第13話 絶望の淵
有紀の住むマンション、《メゾン・ラ・ヴィ》の電話が鳴ったのは、午前二時を回ったころだった。
電話の主は、慎一の母、敬子からだった。
「有紀さん、さっき、松庵労災病院というところから慎一が担ぎ込まれたって・・ 」
有紀は強い衝撃を受け、電話の受話器を落としてしまった。
慎一の帰宅が遅く、つい先ほどまで電話で弟の光輝と心配していたばかりだったので、不安が的中して心が今にも壊れそうだった。
それでも有紀は気丈に振る舞い、電話を拾いなおして、
「お義母さま、本当ですか?慎一さんは・・」
「有紀さん、私もさっき電話を受けたばかりで事情がよくわからないの。」
有紀は敬子の声も動揺しているのを感じた。
「ただ、事故を起こしたようで、身に着けていた慎一の免許証の住所は浜松のままで、本籍地から私のところに連絡が先にきたみたい・・」
有紀は絶句した。
「まさか、普通の道路で事故を起こすなんてね。 私は朝にならないとそちらには向かえないから、申し訳ないけど、有紀さん先に松庵労災病院に行ってくださるかしら?」
涙声で有紀は、
「ええ、わかりました。状況が分かり次第連絡いたします。お義母さまもお気を確かに」
「有紀さん、ありがとう。心配かけるわね。始発までまだ時間があるけど、眠れないし何かあったらすぐ電話頂戴ね」
「わかりました」
電話を切ると、有紀はふと窓の外を見た。
世間は眠りに入っているようで、灯りの燈っている家は少ない。
さっきまで降っていた雪はもう止んでいることを今知った。
空はすっかり星空に変っていて、青白く瞬く星に一瞬心が奪われたがすぐに思い直して「松庵労災病院」の電話番号をタウンページで調べ始めた。
松庵ならタクシーでそれほど遠くない。
しかし、有紀はずっと慎一が心配で気が遠くなるような錯覚に囚われ続けている。
「神様、慎ちゃんがどうか無事でいてくれますように」
祈るような気持ちで、タウンページのページをめくるが、手が震えてなかなか目的のページにたどり着けずにいた。
それでも何とか松庵労災病院の番号を見つけると、受話器を上げ、プッシュボタンを押し始めた。
有紀は怖かった。電話をして、何かが分かることがとてつもなく怖かった。
有紀にはコール音が続いている短い時間が永遠に思えた。
しかし、電話先の声がその思いを破った。
「はい、松庵労災病院です」
有紀は躊躇しながらも、
「わたくし、白石と申します。 そちらに救急搬送された風戸慎一の婚約者なのですが」
2秒ほどの沈黙があった。
「こちらにお越しいただけますか?」
「風戸の容態はどうなんでしょうか?」
「電話では詳しくお伝えできません。 可能な限り早くこちらにいらしてください」
詳しくはお伝えできないって、一体全体、どういうことなんだろう。
有紀はとにかくタクシー会社に電話をして、慎一の待つ病院に向かうことにした。
有紀の中で、ドス黒い不安は首をもたげ、そして大きく育っていった。今では心のほとんどを支配されているような状態だといっても過言ではない。
タクシーの配車を終えると、今度は弟の光輝に連絡を取った。
「光輝、慎ちゃんの搬送先が分かったわ」
「姉ちゃん、それって、慎一さん事故ったの?」
「それは間違いないみたい。 でも、容体が分からないの」
「お父さんを起こして、僕もそちらに向かうよ。 なんて病院?」
「雪が残っていて、道が悪いから電車できて。 始発で」
「でも」
「お父さんや光輝まで事故起こしたらどうするのよ!」
最後は涙声だった。
間もなく階下でタクシーがハザードランプを焚きはじめたのが見えた。
有紀は口を真一文字に結び、ルージュを引いた。