第三話 アルカーナ王国
悠莉は、深い眠りから覚めたように、すっきりとした気分で目を覚ました。背中に感じるのは、ベッドのような柔らかい感触でも、魂の世界の感触のない安心感でもなく、冷たい石の感触だ。それが悠莉に、これまでの事が夢でなく、本当の事だと伝えてくる。
頭上には、まるで大理石のような、真っ白な石で出来た天井があり、所々に開いている天窓から、陽光のような柔らかい光が降り注いでいた。
悠莉は、いつまでも寝転がっていてもいけないと、硬い地面から体を起こす。その場は祭壇のような場所らしく、悠莉の視界は周囲よりも一段高い。そして、その下には、祭壇を囲むように黒ローブを着た人間たちが跪いていた。まるで、黒魔術の儀式を行っているがごとしだ。その場合に生贄となるのは、祭壇の上の悠莉ということになる。
そんな恐ろしい想像をしながらも、悠莉はより深く周りを見回してみる。それなりに清潔感のある場所で、洞窟のようなじめじめとした感じは無いので、どこかの建物の一室なのだろう。
と、そこまで見て取って、悠莉は祭壇の一部から下へ降りるための階段が伸びていることに気が付いた。その下を見てみると、しっかりと祭壇の下まで階段は伸びている。
悠莉は、意を決して階段を降り始める。不気味な黒ローブが囲んでいるところに降りるのは少々の怖さがあったが、怖気づいてずっと祭壇の上で留まっているわけにもいかない。一歩一歩、階段を降りていく。
階段を降り切った悠莉を待っていたのは、怪しげな黒ローブたちの洗礼ではなく、華やいだ女性と、その取り巻きの一団だった。
「ようこそ、おいでいただきました、勇者様。わたくしども、勇者様のご降臨を、心待ちにしておりましたわ」
女性が、悠莉に折り目正しいお辞儀と共に、歓迎の言葉を述べる。取り巻き達も、とても喜ばしそうな綻んだ顔をしながら、女性に倣って姿勢よく礼をした。
悠莉は、その唐突な歓迎に、困惑をしてしまった。アルテミシアに、勇者として世界を救うということは言われていたが、具体的な話は聞いていなかったので、現在の悠莉自身の状況を詳しく理解できていなかったのだ。もっと詳しく聞いておけばと、今更な後悔をしながら、尋ねる。
「喜んでいるところすまないんだけど、ここは何処だ? さっきまではこんなところにはいなかったはずなんだ。出来れば説明してくれないか?」
「あら、それは失礼したしましたわ、勇者様。ここは、わたくしの父が治めているアルカーナ王国、その首都であり、初代国王カトル・アルカーナの名前を戴く巨大都市、カトルですわ。そしてこの部屋は、その中央にある城、セシリア城の中にある、召喚の間になります」
悠莉の質問に答えたのは、最も華やかな衣装を身に纏った女性だ。
腰まで流れる金髪は艶やかで天使の輪が輝き、優しそうに緩められた目には、ルビーのように紅に輝く瞳が覗いている。橙色のドレスに包まれた肢体は肉感的で、そのはち切れそうな胸に、ついつい視線を吸い込まれそうになるほどだ。
そんな凶器から視線を外して、悠莉は女性の瞳と視線を合わせて、会話を再開する。
「説明ありがとう。俺は、波風悠莉だ。一番偉いのはあなただと思うんだけど、出来れば名前を教えてもらっても?」
「分かりましたわ、勇者様。いえ、ナミカゼユウリ様。わたくしは、リーナ・アルカーナと申しますの。以後お見知りおきを」
そう言って、女性、リーナは、ドレスの一端をちょこんと摘まんで少し膝を弛ませ、貴族の子女としての礼を示す。見た目に違わない、完璧な作法だ。
しかし悠莉はその礼ではなく、リーナの言った自己紹介の中に気になる言葉があった気がして、重ねて尋ねた。
「アルカーナ、ということはもしかして王族なのか?」
「その通りですわ。現国王のお父様の次女なので、第二王女になりますの。よくお分かりになられましたわね」
「いや、名前聞けば誰でも分かるだろ……」
国の名前が、名字になっているとなれば、その人物はその国の重要人物であることは言われなくたって分かる。その上でのリーナの発言は、悠莉が分からないだろうと馬鹿にしたかのようだが、リーナの表情は侮蔑的な表情ではなく、本当に不思議がっているものだ。つまり、悠莉が気が付いた理由に思い至っていないのだろう。
