孤独の距離、寂しさの檻
子守役の私と、とある家屋敷の御家族との物語をお話ししましょう。
この小さな古い町。由緒ある方の住まう屋敷が、町の中心、小高い岡の上に佇んでいる。私が初めて彼らを見たのは、年に一度開かれる、伝統的なガーデンパーティーでだった。町の年頃の若者達と、彼らを見せびらかしたい親達の集う、いわゆる社交界へのお披露目会だ。
館の主が現れると、皆が小さな音でも聞き逃すまいと、しんと静まり返り、その悠々とした姿に注視した。
館の主人であり、催しの主催である男が、短く開催の合図を告げると、若者達は歓声を上げ、各々の関心事……踊りと、その相手を探すことへと心を移した。
皆が尊敬の念を込めて見上げる男とは、間逆の存在があった。
かの君が控えめに、高い天井から下げられたカーテンの側から、広い会場へと踏み入れると、近くにいる者達は気付く端から、眉を顰め、最新の注意を払って、一定の距離を空けるのだった。
慎重な者は、視線を避けるように、横柄な者は、蔑みつつ。しかし皆が同時に避ける姿は、皮肉にも、ある意味、館の主への敬いによる距離感と同様であった。
まるで疫病神のように現れた女は、この場の、否、この町の誰よりも繊細な美しさを持っていた。
だが、あまりに儚く、どんな闇よりも暗い瞳を持つ為に、空恐ろしい感覚に呑まれるのだ。哀しいことに。
その笑顔を見た者もなく、常に陰鬱としたその面は、魔の空気に包まれているようであった。
まるで、この町全ての、憎しみ、妬み、哀しみを集めて模られたような女。
後で思い出してみれば、自分でも可笑しなことに、そんな人を、私はそう怖れてはいなかった。
ただ、周りを取り囲む情況が、人々が、そのように振舞うので、そうしなければならないと、いや社会の輪から外れまいと、同じように反応していたに過ぎない。
私は孤児院で育ち、院内で年下の者の面倒を見てきた。
貰われ損ねた私は、そこに居るよりなく、仕方なくそうしていたに過ぎないが、保護官から「忍耐強く、この仕事に向いている」とお墨付きを頂いてしまった。そんな推薦状と共に、養成施設費用を免除され、保護官の免許を取得することになった。これは、安定した職を得る代わりに、未来は定められてしまったと同じだった。
保護官は、巷では『子守』と呼ばれていた。
決して、子供だけを対象にした保護施設ではないのだが、そのように呼ばれるようになって久しい。
私はこのお披露目に参加することのなかった、下々の部類になる、人間の一人だ。
親の無い者が参加してはならないという、決まりなどはなかったが、自然と公の場を避けて、生きるようになっていた。
では何故、この会へ、この世界へ、足を踏み入れるようなことになったのか。
私は、免許を取得すると、数年、保育施設へと斡旋され働き、その後、子供時代を過ごした孤児院の保護官として戻り、今に至る。
そこへ、この会への招待状を添えた、『依頼書』がもたらされたのだ。
この地方の領主といっても差し支えない、地位にいる男。それが、館の主である。
彼は、前主を亡くして間もなく、若くして跡を継いだ。まだ少年の面影を残していながら、なかなかの豪傑だとの評判で、多くの事業、社交を切り盛りし、すぐにも実力を知らしめた。
若さ故の強引さはあるようだが、生まれついての指導者たる、迷い無き決断力、理知を備え、また正しくあろうと、根気強く努力する姿勢に、男達は一目置くようである。
容貌も、その性格を表したように頑なで冷ややかだ。淡い琥珀色に時折、虹彩は冷たい銀色のきらめきを放つ瞳。その瞳よりも淡い琥珀色の髪は、日差しを受けてさえ、やたらと艶を反射することなく、涼しげに揺れる。男から放たれる威厳と、艶を消した金属のような質感が、冷ややかに思わせる由縁だろう。
