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短編

孤独の距離、寂しさの檻

作者: キリ卍 ヤロ

 子守役の私と、とある家屋敷の御家族との物語をお話ししましょう。


 この小さな古い町。由緒ある方の住まう屋敷が、町の中心、小高い岡の上に佇んでいる。私が初めて彼らを見たのは、年に一度開かれる、伝統的なガーデンパーティーでだった。町の年頃の若者達と、彼らを見せびらかしたい親達の集う、いわゆる社交界へのお披露目会だ。


 館の主が現れると、皆が小さな音でも聞き逃すまいと、しんと静まり返り、その悠々とした姿に注視した。

 館の主人であり、催しの主催である男が、短く開催の合図を告げると、若者達は歓声を上げ、各々の関心事……踊りと、その相手を探すことへと心を移した。


 皆が尊敬の念を込めて見上げる男とは、間逆の存在があった。

 かの君が控えめに、高い天井から下げられたカーテンの側から、広い会場へと踏み入れると、近くにいる者達は気付く端から、眉を顰め、最新の注意を払って、一定の距離を空けるのだった。

 慎重な者は、視線を避けるように、横柄な者は、蔑みつつ。しかし皆が同時に避ける姿は、皮肉にも、ある意味、館の主への敬いによる距離感と同様であった。


 まるで疫病神のように現れた女は、この場の、否、この町の誰よりも繊細な美しさを持っていた。

 だが、あまりに儚く、どんな闇よりも暗い瞳を持つ為に、空恐ろしい感覚に呑まれるのだ。哀しいことに。

 その笑顔を見た者もなく、常に陰鬱としたその面は、魔の空気に包まれているようであった。


 まるで、この町全ての、憎しみ、妬み、哀しみを集めてかたどられたようなひと


 後で思い出してみれば、自分でも可笑しなことに、そんな人を、私はそう怖れてはいなかった。

 ただ、周りを取り囲む情況が、人々が、そのように振舞うので、そうしなければならないと、いや社会の輪から外れまいと、同じように反応していたに過ぎない。

 私は孤児院で育ち、院内で年下の者の面倒を見てきた。

 貰われ損ねた私は、そこに居るよりなく、仕方なくそうしていたに過ぎないが、保護官から「忍耐強く、この仕事に向いている」とお墨付きを頂いてしまった。そんな推薦状と共に、養成施設費用を免除され、保護官の免許を取得することになった。これは、安定した職を得る代わりに、未来は定められてしまったと同じだった。


 保護官は、巷では『子守』と呼ばれていた。

 決して、子供だけを対象にした保護施設ではないのだが、そのように呼ばれるようになって久しい。


 私はこのお披露目に参加することのなかった、下々の部類になる、人間の一人だ。

 親の無い者が参加してはならないという、決まりなどはなかったが、自然と公の場を避けて、生きるようになっていた。




 では何故、この会へ、この世界へ、足を踏み入れるようなことになったのか。


 私は、免許を取得すると、数年、保育施設へと斡旋され働き、その後、子供時代を過ごした孤児院の保護官として戻り、今に至る。

 そこへ、この会への招待状を添えた、『依頼書』がもたらされたのだ。


 この地方の領主といっても差し支えない、地位にいる男。それが、館の主である。

 彼は、前主を亡くして間もなく、若くして跡を継いだ。まだ少年の面影を残していながら、なかなかの豪傑だとの評判で、多くの事業、社交を切り盛りし、すぐにも実力を知らしめた。


 若さ故の強引さはあるようだが、生まれついての指導者たる、迷い無き決断力、理知を備え、また正しくあろうと、根気強く努力する姿勢に、男達は一目置くようである。

 容貌も、その性格を表したように頑なで冷ややかだ。淡い琥珀色に時折、虹彩は冷たい銀色のきらめきを放つ瞳。その瞳よりも淡い琥珀色の髪は、日差しを受けてさえ、やたらと艶を反射することなく、涼しげに揺れる。男から放たれる威厳と、艶を消した金属のような質感が、冷ややかに思わせる由縁だろう。

 意外にも、胸の内の思惑まで見通すように突き刺す、鋭い視線に魅了される女も多いというから、容姿は優れているのだろう。

 一応は私も女の身であるが、長らく拗ねた子供達の世話をしているせいか、それとも、良い印象を与えようとする、表の姿に惑わされることなく見抜こうと努めている故にか、人の外見というものに無頓着となっていた。


 ともあれ、ほぼ完璧に見えるその男には、妻と、二人の幼い子供があった。

 多忙に追われ、ままならないので、この教育係を求めているというお触れであった。

 このような家格の館で働けるのならば、幾らでも働き手があるだろう。本来ならば。


 だが、この町に住む者にとって、彼の後継者、しかも大層元気で利発だという男の子、二人を見ることは苦労もあろうが、重責である。

 何より、誰もが出来るだけ、避けたい事態となる原因が存在していた。


 誰もが、この現主を申し分ないと認めている。それだけに、あまりに口惜しい事柄が一つあった。そのたった一つは、あまりに大きな瑕疵であった。

 それが、先程に話した、蔑む者の存在。

 彼が妻に迎えた者、その人であった。



 その話には、もっと昔からの流れも関係している。

 まだ現主が学生の時分に、前主とその友が決めた婚姻を、一度結んだことがある。その友の娘だったのだが、貴族上がりの、甘やかされ放題に育った若い娘には、まだ人生を縛られることには耐えられなかった。現主の、生真面目で厳しい性格とも、到底噛み合わなかっただろう。娘は、事あるごとに旅行に出ては、その場限りの火遊びを繰り返すとの噂であった。