そんな彼女の天然さに毒気を抜かれている悠莉の姿に、リーナは再び首を傾げて分からないというポーズだ。悠莉としては、リーナが王女としては少し天然すぎる気がしてならない。
「お喋りはこのくらいにいたしましょう。お父様が別室で、勇者様の事をお待ちしておりますわ」
「そうなのか。じゃあ、案内してくれ」
「言われずとも、最初からその気でしたわ。では、わたくしの後に付いてきて下さいませ」
言って、部屋、召喚の間から出るリーナの後を、悠莉は何も言わずに追っていく。
召喚の間の外に出る。そこは、さっきの部屋のように、高価そうな石が壁や天井に利用されていた。所々に飾られている絵や骨董品も、とても高級そうで、この国が栄えていることがよく分かる。
そんな風に悠莉があちこちと見ていると、悠莉の前から含み笑いが聞こえた。前を歩いているリーナが、キョロキョロとしている悠莉を見て、くすくすと笑っている。悠莉は、なんだか馬鹿にされているような気がして、不機嫌になる。
「どうした? 俺の行動の何か変か?」
「ふふふっ。いえいえ、そんなことはありませんわ。ただ、あまりにも物珍しそうに見回していらっしゃるので。何かお気に召したものがあるのかな、と」
「そんなにキョロキョロしてたか? 俺」
「そうですわね。落ち着かない様子に見えますわ」
確かに、悠莉の行動は、周囲から見ればまるで田舎から来た人が、都会を物珍しそうに見まわるのとよく似ていた。そんな不名誉な感想を抱かれるのは不満だと、悠莉はその行動をやめたが、それもまたお上りさん特有の行動と見えて、リーナはさらに愉快そうに笑う。
「勇者様と聞いて、どんなに屈強な方なのだろうと思っていましたのに、案外、普通の方ですのね。わたくし、少し安心しましたわ」
「普通って、それ、褒めてるつもり? 俺には貶してるとしか思えないんだけど……」
「褒めておりますわ。得体のしれない方より、親しみやすくていいではありませんか。少なくとも、わたくしはユウリ様が勇者で良かった、と思いますわ」
「いや、でも、勇者なんていう大層な肩書なのに、親しみやすいってのもなぁ……」
「ふふっ。大丈夫ですわ、ユウリ様。普通の方でも、勇者なのは分かってますから」
リーナは朗らかに、悠莉のそんな様子を見ながら微笑んでいる。その笑顔に、少しの間悠莉の視線は釘付けになった。つまり悠莉は、見惚れてしまったのだ。美女の笑みは詩奈で見慣れていたと思っていた悠莉だったが、これに見慣れるという事は、到底無理だったようだ。
首を振って、悠莉は見惚れてしまった感情を振り払う。
そして、悠莉が再び歩き出そうとしたとき、リーナが、既に一つの扉の前で立ち止まっているのに気が付いた。他の扉よりも、幾分以上に豪奢な扉である。両隣に兵士も立っており、他の扉よりも大事に扱われている部屋と感じられた。
「この中で、わたくしのお父様、エルバート・アルカーナが待っておりますわ」
扉を指し示しながら、リーナは待ち人の存在を告げる。つまり、ここが目的地で、この中に国王がいる、ということだ。
扉の側に仕えていた兵士が、恭しく扉を開く。
中は大きく高級そうなテーブルが中央にあった。そして、そこをいくつもの椅子で囲んでいて、まるで貴族の晩餐会の会場のような印象を与えてくる。
主賓席には、豪華なマントを着て、きらびやかな王冠を被った壮年の男が、力強い眼差しでこちらを見つめている。悠莉は、その眼光に思わず気圧された。
周囲には、騎士風の鎧に身を包んだ強そうな男達が侍っていたが、壮年の男が放つ威圧感は、それらと比べても遥かに強い。
なんとか、気圧されてしまった内心を悟られないよう、表情を崩さないようにしながら入ると、外の兵士によって扉が閉じられた。
そして、壮年の男がゆっくりと立ち上がった。
「歓迎させてもらおうぞ。勇者殿。我がアルカーナ王国二十二代国王、エルバルト・アルカーナである。ささやかながら、食事を準備させてもらった。こんな時期故、最大級のおもてなしには出来ぬが、楽しんでほしい」
壮年の男は、国王、と名乗った。そうと聞けば、悠莉の感じた威圧感にも、納得が出来る。悠莉が感じた威圧感は、国家を統べる者としての、自負の現れだったのだ。
