件が最初に勤務した警察署で起こった最初の大掛かりな事件だったのです。わたくし、運がいいのか悪いのか、あの爆発の後、あの場に、最初に駆けつけた警察官となりまして、そのおかげで日暮里スーパー爆破犯特別捜査班に入りました。
2001年から2005年まで捜査を続けたのですが、結局犯人が見つからないまま、わたくし人事異動となりまして、警視庁の生活安全課に異動となったわけです。
それで現在の職場に異動した後も、自由が利く職場でしたので、勝手にいろいろと調べさせてもらているのですが、日暮里の辺りをうろうろすると、前の同僚に煙たがられまして、それでこんな場所で捜査をしていたわけです。まあ、特別捜査班の頃はデータや資料集めばかりでろくな仕事をしてなかったので、今の方がいいといえばいいのですがねえ。どちらにしてもせっかく警察官になったのに、初めて携わった事件の犯人も捕まえられないんじゃあ、格好悪いじゃないですか。このままでは何かすっきりしないので、爆破事件の捜査を続けているわけです。いや、余計な話ばかりを喋りすぎました。わたくし母親譲りで口ばかり動いてしまうんですよ」
「あの人の事はよく知らない。俺は少し世話になっただけだ」
「そうですか。わたくしはどうしても、月島雅弘があの事件に関与している気がしてしかたないんですよ」
響は知ったこったかというような素振りをする。
「すみませんが、ちょっと帰って仕事をしないとならないんでね」
そしてそんな嘘をつく。
「ああ、これはこれは、どうもすみません。ご協力ありがとうございます」
馬込はそう笑顔で言いながらも目は冷静に響の顔を捉えていた。今度どこかであってもすぐに気づけるようにじっと響の顔を覚えているようだった。
響は馬込の話が気になった。
日暮里スーパー爆破事件とまさの関わり、響は考えたこともなかった。響は少なからずあの事件を気にかけている。なぜなら響の実の両親はその爆破事件に巻き込まれて亡くなったからだ。そして事件後、響は居所を失い、育ての親となったまさに偶然出逢ったからだ。
お寺を出て、やってきた田んぼ道を戻る中で、響は日暮里スーパー爆破事件の記憶が少しずつ頭から離れなくなってきていた。予想もしていなかったもう一つの復讐を成し遂げる時が歩み寄ってくる気がした。
そして復讐の相手が自分を育てた親である可能性が浮かんできて困惑した。
少しだけ雨が降り出した。そのうち夕立になるかもしれない。響は田んぼ道を駆け出した。行き場のない想いが響を走らせていた。
響が生まれてから13歳まで育てた親は日暮里スーパー爆破事件で死んだ。響を13歳から19歳まで育てたまさは嶋咲枝と会った日に死んだ。
日暮里スーパー爆破犯として警部補馬込の想像は、まさを疑っていた。
響は両親とまさの復讐を考えている。このようなこんがらがった状況を、響はどう打開できるのだろう。そして真実はどこにあるのだろう。
まさが嶋咲枝に殺されたというのも響の想像にしか過ぎない。日暮里スーパー爆破事件の犯人は本当にまさなのだろうか?その事実を探す方法が響にはわからない。
響は復讐を成し遂げられるのだろうか?そして真実はどこにあるのだろうか?物語は交錯してゆく。