 前主の死後、その婚姻を無効にしたという事は、全くの出鱈目という訳でもなかったのかもしれない。


 家柄は申し分のない娘だったが、主の配偶者としての自覚の無さに、町の者達の意見は分かれていた。

 いずれは落ち着くだろう、というものと、誰の子か分からない者に跡を継がれても困る、といったもの。

 現在も、主などと呼ばれてはいるが、その実、領主として君臨していたのは、数世代前の話である。今では、他所の一家庭の事情なのだ。

 だが、そう割り切るには、多くのしきたりや、慣例行事が、彼の館と繋がっているのだ。伝統はそうそう変わることもなく、結局のところは、主の屋敷を中心に回っている。

 特に、前時代を覚えている年寄り連中にとっては、まだまだ形骸化させまいとしているようだった。


 この町の外に関することは、伝え聞いてしか知らないが、ここだけ時が止まっているようにも思える、古めかしい町らしい。



 話が逸れたが、そんな石頭達の住まう町では、心の自由である恋愛事も制限されるらしい。

 主は、奔放な娘と別れてから、亡き前主の意思であるのにと、年寄りは文句を口にした。内心は、「これで、もっと物のよく分かる者を娶ることが出来る」、そうホッとしていたのに関わらずだ。

 しかも、昔と違い良家の子女である必要は無いのだからと、独身で年頃の娘を持つ親、特に母親達は浮き足立った。隣町へ出稼ぎしている娘を呼び戻して、後釜の機会を狙う者まであった。

 都合よいところだけは、新しいことを取り入れたいようである。


 主を取巻く、そんな喧騒は、長くは続かなかった。


 皆を騒然とさせたのは、主自身がすぐさま別の女を見つけ、さらにはなんのお披露目もないままに、後妻として迎え入れていたことである。

 役場より、文書での知らせだけはあったのだが、「二度目の妻であるから大仰な祝い事は控えたい、書状のみで失礼する」、そんな簡潔なものだったように思う。

 理由としては、尤もだと思ったが、町の者は、これに憤懣やる方ないというように、集まっては口々に文句を連ねていた。


 実は、彼らのその憤慨とは、お相手の素性のせいであった。ただ、その事を、人前で堂々と口に乗せるのは憚られた。それでも、何か一言残さねば気が済まず、歪んだ形で、彼らの不満は発せられていたのだろう。


 瞬く間に、話題の中心となってしまったその人。

 彼女は、私と違い、父だけとはいえ親や家があり、普通の町娘であることに違いはない。

 それなのに、彼女は一度として、社交場や、ガーデンパーティーへ現れたことがなかった。

 彼女が……正確には彼女の父親が、一躍その名を馳せたのは、その罪によるものだった。


 その恐ろしい事件を解決するに至ったのは、偶然主が、その家を訪ねる機会があったからだという。


 彼女は、早くに亡くした母同様に、病弱で臥せってばかりという話だった。皆、どこからともなく伝え聞くと、そうなんだろうと信じるものだ。

 存在を忘れかけたような、父と娘の家は、町外れの薄暗い森の中にあった。母親の死後、彼らは町に姿を現さなくなり、その内、町の誰もが気にしなくなった。



 そんなある日のこと、若き主は役場で研修中であった。役場の外回り担当官について、その町外れの家を訪れた。事務的な確認事なのか、税金などの未払いでもあったのかは忘れたが、そのようなことだった。なにぶん、噂話が元なので、真偽の程は分からない。


 娘は、ぼろを着せられ牛馬のように働かされていたとも、その家は娼館のようで、娘は淫らな衣をまとい、主達を誑かそうとしていたとも言われている。

 はっきり言えば、憶測ばかりの噂である。

 ただ、主達が罪となるような情況を目撃したのは確かなのだ。


 どちらにしろ、問題は、娘はまだ少女であったことだ。

 成人していたならば、第三者の助けが入ったことで、自ら訴えるか否かを選ぶこともできただろう。だが、被害者が未成年となれば、自動的に成人した者へ委ねられることになる。

 そして、娘には他に身寄りがなかった。


 若く、正義感に駆られた主が、事を公にすることになったとしてすら、解決に踏み切ったとしても驚きはしない。

 だが歳若い娘にとって、果たしてそれは救いだったろうか。



 小さな町の、全てが何処かで密接に関わりあっている弊害は、例え未成年の関わる事件であっても、完全に名を伏せることなど出来ないことだ。


 父が程なく逮捕され収監された後々に、もし娘一人で生きていこうとしたならば、どこにでもいるお節介者が、仕事の世話をしてくれただろう。町の隅で、ひっそり生きていくことになっただろうが、それなら誰も見咎めはしない。

