第4話 白石 有紀
年の夏、鈴鹿八時間耐久レースを女友達と観戦しに来ていた白石有紀は、レースの迫力に、すっかり虜になり掛けていた。
八時間耐久の前座と言うと語弊があるが、ノービスライダーの夏の祭典、四時間耐久レースのドラマチックな幕切れに、感動してしまったからだ。
有紀は大学の二回生。東京日野の実家を離れ名古屋の名門、南山大学に通っていた。
学校の友人、土屋亮子が根っからのバイクレースファンで、彼女の誘いで初めてのバイクレース観戦にやって来たのだった。
有紀の父は八王子で行政書士の事務所を営んでいた。
厳格な父であったが、父の出身地である名古屋の、一流大学である南山大学への進学はすんなりと認めてくれた。
もっとも、下宿先は父の姉、有紀の伯母である友枝の家と決められていたが。
実は、亮子にはお目当てのライダーがいた。鈴鹿の選手権で現在ランキングが四位の新鋭、勝呂朋久だった。
亮子と勝呂は中学生時代の同級生だった。当時から一方的に亮子が勝呂に好意を寄せていたらしい。
ストイックな勝呂は、亮子に目もくれずレースに一筋だった。
しかし、勝呂がレースで転倒し入院することになった折、献身的に看病をしてくれた亮子に心を開いて、復帰後、亮子をパドックに招き入れることも多くなった。
シーズンを怪我で棒に振ってしまった勝呂に、は、所属チームからは四時間耐久のオファーはなかった。
仕方のないことと諦めていたが、鈴鹿に遠征に来ていたTEAMエグゾーストノートの監督川口健三から思いも依らない申し出が届いた。
「いい走りをしてるね」
と「ヒゲケン」と呼ばれていた川口に兼ねてから声をかけてもらっていたのだが、勝呂のチームの監督木川田が知己とは知らなかった。
川口と木川田がヤマハのワークス時代の僚友だった関係で、勝呂の堅実な走りに魅力を感じていた川口が木川田に勝呂を貸して欲しいと頭を下げたのであった。
これが慎一と有紀の運命の出会いを決めたのだ。
亮子に連れられ、有紀は初めて四時間耐久レースの行われる鈴鹿サーキットのパドックにチーム関係者のクレデンシャルを首から下げて足を踏み入れた。
耳をつん裂くような大きなエンジン音。焼けたオイルの臭い。
緊張感溢れるパドックには、かつて有紀が体験したことのない世界が広がっていた。
勝呂のチーム、エグゾーストノートのブース近くをキョロキョロと周りを見ながら歩いていると、突然誰かにぶつかり、焼けたアスファルトに転ばされた。
「痛ったーい!」
「あぁ、ごめん。大丈夫?」
「大丈夫って、アナタがいきなりぶつかってきたんでしょう?」
と、有紀は見上げながら文句を言った相手は百九十cmはあったろうか、背が高い、若く顔の整ったライダーだった。
「悪かったけど、余所見をしたのはあんただよ」
手を差し伸べた男は風戸慎一と名乗った。勝呂のチームメイトだった。
勝気な有紀は慎一の整った外見と、ぶっきらぼうながら憎めない物言いが気に入ってしまった。
「どうしたの?有紀」
亮子が駆け寄ってきた。
「あ、なんでもないよ、大丈夫。私がこの人にぶつかって転んじゃった」
「気をつけてよね。怪我があったら大変だよ」
「うん、ゴメンね」
「慎一くんも有紀に謝った?」
慎一がすまなそうに聞いた。
「大丈夫だよね?」
「うん、悪いのは私のほう。本当にごめんなさい」
「こっちも悪かったよ。お詫びと言ったらなんだけど、良かったら、ウチのピットでレース観て行かないか?亮子さんも一緒に」
「ええ、喜んで」
「ピット、暑いけど大丈夫?」
「私、剣道部だったの。暑いのは慣れっこよ」
やがて四時間耐久の火蓋は切られた。
このレースは、四時間の制限時間の中で、二人のライダーが交代しながら走り、ここ鈴鹿サーキットをより多くの周回をこなしたチームが勝つルールだ。
予選で十二位だった勝呂と慎一のチームは、ファーストライダーの勝呂が徐々にペースを上げて一時間後にはトップ集団に追いついた。
セカンドライダーにチェンジし、ここで慎一は、レースのラップレコードを連発し、ついに3位に躍り出た。
勝呂に再びライダーチェンジし、勝呂はついにトップに襲い掛かった。
超高速コーナーである《130R 》を抜け、カシオトライアングルと呼ばれるシケイン、自動車免許教習所では「クランク」と呼ばれる難しい部分に差し掛かったところで悪夢が訪れる。
130R から勝呂とトップを争って並走していた《チームモリアキ》のエースライダーがシケイン飛び込みでインを差して勝呂をかわした。
しかし不運にもモリアキのリアタイヤと、勝呂の乗るCBR400F3のフロントが交錯し、勝呂は転倒してしまったのだ。
勝呂が意地を張って自分のラインに固執したからだ。
スピードも低かったため、幸いバイクは無事だった。勝呂も怪我はない。しかし、折角上げた順位はまた十位まで下がってしまった。
「あれほど自分をコントロールしろ、って慎一に言ってた俺が本当に済まない」
と、最期のライダーチェンジでピットインしてきた勝呂は慎一に詫びた。
「勝呂さん、大丈夫です。オレ勝ちに行きますから。二人で表彰台のテッペン行きましょう」
しかし実のところ、優勝は絶望的に見えた。残り五十六分。順位は十位。トップとの差は三十九秒。毎周三秒くらい縮めなければ優勝はない。
ノービスとはいえ、トップライダー相手に三秒の差をつけるのは簡単ではないが、やるしかない。
慎一は勝呂に諭され続けたように冷静さを持ちながらコーナーを攻めに攻めた。