意外にも、胸の内の思惑まで見通すように突き刺す、鋭い視線に魅了される女も多いというから、容姿は優れているのだろう。
一応は私も女の身であるが、長らく拗ねた子供達の世話をしているせいか、それとも、良い印象を与えようとする、表の姿に惑わされることなく見抜こうと努めている故にか、人の外見というものに無頓着となっていた。
ともあれ、ほぼ完璧に見えるその男には、妻と、二人の幼い子供があった。
多忙に追われ、ままならないので、この教育係を求めているというお触れであった。
このような家格の館で働けるのならば、幾らでも働き手があるだろう。本来ならば。
だが、この町に住む者にとって、彼の後継者、しかも大層元気で利発だという男の子、二人を見ることは苦労もあろうが、重責である。
何より、誰もが出来るだけ、避けたい事態となる原因が存在していた。
誰もが、この現主を申し分ないと認めている。それだけに、あまりに口惜しい事柄が一つあった。そのたった一つは、あまりに大きな瑕疵であった。
それが、先程に話した、蔑む者の存在。
彼が妻に迎えた者、その人であった。
その話には、もっと昔からの流れも関係している。
まだ現主が学生の時分に、前主とその友が決めた婚姻を、一度結んだことがある。その友の娘だったのだが、貴族上がりの、甘やかされ放題に育った若い娘には、まだ人生を縛られることには耐えられなかった。現主の、生真面目で厳しい性格とも、到底噛み合わなかっただろう。娘は、事あるごとに旅行に出ては、その場限りの火遊びを繰り返すとの噂であった。
前主の死後、その婚姻を無効にしたという事は、全くの出鱈目という訳でもなかったのかもしれない。
家柄は申し分のない娘だったが、主の配偶者としての自覚の無さに、町の者達の意見は分かれていた。
いずれは落ち着くだろう、というものと、誰の子か分からない者に跡を継がれても困る、といったもの。
現在も、主などと呼ばれてはいるが、その実、領主として君臨していたのは、数世代前の話である。今では、他所の一家庭の事情なのだ。
だが、そう割り切るには、多くのしきたりや、慣例行事が、彼の館と繋がっているのだ。伝統はそうそう変わることもなく、結局のところは、主の屋敷を中心に回っている。
特に、前時代を覚えている年寄り連中にとっては、まだまだ形骸化させまいとしているようだった。
この町の外に関することは、伝え聞いてしか知らないが、ここだけ時が止まっているようにも思える、古めかしい町らしい。
話が逸れたが、そんな石頭達の住まう町では、心の自由である恋愛事も制限されるらしい。
主は、奔放な娘と別れてから、亡き前主の意思であるのにと、年寄りは文句を口にした。内心は、「これで、もっと物のよく分かる者を娶ることが出来る」、そうホッとしていたのに関わらずだ。
しかも、昔と違い良家の子女である必要は無いのだからと、独身で年頃の娘を持つ親、特に母親達は浮き足立った。隣町へ出稼ぎしている娘を呼び戻して、後釜の機会を狙う者まであった。
都合よいところだけは、新しいことを取り入れたいようである。
主を取巻く、そんな喧騒は、長くは続かなかった。
皆を騒然とさせたのは、主自身がすぐさま別の女を見つけ、さらにはなんのお披露目もないままに、後妻として迎え入れていたことである。
役場より、文書での知らせだけはあったのだが、「二度目の妻であるから大仰な祝い事は控えたい、書状のみで失礼する」、そんな簡潔なものだったように思う。
理由としては、尤もだと思ったが、町の者は、これに憤懣やる方ないというように、集まっては口々に文句を連ねていた。
実は、彼らのその憤慨とは、お相手の素性のせいであった。ただ、その事を、人前で堂々と口に乗せるのは憚られた。それでも、何か一言残さねば気が済まず、歪んだ形で、彼らの不満は発せられていたのだろう。