 よりによって、そのお節介者、哀れみと共に手を差し伸べたのは、この町の主だった。


 さらに付け足すならば、彼女が、いわゆる平々凡々な容姿だったなら、まだ女達の妬みも少なかっただろう。それどころか、おべっかを使って取り入ろうと、表面的にならば愛想良く振舞っていたかもれない。


 不運なことに、見た目に無頓着な私から見ても、素直に美しいと思えるほどの容貌だった。ただそれは、造詣の美だけではなく、ふと見入ってしまうほどの、別の何かに魅せられているような気もした。

 肌は、森の奥にひっそり湧き出た泉に浮かぶ、満月のように淡く、その立ち昇る光のように儚げである。背の中程まであり柔らかく揺れる髪と、光を吸い込む瞳は、墨よりも深い闇色で、見るものを幻惑する。

 憂いを帯びた目元と裏腹に、口元には微笑が錆付いていた。いつも全てを諦めたように、感情のない面持ちだった。

 その美しさを持つこと、悲しい体験で失ったであろう心。そのどちらもが彼女のせいではない。

 それにも関わらず、娘が父を惑わせ、主をも惑わせたと。そんな心ない噂を止めることは出来ないのだ。

 ひっそりと生きていれば、事件の噂も遠からず沈静するものだが、常に町の中心である主の側に居る限り、記憶は掘り起こされ続ける。



 多少、それらの寒々しい空気が晴れたのは、子を宿し、元気な男の子が産まれた為だ。子供に罪はなく、周りも冷たくはできなかった。ただ、その子は、彼女譲りの暗い髪だった。二年後には、さらに息子を授かり、その子の髪が主と同じ淡い琥珀色だったので、町の者達もひとまずは、安堵を得たのである。


 そのことで、彼女への労わりも少しは生まれるかと思われた。だが、残念なことに、産後の容態が悪く、寝たきりという話で、それきりほとんど顔を見せる事はなくなってしまった。

 これまた、新たな憶測と噂を呼ぶことになる。

 体を壊しても、子の為に働かなくてはならないのに。

 主の人が良い事に付け込み、楽していいご身分だ。

 などと、非難の的になる有様であった。


 一部の者達が、思い出したように酒場で話題にするので、なるべく波風を立てたくない者は、ともに陰口に花を咲かせるか、口を閉ざす他なかった。




 こういった経緯のせいだろう。身寄りのない者の元へまで、主の子達の教育係という、またとない待遇の依頼が回ってきたのは。

 ガーデンパーティーの招待状は、そこで顔合わせを兼ねる為のようだった。それに、身寄りのない、ほとんどの者にとっては、褒美ともいえる。


 言い添えておくと、もちろん幾度かは、面白半分か報酬目当てで働く者もあった。だが、その者達の子育ての経験とは、自らの子であった。他人の子というだけでも気を遣うのに、あまつさえ主の跡継ぎであり、大層傍若無人な兄弟なのだそうだ。かくして長く続く者はなく、逃げ出してしまったという話だ。だからこそ、これは最終手段だったのだろう。


 しかし、私のような立場の者なら、否が応にもその対処には慣れていた。慣れるとは、齟齬があるだろうか。苦労に思わないわけではないが、ただ心構えとして慣れてしまうとしか言えなかった。

 とにかく子供達は、突飛なことを思いついては行動する。そういうものだと、覚悟をしておくしかない。

 そして、相手の信頼を得ることが大切だが、徐々に進まなくてはならない。根気強く、冷静に、己を律する心持でいることである。逆に、信頼を得ようと躍起にならないほうが良いだろう。


 私も働き盛りであり、自らの手腕に多少は自信もついていた。

 もしこの仕事を獲得できれば、経歴としては申し分ないようにも思えた。

 数年は、慣れ親しんだこの孤児院を、離れることになるのは寂しさもある。

 しかし、こんな機会でもなければ、このまま決まった未来を生きていくだけなのだ。

 しかも、自信のある仕事で、確実に戻ってこれる、期間限定の仕事である。

 冒険などしたくはない、臆病な私には、これ以上の条件はなかった。



 まさか、彼ら家族が、私の中でこれ程重要な地位を占めることになろうとは。

 よもや救われるのが、私の方だったなんて、思いもよらないことだった。




 私の意識は、パーティーに戻る。

 奥方は、一応義務は果たしたとばかりに、一瞬だけ姿を見せ、誰にともなくホールの中心に会釈をすると消えていた。

 それに安心した会場の者達は、今や踊りと音楽に、完全に意識を移しているようだった。


 いわゆる面接は、この舞踏会が済んでからという事だった。楽しむよう配慮してくれたのだろう。だが、生憎私は、馴染みないことを楽しめるような性格ではない。

 出来るだけ、邪魔にならないように、ホールから開かれた、庭園へと移動した。


 この会は、昼より始まり、日が沈む前にはお開きの、健全なパーティーである。社交界デビューしたばかりの少年少女達は、どこかで二次会となるのが恒例らしいが。大人達も、穏やかな初夏の夜気の中で、カクテルを片手に、ついつい談笑を続けてしまうようだ。気が乗ると、そのまま飲み直しとばかりに、夜の町へと消えていく。