あっという間に三台を牛蒡抜きしたところで残り五十分。トップとは二十六秒差である。
慎一は二周に一台ずつの計算で先行車両を抜いていった。残り三十分。四位まで上がった。
さすがに残る上位三台を抜くのは容易ではない。
それでも三位をかわし、自らが三位に。
二位との差は二秒三。一位との差はまだ十二秒あった。
二位を走行している津村レーシングの横山大樹は駆け引きが物凄く上手い。
慎一が長いメインスタンド前のストレートの終わり、第一コーナーでインを差そうとする。
すると外から横山が内側にキレよく突っ込んできて、ラインをクロスさせながら違った半径を持つ複合コーナーとなった第二コーナーで抜き返す。
続く S字コーナーは頭を押さえられなかなか前に出れない。
大昔の名選手、デグナーも転倒した事で名付けられた「デグナーカーブ」の二つ目のコーナーでも、続くヘアピンでも蓋をされたようになってしまう。
しかも裏の直線の手前、《スプーン》と呼ばれる複合コーナーから立ち上がる横山のマシンはパワフルで、慎一のマシンを簡単に裏の直線で離してしまう。
裏の直線は、130R ーー テクニックと度胸を要求される高速コーナー ーー で終焉を迎える。
そして130Rの後は勝呂が先行車と交錯したカシオトライアングルにつながり、最終コーナーを経てメインスタンド前のホームストレートに至る。
トップスピードに達したバイクにとって、半径百三十mの左カーブは、一瞬コースが無くなってしまっているかのような錯覚に囚われるほど鋭角に見える。
通常の速度域ではなだらかなカーブにしか見えないのだが。
ここでは恐怖と戦いながらバイクを一気にコーナーの内側に倒し、遠心力に耐えながら、ライダーは自らの身体を倒したバイクのさらに内側に預ける。
この高速コーナーでは、慎一は横山を凌駕していた。慎一は裏の直線で離された横山との車間を一気に詰めてしまう。
一度車速が落ちるとそれを取り戻すためには時間がかかるからだ。
慎一はカシオトライアングルで横山のバイクの隣に並びかけ、鋭いブレーキングであっという間にかわしてしまった。
しかし慎一が横山に引っかかっている間に、その先を走るチームとの差は十五秒まで伸びてしまった。
耐久レースは決められた距離をどれだけ速く走りぬけるかではなく、決められた時間内に、どれだけの周回を重ねることができるかが勝負だ。
残りは十五分あまり。普通に考えて絶望的だ。残りの時間を考えると、あと三周できれば良いほうだろう。
無理やり計算すれば、残り三周で一周につき五秒ずつ詰めてそれでやっと並ぶことができる。
仮に三周を超えて、四周できればどうだろう。もしかしたら抜けるかもしれない、そう思った慎一は、スロットルをさらに大胆に開けた。
チームモリアキのセカンドライダー、藤吉六郎は、トップを譲るまいと、必死に逃げに逃げていた。
しかし、二周ほど前からありえないことが起こっていた。
チームからのピットサインで、エースライダーの東金と接触したはずのチームエグゾーストノートが、五秒差で追いついてきているというのだ。
「オレより一周五秒から六秒速いだと?化け物か?あいつは」
だんだん追い詰められていくような、そんな感覚に陥っていた。自分だって相当マシンに鞭打って走っているつもりだ。
しかし、この説明のつかない速さで追いつかれてくると、平常心ではいられなくなる。
一つ一つのコーナーでのラインが乱れてきた。ラインが乱れるとリズムを失う。そして自分のペースが保てなくなって結果ラップタイムが落ちることになる。
藤吉は慎一との闘いの前に、自分との闘いに負けていた。気がつくと、すぐ後ろにエグゾーストノートの鮮やかな青いマシンが迫っていた。
藤吉はここで目を覚ます。
「抜かせさえしなければ、俺たちの優勝だ。ペースを乱すな。しっかり相手を抑えるんだ」
そう自分に言い聞かせるようにペースを上げた。
しかし、これが仇になるとは藤吉は思わなかった。
藤吉がペースを取り戻し、さらにペースを上げることで残り七分半で三周で終わりのところを両者最速ラップを更新あっていた。
その結果、三周で終わる所、四時間を経過した時点で、考えもしなかった四周目に入ってしまっていたのだ。
慎一は直角コーナーのような鋭角なコーナーが二連続する通称の二つ目の出口で藤吉をあっさりパスしてしまった。勢いの差は明確だった。
慎一はそのままヘアピン、スプーン、裏の直線、130R、カシオトライアングルを抜け、ホームストレートに帰ってきた。
チェッカー・フラッグが慎一に向かって振られる。
初出場ながら鈴鹿四時間耐久レースのチャンピオンとなった。レース歴たった三ヶ月の男がだ。
観客はありえないスピードで走りぬけた若きチャンピオンに惜しみのない賛辞を送った。
そして、ピットに戻ってきた慎一を一番に待っていたのは、白石有紀だった。
「私、あなたが好き。今日会ったばかりなのに、こんなにも夢中なの。」
夢中で有紀は慎一に告白した。
「ダメかしら…?」
「ダメじゃないっすよ! ダメなわけ、ないじゃないすか!」
そう慎一が答えると、有紀は一目も憚らず慎一に駆け寄り、思い切り背伸びをして慎一に口づけをした。
チームメートも、他のチームの人達も目を丸くしたがすぐに拍手が起こった。
勝呂は、
「コイツ、今日一日で優勝カップと彼女を手に入れちまった。凄い奴だよ! お前って奴は!」
と涙で顔をくしゃくしゃにしながら叫んでいた。