瞬く間に、話題の中心となってしまったその人。
彼女は、私と違い、父だけとはいえ親や家があり、普通の町娘であることに違いはない。
それなのに、彼女は一度として、社交場や、ガーデンパーティーへ現れたことがなかった。
彼女が……正確には彼女の父親が、一躍その名を馳せたのは、その罪によるものだった。
その恐ろしい事件を解決するに至ったのは、偶然主が、その家を訪ねる機会があったからだという。
彼女は、早くに亡くした母同様に、病弱で臥せってばかりという話だった。皆、どこからともなく伝え聞くと、そうなんだろうと信じるものだ。
存在を忘れかけたような、父と娘の家は、町外れの薄暗い森の中にあった。母親の死後、彼らは町に姿を現さなくなり、その内、町の誰もが気にしなくなった。
そんなある日のこと、若き主は役場で研修中であった。役場の外回り担当官について、その町外れの家を訪れた。事務的な確認事なのか、税金などの未払いでもあったのかは忘れたが、そのようなことだった。なにぶん、噂話が元なので、真偽の程は分からない。
娘は、ぼろを着せられ牛馬のように働かされていたとも、その家は娼館のようで、娘は淫らな衣をまとい、主達を誑かそうとしていたとも言われている。
はっきり言えば、憶測ばかりの噂である。
ただ、主達が罪となるような情況を目撃したのは確かなのだ。
どちらにしろ、問題は、娘はまだ少女であったことだ。
成人していたならば、第三者の助けが入ったことで、自ら訴えるか否かを選ぶこともできただろう。だが、被害者が未成年となれば、自動的に成人した者へ委ねられることになる。
そして、娘には他に身寄りがなかった。
若く、正義感に駆られた主が、事を公にすることになったとしてすら、解決に踏み切ったとしても驚きはしない。
だが歳若い娘にとって、果たしてそれは救いだったろうか。
小さな町の、全てが何処かで密接に関わりあっている弊害は、例え未成年の関わる事件であっても、完全に名を伏せることなど出来ないことだ。
父が程なく逮捕され収監された後々に、もし娘一人で生きていこうとしたならば、どこにでもいるお節介者が、仕事の世話をしてくれただろう。町の隅で、ひっそり生きていくことになっただろうが、それなら誰も見咎めはしない。
よりによって、そのお節介者、哀れみと共に手を差し伸べたのは、この町の主だった。
さらに付け足すならば、彼女が、いわゆる平々凡々な容姿だったなら、まだ女達の妬みも少なかっただろう。それどころか、おべっかを使って取り入ろうと、表面的にならば愛想良く振舞っていたかもれない。
不運なことに、見た目に無頓着な私から見ても、素直に美しいと思えるほどの容貌だった。ただそれは、造詣の美だけではなく、ふと見入ってしまうほどの、別の何かに魅せられているような気もした。
肌は、森の奥にひっそり湧き出た泉に浮かぶ、満月のように淡く、その立ち昇る光のように儚げである。背の中程まであり柔らかく揺れる髪と、光を吸い込む瞳は、墨よりも深い闇色で、見るものを幻惑する。
憂いを帯びた目元と裏腹に、口元には微笑が錆付いていた。いつも全てを諦めたように、感情のない面持ちだった。
その美しさを持つこと、悲しい体験で失ったであろう心。そのどちらもが彼女のせいではない。
それにも関わらず、娘が父を惑わせ、主をも惑わせたと。そんな心ない噂を止めることは出来ないのだ。
ひっそりと生きていれば、事件の噂も遠からず沈静するものだが、常に町の中心である主の側に居る限り、記憶は掘り起こされ続ける。
多少、それらの寒々しい空気が晴れたのは、子を宿し、元気な男の子が産まれた為だ。子供に罪はなく、周りも冷たくはできなかった。ただ、その子は、彼女譲りの暗い髪だった。二年後には、さらに息子を授かり、その子の髪が主と同じ淡い琥珀色だったので、町の者達もひとまずは、安堵を得たのである。