 前主の頃までは、一部の親しい者達の間で、そのままカードゲームに興じつつ語らったらしい。

 そういった慣習を、懐かしむ者の声も聞こえてくるが、現主の興味は今のところ、仕事のみに傾けられているようだ。



 陽が傾く。

 私も自分の仕事をする時だ。

 主と、奥方、そして子供達。彼らを見、会い、話しができるかと、私は向かった。




 さらさらと流れる、大人の背丈ほどの噴水を見ながら、招待客の皆が、帰りの門へ足を向けている。

 その側で、一々挨拶を交わしつつ、見送る主が立っている。

 私は多少襟を正しつつ、時が過ぎるのを待っていた。


 その時、ちょっとした事件が起こった。

 酒に弱いのか、飲みすぎたのか、足取りの安定しない男が、噴水の側に差し掛かった。

 丁度そこへ、お仕着せの夜会服を着た男の子二人が、はしゃぎながら、走り寄って来ていた。上等の服に、二人の髪の色から、あれが主の子供達かと、その姿を追う。父である主の元へ行こうとしていたらしい。

 そして、その後を、距離を置いて追い、人から姿を隠すように噴水の反対側に留まって、見ている奥方の姿。


 そこに酔った男が差し掛かると、奥方へぶつかり、突き飛ばす形となった。体力仕事である私のように、腕も胴もがっしりしているならば、少しよろめく程度だったろう。だが彼女は、心許ない見た目通りに、あまりにも、か細かった。

 噴水はさして大きくないため、両腕で底に手を付いても、頭まで浸かることはなかったが、噴水なのだ。上から降り注ぐ水を、上半身に被り続けていた。


 帰ろうとしていた客の幾人かが、酔った男を助け起こし、連れ去ろうとしていた。

 その男の口からは、奥方に対する罵りが漏れていた。他の者も、誰も奥方に手を貸す者はなく、声すらかける者もなかった。


 奥方は、一人でそっと起き上がり、僅かに震える指先で、水の滴る髪をそっとはらった。

 青褪めて、その場を辞そうとした彼女の周りを、遮るように、息子達が騒ぎながら駆け回る。


「母様のどじ!」

「かあさまどじー!」


 そんな言葉で、口々に囃し立てる。

 主は、そんな二人を窘めると、足を止める客達を送り出しに戻った。

 奥方への言葉はなく、目すら向ける事もなく。


 それは異様に思われた。

 皆がどんなに陰口を叩いても、主自身が望んで、妻にと迎えた女の筈だ。

 女主人を名乗らせるには、あまりにも、ぞんざいな扱いだった。



 いつも、私は、子供達相手の職場にこもっているようなものだ。

 何か、私の知らないことを、町の人々が知っていたとしても、不思議ではない。



 何がそこまで、奥様を責め立てさせるのか、鈍感な私には分からない。

 ただ、今出来ることをすることにした。


 初夏の夜は、期せずして肌寒くなる日もある。

 持参していた薄手の上着を、奥様の震える肩へ羽織らせる。

 目に見えるほどに、一際大きく肩を震わせると、振り向く。

 その大きな瞳は、間近に見ると、落ちてしまいそうな程に思えた。

 彼女が、小さくありがとうと答えるのを聞くと、館内へと促した。

 奥方の足元も震えていて、どうやら、逃げようにも動けなかったようだった。

 その腕を、軽く支え、私も付いて室内へ移動した。



 誰が、感情のない闇のようだと評したのだろうと、訝しんだ。

 とても傷ついているようにしか、見えなかった。


 主は、心の傷から守るために、身柄を引き取ったのではなかったのか。

 だが、そういった子供達の親も見てきた。どうにか折り合いをつけて頑張ろうとしても、心折れてしまう人々はいる。

 青臭い正義感だけでは、どうにもならないことに、気付いたのかもしれない。

 不躾ながら、噂からの流れで考えれば、そういうことなのだろうかと、想像を巡らせた。

 ただ、この館で働くことになるのならば、そういった噂は、頭の隅に追いやらねばならない。

 自分の目で見たものだけを見、自分に任せられた仕事だけに精を出す。

 家庭によって違うものは、価値観、習慣、関係と幾らでもある。余計な詮索も、口出しもすべきではない。


 奥様と、既に心の中で呼び変えていた。

 恐らく断られることはないだろうと、確信めいたものがあった。


 そして、あの傍若無人で、無礼な子供達とどう向き合っていくか。算段をつけるべく、忙しく脳は働いていた。





 確信はしていたが、初めから決められていたかのように、私は招き入れられた。


「働く気はあるか」


 そう旦那様が問い、あると答え、それで決まりだった。



 孤児院上がりの子守には、不相応なほどの部屋を割り当てられた。

 幾ら無頓着な私でも、さすがに気が引け旦那様に問う。他の使用人との仲を、多少心配したこともある。

 旦那様は、下らないことで煩わせるなと、眉を顰めた。


「息子達の部屋は隣だ」


 話はそれで終わりだった。




 翌朝から、子供達との闘いが始まった。

 部屋に入るなり、枕を投げ合い、ベッドで跳ね回っている二人を捕まえ、着替えさせる闘いだ。背丈が、私の腿辺りの兄と、兄よりやや低めの弟。だが、制限の効かない子供は、力任せに追突してくる。踏ん張っていないと、なかなかに大変なのだ。

