二章 祈りと呪い それは願い
ほぅよい、ほぅよい
あぁはれ、はぁあれ
浜辺の神殿から朝や夕な祈りが聞こえる。
海風と潮騒に言葉が溶けむので、
漏れぎこえる言葉は意味はなさぬ音の羅列。
意味こそ届かね、思いは伝わる。
かなしぃ、くやしぃ、
さみしぃ、にくい
朝や夕なやむことはなく
神殿から呪いの歌が流れ続ける
海と陸のはざまの岩場。
空と海のはざまの岩場。
曖昧な境界にたち、
蟹は、見る
蟹は、聞く
愛しい友への呪詛の歌を。
けれど、それを不快には思うことはない。
蟹は、ただ、ただそれを、美しいを思うだけ。
ほぅよい、ほぅよい
あぁはれ、はぁあれ
ほぅよい、ほぅよい
あぁはれ、はぁあれ
何日たったか今ではわからぬ。
何人の女が息絶えたのかも。
朝も昼も夜もなく、寝食忘れ、女たちは口ずさむ。
かつて赤く潤んだ唇は乾き荒れ、かつて白くふっくらとした肌はやつれ黄ばみ、かつて潤んだ美しい瞳は血走り落ち窪み。
それでも、女たちは祈ることをやめない。呪うことをやめられない。
最後の一人が倒れた時、祭壇に横たわっていた女の体に異変がおきた。女は獣じみた悲鳴をあげると、腹に爪を立てた。
巫女はむくりと立ち上がった。
祈りか呪いか、その境は曖昧で。
しかし、そこにこめられた願いはただ一つ。
憎き海の魔を滅したまえ。愛し亡き人の無念をはらしたまえ。
慈悲の女神よ、救いの女神よ。
ついに願いは聞き遂げられ、光の女神から使わされた、勇猛果敢な正義の使いがうまれおちる。
祭壇の女は、かなしぃ、かなしぃと泣いた。
こと切れるその一瞬、祈りよりも呪いよりも。
今はただ、かなしぃ、かなしぃと泣いた。
母であるから、かなしぃと。
かなしぃ、かなしぃと。
祭壇の女は、守るように、膨れた腹を抱きかかえ、うみの苦しみの声をあげた。
女がうみ、おとしたものは。筋骨たくましい体に、獅子のように精悍な顔と、金色の鬣の見目麗しい若者。
血と羊水と祈りと呪いにまみれてうまれおちた正義。
巫女は畏まって頭をたれた。
青年は、女たちの干からびた死体だらけの神殿を感情もなく見回して、朗々と響く声で告げた。
「我は光の女神からの使者。そなたらの祈りの声は、慈悲なる女神の耳に届き、正義を行うために我が使わされた。古の魔に支配されし海を、その悪しき支配から解き放ち、正義の統制のもとにおかんとす。」
「ありがたや、ありがたや。」
巫女はいっそ深く頭を垂れた。
青年は巫女に冷たい視線を落とした。
「一振りの剣が必要だ。呪いにやかれ、祈りに研がれた、一振りの剣が必要だ。それは、お前のことのようだよ。」
青年は巫女の細い干からびた首を掴むと、ぐいと持ち上げた。巫女は苦しさよりも驚きに、ぽかんと口と目を開け、美しい青年を見た。青年が何やら言葉を唱えると、巫女は一振りの剣へと姿を変えた。
神殿に倒れた女たちの呪いに焼かれ、祈りに研がれた一振りの剣。
それは、そこに込められた熱とはうらはらに、冷え冷えとした白銀の光を放っていた。
「我は正義を行うものなり。祈りに研がれた剣を手にいざ、海の魔を討ちにいか
ん。」
青年は、剣を光にかざすと、がらんどうの神殿に一声咆えると、意気揚々と歩き出した。
正義が生まれたその瞬間、祈りはやみ、願いは消えたのだ。
朝や夕な、神殿から寄せては返した、祈りの声がやんだ。
蟹は、丸く黒い瞳で灯の落ちた神殿をみると、ぽこり、と小さく泡を吐いた。
今日は、海が静かだ。
あの優しい友人は、泣いているのだろう。
愚かにも、自らの願いによって、死に絶えた浜辺の人々を悼みながら。
あの優しい友人は、泣いているのだろう。
過去を見て、未来を見て、泣いているのだろう。
予定調和に救えぬすべてを思い、泣いているのだろう。
けれど、海は大きすぎて。
蟹の手足は短すぎて。
抱きしめることも叶わない。
けれど、海は大きすぎて。
蟹の体は小さすぎて。
飲み干してやることすら叶わない。
だから、せめて、傍らで。優しい友を想っていよう。
ぽこりと吐いた小さな泡に、きっと友は気が付くだろうから。
今日は、海が静かだ。
静かで、苦い。