第9話 パーミッション
年が明けて93年になった。
大学院にも慣れ、色々とゴタゴタがひと段落した頃、レースの世界に連れて行ってくれた川口のもとにも、慎一はきちんとした詫びを入れにやってきた。
川口は、いたずらな顔をして言った。
「スミさん、落ち込んでたぜ?」
「え、怒っていたんではなくてですか?」
「何言ってんだよ。怒ってもいたさ。でも、スミさんだってお前さんのことを買ってたんだ」
川口は慎一を覗き込むように言った。
「ここだけの話だが、WGPではスズキのサテライトチームにお前を入れてワークスと同じマシン貸してやるつもりだったらしいぜ?」
川口は続ける。
「今頃どうだったんだろうな。お前がGP250で世界を転戦しているところを見てみたかったのは正直なところなんだけどな。 で、有紀ちゃんとは結婚するんだろ?」
「ええ、それがレース辞めた理由の一つです」
「世間的にはどうなんだろうな。まあ、そんなことは気にするな。お前はバイクよりも大切な、守りたいものが出来たんだ。やりたいようにやればいいさ」
「はい」
川口の妻、陽子もコーヒーと茶菓子を持ってやってきた。
「ところで有紀ちゃんのご両親にはご挨拶しにいったの?」
慎一は、脱力したように首を垂れ、
「それが問題なんですよね」
と、深いため息をついた。
陽子は、
「あなたの人生で一番大切な事よ。しっかりしなさい」と優しく言った。
その他でも話が咲いた。随分と遅くなったので慎一は川口夫妻に丁重にお礼をいい、慎一はその場を辞した。
慎一は、陽子に言われたからではないが、それでも決心を決めて将来の結婚の許しを得るために有紀と相談して、院の二年生に上がる前に有紀の実家に訪れることにした。
娘を箱入りにしたがっていた、という有紀の父親の厳格な性格のことは何度か聞いたことはあったので恐ろしいほどに緊張していた。
ましてや、自分は学生の身。果たしてその父親にどう思われているのか不安でならなかった。
多摩動物公園の駅から、明星大学に向かって長い上り坂を登っていくと有紀の実家があった。
客間に通された慎一は、着慣れないスーツの中で汗だくになって「その時」を待っていた。
心の中で反芻する。
「果たしてオレは有紀の父親を説得できるのだろうか。 力づくでも、いや、それは自分を否定することになる。 有紀が不幸になるだけだ」
有紀はそんな慎一をなだめるかのように、
「お父さん、本当に嫌なら慎ちゃんに会ったりしないと思う。だから、しっかりお父さんと話をして欲しいの。そうすればきっと・・」
「きっとって、大丈夫かな。 経済的なことを言われるのが一番つらいんだけど」
「大丈夫よ。 私も一緒に働くし」
「それが一番お父さんが嫌がることなんじゃないかな?」
いきなりドアが開いた。
「風戸慎一君だね。有紀の父、哲朗だ。今日は遠いところまでよく来てくれたね」
噂どおりの厳格そうな面持ちと声色を持つ父親だった。
「わ、わたくし、か、風戸です。風戸、慎一です。 ほ、本日はお招きいただきこ、光栄です」
やっとの思いで名前だけ告げることができたのだが、果たして今日、結婚の許しをもらえるのだろうか。自分のダメさ加減に嫌気が差した。
「まあ掛けたまえ」
慎一は促されるままにダークブラウンの革のソファに腰掛けた。
哲朗はいきなり切り出した。
「今日は、有紀との結婚の承諾を取り付けに来たんだろう?」
不意打ちを食らった。
慎一なりのシナリオがあったのだ。
自分の今まで歩いてきた道程を話し、これから大学院を卒業して有紀に相応しい人間になるのだと説明したかった。しかし哲朗はその前提を簡単に壊してしまった。
「一昨年まで、オートバイのレーサーだっただよな? ウチの長男が君の大ファンでね」
気がつくと、半分開いたドアの向こうに誰かがいて目だけこちらを向いていた。有紀もそれに気がついたようだった。
「光輝、そんなところでなにやってるの!」
「おお、光輝。お前もこっちに来い」
入ってきたのは、自宅から程近い中央大学の法学部に通う有紀の弟、光輝だった。
「い、いや、その、お邪魔かと思って。あ、あ、あの、僕、白石光輝です。風戸選手、いえ、風戸さんの大ファンなんです」
哲朗が言葉を継ぐ。
「光輝が中学生の頃、筑波サーキットのレースに連れて行ったことがあったんだ。君がGP250でデビューした年だったと思うが。光輝はそれ以来君のファンになってしまったということだ」
「は、はあ。そうですか。 ありがとうございます。」
「ところが君のファンになったのは、光輝だけじゃなかったようだね」
相好を崩していた哲朗の顔が一瞬にして厳しい顔に戻った。
「た、大変申し訳ありません!」
哲朗と光輝は顔を見合わせて、大笑いし始めた。
「なに謝っているんだね?違うんだ。僕も君のファンなんだよ。まさか有紀のお付き合いしている相手が君だとは全く思わなかったんだが。家族全員が君が好きなんだ」
慎一も有紀も真っ赤になった。
「しかし、いきなりチャンピオンを取って引退するなんて、びっくりしたよ。 で、今は学生の身分と聞いたが将来はどうするんだね?」
やはりその話題が来たか、と慎一は思った。
「当時の監督は母親と約束しました。レース以外では死なせてはいけないと。監督がその約束の後すぐに自分をSUZUKIのチームに行けと言ったのは驚きましたが」
慎一は呆れ顔で言ったが直ぐに真面目な顔に戻って、
「すぐに移籍させたのは、約束が守れないからだとそのときは思いましたがスズキでは、実に自分をじっくり育ててくれたのです」
「ほう」
哲朗が頷く。
「変なプレッシャーもなく、大きな怪我をしなかったのはそのおかげだと引退してから気がついたのです」
慎一は自分の不明を詫びた。
「そればかりか監督はいつも自分のことを考えてくれていました。こうして学生生活を送れているのも監督のおかげなんです」
「君には人を惹きつける何かがある。思うに、君はいままで必ず誰かに支えられてきたんだと思うが、そうではないかな?」
「その通りです。両親、叔母、チームの監督、ワークスのスタッフ。その代わり、これからは自分が有紀さんを支えて行きたいと思っています」
哲朗は何度も頷き、優しい目で慎一を見た。
その夜、白石家では遅くまで窓の灯りが消えることはなかった。
慎一は、その年の六月に、名古屋の四菱重工の航空事業部にエンジニアとして内定をもらった。
哲朗は慎一と有紀の結婚式を卒業式と入社の間の三月二十日に決めた。
哲朗はすぐに上河内の慎一の母、敬子に会いに行き、挨拶を済ませた。すべてが順調に進んでいた。
あの時までは。