第一話 よくある夏の日の事
地球温暖化で、近年大幅に暑くなってきている夏休み。上を見上げると、空高くから全てを焼き尽くそうとするかのように、太陽がギラギラと照り付けている。コンクリートも限界まで熱せられて、触ったら火傷をしてしまいそうだ。
その上、周囲には休みを満喫しようとやってきたのであろう、カップルやら、三人組やら、家族連れやら、様々な人がひしめき合っているため、熱気が籠って蒸し風呂に入っているかのような気分にさせてくる。
そんな中で、波風悠莉も、そんな彼等彼女等のように、ひしめき合う人間たちの一人となって、せっかくの休日にやってきた遊園地の込み具合を呪っていた。熱気に当てられて滴り落ちてくる汗を、自由に使える右手で拭う。
「悠莉~? なんか話してよ~。せっかく遊びに来たのに黙ってちゃつまんないよ?」
そんな風に、熱さに参ってしまっている悠莉に追い打ちをかけるかのように、左腕に密着しながら鬱陶しく構って来る少女が一人。悠莉の幼馴染である、音海詩奈だ。悠莉が暑がっているのは、群衆の中という場所だけではなく、この少女にも半分くらいの原因があるのかもしれない。
「お、おい、詩奈、そんなにくっつくなって。ただでさえ暑いのに、くっついたら更に暑くなるだろ。それにだ、お前だって女の子なんだから、少しは周りの目を意識しろよ」
「なんで~? ま~、暑いのは分かるけど」
悠莉が言ったことが分かっているのか分かっていないのか、詩奈はきょとんとした顔をしながらも、抱きかかえていた悠莉の腕を離した。
悠莉の幼馴染であるこの少女は、大きく丸いクリッとした瞳に、ふわりと柔らかそうなボブカットの亜麻色の髪、右目の下にある泣きぼくろがチャームポイントの、とても可愛らしい少女だ。その上で、誰彼問わず、誰に対しても変わらず明るい態度で接しているため、学校では同学年だけではなく、先輩や後輩にまでファンを獲得している。
しかし、当の本人にはそんな自覚が無く、異性からすれば、勘違いしてしまいそうな距離感で話しかけているので、さらに続々とファンを増やしていっている。
「だからな、学校とかでも何度も言ってるだろ? 異性に抱き付くって言うのは、よほどその異性と親密じゃないとしないんだ。つまり、そういうことをしたら、その相手ととても親密だって見られるんだよ。分かるか?」
「うーん……。よく分からないけど、そういう風に見られちゃダメなの? だって、私と悠莉は親密な関係でしょ? それとも、悠莉は私と親密じゃなかったの?」
「いや、俺と詩奈は幼馴染で親密な関係だけど、そういう意味じゃ無いんだ。普通はな、そういうのは、好きな相手にしかしないんだ」
「じゃあ問題なし! 私は、悠莉の事が好きだから、そういうことをする相手って事だよね」
「お、あ、いや、多分、詩奈が言ってる好きじゃなく……だから、抱き付いてくるなって!」
好き、という言葉に動揺してしまった悠莉は、一瞬の隙を突かれて、詩奈の接触を許してしまう。抱き着いた詩奈はすりすりとすりついて、ご機嫌な笑顔だ。その動きに合わせて、女の子特有の匂いが広がり、悠莉の鼻腔を刺激する。
「離れろ! 離れてくれって! ただでさえお前の容姿は目立つってのに、騒いでるから余計に目立つだろうが! それにな、お前がそんなにくっ付くから感触とか匂いとかが色々とだな……」
「やだよーだ! そんなに離れて欲しいなら、引き離してみろ! 出来るものならな! なんちゃって」
「そんなこと言ってないで、離れろって! 周りにこんなに人もいるんだぞ! 恥ずかしくないのか?」
「恥ずかしくないも~ん。だって、私は悠莉の事が大好きだから!」
聞いた人が誤解しそうな内容を、詩奈は、平然と人混みの中で、それも世界中に届けと言わんばかりの大声で叫ぶ。その叫び声に合わせて、周りの人々が何事かと一斉に二人の方を向く。悠莉は、顔が真っ赤になって、まるで茹で上がっているがごとしである。