そのことで、彼女への労わりも少しは生まれるかと思われた。だが、残念なことに、産後の容態が悪く、寝たきりという話で、それきりほとんど顔を見せる事はなくなってしまった。
これまた、新たな憶測と噂を呼ぶことになる。
体を壊しても、子の為に働かなくてはならないのに。
主の人が良い事に付け込み、楽していいご身分だ。
などと、非難の的になる有様であった。
一部の者達が、思い出したように酒場で話題にするので、なるべく波風を立てたくない者は、ともに陰口に花を咲かせるか、口を閉ざす他なかった。
こういった経緯のせいだろう。身寄りのない者の元へまで、主の子達の教育係という、またとない待遇の依頼が回ってきたのは。
ガーデンパーティーの招待状は、そこで顔合わせを兼ねる為のようだった。それに、身寄りのない、ほとんどの者にとっては、褒美ともいえる。
言い添えておくと、もちろん幾度かは、面白半分か報酬目当てで働く者もあった。だが、その者達の子育ての経験とは、自らの子であった。他人の子というだけでも気を遣うのに、あまつさえ主の跡継ぎであり、大層傍若無人な兄弟なのだそうだ。かくして長く続く者はなく、逃げ出してしまったという話だ。だからこそ、これは最終手段だったのだろう。
しかし、私のような立場の者なら、否が応にもその対処には慣れていた。慣れるとは、齟齬があるだろうか。苦労に思わないわけではないが、ただ心構えとして慣れてしまうとしか言えなかった。
とにかく子供達は、突飛なことを思いついては行動する。そういうものだと、覚悟をしておくしかない。
そして、相手の信頼を得ることが大切だが、徐々に進まなくてはならない。根気強く、冷静に、己を律する心持でいることである。逆に、信頼を得ようと躍起にならないほうが良いだろう。
私も働き盛りであり、自らの手腕に多少は自信もついていた。
もしこの仕事を獲得できれば、経歴としては申し分ないようにも思えた。
数年は、慣れ親しんだこの孤児院を、離れることになるのは寂しさもある。
しかし、こんな機会でもなければ、このまま決まった未来を生きていくだけなのだ。
しかも、自信のある仕事で、確実に戻ってこれる、期間限定の仕事である。
冒険などしたくはない、臆病な私には、これ以上の条件はなかった。
まさか、彼ら家族が、私の中でこれ程重要な地位を占めることになろうとは。
よもや救われるのが、私の方だったなんて、思いもよらないことだった。
私の意識は、パーティーに戻る。
奥方は、一応義務は果たしたとばかりに、一瞬だけ姿を見せ、誰にともなくホールの中心に会釈をすると消えていた。
それに安心した会場の者達は、今や踊りと音楽に、完全に意識を移しているようだった。
いわゆる面接は、この舞踏会が済んでからという事だった。楽しむよう配慮してくれたのだろう。だが、生憎私は、馴染みないことを楽しめるような性格ではない。
出来るだけ、邪魔にならないように、ホールから開かれた、庭園へと移動した。
この会は、昼より始まり、日が沈む前にはお開きの、健全なパーティーである。社交界デビューしたばかりの少年少女達は、どこかで二次会となるのが恒例らしいが。大人達も、穏やかな初夏の夜気の中で、カクテルを片手に、ついつい談笑を続けてしまうようだ。気が乗ると、そのまま飲み直しとばかりに、夜の町へと消えていく。
前主の頃までは、一部の親しい者達の間で、そのままカードゲームに興じつつ語らったらしい。
そういった慣習を、懐かしむ者の声も聞こえてくるが、現主の興味は今のところ、仕事のみに傾けられているようだ。
陽が傾く。
私も自分の仕事をする時だ。
主と、奥方、そして子供達。彼らを見、会い、話しができるかと、私は向かった。
