第2話 風戸 慎一
善福寺川を望む三階建てのマンション「メゾン・ラ・ヴィ」は、昭和四十年代後期に建てられたレンガタイルが陳腐な少し古ぼけた外装の建物だ。
この半年の間、メゾン・ラ・ヴィの前には週末に決まってカワサキ Ninja*が停まってた。
全日本ロードレース250㏄クラスの九十一年シーズンのチャンピオン、風戸慎一のバイクだ。
風戸慎一は、現在は宇都宮市に平成の大合併の折吸収されてしまったが、栃木県上河内町で生まれた。
高校に入ったころ、白バイ警官だった父親が殉職。国道四号のバイパスで悪質な暴走車を追跡した端緒、故意に接触させられて、帰らぬ人となったのだ。
幸い貯えと警察の遺族年金で高校を卒業することができたが、母親に労苦をかけたくない慎一は大学進学をあきらめ、単身で上京、中目黒の「エグゾーストノート」というオートバイの販売と修理を行う店に住み込みで働き始めた。
まだ、日本が得体の知れない昭和元禄、バブル経済を経験する五年前のことだった。
往年のチャンピオン、片山敬済、平忠彦が世界GPで現役でいて、フレディ・スペンサーは250㏄と500㏄ダブルチャンピオンをとるなど、今では考えられない程強いライダーがいるWGPは大人気だった。レーシングバイクを模した「レプリカ」バイクにも大きな人気が集まっていた。
そう。あの頃の若い男たちは、みんなレースに憧れていた時代だ。
父の影響でバイクが既に小学生の頃から好きだった慎一は、就職してすぐにバイクの免許を取った。
それまで取らなかったのは、母思いの慎一は、余計な心配を母にかけたくなかったからだ。しかしバイクに対する憧れは強く、慎一は密かにレーサーになることを夢見ていた。
高校生の頃は、一ヶ月遅れで届く世界GPの結果の記事を穴があくまで読んだ。学校の教室では、椅子をバイクに見立ててコーナリングフォームを憧れのライダー、ヤマハのエースであったエディ・ローソンを真似て練習した。
エグゾーストノートは、小所帯のレーシングチームを持っていた。
慎一がエグゾーストノートを就職先に選んだのは、そのころWGPに挑んでいたレーサー、川村透がここを巣立った事を知っていたからだ。
月刊誌でエグゾーストノートの店員募集広告を見た慎一は、母に内緒で就職を決めた。
慎一は工業科の生徒で、エンジン整備のイロハを知っていることが採用の決め手になった。
社長の川口健三は、背の低い、恰幅の良い五十男で、顎鬚がもみ上げまでつながり、口ひげまで繋がっている格好から「ヒゲケン」と呼ばれていた。
ヤマハのワークスメカニックをやっていた経験があり、レース界にはコネクションが多い。
切り盛りの上手い妻陽子と、エグゾーストノートを経営していた。
健三も陽子も、よく働き良いメカニックの素養を持っている慎一がすぐ好きになった。
また、健三夫妻には子供がいない。まるで子供のように、しかし他の店員の手前密かにかわいがっていた。
《ランド坂の狐火》
これは稲城にあるよみうりランドの前の下り坂コースでの慎一の異名である。
GF250という、一見速くなさそうなスズキのバイクのタンクに描かれていた狐の絵と、鬼のように速かったそのライディングスタイルからそう呼ばれていた。
狐の絵は、絵心のあったショップの先輩、久住 佑の作である。
GF250はシリンダーが四つ以上ある「マルチエンジン」ながら一気筒あたり二バルブで、より高い燃焼効率をもたらす四バルブを持つエンジンに比べて加速も最高速もまるでライバルには敵わない。
おまけにフロント十六インチ、リア十八インチのホイール組み合わせは、直径の小さな前輪を中心にコンパクトに旋回できるもののハンドリングにクセがあり、細いスチール製のフレームの低い剛性も相まって思うように操れず乗りづらくもあった。
慎一は仕事が終わると、夜な夜なよみうりランドまでGF250で出かけ、地元の速いライダーに声をかけ、坂を下りきったコンビニまでのレースで腕を鍛えていたのだ。
慎三の後ろに乗っていたころ、常に自分が運転していたらどうする?と慎三から英才教育を受けたも等しい経験があり、そして確実に慎三の運動神経や反射神経を受け継いでいたのだろう。
慎一はすぐに誰にも負けなくなっていた。下りなら腕でカバーする。重力を味方にすればスペックなどあまり関係なかったからだ。
ヒゲケンは慎一が毎晩バトルで腕を磨いていることなど知らなかった。
ただ、ガソリンの消費が激しいことで、何かやってやがるな…とは気が付いていたので、毎晩どこかへバイクで出かける慎一に、
「怪我するなよ」
の一言だけかけていた。
慎一は確かに一度も怪我をせずに、それどころかバイクを倒したことすらせずに帰ってきた。
また、一緒にツーリングに出かけた際、慎一のライディングセンスをすぐ見抜き、ある日筑波サーキットの練習走行でRS125という、市販のレーシングマシンに慎一を乗せることにした。
そして慎一は、五周もすると筑波を得意としている全日本レベルのトップライダーの一秒落ちというとんでもない数字をたたき出す。
驚いたヒゲケンは、金の卵を得た気分だった。
すぐ翌日、息のかかった鈴鹿の地方選手権ライダーの勝呂に声をかけた。その年の四時間耐久に慎一と組ませて出場させるためだ。
時間はあまりなかったが、当時市販の四気筒四百CCバイクの中でも特にレースマシンのベースモデルとして人気のあったCBR400F3をベースにマシンを組み上げた。
国際的にも難しいと定評のある鈴鹿サーキットの経験がない慎一だったが、ここでも適応力を見せる。
勝呂は鈴鹿のシリーズで、常に表彰台が狙える位置にいる期待の若手の一人だった。ところが、練習走行の三日目、慎一は勝呂にコンマ四秒差までに詰める程になった。
ただ、慎一には長い距離を上手くまとめる力はなかった。集中力が切れた慎一は転倒を繰り返す。自分勝手なライディングを続ける慎一に勝呂は諭す。
「レースがしたいのか、バイクで死にたいのかどちらかを選べ」
と。
すぐに父親のことが頭をよぎった。
母親にはバイク屋で働いていることも、バイクに乗っていることも伝えていなかった。
ただ単に、目黒の町工場で働いていると、そう告げていた。
ウソではない。たしかにそうだが、本当でもない。
慎一は母に本当のことを打ち明けようと何度も電話ボックスで百円玉を握り締めてプッシュホンを押すのだが、最期の番号を押す事がついにできなかった。
*カワサキNinja 1980年代に登場した900ccの人気の高い大型バイク。