「いや、詩奈はそうかもしれないけどな、俺は恥ずかしいんだよ! お願いだから離れてくれ!」
「ん~。しょうがないな~。お願いまでされちゃったら、離してあげるしかないな~。本当は離れたくないのにな~」
詩奈は、渋々と、本当に渋々と離れているように見せながら、上目遣いになって悠莉の事を、ちらっ、ちらっ、と見つめてくる。そのとてもあざとい仕草は、殆どの男達が夢見心地へと落ちて行ってしまいそうなほど可愛らしい。
悠莉もその男達と同じように、夢の世界へと旅立ってしまうのかと思いきや、温かい目でで詩奈の事を見ていた。そして、さっきまでの慌てきっていた声とは正反対の、柔らかい声音で話しかける。
「はいはい。ありがとう。詩奈は優しいなー」
「そうだよ! 私は優しいんだから! もっと褒め称えて~」
「うんうん。詩奈は優しいね。凄い凄い」
悠莉に明らかに棒読みな感謝を受けただけなのに、詩奈はさっきまでのあざとい態度から一転、飼い主に褒められて喜ぶ犬のように、感情を顔に精一杯に咲きほこらせながら、もっともっととせがむ。
悠莉は、そんな詩奈を微笑ましい子供を見るかのような、慈愛に満ちた表情で見つめながら、詩奈のリクエストに応える。それを受けて、更に有頂天になった詩奈だったが、あるものを見てその動きを止めた。
「そうそう、私は凄いんだから! ……って、話してたら結構時間経ってるじゃん! せっかく遊びに来たんだから、遊び尽くさないと!」
「うわ、本当だ。わざわざ遊園地に来たのに、話し込みすぎたな」
詩奈が見た方向にあったのは、遠くからも見える様にと、巨大に作られた時計だった。その時計は、十時を少し過ぎたくらいを指し示している。悠莉と詩奈が遊園地に入ったのは九時くらいだったから、浪費した時間は一時間くらいだろうか。
込み合っているので、移動などに手間取っているということもあるのだが、それにしても何のアトラクションにも乗らずに一時間を過ごしてしまったというのは、少し勿体ない話だ。
何か手ごろな場所に乗れるアトラクションが無いかと、周囲を見回したところで、悠莉は目にしてしまった。
「ひっ!」
見てしまったものの異様さから、悠莉も思わず悲鳴を上げてしまう。非リア充と思われる人達から集まる、視線だけで殺してやると言わんばかりの怨念の籠った目。それが全方位から悠莉と詩奈を囲んでいた。
「どうしたの~?」
悠莉が突然の悲鳴を上げたのを不思議に思ったのか、詩奈が軽い調子で悠莉に問いかける。
「詩奈……お前は周りを見てどうも思わないのか……?」
「え? う~ん、どうも思わないけど……。どうして?」
悠莉に言われたからか、詩奈も周囲を見回したが、悠莉が悲鳴を上げた理由には思い至らなかったのか、悠莉に向けて不思議そうに首を傾げている。彼女は、周囲から自分たちへと向けられている怨念を感じていないらしい。
もしくは、その怨念は、可愛らしい少女を侍らせている、悠莉だけに向けられているのかもしれなかった。
「どうも思わないならいい。それよりも、早くどっか行こうか。時間は有限だからな」
とにもかくにもそこから逃げ出したくなっていた悠莉は、すぐにそこを離れようと詩奈を促す。すると、詩奈が右手を差し出してくる。
「じゃあ、はい」
「? はい」
はい、と言う詩奈に釣られて、悠莉も反射的に右手を詩奈の前に差し出すと、詩奈が、その手をぎゅっと握る。そして、周囲にひしめき合っていた人々をすり抜けて駆け出し始めた。
勿論、悠莉の右手を握ったままだ。
「詩奈! おい詩奈! 突然、それも手を握ったまま走り出すのはやめろ! 危ないだろ!」
「ははははは! 大丈夫大丈夫! 私は今、風なんだから~!」
「わけわからないこと言ってないで、走るのをやめろー!」