負けないよう、悠莉も自己紹介をして、挨拶と、エルバートへの賛辞を込めて、礼をする。
「ありがとう、国王。俺は波風悠莉だ。あまりこういう席に慣れていなくて、マナーなどには疎いんだけど、それでもいいだろうか」
「ああ、人目も無いゆえ、ユウリ殿も気にせず楽しむが良いであろう。あまりに汚いのでは、我が不快になるゆえ、出来る限り綺麗にな」
「そうだな。それくらいの注意なら出来る。出来る限り綺麗に、食べるとするよ」
エルバートは、意外に気さくな国王のようで、悠莉が感じる威圧感こそ変わらないが、緊張感だけは僅かに薄れる。悠莉が敬語を使わない事にも、咎めるような雰囲気も無い。
その代わりというわけではないだろうが、周囲にいた騎士風の男達が、エルバートに敬語を使わない悠莉の態度に不機嫌になっている。自分の仕える主にそんな態度で話されてしまっては、それも仕方が無いのかもしれない。
それに気が付いているのかは分からないが、エルバートはさっきまで座っていた椅子に座り、隣の、料理が乗っている席を悠莉に勧める。
「このまま、会話を楽しむのも一考だが、せっかくの料理が冷めるのは、勿体ないであろう。料理がある席に座るが良い」
「そうさせてもらうかな。自分のために用意して貰ったものをダメにしてしまうのは忍びないし、じっくりと堪能させてもらうよ」
悠莉は、エルバートに勧められるがままに、その席へと座る。対面にも料理が用意されていたのだが、そこにはリーナが座った。他に料理が用意された席は無いので、三人での食事だ。エルバートの背後にいる男達は、護衛、つまりは仕事中だから、食べないということだろう。
とても広い部屋の中でありながら、三人だけで食べるというのは、悠莉にはとても贅沢な事に感じられた。
食事の準備も整って、悠莉はエルバートの合図を待つ。エルバートは、悠莉とリーナの準備が整ったのを見て取ると、祈りを捧げるような恰好になった。リーナも、エルバートにならって手を組む。郷に入っては郷に従えと言うので、悠莉も遅れてその恰好を真似た。
すると、エルバートが何かのお経のようなものを唱え始めた。
「我らを見守りしアルテミシア様よ。今日のお恵みに、天に、地に、海に、感謝を捧げる。これらの恵みへの感謝を忘れず、今日も健やかに過ごすことを誓おう」
「アルテミシア様。我ら健やかなることを誓います」
全く何も分かっていない悠莉をよそに、リーナとエルバートが何かの口上を述べて、組んでいた手を解く。二人は、何も言わなかった悠莉を変なものを見るような目で見ていた。男達などは、賓客である悠莉に対してしてはならない類の、刺々しい視線を送っている。しっかりと、弁明をするべきだろうと、悠莉は口を開く。
「すまない。この世界にやってきたばかりで、こういう作法とかが良く分かっていないんだ。もし不快に思ったなら、謝るよ」
これを受けて、エルバートとリーナは納得したように頷いた。
「おお、そうであったな。我らは普段からやっていることなのだが、ユウリ殿の世界では無かったのだな。我は気にせぬよ」
「そうですわね。他の国でも、違う言葉を言うところだってあるのですし、ところが違えば文化が違うのは当然の事ですわ。わたくしも、気にしません」
二人は、悠莉の一言で理解をしたようで、そのように言ってくれた。しかし、男達はそれでも苦々し気な視線を悠莉に送っている。やはり、悠莉が気に入らない様子だ。
悠莉としては、無視していても良かったのだが、賓客にそんな態度を取っている彼等の為にも注意をしておいた方が良いだろうと、それとなく男達に視線を送る。
「分かってもらえたならよかった。だけど、やっぱりその土地には、その土地の文化があるんだし、それに従った方がいいか? どうにも、気を悪くさせてしまうかもしれないしな」
悠莉の言葉と、その視線で、エルバートは悠莉の言いたいことが分かったようで、疲れたような表情で、深く溜め息を吐いた。
「はぁ。どうやら我の近衛が不敬を働いたようであるな。こ奴らには後でよく言い聞かせておこう。それと、ユウリ殿は故郷の風習に従って構わぬよ。その方が都合の良い事もあるであろうからな」