 二人の首根っこを捕まえ、ベッドに転がす。興奮で奇声を上げ続ける彼らの寝間着を、容赦なく引き剥がし着替えさせていく。初日が肝心なので、容赦なく予定を消化するつもりだ。


 結果、第一戦は、私の勝ちである。

 着替えると嬉しそうに、私に突撃し、飛びついてくる。

 そんな二人を両脇に抱えるように、朝食を摂らせるべく食堂へと向かう。

 初日の付き添いで、それまで身の回りの世話をしていた使用人は、肩の荷が下りたと、心底胸を撫で下ろしていた。


 こうして暫くは、要所で叱りつつも、好きにさせて過ごす。

 子供達は、力の限り暴れても根を上げない私を、仲間と認めてくれたようだった。

 見知らぬ人間への興奮も、治まってくると、ようやく人並みの甘えが出てくる。

 眠るまで子供部屋で過ごしても、はしゃぎすぎる事もなくなるどころか、本を読んでほしいとおねだりするようになった。

 初日の邂逅が、あんまりな情況だったので、性根をひどく拗らせているのではと心配していた。

 だが、父親譲りの尊大さはあれど、純粋な子供達だった。あまりにも、純粋すぎるのかもしれない。家の立場的に、周りの大人は強く出られなかったのだろう。

 尊大さは、将来の役目を考えれば、悪い資質ではない。

 悪い方向に出ないよう、今から教養を身に付けられれば、強みの一つとなるだろう。




 子供達が寝付くまで、話しを聞いたり、本を読んだりが定着しつつある頃だった。

 旦那様が、部屋を訪れた。一瞬子供達は、騒然となる。ベッドを出て飛びつく二人を、笑顔で抱き上げる。疲労の滲んだ顔の中でも、子供達への愛情は見て取れた。

 旦那様は、子供達を諌めると、ベッドへ戻す。

 そして、私にいつものように振舞ってくれと、譲るようでありながら、指示した。私は、再び本を開き、読み聞かせる。静かに話しを聞いている子供達に、旦那様は父親の顔で満足を伝えた。




 子供達の部屋から、さほど遠くない場所に、奥様の部屋はあった。

 走り回る子供達の、行く手を追いかけて、気がついたのだ。

 直線上の廊下の端と端だが、子供達の部屋が、日の良く当るひらけた表の庭へ面しているのに対し、奥様の部屋は館の裏手側、木々に隠れて薄暗さの増す側となっている。人目を避けるために選んだのだろうと分かる。

