共通認識
ちょっと長めです。
「共通認識」
誰かとさくらんぼの話をしたとする。目の前にさくらんぼが有るわけではなく、好き嫌いの話題としてのさくらんぼだ。
「私、さくらんぼが好き」
「ああ、私も私も」
仮に果物ではなくケーキや肉、魚、映画、マンガ、なんでも良い。
この二人の認識にある「さくらんぼ」はどんな「さくらんぼ」だろうか。
勿論、二人の認識において、「さくらんぼ」は「さくらんぼ」に違いはなく、「さくらんぼ」以外の何物でもないであろうことは疑いようがない。
万が一、世間一般で呼ぶところのリンゴをさくらんぼと呼んでいるとすればそれは深刻かつ別な問題である。
世間一般での「共通認識」があって会話というのは成り立つ。
だが、二人が話をしている「さくらんぼ」は佐藤錦だろうか。アメリカンチェリーだろうか。または他の品種だろうか。もしかすると缶詰のシロップ漬けではなかろうか。
言葉とは「共通認識」の塊である一方で、非常に曖昧なものだ。
白馬非馬
白馬は馬に非ず
という故事がある。
これはよく詭弁と呼ばれる。
たとえば「馬の所有者に税金を課される」という状況において「これ馬じゃないっす。白馬っす。白という色彩と馬という概念が合わさって白馬なので馬ではないっす。だから税金は払わなくて良いんすよ」という論法で使えば詭弁だろう。
だが、大多数の人間が「馬」を思い浮かべる時に「白馬」を思い浮かべるか、というとそうではなかろう、という「認識の差異」の事例だとの見解も有る。
皮肉なことに「白馬非馬」という事例事態が「共通認識」の曖昧さを表しているようにも当方は思える。
「共通認識」という「確固としてあるべきだがその実体は曖昧なもの」は時と場合に応じて当事者で再確認する必要がある。
もっと俗で、当方の体験談で例をあげれば、
「通電」
これは通常であれば「何かに電流を通すこと」であるが「電話が通じたこと」を示す現場も有る。
己の考える「普通」が他者の「普通」ではないかもしれない、など常に考えていては生きるのが面倒臭くなることこの上ないが、世代や立場によって、その「普通」が「普通」ではない、という可能性も心のどこかに置いておくと楽になる場面もあるのかもしれない。