第7話 エンゲージ・リング
慎一はイライラしていた。
勝てない理由をマシンのせいにしていた。
勝てない慎一に対してチームのフラストレーションも高まっていた。
勝てないマシンと、勝てないライダー。どちらにも原因はあった。しかしチームとしてそれを互いに責任転嫁しあうという最悪の状態になりつつあった。
有紀との関係も疎遠になりかけていた。有紀も二十六歳になろうとしている。レースに没頭する慎一と、アプローチをかけてくる社内の営業マンとの間で揺れていた。
かくして九十一年のシーズンが始まろうとしていた。
パワーで劣るSUZUKIのマシンだが、NSR250よりも高速コーナーでの安定性が良いという新型マシンに慎一の走りが蘇った。
緒戦で優勝を勝ち取った慎一は続くホームコース鈴鹿でも圧勝。岡谷とのポイントを大きく引き離す。
慎一はチームとも和解し、順調にレースを消化していったが、有紀との関係に悩んでいた。
ある日、東京でのミーティングで上京した折、渡したいものがあって有紀と会う約束をしていたのだが、約束の時間五分前にポケベルが鳴った。
慎一が表示された電話番号に折り返し電話をしてみると、有紀の会社につながった。有紀は、
「ゴメン、どうしても今日はだめになったの。 本当にごめんなさい」
と、やや疲れた声で謝るのだった。
実際、その日に有紀の会社は不祥事を起こして新聞沙汰になり、広報を担当する部署の有紀はその対応に追われていた。
しかし慎一は、何となく有紀の周りに商社マンの存在を感じていたので、感情的になり電話で怒鳴ってしまったのだ。今日は一大決心を伝えたい日だったのに。
「もう、オレのことはどうでもいいって言うんだな? 会社の男のほうがいいのか? もう、二度と会わないから!」
と言って乱暴に公衆電話の受話器をたたきつけるようにフックにかけた。
有紀を疑う自分が許せなかった。そして有紀にこんな乱暴な言葉を投げた事を後悔したがもう遅い。
吐き出されたテレフォンカードの取り忘れ警告音が、ピー、ピーと鳴り続けていたが、お構いなしに慎一は電話ボックスを出て行った。
勝手に有紀を失ったと思い込んでいた慎一は、レースで鬼神のような走りを続ける。
六戦して四勝。最終戦で一勝すればシリーズチャンピオン、というところまで来た。
最終戦はTBCビッグロードレースだ。
菅生は、最終コーナーを回って、ホームストレートにかけての高低差約七十メートルあまりの登り勾配が特徴である。
初日の練習走行を終ってピットに戻ってきた慎一は、信じられない来客にビックリした。
有紀だった。
有紀は、あの日のことを話した。商社の営業マンのことも誤解だと説明した。
また、見合いを執拗に勧める父親とケンカして杉並の善福寺に部屋を借りたと説明した。
「ゴメンね、あの時、仕事のことでいっぱいいっぱいで。ちゃんと説明すればよかったのに」
慎一もあの後、有紀の会社が商取引に関わる不祥事を起こしたことを新聞で知っていた。
「オレの方こそゴメン。寂しいのはオレだけじゃないのに有紀に酷いことを言ってしまって」
「ううん、いいの。それより慎ちゃん、今日勝ったらチャンピオンなんだよね?」
「そうだよ、どうして?」
「慎ちゃんの夢が一つ叶うのかなって思って」
「ああ、そうだよ。あ、ちょっと待ってて」
「え!?」
慎一は突然ピットの中に入っていって、なにかを持ってきた。
「有紀、チャンピオンになれたら、オレと結婚してくれ」
慎一の手には小さなエンゲージリングが載っていた。
有紀は呆然とエンゲージリングを見つめる。
「俺のもう一つの夢は、有紀とこれからの人生一緒にやって行く事なんだよ」
やっとこの日が。有紀の瞳から自然と涙が溢れた。
「こんなときって、なかなか言葉が出ないもんだね。姉さん女房だけどいいのかしら?」
慎一は笑って答える。
「ああ、勿論だとも。そしてもう一つ」
「何?」
「チャンピオンが取れたら、オレはレースから引退するんだ」
「え?」
有紀は事態が飲み込めなかった。婚約指輪を差し出した人間が、自分の職業であるレースを引退するって訳が分からない。
「慎ちゃん、本気なの? どうしてなの? 私のせい?」
「チャンピオンを取れたら、チームは俺を世界GPに出したいと言っている。最高峰のレースで自分を試して見たいと言うつもりは勿論ある」
「じゃあ何で?」
「一方ではオレは、お袋に嘘をついて、結果としてレースをやらせてもらっている。 このままお袋を悲しませたままで良いのかといつも思ってたんだ」
「チャンピオン取れなかったらまたやるんでしょう? それじゃあ言っていることと違うんじゃないの?」
「そうかもな。でも、何か結果を出す事でケジメをつけたいんだ。それに、」
「それに?」
「レースのほかにやりたいことができた。それだけだ。年齢的にはちょっと遅いけど大学院に入って、エンジニアになるんだ。そして普通に就職して、それで有紀と普通に暮らしたいんだ」
慎一の思いもよらない告白だった。
有紀は少し引っかかるモノを感じたが、慎一が良く良く考えて出した結論だ。
「まあ、今日のレース勝ってから考えようよ」
そう言って慎一を送り出した。
「しっかり頑張って」