さらさらと流れる、大人の背丈ほどの噴水を見ながら、招待客の皆が、帰りの門へ足を向けている。
その側で、一々挨拶を交わしつつ、見送る主が立っている。
私は多少襟を正しつつ、時が過ぎるのを待っていた。
その時、ちょっとした事件が起こった。
酒に弱いのか、飲みすぎたのか、足取りの安定しない男が、噴水の側に差し掛かった。
丁度そこへ、お仕着せの夜会服を着た男の子二人が、はしゃぎながら、走り寄って来ていた。上等の服に、二人の髪の色から、あれが主の子供達かと、その姿を追う。父である主の元へ行こうとしていたらしい。
そして、その後を、距離を置いて追い、人から姿を隠すように噴水の反対側に留まって、見ている奥方の姿。
そこに酔った男が差し掛かると、奥方へぶつかり、突き飛ばす形となった。体力仕事である私のように、腕も胴もがっしりしているならば、少しよろめく程度だったろう。だが彼女は、心許ない見た目通りに、あまりにも、か細かった。
噴水はさして大きくないため、両腕で底に手を付いても、頭まで浸かることはなかったが、噴水なのだ。上から降り注ぐ水を、上半身に被り続けていた。
帰ろうとしていた客の幾人かが、酔った男を助け起こし、連れ去ろうとしていた。
その男の口からは、奥方に対する罵りが漏れていた。他の者も、誰も奥方に手を貸す者はなく、声すらかける者もなかった。
奥方は、一人でそっと起き上がり、僅かに震える指先で、水の滴る髪をそっとはらった。
青褪めて、その場を辞そうとした彼女の周りを、遮るように、息子達が騒ぎながら駆け回る。
「母様のどじ!」
「かあさまどじー!」
そんな言葉で、口々に囃し立てる。
主は、そんな二人を窘めると、足を止める客達を送り出しに戻った。
奥方への言葉はなく、目すら向ける事もなく。
それは異様に思われた。
皆がどんなに陰口を叩いても、主自身が望んで、妻にと迎えた女の筈だ。
女主人を名乗らせるには、あまりにも、ぞんざいな扱いだった。
いつも、私は、子供達相手の職場にこもっているようなものだ。
何か、私の知らないことを、町の人々が知っていたとしても、不思議ではない。
何がそこまで、奥様を責め立てさせるのか、鈍感な私には分からない。
ただ、今出来ることをすることにした。
初夏の夜は、期せずして肌寒くなる日もある。
持参していた薄手の上着を、奥様の震える肩へ羽織らせる。
目に見えるほどに、一際大きく肩を震わせると、振り向く。
その大きな瞳は、間近に見ると、落ちてしまいそうな程に思えた。
彼女が、小さくありがとうと答えるのを聞くと、館内へと促した。
奥方の足元も震えていて、どうやら、逃げようにも動けなかったようだった。
その腕を、軽く支え、私も付いて室内へ移動した。
誰が、感情のない闇のようだと評したのだろうと、訝しんだ。
とても傷ついているようにしか、見えなかった。
主は、心の傷から守るために、身柄を引き取ったのではなかったのか。
だが、そういった子供達の親も見てきた。どうにか折り合いをつけて頑張ろうとしても、心折れてしまう人々はいる。
青臭い正義感だけでは、どうにもならないことに、気付いたのかもしれない。
不躾ながら、噂からの流れで考えれば、そういうことなのだろうかと、想像を巡らせた。
ただ、この館で働くことになるのならば、そういった噂は、頭の隅に追いやらねばならない。
自分の目で見たものだけを見、自分に任せられた仕事だけに精を出す。
家庭によって違うものは、価値観、習慣、関係と幾らでもある。余計な詮索も、口出しもすべきではない。
奥様と、既に心の中で呼び変えていた。
恐らく断られることはないだろうと、確信めいたものがあった。
そして、あの傍若無人で、無礼な子供達とどう向き合っていくか。算段をつけるべく、忙しく脳は働いていた。