どれだけ言っても、笑うだけで全く止まる様子が見られない詩奈。すれ違う人々は、笑いながら走る女子高生と、それに引っ張られて走っている男子高生という、奇妙な光景を、妙な物を見る目で見ている。
悠莉がそれを見ていたとしても、奇妙ではた迷惑な奴らだと思いながら見ることだろう。
「詩奈! そもそもなんで走ってるんだよ! そんなに急がなきゃいけないのか!?」
「別に~! 気の向くまま、走るだけだよ!」
「そんなんで振り回すんじゃねえよ! おい!」
詩奈は、自分が言う通りに、右へ左へと、ふらりふらりと期の赴くままに走り続ける。悠莉も、最早、何かを言う性根も失せて、人とぶつかることが無いようにしながらも、詩奈に引っ張られるままにふらふらと走り行く。
ただでさえ人混みの中なのに、そんなところを無理して走っていくから、先を進む詩奈はまだしも、引っ張られる悠莉は、どんなに注意しても人にぶつかってしまう。その度に悠莉は謝る羽目になってしまっていた。
そんな辛い思いをしながら数分後、何故か、人気が無い暗い路地裏のような場所にたどり着いていた。その異様な雰囲気に合わせるかのように、それまでの暑さから一転、上着をもう一枚羽織りたいと思うほどに肌寒い。
さすがに異質に思ったのか、詩奈も走るのをやめて、悠莉の手をより強く、きゅっと握る。
「ね、ねえ。なんでここだけ人がいないんだろう?」
「本当だな。さっきまであんなに人がいたのに」
普通に街中を歩き回っていたのならば、そういう場所に行き着く可能性もあるかもしれないが、今いるのは遊園地の中だ。遊園地の中に、人が寄り付かないような裏路地があるとは思えない。
敢えて言うのなら、まるで別世界に迷い混んでしまった、そんな印象を受けた。詩奈も、何かを感じ取っているのか、怖がるかのように、少し震えている。
「な、何かここにいるのかな? 例えば、お、オバケとか」
そんな風に怯えた様子の詩奈に、悠莉は、詩奈がオバケとかのホラーの類が嫌いだったということを思い出した。確かに、この裏路地は、墓場とか、幽霊屋敷とか、そういうものに雰囲気が似ている。ホラーの嫌いな詩奈が、そんな風に怯えてしまうのも仕方が無いと言えた。
悠莉は、そんな詩奈を宥めるように、その印象を否定する言葉をかけてやる。
「あー、いや、オバケとかはいないんじゃないか? そんなのが出たら噂になってるだろうし」
「そ、そうだよね! 何も出ないよね!」
「そうだねぇ。オバケなんかは、出ないだろうねぇ。霊魂は、物体に宿らないと、存在出来ないからねぇ」
悠莉は、自分でも、詩奈でもない声が聞こえた気がした。空耳を一瞬疑ったが、なんと、その声に詩奈が応じる。
「そうなんだ! 言ってることはよく分からないけど、大丈夫なんだね!」
「少なくとも、空中に霊魂が浮かぶ、なんてことは無いかねぇ」
その詩奈の言葉にも、返事が返ってくる。悠莉だけでなく、詩奈も聞いているということは、空耳では無いのだろう。では、誰なのか。
「なあ、詩奈、お前は今、誰と話してるんだ?」
「え……? きゃー!」
詩奈は、悠莉の方を見て、自分が悠莉と話していたのではなかった事を確認すると、耳にキンキンと鳴り響く叫び声を上げた。ただでさえ怖い場所にいるのに、それに加えて本当にホラーのような状況に陥ってしまっていることで、堪え切れなくなっているのだろう。悠莉の事を痛いくらいに締め付けてくる。
悠莉は、詩奈が怖がっている代わりと言うわけではないだろうが、平静を保てていた。単に、その状況に理解が追い付けていないだけかもしれない。
「詩奈、少し落ち着け。それと、さっき詩奈と話してたやつ、どこにいるんだ? 隠れてこっちの反応を愉しむなんて、あまり良い趣味とは言えないな」
「そんな風には言わないで欲しいねぇ。だって、僕は最初から、隠れてなんていないからねぇ」
例の声は、悠莉が言ったことにもきちんと返事を返してきた。それが聞こえてきたのは、悠莉達が路地裏へと入って来る時に通った場所、つまり、悠莉達の後方だ。
