第6話 ワークス・ライダー
東京に戻った慎一に、思わぬ申し出が届いた。
川口がコネを持つヤマハではなく、SUZUKIワークスから、来年のTT-F1クラスのライダーのセレクションに参加しないいかというものだった。
当時のSUZUKIワークスは押しも押されぬトップチームで、そこへ鈴鹿の四時間耐久レースで優勝した慎一のポテンシャルを見極めるためにテストの機会が設けられたのだった。
結果は合格。慎一はここでもポテンシャルを発揮したのだが、川口がセレクションに出ることに反対しなかったことを不思議に思っていた。
川口は慎一が合格したことを知ると、早速SUZUKIワークスの監督、隅田に電話をした。
「おお、ケンさんか。 電話ではなんだし、いっぱいやりながらどうだい?」
「スミさん、わかりました。自由が丘に良い寿司屋があるんですよ。そこでどうです?」
「話は早い方がいいが、生憎来週いっぱいまでバルセロナでテストなんだ。その次の週でどうだい?」
「分かりました。じゃあ再来週の水曜六時でどうですか?」
「ちょっと待ってな、手帳、手帳と。よし、良いみたいだ。空いてるよ」
「分かりました。《侘助》って寿司屋です。奥沢六丁目の交差点を曲がって直ぐなんで、タクシーで来てください」
「分かった。それじゃその時な」
隅田はバルセロナから帰国早々浜松には戻らず、川口の待つ自由が丘の寿司屋 侘助に足を向けた。
暖簾をくぐり引き戸を開けると、直ぐにカウンターで一人握りをつまみながら片手を上げて挨拶する川口を見つけた。
「ケンさん、元気そうだな」
「よう、スミさん。まあ一杯駆けつけでやってくださいよ。大将、こちら昔の敵」
侘助の大将はどんな顔をしていいか分からず黙々と他の客の寿司を握っている。
「ケンさん、じゃあ今は俺たちはなんだよ?」
「まあ相変わらず敵でいいんじゃないですか?」
川口は憎まれ口を冗談めかして叩く。しかし、乾杯も早々に川口は
「隅田さん、なんでウチの慎一なんですか?」
と、切り出した。
隅田は、
「風戸の乗り方はまるでエディ・ローソンのようだ。 それでいて、250に乗らせてるケビンのような闘争心がある。すまないが風戸をくれないか」
「構わないよ」
「いまなんと?」
隅田はてっきり川口から断られるか、抵抗されると思っていたので、予想外の答えに戸惑いの声をあげた。
「まあ、自分で育てるつもりでしたし、ヤツのお母さんにも俺が育てるって約束してしまったんですがね。」
この才能を手放そうとする方がどうかしている。隅田はそう言いかけた。
「それでも自分ちのかわいいライダーが、スミさんとこみたいな最高の環境で羽ばたこうって訳ですよ。それを阻止して誰が得するかって話しです」
隅田は川口が未だにレーシングへ純粋な心を持っていることに感謝した。
「あの四耐の走りを見て感動しない者はいないよ。どうしてYAMAHAさんは声をかけてこなかったんだい? というより、ケンさんが一声かければテストくらいのチャンスは。」
「訳もないことですよ。空きがないんです。アイツ、本当はTTF-1には向いてないでしょう。どちらかというとスプリント。しかもそれほどパワフルではない250で。」
「図星だね。ケンさん。俺もそう読んでた」
「ひとつだけお願いがある」
隅田は構えた。慎一を引き換えに、どんな条件が出されるか。
「できることはなるべく致しますが、出来ないことを言わないで下さいよ」
「おいおい、スミさん、オレってそんなにがめつく見えますか?」
「いえいえ、そういう訳じゃないんだが」
「慎一を、死なずにチャンピオンにしてくださいよ。アイツはそれだけのものを持っている」
「何年以内に?」
「さあ。そういうことは抜きにSUZUKIから世界へ送り出してください」
「わかった。ケンさん。まずは苦手そうなTTF-1でちゃんと結果を出させるように育てるよ。 頭のいい駆け引きはアクシデントを防ぐ最大の武器だからね。 ちゃんとわからせて、そこから250で爆発させるようにするさ」
慎一のSUZUKIワークスへの移籍はこうして決まった。
慎一本人は少々急展開に戸惑い、川口と母敬子との間のあの話は何だったんだ、という疑念はあるもの、
「チャンスってのは逃しちゃいけねえんだよ。」
という川口の言葉に従うことにした。
慎一はやがて中目黒の川口の店の二階の下宿を引き払い、SUZUKIのテストコースである竜洋へ程近い浜松のワンルームマンションへ引っ越した。
SUZUKIに加入する際、慎一は、隅田に一つだけわがままを聞いて貰おうとした。
