序章
序章
ざぶり、ざぶり、波がよせる。
夜の帷は海と空の境界線を曖昧にする
岩に砕ける波の白さだけが、その二つはべつものだと主張するが、砕けた波はすぐに藍色の海へと還り境界線はますます曖昧になる
黒い岩の上に、目に鮮やかな赤い蟹が一匹。
蟹は、ぽこり、ぽこり、と泡を吐きながら、天上に丸く浮かぶ月を見上げていた。月の光は、灯台の灯のように海に一筋の線を引く。けれど、その光が蟹に落ちることは無い。そして、蟹の手が月にとどくこともない。
ぽこり、ぽこり 切ないのだか
ぽこり、ぽこり 悲しいのだか
そんなことは、はなからわからぬ。
幸福な過去に感傷のまなざしを向けることで、あの日々を思い出にしたくないのだから。
ざぶり
海がむくりと体を起こた。
蟹は目をしばたくと、山のように盛り上がった海に、まぁるく黒い瞳を向けた。
海はやがてやわやわと蠢くと、大蛇の形をなぞって見せた。
海に定められた形などはないのだが、最近は、このものは蒼黒い鱗の煌めく、優美な姿を取ることが多い。
蟹が心寄せる銀色に煌くあの人への対抗心がそうさせるのか。
大蛇は波の上にとぐろを巻くと、鎌首をもたげて蟹をみつけた。
「蟹よ、蟹。我が最愛の友よ。今宵の月の光は、いつにもまして冷え冷えとしている。」
「海よ、苛烈で慈悲深い、我が最愛の友よ。
あの光に温度などないさ。あれは死んだ光。冷たいも暖かいもない。
それより、どうした。今宵の海はいつもよりも苦い。また、泣いていたのか。」
大蛇はしゅるしゅると舌を鳴らした。
「泣いてはおらぬ。我は泣かぬ。護るために失うことが必要であることを知っている。
それは、仕方のない事なのだ。」
「それでも、お前は優しいから。失った者の為に涙を流す。
彼らが選ぶ哀れな未来を憂いて、そして涙を流す。
お前が泣いてばかりだから、海はいつでも暖かく塩辛い。」
大蛇は苦笑するように喉を鳴らした。
「海の魔に向かって、泣き虫などと大それた蟹だ。」
「蟹ではあるが、私はお前の友だもの。傍らにいるよ。
優しすぎるお前が、涙に溺れてしまわないように。
お前の悲しみを、この小さな体で少しでも飲み干せればいいと願う。」
ぽこり、と蟹が泡を吐いた
泡は優しく波に溶ける
ぽこり ぽこり
ざぶり ざぶり
ざぶり ざぶり
ぽこり ぽこり