「ねぇ、後ろから、後ろから聞こえるよぉ」
「だからねぇ。さっきから後ろにいるんだけどねぇ。あいさつしなかった僕も悪いけど、幽霊みたいな扱いはしないでほしいねぇ」
「嘘をつくなよ。本当に後ろにずっといたんなら、足音がしないとおかしいだろ。それに、さっきの現象も説明が……」
あり得るわけが無いと言いながら、悠莉は後方、自分たちが通った方向を振り返る。いた。そこには、明らかに怪しげな風貌の、性別不詳の人間が、まるで路地裏から他の場所へと行くことの出来ないように、道を塞いでいた。
身長は悠莉と同じくらい、男性の平均身長より僅かに高いくらいで、全身に季節違いなローブを身に纏っている。性別は、仮面を付けていて、声も中性的なので、判断をすることは出来ない。体型も、全身をぶかぶかのローブに包んでいるため、全くと言っていいほど分からない。
「ほらねぇ。いるって言っただろぅ?」
仮面をしていて、その顔は見えないが、このピエロがにやりと笑ったような気がした。悠莉にしがみついていた詩奈も見てしまったようで、きゃっ、と小さな悲鳴を上げて、ぎゅーっと締め付けてくる。
気が付けば、悠莉も後ずさりをしていた。
そんな弱気を吹き飛ばすように、悠莉は僅かに語気を強めて言い返す。
「いつから、そこにいたんだ。さっきまで、どう考えても、そこにはいなかっただろう。それに、今さっきそこに来たのなら、分からないわけがない。お前、何者だ?」
「そうだねぇ。答えてあげても良いけどねぇ。そんなことより、もっと話すべきことが、あるんじゃないのかねぇ」
「話すべきことだって?」
「その通りだよねぇ。僕がどうやってここに来たかなんて、知っても意味が無い。本当に知るべきは、なんでここにいるのか、という理由だ。……そうは思わないかねぇ?」
「いや……あ、あぁ、そうだな。なんで、わざわざ気付かれないように近付いて来た?」
一瞬だけ、ピエロの口調がそれまでの人を馬鹿にしたようなものから、それまで全く感じさせていなかった、怒り、のような感情を感じさせる冷ややかな声音へと変わった。
しかし、それは一瞬の出来事で、すぐにまた人を小ばかにした口調へと戻った。
悠莉は、ピエロのその口調に並々ならぬものを感じて、思わず自分の主張を引っ込めてしまった。そして、癪なことだが、ピエロの言に従って、質問を変えた。
「そうだねぇ。言うのは簡単だけどねぇ。何でも教えて貰える、と思われるのも嫌だからねぇ」
「お前が、知るべきなのは理由だ、なんて言ったんだろうが。自分から始めたんだから、それくらい言えよ。それとも、やっぱり俺達をからかう為にやったんじゃないだろうな」
自分で質問を変えさせておきながら、勿体ぶるピエロに悠莉の口調も自然と荒いものとなる。それでも、ピエロはまるで悠莉の神経を逆なでするように、その軽薄な態度を変えようとしない。
「からかう為、ではないんだけどねぇ。確かに、僕から言い始めたし、言わないのも不義理と言うものかねぇ。でも、これを聞いたら最後、戻れなくなるけど、それでも良いのかねぇ?」
「戻れなくなる、だって?」
不穏な一言に、やはりからかわれているのではないかと悠莉の心は更に荒んだものになっていく。
そもそも、悠莉にはこんなものを聞かなければならない理由は無いのだ。
「それは、聞かなくちゃならないことなのか? 聞かない、という選択肢はあるのか?」
「勿論だねぇ。わざわざ聞いたからには、選ぶことが出来るって事だからねぇ。選ばせないんだったら、問答無用で話してるからねぇ」
「それもそうだな……。少し、時間をくれ。俺一人だけだったら、即決出来るんだが、一人じゃないからな。相談したい」
「ふむ、それもそうだねぇ。そちらのお嬢さんと、良く話し合うと良いねぇ」