「本当か? 確かに、その方が俺としては気兼ねなくいられるし、いいかもしれないな」
エルバートの計らいに、悠莉も賛成をする。日本人なら、やはり日本人の習慣をするべきだ、と考えている悠莉なので、慣れない習慣に合わせるより、気楽に出来るだろう。
と、そんな会話を聞いて何か思いついたのか、「そうですわ!」なんて言いながら、リーナが名案を思い付いたと手を叩いた。
「ユウリ様のいた世界での挨拶をお教えいただけませんこと? わたくし、異世界の文化に、とても興味がありますわ」
悠莉とエルバートが話している時に、リーナはそんなことを考えていたようだ。とても嬉しそうに悠莉に尋ねて来る。エルバートはそれを見て、頭を抱えてしまった。これも国王の悩みの種の一つであるようだ。悠莉は、そんな前途多難そうなエルバートを、心の中で労った。
「ねぇ、教えてくれませんこと!」
リーナは、隣でエルバートが頭を抱えていることにも気が付かずに、真っ直ぐに悠莉だけを見つめて尋ねる。まるで新しい玩具を前にしている子供のように、キラキラとした目だ。そんなに面白いものじゃないと前置きをしてから、悠莉は手を合わせて見せる。
「俺のいたところでは、こんな風に手を合わせて、いただきます、と言ってから食べるんだ」
「いただきます、ですか。それには、どのような意味が込められているのでしょうか?」
「ええっと……例えば、お肉とかは、必ず動物を殺さなければ手に入らないだろ? つまり、その命をいただいているわけだ。だから、そのことに感謝して、いただきます、と言うんだ」
「なるほど。そんなに短い言葉に、深い意味が隠されているのですね。良い言葉だと思いますわ。ユウリ様がいらっしゃった場所は、とても良い場所なのですわね」
リーナが、どんな場所を想像しているのか、そこに思いを馳せる様に言う。リーナがどんな日本を思い浮かべているのかは分からないが、少なくともサブカルチャーに溢れた、汚れた現代日本では無い事は確かだろう。
その時、ふと、目の前にあった食べ物の存在を悠莉は思い出した。話し込んでしまったからか、立ち昇る湯気が最初よりも弱まっている。このまま冷めさせるのは勿体ないと、悠莉は話を打ち切って、食べる様に仕向ける。
「さて、料理も冷めてしまうし、食べるか。いただきます」
「では、わたくしも、いただきます、ですわ」
「おお、リーナが言うなら我にも言わせてもらおう。いただきます」
エルバートに許可をされていたので、悠莉は自分の習慣で、食べ始める。それに、リーナとエルバートも、既にしていたのにも関わらず追従する。
用意されていた食器は、スプーンやフォークなど、悠莉にも馴染みある道具だった。全く知らない食器だったらどうしようと心配していた悠莉にも、安心して使えるものである。日本人である悠莉としては、箸が欲しかったのだが、流石にそれは無かった。
ともかく、悠莉は目の前の料理に集中することにして、料理を見る。いくつかに分けられた料理は、どれも手間暇かけて作られたことが分かる品々だった。
中央に置かれていたのは、メインとなる肉料理、ステーキだ。肉の良い香りが漂っている。焼き加減は軽め、つまりレムで、赤みがかったソースがかけられている。ナイフで切ると、抵抗も無く綺麗に分けることが出来た。
一切れをフォークで突き刺し、悠莉は口に入れる。味を確かめようと舌の上で転がすと、なんとそれだけで肉がホロホロと解けていってしまう。しかし、味が無くなってしまったわけではなく、肉のうま味とソースの酸味が、存分に悠莉の舌を楽しませた。
口の中の味をギリギリまで味わって、悠莉は口を開いた。
「うまい。こんなにうまい料理を食べたのは、生まれて初めてだ」
「そうであろう。今日用意したのは、国賓をもてなすための最高級品を使って、最高級の技術で作った料理であるからな。不味いと言われてしまったら、我らと、我の料理人の立つ瀬がない」
悠莉の感想に、本当に嬉しそうにエルバートが頷く。当然だろう。たとえ自分が作っていなくとも、自分の用意した料理が褒められて、喜ばない人間はいない。