東京オフィスでミーティングを持った際に、慎一は隅田にこう切り出した。
「俺、どうしても大学卒業の資格が欲しいんです。レースもテストも決して影響がないようにしますから、どうか放送大学での通信教育だけは受けさせてくれませんか?」
「それはどうしてなんだ?」
隅田は予想外の申し出に、ライダーが勉強したいという動機に興味を持った。
「母は女手一つで俺をここまで育ててくれました。 母の想いは大学へ行ってほしかったんだと思いますがこの世界に飛び込むことを許してくれました」
慎一は真剣な眼差しで続ける。
「甘い気持ちではありません。絶対に両立させて見せますから」
しかし慎一の強い想いに隅田は簡単に感服した訳ではなかった。
「正直俺はレースにのめり込むくらいじゃないと、って思うんだ。もし両立できなかったらどうするつもりだい?」
慎一は間髪入れずに即答した。
「辞めますよ」
「えっ、どっちをだよ?」
少し怒った口調で隅田は質した。
「もちろん大学をです。俺はレーサーなんですから」
そう聞いた隅田は笑って
「ああ。その覚悟があるならやってみな。学費はチームで面倒見てやる」
そして、
(こいつは大丈夫だな。)
と独り言を言った。
浜松に引っ越した慎一は、さっそく放送大学への入学手続きを終えた。
浜松から有紀の住む名古屋まではバイクで小一時間の距離である。
テストがない日は、バイクで一走り名古屋へ行き、有紀との逢瀬を楽しんだ。
そして有紀と会えないオフの日や、マシンテストが終わった空き時間には放送大学のテレビ放送で勉強をしっかり行った。
チームでは、19歳の慎一を暖かく迎え入れてくれた。メカニック達とも仲良くなり、来年の新型のマシンのテストも始まった。
しかし、非力なマシンを極限まで追い込むのが慎一のスタイルだ。慎一は予想以上にパワフルなバイクの扱いに戸惑った。
TTF-1は市販改造クラスの頂点であり、一般的に大排気量4ストロークエンジンの市販車に改造を加えたマシンでレースを闘う。
市販といっても中身はほとんど違うもので、化け物のようなパワーを持っている。
八十六年に全日本デビューした慎一は、実質SUZUKIワークスのTEAMヨシハラ・スズキのセカンドライダーとしてシリーズ十二位という惨憺たる結果で終わる。
チャンピオンは同じチームの辻川悟だった。強力なエンジンブレーキの感覚に慣れず、走りは常にギクシャクしていた。
辻川は翌年八十七年も骨折をしながらチャンピオンに輝いている。
慎一は一度の三位表彰台を得るが、シリーズでは七位で終えている。
さすがに初年度のようなバイクへの慣れという問題はなかったものの、慎一らしい「キレ」の鋭い走りはついに戻らなかった。
どちらかというと凡庸な選手。スズキワークスだからこの位置にいられる、そう評するジャーナリストも少なくはなかった。
しかしスズキワークスの狙いはそこではなかった。扱いずらいバイクでどれだけ自分を追い込めるか。それを手にしたときの慎一の爆発力に期待していたのだった。
翌八十八年、慎一は徐々に光る走りを取り戻していった。GSX-R750の扱いにも慣れ、レースの駆け引きも堂々たるものに変貌していた。
結果、鈴鹿で初勝利、表彰台は二位二回とシリーズを三位で終る。
翌八十九年、ついにその時が来た。
辻川がGP500にステップアップしたと同時に、慎一はGP250クラスへ移った。
慎一の力不足によりGP250へ格下げになったと書きたてたメディアもあったが、事実とは異なる。
SUZUKI RGΓ250を与えられた慎一はまるで水を得た魚のようだった。
冬のテストで非公式ながらコースレコードを連発。ここからが慎一にとっての本当の全日本の戦いが始まったといっても過言ではない。
プライベートではちょっとした異変が起こっていた。
有紀は八十八年の春に南山大学を卒業して、東京の総合商社に就職を決め、実家に戻っていたのだ。
一年以上、慎一はなかなか有紀とは会えない毎日を過ごしていた。
レースに没頭するしかなかった。
慎一は、ホンダの岡谷忠則と一騎打ちの勝負を繰り広げていた。八十九年は、残念ながらシリーズを二位で終る。ホンダにはパワーで勝負にならなかったのだ。
翌九十年も同じ状況が続く。岡谷は圧倒的な強さでシリーズを二年連続で制した。
慎一はレースで結果をなかなか残せないうちに放送大学の卒業を迎えた。
チームの口性のない人間に「あいつは勉強なんてやってるから勝てないんだ」と陰口をたたかれていた。