 私の部屋は、子供達の隣なのだから、その部屋は目の届く範囲なのだが、扉が開いたところを見たことはないし、まさかそんなところが、奥様の部屋だとは考えもしなかった。


 子供達が飛びつくと、奥様はよろめいてベッドに腰を下ろした。

 だが、子供達を抱きしめ、眺めるそのお顔は、この上なく優しい。


「母様! 新しいとうぎゅうし、すごいんだ!」

「かあさま、いつもひらりと、よけるんだよ!」


 支離滅裂な子供達の言葉に、奥様は困った微笑を見せる。

 私を闘牛士のようだと評して喜んでいたのは、井戸端会議中の使用人達である。

 それを聞いた子供達は、喜んで私を囃し立てた。

 言葉の出元達は、バツが悪そうに散っていった。

 私は期待に応えるべく、良い遊びの案だと、子供達を闘牛に見立て、シャツを振っていなして遊んだ。

 使用人のことを告げると、表情を硬くした奥様だったが、その後の子供達との遊びを告げると、それも和らいだ。


「まあ……ごめんなさいね。そんな風に言ってはなりませんよ」


 子供達にそう言いつつも、慈しむ笑みは増していた。




 噂の内の一つ一つについて、真偽を提示されるのは、不思議なものである。

 町の風評など、普通は特に解決しないまま終わるものではないのか。

 奥様は、就寝用の薄手のドレスのまま、一日を過ごすこともあった。

 原因が、産後に体調を崩したというのは定かではないが、実際に顔色が悪いことも多く、やせ細っている。そして、部屋で塞ぎこんでいるのは事実であった。


 長引いているのは、この館で働く者のせいもあるのではないかと思う。

 奥様がこのような状態にも関わらず、側付きの使用人は一人としていなかった。

 食事は用意されている食堂で摂る、風呂も着替えも、お一人で済ませる。体調が優れないときでさえ、だ。

 子守の私に、何かをする権限はない。

 ただ、子供達への優しさは、本物であると思えた。本当は、もっと側で過ごしたいのだろう。去り際に、物寂しさが伝わったほどだ。

 子供達も、母親を怖れているわけではないようだったし、その機会を作ることくらいは構わないだろうと考える。私自身が、でしゃばった行為をするわけにはいかなかった。

 そこで、時折、子供達を奥様の部屋へ向かうよう、追い立てながら過ごした。




 子供達と、長く過ごすことが増え、奥様は、目に見えて元気を取り戻されていた。

 体に障るので、子供達が暴れまわる時は、私がその攻撃を受け止める。

 それをやや羨ましそうに眺めつつも、側で姿を見ていられることが幸せなのだ、とのお気持ちは、十分に伝わってきた。

 その精神的な回復は、奥様に力を与えたのだろうか。

 館中が、十分寝静まった頃、奥様は、子供達の様子を見に、立ち寄るようになった。

 私は、夜更けに一度、子供達の様子を見る役目なので、たまたまそれを知った。

 奥様がいらっしゃる時は、なるべくかち合わないようにしていた。それでも、出会いがしらということは起こる。その時は、何事もなかったように、頭を下げ、奥様の姿を見送るだけだ。

 奥様は、いつもと同じ消えそうな声で、ありがとうと、そう残して部屋へ戻る。

 ご自身の子息でありながら、会うことに礼を言わねばならないとは。

 奥様が、子供達へまで、人々の心ない言葉が及ばないように、遠ざけていることに気付いていた。やりきれない感情が過ぎるのを、振り払いながら、私は自身の仕事を終える。




 館の皆の中でも、私の位置は定着してきた。

「さすがに下々の出だけあって、獣の扱いに長けている」

「無愛想で、子供達を荷物のように掴む姿は、牛馬のようだ」

 だの、使用人達の、ひん曲がった心根と口は相変わらずだが、意地悪などではなく、話の種として自然にのぼっている。ある意味、仕事仲間の一人として、認められたのである。


 子供達の相手をし、寝付く前には旦那様が、寝付いた後には奥様が現れる。そんなサイクルが暫く続いた。





 ある日、子供達の寝つきが悪かった。寝付いた後、しばらく、そっと見守るので、部屋を出るのが遅くなった。

 部屋に戻る前に、お手洗いにと廊下を歩いていると、休んだと思っていた旦那様の背が見えた。裏手側の部屋、奥様の部屋の方へと、向かっているようにみえる。廊下の端は、全面硝子窓となっている。満ちた月明かりが、はっきりとその輪郭を浮かび上がらせていた。

 私は特に気にもせず、用を済ませに向かった。

 だが、部屋へ戻ろうと、十字路となる廊下の中央まで進むと、まだ旦那様の姿がありぎょっとする。思わず、十字の廊下の陰へ引っ込み様子を窺うと、奥様の部屋の前で佇んでいた。


 扉を叩こうと上げた手を、空で止める。不安そうに揺れる瞳が、胸中の迷いを覗かせていた。

 結局、旦那様は、その部屋を訪れることはなかった。

 私はそ知らぬふりをして、気まずい表情を浮かべていた旦那様に、会釈をし部屋へ戻った。


 子供達への面会も、食事時も、お二人は時間をずらしている。

 揃っているのを見たのは、パーティーの時以来ない。

 当然、私が子供達を見ている間のことは分からない。だが、今ではそこそこの頻度で、奥様の部屋も訪れている。

 そこに旦那様の影はなかった。




 ある晩、子供達が寝付く頃に、仕事から戻った旦那様が顔を出した。旦那様と共に、子供達の寝息が聞こえてくるのを見つめていた。

 疲れが癒えるのだろうか。旦那様は、少し柔らかな表情になると、部屋を出る。私も、後を付いて出た。

 そっと扉を閉めると、立ち去ろうとした旦那様の背に声をかける。


「奥様は、皆が寝静まってから、様子を見にいらっしゃいますよ」


 旦那様の背が、緊張に強張る。彼は振り返らず、肩越しに話しかけた。


「君は、妻を……遠ざけないんだな」

「当たり前です! お子様達を深く愛してらっしゃる方を、どうして責められましょうか」


 思った以上に、強い声が出たことに内心驚いた。

 旦那様の横顔にも、動揺が見てとれた。それは、私の与り知らぬお気持ちに由来するように思えた。

 私は、口出しのような真似をお詫びし、その場を下がる。





 暑くもなく、日差しも柔らかな日。思い切って、昼は庭で子供達とのお食事をと、奥様へ提案した。ここのところ、体調も悪くないとのことであるし、大分、奥様も私を警戒せずに、過ごしてくれるようになったと思っていた。

