欄干
欄干にもたれて目を移すと、横切ってゆくのはアヒルのボート、その中に戯れるのは男女、そして背景には広大な池と緑から黄へ、そして紅へと移りたがっている草木。種類はわからないけれど鳥の鳴き声がする。一種類ではなさそう。小さな鳥が数羽連なるように通り過ぎた。遅れてまた数羽、最前よりもだいぶくっきりと、ちょうど望遠レンズで覗いたようにそこだけ強調されて、背景は淡くぼやけて通り過ぎる。なぜだか色はわからなかったけれど、ちょっとだけ高いところをゆくため、心持ち仰向かなければいけない。
目の前の光景から詩趣を得ている、つもりもない。詩という意味では今見ているものよりもさっき池のほとりに沿って歩んでいたときの印象のほうが記憶のなかであるいは想像のなかでよっぽど詩に近い。そうはいっても、歩む刹那刹那に詩を感じていたわけでもなくて、腕を組みながらぶらぶらしていたその時だって頭はどこか遠く、遥か彼方へふらふら飛んでいったまま、周りを眺めよう、感じようというつもりは更になかった。そもそも風物は意識してとらえようとするものだろうか。おそらく何を思うともなくまずは一瞬の印象にとらえられなければいけない。直観して震えなければいけない。能動的というよりはむしろ受動的な姿勢が要求されるはず。一瞬の印象を故意に捻じ曲げたり整理したりすることは許されないはずだし、すくなくとも抒情詩においては技巧は目についてはいけない気がする。詩人とはそれが自然とできてしまう人種なのだ。そう考えてみれば、僕にはその資質も資格もまったくないとわかる。僕が風景を美しく感じるにはそこから一度離れて、印象を整理したり捻じ曲げたりする必要があって、そうやって初めて、心から美しいと思えるようになる。僕は現実に目の当たりにするものよりも記憶と想像のなかでのそれをより美しく感じてしまう。これはもう今更思うまでもなくずっとずっと感じてきたことだ。記憶と想像を経れば野暮なものですら洗練されたものに生まれ変わって印象づけられる。不思議だ。小説を好む理由は結局そこにあるのかもしれない。文章はどんなに写実を目指しても絵画には勝てず、どれだけ一瞬の官能を表そうとしても音楽には勝てない。詩は音楽に近づくのかもしれないけれど、詩のことはひとまず無視だ。とにかく、記憶と想像との戯れを誘発する点においては文章ほど適切なものもない。いや、これは僕の視野が狭いだけなのかもしれないけれど、でも手軽という意味でも文章は強い。そういうことだ。僕は現実を上手くやり過ごすことができない。だけど時間はいつだって流れてゆくし、現実を生きなければ時間が有り余ってしまうから、その代わりとして僕は文章のなかを生きる。記憶と想像の世界を泳ぐ。現実ではなく虚構を信じると決めたから。だから僕にとって小説を読むことは人生や人間を考えることではいささかもなくて、いや本当を思えば少しはそれもあるかもしれないけれど、でもそれはあってもなくてもいいことで、ただ単に文章の中を生きられさえすればそれでいい。記憶と想像との戯れを誘発してくれたらそれでいい。いやそう難しく考えなくても、ただ文章に身を任せられたらそれでいい。作者が伝えたいことよりもその作品や文章からどんな印象を受けるかの方が遥かに大切だし、難解な比喩で現実の裏面を示そうとしたものにもそれほど興味はない。そもそも伝えたいことがはっきりしているなら新書か何かを書いてほしいし、むしろそれだとしっかり伝わるからそうしてほしい。僕だって知りたいことは知りたいから。僕は小説に現実のシミュレーションを求めてはいないし、そうじゃなくて、現実の代わりとしての、虚構としての虚構が欲しい。ただそれだけだ。ただしそれは退屈しのぎよりもっと贅沢な何かかもしれない。けれど現実としてはそんな贅沢なことを目指している作品は少ないし、過程は目的のため、つまり虚構は現実のためにあるのが普通で、過程が過程のまま、虚構が虚構のままに絶対化されているものなんてほとんどない。このあたりは考えていると自分でもよくわからなくなってくる。というより頭がおかしくなりそうだ。いずれにしろ今考えていることだってそうだろう。過程を考えようとして考えようとして、気づけば結論に向かっている。どうしても頭の中でまとめてしまう。でも、だけど、いや、本当にそうだろうか。結論に向かっているようで、今だって過程ではないのか。わからない。けれど、今はそう信じよう。そういえば景色を見ていたはずだった。いや見ているつもりが、気づけば何も目に入らずにいた。何だか疲れた。
ひと息つこうと横を向けば、彼女は欄干の根元をつま先でぽんぽん、ぽんぽんと蹴っていた。両手は欄干に行儀よく添えて、軽くうんうん頷きつつ何やらはしゃいだ調子。と、こちらの視線に目ざとく気づいて、はにかむまもなく唇をすぼめた。ヒュヒュヒュヒュ。ヒュヒュヒュヒュー。微かに聴こえる。楽しい? うん、楽しい。微笑み頷いた。現実だった。虚構じゃない。生きた詩だ。それともほんとは未完成で、より完璧に映すには、この子からさえ離れるべきなのか。別れて、泣きながらも記憶と想像の中で練り直すべきか。もしかしたら、ひょっとしたら、その中でこそより美しく洗練された姿で現れるのかもしれない。だとしても、たとえそうだとしても、いまはまだ、先延ばしにしたい。それにどうしたって、そのときは来るはずだから。そろそろ行く? と訊くと彼女は、うん、ちょっと座って、何か飲みたい、と答えた。
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