悠莉は、ピエロからそんな言質を取り付けて、未だに怯えたままで、会話に全く混じっていない詩奈の方へと向き直る。いくら、詩奈が震えていて会話に入っていなかったとしても、悠莉は詩奈を無視して自分勝手に決めるということはしない。
詩奈は、ピエロを見た瞬間から、今の今まで、ずっと悠莉の背中にしがみ付いて、うわ言を呟き続けていた。
「幽霊怖い幽霊怖い幽霊怖い幽霊怖い幽霊怖い幽霊怖い……」
「詩奈、良く見るんだ。あいつは幽霊なんかじゃない。性悪な正体不明のピエロ野郎だ。透けたりしてないし、足もしっかりあるだろ」
ひとまず詩奈に正気を取り戻してもらうため、悠莉は詩奈の肩をがっと掴み、詩奈の顔の目の前に悠莉の顔を持っていき、真っ直ぐに見つめる。正気を失って、ゆらゆらと揺れていた詩奈の瞳が、段々としっかりと悠莉の瞳を見つめ返すようになっていった。
悠莉の背後からは、ちょっと酷い言い草じゃないかねぇ、という声が悠莉に届いていたが、詩奈に集中していた悠莉は努めて無視した。
「ホント? 幽霊じゃない?」
「……あ、あぁ、本当だ。見れば分かるだろ?」
潤んだ瞳で、今にも泣きそうな表情で、悠莉の胸にすがり付いて、上目遣いで見上げてくる、少し童顔な美少女の姿に、悠莉の心にも悪戯心が芽生えないでもなかったが、そんなことをしている場合ではないと、その心を封じ込めた。
悠莉の悪戯心を封じ込める努力に応えると言う訳では無いだろうが、詩奈は、悠莉の体で隠れているところから、ひょいと顔だけ出して、ピエロの方を見た。
「ホントだ。ちゃんと立ってる」
「だろ? 幽霊なんていないんだって」
「でも、全然人間っぽくないし、顔も変なの被ってるし、声もおかしいし、ホントに人間?」
詩奈は、ピエロが幽霊でないのが分かっても、人間とは認めなかった。悠莉も、人間だとは思っていなかった。
「それは分からん。でも、なんでそんなことをしているのかの説明くらいはするって言っているんだけど、詩奈は聞きたいか?」
詩奈は、もう一度だけ、ちらっとピエロを見て、うーん、と顎に手を当てて考え込み始めた。
「うーん、そうだな~。正直、どうでもいいなー。悠莉に任せるよ~。聞いても聞かなくても良し! 良きに計らえ~」
「……そうか。まぁ、詩奈ならそう言うよな。聞いた俺が馬鹿だった。勝手に決めるけど、良いんだな?」
詩奈は、コクコクと、大きく首を振って、まるで王様にでもなったように偉そうに肯定を示してくる。さっきまで、いもしない幽霊に怯えきっていた姿が嘘のようだ。
怯えている詩奈は、しおらしくしていて、その可愛い顔も相まって保護欲を掻き立てて愛らしかったものが、幽霊ではないと分かっただけでこの態度である。詩奈のファンなどにはご褒美なのかもしれないが、一際付き合いの長い悠莉などには鬱陶しいだけだった。
それはさておきと、悠莉はピエロの方向へと向きを変える。それはもちろん、ピエロがした質問へと返事を返すためだ。
当然だが、ピエロは顔色一つ変えないで、悠莉と詩奈のことを見ていた。
「随分と、僕の事をこき下ろしていたみたいだけど、結論は出たのかねぇ?」
「あぁ。結局、俺一人だけの意見になっちゃいそうだけどな」
「そうみたいだねぇ。どうにもこうにも、君も苦労してるみたいで、心労痛み入るねぇ」
「それはどうも有難うよ。別に、お前みたいなのに心遣いされても嬉しくは無いけどな。それで、聞くかどうかなんだが……」
ピエロは、見て取れる変化はしなくとも、固唾を吞んでいるような雰囲気を醸し出しながら、悠莉が何かを言うのを待っている。悠莉も、周囲の空気が重たいものに変容しているのを感じ取っていた。
十分な間を取って、悠莉は口を開いた。
「やっぱり聞かない。よく考えてみたたどうでもいいからな。じゃ、そういうことなんで俺と詩奈は戻させてもらうから。さようなら」
「そうだよねぇ。やっぱり聞くよね……って、あれぇ?」