「そうだろうな。食材も相当高級なものを使っただろうというのが、匂い、舌触り、味わい、全てから伝わってくる。料理人も、素晴らしい技術なのがよく分かる良い一品だ。毎日こんなものを食べられる王族が羨ましくなったくらいだ」
「いや、残念ながらだな、我らも普段からは食べられないのだよ。魔物の脅威に晒され続けていると、どうしても国庫が不足してな、国を挙げての倹約をせざるを得ないのだ。王族とは言えそれは守らねばならん。だから、普段は普通の食材を食べているのだ。料理人は、変えようが無いがな」
本当に残念そうに、エルバートが嘆く。悠莉としては、普通の食事があるだけマシとは思うが、やはり、一度でも食べてしまえば、何度でも食べたくなるのが人の性というものだろう。それに、具材が最高級ではなくとも、料理人は最高級なのだから、料理だって美味しいに違いない。
「料理人だけで十分羨ましいよ。料理って言うのは工夫次第でどこまでも美味しくなるものだし」
「その通りですわ!」
ガタッと、悠莉が工夫次第と言った途端に、リーナが大きな音を立てながら席から立ち上がった。とてもはしたない行動だ。悠莉はもちろん、エルバート、それに近衛達も目を丸くしてリーナを見る。リーナは、何かに憤りながら、こぶしを握って語る。
「工夫次第、まさにその通りですわ。なのに、先日、わたくしが厨房を使わせてもらって料理をしたときに、わたくしなりの工夫をしようとしたら、止められてしまったのです。その時はシチューを作っていたのです。甘みを加えたら美味しいのではないかと、果物を入れようとしたら絶対にダメと言われてしまって。どうして工夫をさせてはもらえなかったのか、未だに不思議なのですわ」
言っている姿勢は素晴らしい事を言っている風だったが、言っていることは愚かしい事だった。エルバートが、小さな声で「またその話か……」と呟いた。リーナは、この、一度聞いただけで料理音痴と分かる発言を、何度も繰り返してるようだ。
エルバートが、何かを言おうとする。
「リーナよ、それは何度も言うが」
「いやいや、リーナさ、それはきっと料理人がやったことがあって、失敗だったんじゃないのか? 工夫は、大事だ。国王もそう思うだろ?」
エルバートが、何か致命的な事を言いそうな気がしたので、悠莉はその直前で遮る。エルバートは、恐らく、料理音痴であることを告げようとしたのだろう。しかし、それでは料理が出来ると思っているリーナが可哀想だった。
「いや、我は……いや、そうであるな。その通りであろう。これからも精進するように」
「はい。頑張りますわ。今度は、グラタンに果物を……」
「「それはやめなさい」」
悠莉とエルバートの言葉が、完全に一致した。
その後も、三人の食事はつつがなく進行した。エルバートとリーナは、元平民であった悠莉とも対等に接している。悠莉が勇者だからかもしれないが、それよりは、彼らのもともとの性格がそうなのだろう。人間を貴賤の差で区別せずに、人間を、人間として見る。日本という国で育った悠莉には当然の事だが、王族という支配階級に育った人間がそうと分かっているというのは、稀だろう。
悠莉が、全ての料理をデザートまで、余すところなく楽しんで、それらの食器が全て片付けられたところで、国王の雰囲気が変わった。
「それでは、ユウリ殿。そろそろ、楽しい時間も終わりにしなければならん。ここで最高のもてなしをしている間も、前線では我が国の兵士だけでなく、他国の兵士も戦っているのだ。いつまでも我らだけ気楽にしているわけにもいくまい」
そこには、これまでいた少し気のいい壮年ではなく、悠莉が最初に感じた威圧感の、その何倍以上の重圧を感じさせる、国を背負った男がいた。
悠莉も、食事をしていて緩んでいた自分の気持ちを引き締める。
「その通りだな。急いだからってすぐにどうにか出来るわけでも無いが、その姿勢だけは忘れてはならないもんな。さっそく、始めよう。とは言っても、俺は何をどうすればいいかは知らないけど」
「それもそうであろうな。では、ユウリ殿にはまず魔物との戦況がどうなっているのかを知ってもらおう。誰か、あれを持ってこい」
