エレジー先生と消えない痛み
リネン君は、足首が痛くて困っているという。整骨院へ行っても整形外科へ行っても異常なしと言われ、気休めにワセリンを塗って帰されてしまったのだ。
エレジー先生は心の中で舌打ちをした。自分も同じ手を使おうと思っていたのだ。こっそり出しかけたワセリンを棚にしまい、どこが痛いの、と言った。
「ここ」
リネン君は足を差し出した。綺麗な革靴を脱ぐと、足にはわずかに跡がついていた。
「このせいじゃないよ」
釘をさすように言われた。エレジー先生は、今度ははっきり聞こえるように舌打ちをした。まさに、靴がきついんじゃないの、と言おうとしていたのだ。
「今も痛い?」
「今はそうでもない。雨の日や、台風が来る前に痛くなるんだ」
「年寄りみたいだね。まだ一年生でしょ」
エレジー先生は白衣のポケットから指示棒を出し、リネン君の足首に触れた。つついても叩いても、リネン君は何の反応も示さなかった。
「つまらない」
「先生、声出てる」
エレジー先生は指示棒をしまった。全身をつつき回したい衝動をどうにか抑え、カルテを手に取る。
「精神的なものだね」
子供にそんなことを言うのは酷だと言う人もいる。目の前が星でいっぱいになる抗不安剤や、一日中頭の上にフライパンが降ってくる睡眠導入剤は、小学一年生には早すぎるからだ。
でも、言わないのはもっと酷だ。放っておくと、子供は全部自分のせいだと思ってしまう。
リネン君はしばらくうつむいていたが、ふいに涙をこぼした。後から後から涙はあふれ、ズボンの膝に、手の甲に、床にぱたぱたと落ちた。
「どうしたの。痛い?」
「ごめんなさい」
「謝らなくていいんだよ。その程度で謝ってたら、複雑骨折の患者は一生謝り続けても足りないからね。野生のゴゴゴ虫に噛まれた時なんて、どれくらい痛いか知ってる?」
リネン君は泣きながら、ごめんなさい、と繰り返した。エレジー先生は眉をしかめた。子供を泣かせて愉悦に浸る趣味はないのだ。
「まあ心配することはないよ。どうしても辛かったら、必殺エレジー痛み止めノック六百本を試してみる?」
「今は痛くない」
エレジー先生は椅子から転げ落ちそうになった。
「意外とあざといね。学校でもそんななの?」
リネン君は時間割を書いた紙を広げて見せてくれた。一年生用の、平仮名で書かれた表だ。ほとんどの日は六時間目まである。
「国語の時間は教科書を暗記して、算数の時間は数字を全部同じ大きさに書くんだ。生活科ではドングリを拾って種類別に選り分ける。ノルマがあるから休めないよ」
「体育は?」
「体育は好きだよ」
リネン君はぱっと顔を上げた。
「将棋をしながら泳いだり、コイントスをしながらパン食い競争をするのが得意なんだ」
エレジー先生は目を見開いた。
「やって見せて」
「ここで?」
確か将棋盤があったはず、とエレジー先生はロッカーを開けた。中は扇風機や折りたたみ椅子、壊れたパソコンや電子レンジなどでいっぱいだ。注意深く見ていくと、将棋盤の角らしきものが下の方にちらっと見えた。出せないこともない。
「一緒に引っ張って」
「無理じゃないかな」
「大丈夫。エレジーが言うんだから間違いない」
二人で手をねじ込み、将棋盤を引っ張った。その途端に山が崩れ、扇風機が落ちてきた。続いてほかの家電も転がり落ち、間に詰まっていた貯金箱や花瓶、お菓子の空き缶も一気になだれ落ちた。
エレジー先生はひらりとかわしたが、リネン君は下敷きになってしまった。
「おーい、無事?」
エレジー先生は山をかき分け、リネン君を発掘した。大泣きするかと思えば、表情ひとつ変えずに起きてきた。
「大丈夫?」
「大丈夫だよ」
「どこも痛くない?」
「うん。足首しか痛くない」
エレジー先生は扇風機の上にひっくり返った。
これは筋金入りだ。しかし負けを認めるわけにはいかない。カルテを出し、思いついたことを数行書いて机に置いた。
「家に帰ったら、足首にかんぴょうを巻いてヘッドスピンをしなさい。最低百回は回って、使い終わったかんぴょうは唐辛子汁に入れて飲むこと」
「わかった」
リネン君はうなずき、初めて笑顔を見せた。
「でも先生。それもう毎日やってるよ」