 だがそんな些細なことでも、奥様は戸惑う。

 私は、子供達が望んでいるのですと後押しをした。


 そうして、依然庭先ではあるが、少しばかり館からも、使用人達の視線からも離れた。

 奥様と私は、木陰で涼みながら、芝生の上を転げては、走り回る子供達を眺めている。


 聞き出そうとしたつもりはなかった。好奇心などもない。だが、子供達へ思いを移す程には、馴染んでしまっていた。子供達は、全身で精一杯、存在を主張している。それは、両親の愛情を求めてだった。今はまだ天真爛漫に、我侭を通すが、物が判ってくるとどうなるのだろう。

 そんな心配が、つい言葉にのぼってしまっていた。


 奥様は、胸に秘めたものを話してくださる。


「彼に助けてもらったから、恩を返したかったの。子供を二人も授かって、元気に育ってる。だから、もう……」


 どこか、思いつめたような表情だった。

 そしてその先の言葉に至る――もう、必要ない――。衝撃を受け、慌ててそれを遮っていた。


「子供達にとって、奥様は大切な方ですよ!」


 暗い瞳に、似つかわしくない、乾いた微笑。


「元気な子供達の側に、ずっと居てあげられるほど、健康な母親には、なれなかったの。彼に返せるものは、この身一つしかないのに、それさえも」


 逆に言えば、私は頑丈なだけが取り柄ですと、言いたかった。奥様ほどの細やかで深い愛情など、私には持ち得ようもない。


「……でも、今は貴女が居てくれる」


 気落ちする奥様に、かける言葉もなかった。

 そして、それ以上の会話も許されなかった。

 奥様は、子供達を呼んだ。私も、バスケットを開け、食器を広げる。

 到着するなり、用意したサンドイッチにかぶりつく子供達。その姿を、心から嬉しそうに、愛おしそうに、見つめる奥様に、何を言えよう筈もなかった。




 翌日から、奥様は体調を崩したからと、部屋にこもってしまわれた。

 無理をさせてしまったと、申し訳なく、せめて食事をと部屋に運ぶ。

 誰も、部屋に寄りつかないのを知っているので、私が来たことには何も言われなかった。

 連れ出したことを詫びたが、それは関係ないのよと、力なく微笑むばかりだった。





 子供達の様子を見ようと、深夜の廊下へ出る。緊張をはらんだ声が、耳に届いた。

 奥様の部屋へ続く廊下に、浮かぶ身姿は、奥様と、旦那様だった。

 旦那様が、何かを促すように、部屋へ戻ろうとする奥様を、押し留めているように見える。

 顔を背けた奥様の顔に、光るものが見えた。それで諦めたのか、力が抜けた旦那様の手を振り切って、奥様は部屋へ戻っていった。

 思わず、固まってしまったが、やるべき事を思い出し、子供達の部屋へ向かった。

 旦那様は、その音に気付いたようだった。




 それから奥様は、より一層塞ぎこみ、そして……。






「奥様が失踪?」


 よりによって、子供達の前で、そんな話を聞くはめになるとは。

 奥様は、そこまで思い詰めていたのかと心配で、顔から血の気が引くのを感じ、気分が悪くなる。

 ただ、特に驚きはしなかった。もっとずっと前に、館を、この町を捨てていたとしても、良かったくらいだ。

 私の両脇に寄り添っていた、子供達の肩をぎゅっと抱きしめた。

 子供達の為というよりは、自身の不安を払うように。

 私は、子供達を支えなければならず、動くこともままならない。

 唇を噛んで、気持ちを飲み込む。ここは旦那様にお任せするしかない。


「心当たりはある。危険はない場所にいるだろう……このまま、好きにさせるべきなのかもしれない」


 その言葉に驚いた。探す気もないのかと、問い詰めようと思ったのだが。

 先日の、奥様の言葉が頭を過ぎった。


『でも、今は貴女が居てくれる』


 その言葉に、酷く動揺していた。では、やはり、実行に移したのは、私のせいだったのではないかと。

 旦那様は、いつもの如く、説明をするでなく、出て行こうとしていた。だが、私の動揺に気付くと、何を知っていると、険しい顔で問い詰めてきた。

 怯えて、泣き出しそうな子供達を見て抑えはしたが、先程、まるで見捨てるような言葉を残したとは思えない、激しい剣幕だった。




 子供達を、部屋に落ち着かせると、改めて応接室で対峙した。

 奥様が心配していたことを、包み隠さず伝える。

 たかが数ヶ月の関係だ。余計なお世話かもしれない、自己満足かもしれない、それでもと、私自身の思っていたことを、口にしていた。


「旦那様、どうかもう一度、奥様の心と向き合ってくださいませんか。たかが子守が、何を言うかとお怒りは承知です。ですが、旦那様も道を探してらっしゃるのではないですか」


 あの夜、奥様の部屋の前に立つ、旦那様の顔に苦悩を見ていなければ、ただ情も冷めたのだと思ったろう。奥様を取巻く状況に、抗うことにも挫けてしまったのだと、思っただろう。