エルバートが、周囲に侍っていた近衛に頼むと、どこからか地図のようなものが持ってこられた。陸地が緑色、海が青色で分けられているようで、五つの大陸があることが見て取れる。さらに、地図上には何ヵ所もの場所に青か黒の点が打ってあり、そのすぐそばに何語か分からない文字で説明のようなものが書かれてあった。
不思議なことに、その文字は明らかに日本語でも英語でもないのに、悠莉には読むことが出来た。恐らく、悠莉が持っているスキルの、言語理解が効果を発揮しているのだろう。
もう一度、悠莉が点の近くに書かれた文字を見てみると、そこには都市の名前と、その説明が書かれていることが分かった。今いるカトルは南西にある大陸の中央に位置していて、点の色は青色である。
「これが、世界地図であることは、見た瞬間に理解できたであろう。そして、各点が大きな都市を現しておる。その点は色分けしておるのだが、何故か分かるかね?」
「いや、さっぱりだ。それが都市のことだとは見れば分かるが、それ以上の事は何も分からない。そもそも、こちらにどんな都市があるのかも分からないし」
「それもそうであったな。この点の色分けはな、人間と魔物、どちらの勢力が都市を占有しているのかを示しておる。青が人間、黒が魔物だ。それを踏まえた上で、これを見てみれば、今の状勢が一目瞭然であろう」
言われて、それに注意しながら悠莉がもう一度地図を見てみると、確かに、現在の戦況をよく見て取ることが出来た。カトルがある南西の大陸だけは青色の点しかないが、他の大陸は青と黒が入り混じっている。カトルがある大陸から正反対にある北東の大陸に至っては、魔物の勢力である黒の点しか存在していない。
「ほぼ半分が魔物の手に落ちてるな。他の大陸は大丈夫なのか?」
「ユウリ殿が言う通りで、なんとか、半分は守れている状況である。しかし、残念ながら、魔王が生まれ、今も住んでいる北東のアレンディア大陸は完全に魔物が支配しておる。そこから一番遠い我がメレーネ大陸は、全域を我ら人間が支配できているが、他の大陸は何ヵ所も魔物に支配されておる。我ら人間が支配しているメレーネ大陸でさえ、どこに魔物の脅威が潜んでおるか分からんのだ。状況は、はっきり言って悪い」
「なるほどな……。正直に言ってしまえば、俺が来たからすぐにどうにかなるとは思えない。俺がどのくらいこの戦況の約に立てるかは分からないが、一人で全部をどうにかするのはどんなに強くたって無理だ。体が一つしかない以上、そんな広域で戦えるわけがないし」
「そんな無茶は言わぬ。ユウリ殿に頼みたいのは、魔王の討伐だけである。無論、途中で遭遇した場合は速やかに倒してほしいが、無理に都市を奪還などはしなくてもよい。勇者と言えども、個人の力では無理であるからな。その辺りはきちんと心得ておる。これを見せたのは、状況を知っておくだけでも、為になるであろうと思ったからだ」
「あぁ、結構ヤバい状況だって言うのは理解できた。しかし、本当に魔王の討伐だけで良いのか? 少しくらいなら奪還の手伝いくらいはするぞ?」
「いや、そんなことはせんでもよい。無論、やってもらえれば有り難いが、奪還は我ら、この世界の人間の役目であろう。本当であれば、魔王討伐をユウリ殿に頼むのも、苦肉の策なのだ。あまりにも魔王が強すぎるが故、勇者に頼らざるを得ないのだ」
「なるほどな。それだけ魔王は危険なのか。分かった。俺は、魔王の討伐だけを考えていればいいんだな?」
「よい。魔王はそれだけ強力なのだ。魔物が支配しておる都市、その三分の一は魔王が一人で奪ったと言われておる。そのどの都市にも、最低でも千は兵士がいたのに、なすすべも無く占領されてしまったと聞く」
「それはやばいな……」
なんとなくだが、魔物、それと魔王の脅威が、実際に見ていない悠莉にも伝わってきた。詩奈が生きていられる、一年、というタイムリミットを考えなくても、速やかに魔物、ひいては魔王の脅威を退ける必要があるように感じられる。
悠莉が自分の中で決意を新たにしていたら、ガタリと音を立ててエルバートが席を立った。既に、近衛によって地図は片付けられている。話は終わりという合図だ。
「ユウリ殿、もうこんな陰鬱な話も終わりにしてしまおう。動き始めるのは明日からにして、今日はもう休んで、ゆっくりと英気を養っておくがよい。この城内では外の様子が分からぬが、既に夜になっていることであるしな。リーナよ、ユウリ殿を寝室まで案内せよ」
