価値観の相違
またちょっと長いです。
「異なる価値観の許容」
前話に通じるところがある。
例えば。
「女性差別はいけないことだ」
と
「女性は男性の所有物だ」
どちらの価値観が正しく、間違っているか。
先進諸国においては特に性差別などタブーもいいところである。
ただ、一方で、男性優位が「当たり前」とあからさまな社会も当然存在している。
「女性は男性の所有物だ」
とする社会を健全だとは勿論当方も思わないし良しとも思わない。
当方は女性に暴力を振るったこともないし女性だからと見下した思想も持ち合わせていない。
勿論特定の「こいつ馬鹿だなぁ」と思う対象は居るが、それは男女問わない。
だが、それは当方が「性差別を良しとしない社会で生まれ、そう教育されたから」以外の何物でもない。
もし「気に入らない事があった時に女性を殴る文化で育っていれば」当方もそうしていたのかもしれない。
性善説を是としない身としては、そう思わざるを得ない。環境が人を作ると信じて疑わない。己の周囲に存在しない価値観を持ち育てるのは凡人には不可能だとも。
だが「女は男の所有物だ」という概念が根底に存在する社会も確かにある。
所有物だからこそ所有者はしっかり面倒を見なくてはいけない、という小説家になろうのファンタジー小説で度々見かける奴隷制度のような価値観も有るだろう。
その時代その時代において、女性を保護するための社会システムだった、という話も出てくるかもしれない。アラブ世界における一夫多妻制は寡婦の救済措置だ、とかなんとかも。
さて。
「正しさ」とは何だろうか。
中学生が好みそうな話であるが、シンプルな結論を述べるとすれば「人によって違う」だろう。
「正しさ」以外の例で言えば、例えば北朝鮮である。
何度も合意を反故にしてきた、と我々は見るが、北朝鮮にとっての「合意」が我々と同じ「合意」だと言えるのかどうか。彼らは約束を破ってきた、という認識をしているかどうか。
さらに、例えばオウム真理教はどうか。信者達にとって、麻原の言葉と日本国の法律、どちらが「守るべきこと」だろうか。
彼らにとっての「何か」と我々にとっての「何か」、果たして同じだろうか、と。
これは国や組織に限定する話ではない。
違う価値観に対して寛容であろうとする姿勢は美徳に見える場合も有るだろう。
だが、それが許容出来ない内容であれば、「無視」という選択肢も含めて「排除する」方向に動かざるを得ない。
誰しもが共通して等しく共有出来うる『何か』が有るとすれば、それは『概念』ではなく『事象』ではないか、という話を出来れば非常に簡単なのだが、それはそれで哲学的な話も出来てしまうので当方のような浅学の身として結局は
「不変かつ普遍の答えはない」
というやはり厨二病的にも見えるコメントになってしまう。
異なる価値観に対して寛容なことは美徳である、という意見すら怪しく思えてしまうのは、当方の捻くれが原因だとは素直に思いたくないところである。