「奥様の部屋を訪ねようとしては、立ち去って行たのは、奥様に心を残していらっしゃるからではないのですか」


 余計なことを言いすぎたと、深々と頭を下げる。

 長い長い沈黙があった。



「森の家は、まだ彼女の物だ」


 それで十分かのように呟く。

 旦那様は、疲れきった顔を、自身の手の平で撫でると、立ち上がった。

 奥様の生家のことだろう。

 じっと見つめる私を、咎めていると受け取ったのか、言葉を添える。


「他に行くあても、体力もない。迎えに行ってくる。子供達を頼む」


 連れ戻すのではなく、迎えという言葉に安堵する。


「お迎えに、行かれるのですね」


 念を押すようになってしまったが、私の意図に気付いたようだ。


「何年ぶりだろうか、彼女が感情を見せたのは。私では、もう無理なのだと、諦めていたんだ」


 部屋を出、玄関へ向かいながら、旦那様の言葉を聞く。


「君が来てから、息子達の癇癪も落ち着き、妻も健康になっていった。私にもまだ出来ることがあると、君の伝えてくれた妻の言葉を、信じてみよう。感謝する」


 言葉少ない旦那様の、精一杯の謝意だ。

 私も、どうかお二人のわだかまりが解けますようにと、旦那様の背に祈りを捧げた。




 子供達を安心させるために、急いで部屋へ戻る。

 ただでさえ、非情な環境に育っている。あんな、怯えたような顔や、不安に胸を締め付けられるような顔を、見ていたくなかった。

 きっと、お二人共に、戻ってくるだろう。そう信じて、私自身の不安を消す。子供達に見破られないように。




 いつの間に、こんなに深く、この館を家族を、愛するようになったのだろうか。

 保護官となったのは、生まれ育った環境で、出来ることが、これしかなかったからだ。

 そのせいか、立場は変われど、孤児院で子供達を見ることは、過去の自分を見ているような、どこか閉じた感覚でいた。

 こんな強い感情や、弾けるような想い、胸を掻き毟りたくなるような苦しさ。それらに触れたことで、自分と外の世界を隔てるように覆っていたものが、剥がれていた。


 私は、遠くない未来に、元居た世界へと戻る。子供達の成長を、見届けたら、契約は終わりなのだから。

 そしてまた、同じ職場に、予想できる未来が待っている。

 だけど、以前のまま続けていたのとは、全く違う自分を想像できた。

 この館で、彼らと過ごせたこと。

 それは、この先、生きていく上で、力を与えてくれるだろう。





◇◇◇





「約束してたのに、迎えに来るのが遅れて、ごめん」

「私で、いいの? 何もできないのに」


 孤独は互いの距離を量り損ねて、寂しさが心を閉じ込めてしまう。


 自ら閉じ込めた檻から、恐る恐る、出てきた二人。

 傷だらけの心のまま、今ようやく向き合う。


「帰ろう、私達の家に」

「私達の、家……う…ん、帰りたい。一緒に、帰りたい……」


 少しだけ二人ははぐれ、道に迷ってしまった。けれど、また初めに戻っただけ。

 二人は、そっと手を携えて、歩き出す。

 でも、今度は間違えないだろう。

 交わした誓いを思い出したから。





 薄暗い森の家。

 そこは二人の出会い、全ての始まりの場。


 役場の者が、家主から何かしらの事情を聞こうと、玄関の前に立ち、扉が開かないかと集中して見ている。どう切り出したものかと考えているのだろう、研修で付いてきた若き主の方へは、気が回らないようだ。

 主は、その様子を見、こっそり家の裏手に回った。

 表に回ってくる途中に、木々の隙間から垣間見えた窓には、人影が見えていた。

 あれが娘だろうか。

 興味本位だった。


 二階の薄汚れた、小さな窓ガラスから、一対の暗い瞳が見下ろしていた。


 主は側の木に登り、開けられた窓越しに彼女を見る。

 身長を見ると、自分よりは、やや年下のようだが、よく分からないほど、痩せていた。


 人見知りなのかな、安心させようと、笑顔で主は名乗った。

 笑顔もなく、無表情で少女は名乗り返す。

 そして、出会ったばかりの、信頼できるかどうかも分からない男に言った。



 たすけてください。



 主は、少女の体、わずかに見える部分の肌のあちこちが、擦り切れたような痕を残しているのに気付いた。


 足音が聞こえ、少女は慌てて、主に木の陰に隠れるよう懇願した。

 主は注意深く、部屋の様子を窺う。

 父親は部屋に入るなり、少女の頬を、平手で打ち据えた。少女は勢いで倒れこむ。

 理由は、窓を開けたから。

 外へ出るどころか、窓を開けることすら禁止されていた。

 乱暴に窓を閉めると、父親は罰として、少女の両腕をまとめて縛り上げ、床を引きずる。

 少女の口を布で塞ぐと、その腕を、天井の梁から吊るし、出て行った。役場の者と話す為だろう。

 先程の、無感情な暗い目は、今は、痛みと恐怖に震え見開いている。



 窓越しに、少女と主は、見つめ合う。

 主は、ゆっくりと少女に見えるように、約束を告げるべく口を動かした。



 たすける。



 絶対に助けるから。その決意を胸に走り出す。涙に光る少女の瞳にそう誓って。



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