「分かりましたわ、お父様。ユウリ様、付いて来てくださいませ」
エルバートが命じ、それに従いリーナが立ち上がる。悠莉もリーナに促されて立ち上がった。
「では、ユウリ殿。今日は、ゆるりと休むがよい」
「ありがとう、国王。しっかりと休ませてもらうよ」
大事な話が終わったからか、エルバートは厳かな王から、食事の時の柔和な王へと戻っている。悠莉も張り詰めていた緊張の糸を緩めて、返事を返した。
「ユウリ様、こちらへ」
リーナが扉の前で悠莉を促しているので、悠莉はそれに従って、部屋の外へと出る。部屋の扉が閉まり、エルバートの姿が見えなくなると、悠莉は思わず、ふう、と息を漏らしていた。悠莉は自覚していなかったが、慣れないところへ連れてこられたり、エルバートという、一国の王と会話をしていたことで、精神的な疲れが溜まっていた。
「溜め息なんて吐かれて、何かありましたの?」
「いや、なんでもない。それにしても、国王は偉大だな。俺も、気が付かないうちに圧倒されてたよ。あのぐらいでないと、国は治めて行けないんだろうな」
「当然ですわ。お父様は、歴代の国王でも傑物と言われているんですもの。それこそ、初代様にも迫るほどと噂されているほどですのよ。わたくしも、娘に生まれられて誇りに思っているのですわ」
リーナは、誇らしげに、胸を反らして自分の父を自慢する。その動きに合わせて胸元が動くので、悠莉の視線が吸い寄せられた。悠莉の心は、癒しを欲しがっているのかもしれない。そんな心中を悟られないよう、悠莉は話題を変える。
「ところで、そういえばリーナの兄弟とか、母親とかを見なかったんだが、どこにいるんだ? リーナが第二王女ってことは、当然、姉はいるんだろうし、他の兄弟だっていないわけではないんだろ?」
「はい、兄が二人と、姉が一人、それと、弟が一人いますわ。でも、弟以外はみんな海外に遠征中で、弟はまだ五つを少し過ぎたばかり。ですから、わたくしが王族としての公務をやっているのですわ」
リーナは、尚も誇らしそうに、家族の事を言う。しかし、今度は態度を一転させて、少し暗い表情で続きを語る。
「お母様は、一年前、一度だけ起こったこの城への魔物の襲撃で亡くなってしまわれましたの。お母様は、世界でも有数の魔法使いだったのですわ。それで、魔物に真っ先に狙わてしまわれたのです」
あまり、聞かなかった方が良い話題だったようだ。それを言ったリーナの表情は本当に辛そうで、酷な事を言わせてしまったと、悠莉は後悔した。
「そうか。それは悪い事を聞いちゃったな。すまん。謝るよ」
「いいのですわ。気になってしまうのは、しかたのない事ですもの。わたくしにだって、そのくらいの事は分かりましてよ。それに、いつまでもお母様が亡くなってしまったからってくよくよしても居られないのですわ。お兄様もお姉様もいなくて、弟も幼いから働ける王族はお父様を除いてわたくししかいないんですもの、少しでも役に立てるように、頑張らなければなりませんわ!」
リーナは、頑張ると言ったことを表現するように、右腕で小さな力こぶを作る。その姿は、既に母親の死という出来事を、乗り越えているように見えた。
「俺も協力できるよう、頑張るよ。そんなことがもう二度と起こらないようにな」
「わたくしからも、お願いいたしますわ。それでは、お部屋に着きましたわ」
話しながら歩いていたら、悠莉が泊まる部屋に着いていた。扉を開いて中を見てみると、一人部屋相当の大きさの部屋に、豪奢ではないが、品の良い調度品が設置されていた。
「では、おやすみなさいですわ、ユウリ様」
「あぁ、おやすみ。明日からもよろしくな」
リーナは、悠莉に一礼して、部屋の中に入った悠莉を残して扉を閉じた。部屋の中にいるのは、悠莉ただ一人だ。疲れに身を任せて、体をベッドに沈みこませる。
寝転がったまま、今日の事を振り返ってみる。最初は詩奈と一緒に遊園地に行っただけのはずなのに、いつの間にか、異世界に連れてこられていて、勇者となっている。悠莉の胸に形容できない思いが浮かんだが、それが言葉になる前に、悠莉の意識は眠りに落ちた。