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月影酒盃

作者: 史燕

初投稿になります。

お目汚しにしかなりませんが、どうぞよろしくお願いします。

「……月でも愛でるか」


戯れにそう思ったのは、珍しく定時に帰宅することができた、ある日の夕刻のことだった。

ふと見上げれば、東の空に隈のない月が顔をのぞかせていた。


「こんな風に月を見たのも、果たしていつ以来だったか」


私はそう呟くと、今日が満月だということさえ知らなかった自分が、なんだか滑稽なものに思えた。


――余裕がなかった、ということだろうな。


胸の裡に浮かんだ答えを、そのまま形にせずに心の中で霧散させた。


何の変哲もない住宅街。

そのいつもの家路を歩いていると、“リンリン、リンリン”と、鈴虫が静かに自己主張していた。


――なるほど、虫たちも月見と洒落込むわけか。


こう考えてみると、ついぞ今まで夜空を見上げることすらしなかった自分と比べると、鈴虫たちのなんと風情のあることか。


「それもこれも、無事あの件が片付いたからこそ、か」


私自身が今日まで抱えていた案件が、幸いにしてなんとか一区切りついたのだ。

言ってしまえば、所詮はつかの間の休息であり、すぐにまた残業が雨霰と舞い込んでくる日常が帰ってくるのだということは、誰かに確認するまでもなく自分自身が良く分かっていた。


自宅にたどり着いた私は、手早く荷物を片付けると徳利と盃を引っ張り出し、ベランダへと繰り出した。


「今日は風流人(すずむしたち)を見習って、月見酒と洒落込むか」


相手のいない手酌酒だが、月をゆっくりと眺めるにはむしろちょうどいいだろう。

「リンリン、リンリン」と、再び鈴虫の音が聞こえてきた。

……幸いにして、独り酒ではないらしい。


ベランダに座る私の頬を、夜風がすっと撫でていった。

もはや霜月に入ろうというのに、不思議と風が優しかった。


“お疲れさまです”


錯覚だとは自覚しているが、夜風はそう言って、私を労ってくれた気がした。


街灯の無い、田舎道のボロアパートだが、月明かりがそっと、辺りの田圃道を照らしていた。


「やはり、美しいな」


自然と感想が、口をついてきた。


思えば、月というのはいつも変わらず天上にあるものである。

それを美しいと感じるか、ただの天体にすぎないと考えるかは、我々人間の勝手な都合なのだろう。


「それでも、美しいものは美しいさ」


そう言って徳利から盃へと移した酒を、そのまま一息にあおった。

酒精が一気に体中を駆け巡る感じが、非常に心地よい。


再度酒を注いだ盃の水面に、月影がそっと穏やかに差し込んでいた。


――私はいつでもここにいるから――


……どうやら月は、限りなくお人好しのようだ。


2014年12月27日、誤字脱字を改訂

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