悠莉は、つまらなさそうに周囲の壁を眺めていた詩奈の手を引いて、じっと悠莉の言うことを待っていたピエロの横を素通りする。予想と違った反応をされたピエロは、固まってそれに対応出来ない。
しかし、数秒で動き始めると、急いで悠莉と詩奈の前に出る。
「ねぇ! さっきまで完全に聞く流れだったよねぇ? そんなあっさりと帰っちゃうかねぇ? あ、ちょっと、無視して行かないでくれないかねぇ!」
聞かないと決めた悠莉を、ピエロは目の前に立つことで遮ってくる。
悠莉は、話を聞くとは一度も言っていなかったし、どちらにするかもきちんと伝えたというのに、余りにも未練がましいピエロだ。
「別に、きちんと聞かないって言ったんだから、戻ってもいいだろ? こっちだってせっかく遊びに来ているんだし、時間は有効に使いたいんだよ。不審な奴の、意味深に聞いたら戻れないなんて言われた話と、楽しく遊ぶ時間を比べたら、遊ぶ時間を取るに決まってるだろ。聞く必要も無いし」
「それはそうだけどねぇ! この場の流れを無視してまでやることかねぇ! お嬢さんも、そう思うよねぇ?」
ピエロはどうしても悠莉が話を聞かないことが納得出来ないらしく、悠莉に手を引かれていた詩奈に同意を求める。しかし、詩奈はそれに何の反応も示さずに、ただ、じーっと壁の方を見つめていた。悠莉も見てみるが、そこには何もない。
ピエロは、詩奈から何の反応も無いので、再び困惑気味に声をかける。
「ねぇ、お嬢さん、何を見てるのかねぇ? せめて、何かしら反応してくれるとありがたいんだがねぇ?」
「…………え? 何かな? 私に何か言ったの?」
「もしかして、もしかしなくても、話を何も聞いてなかったのかねぇ! 二人揃ってどんなカップルなんだかねぇ!」
詩奈はピエロの話を聞くかどうかどころか、この話すら聞かずに、ただ壁を見つめていたようだ。流石のピエロも聞いていなかったとは夢にも思わなかったのか、もう既に何度目か分からない大声を上げた。
悠莉はそんなピエロなどには構わず、さっさと詩奈と共にその隣を再びすり抜ける。
「ほら、俺たちどっちも、欠片も興味が無いから、戻らせてもらうわ。こんな、悪戯じみたことはもうしないようにな」
「いや、だからねぇ…………はぁ。まぁ、いいかねぇ。そこまで言うなら、もう諦めるよりほかは無いよねぇ。話すのは、大人しく諦めることにするかねぇ」
悠莉が、一言かけて行こうとするのを、一瞬止めようとしたピエロだったが、ピエロの事を歯牙にもかけない二人の態度を見て、肩を落として諦めた。
悠莉は、近くにあった時計をちらりと見てみると、意味不明な何かに絡まれてしまったことで、ただでさえ貴重な時間が更に減っていることを確認する。来るときに想定していただけのアトラクションを乗るのには残り時間が短すぎるので、悠莉は頭の中で、乗りたかったアトラクションリストを開いて、残り時間とのすり合わせを開始する。
その時、悠莉はぞわっとした、嫌な予感に突然襲われた。
「じゃあ、二人には説明なしに、向こう側に行ってもらうとするかねぇ。別に僕は、話を聞かなければ戻れる、とは言ってないからねぇ」
悠莉達の後ろ、ピエロから、意味が分からない言葉が放たれる。思わずピエロの方へと振り返ると、何故か、ピエロの仮面のさっきまで泣いていた部分が、能面ような、ただただ表情のない顔に変容していた。
「行くぞ! 詩奈!」
「え? うわっ! 痛い、痛いって!」
表現できない、不安のようなものに突き動かされて、詩奈の手を強く握って走り出した。詩奈が、悠莉に突然引っ張られた腕の痛みに悲鳴を上げたが、無視して一刻もピエロから離れようと限界ぎりぎりまで力を込めて走る。
しかし、悠莉が走り出すのは、全くと言っていいほどに遅すぎた。
走り出した足は空を切り、悠莉と詩奈の体は地面に突然現れた穴に一直線に落ちていた。
「じゃあねぇ。波風悠莉に音海詩奈。君たちの健闘をお祈りしているよ」
ピエロが最後に呟いた、そんな言葉を聞きながら。