◆
確信はしていたが、初めから決められていたかのように、私は招き入れられた。
「働く気はあるか」
そう旦那様が問い、あると答え、それで決まりだった。
孤児院上がりの子守には、不相応なほどの部屋を割り当てられた。
幾ら無頓着な私でも、さすがに気が引け旦那様に問う。他の使用人との仲を、多少心配したこともある。
旦那様は、下らないことで煩わせるなと、眉を顰めた。
「息子達の部屋は隣だ」
話はそれで終わりだった。
翌朝から、子供達との闘いが始まった。
部屋に入るなり、枕を投げ合い、ベッドで跳ね回っている二人を捕まえ、着替えさせる闘いだ。背丈が、私の腿辺りの兄と、兄よりやや低めの弟。だが、制限の効かない子供は、力任せに追突してくる。踏ん張っていないと、なかなかに大変なのだ。
二人の首根っこを捕まえ、ベッドに転がす。興奮で奇声を上げ続ける彼らの寝間着を、容赦なく引き剥がし着替えさせていく。初日が肝心なので、容赦なく予定を消化するつもりだ。
結果、第一戦は、私の勝ちである。
着替えると嬉しそうに、私に突撃し、飛びついてくる。
そんな二人を両脇に抱えるように、朝食を摂らせるべく食堂へと向かう。
初日の付き添いで、それまで身の回りの世話をしていた使用人は、肩の荷が下りたと、心底胸を撫で下ろしていた。
こうして暫くは、要所で叱りつつも、好きにさせて過ごす。
子供達は、力の限り暴れても根を上げない私を、仲間と認めてくれたようだった。
見知らぬ人間への興奮も、治まってくると、ようやく人並みの甘えが出てくる。
眠るまで子供部屋で過ごしても、はしゃぎすぎる事もなくなるどころか、本を読んでほしいとおねだりするようになった。
初日の邂逅が、あんまりな情況だったので、性根をひどく拗らせているのではと心配していた。
だが、父親譲りの尊大さはあれど、純粋な子供達だった。あまりにも、純粋すぎるのかもしれない。家の立場的に、周りの大人は強く出られなかったのだろう。
尊大さは、将来の役目を考えれば、悪い資質ではない。
悪い方向に出ないよう、今から教養を身に付けられれば、強みの一つとなるだろう。
子供達が寝付くまで、話しを聞いたり、本を読んだりが定着しつつある頃だった。
旦那様が、部屋を訪れた。一瞬子供達は、騒然となる。ベッドを出て飛びつく二人を、笑顔で抱き上げる。疲労の滲んだ顔の中でも、子供達への愛情は見て取れた。
旦那様は、子供達を諌めると、ベッドへ戻す。
そして、私にいつものように振舞ってくれと、譲るようでありながら、指示した。私は、再び本を開き、読み聞かせる。静かに話しを聞いている子供達に、旦那様は父親の顔で満足を伝えた。
子供達の部屋から、さほど遠くない場所に、奥様の部屋はあった。
走り回る子供達の、行く手を追いかけて、気がついたのだ。
直線上の廊下の端と端だが、子供達の部屋が、日の良く当るひらけた表の庭へ面しているのに対し、奥様の部屋は館の裏手側、木々に隠れて薄暗さの増す側となっている。人目を避けるために選んだのだろうと分かる。
私の部屋は、子供達の隣なのだから、その部屋は目の届く範囲なのだが、扉が開いたところを見たことはないし、まさかそんなところが、奥様の部屋だとは考えもしなかった。
子供達が飛びつくと、奥様はよろめいてベッドに腰を下ろした。
だが、子供達を抱きしめ、眺めるそのお顔は、この上なく優しい。
「母様! 新しいとうぎゅうし、すごいんだ!」
「かあさま、いつもひらりと、よけるんだよ!」
支離滅裂な子供達の言葉に、奥様は困った微笑を見せる。
私を闘牛士のようだと評して喜んでいたのは、井戸端会議中の使用人達である。
それを聞いた子供達は、喜んで私を囃し立てた。
言葉の出元達は、バツが悪そうに散っていった。
私は期待に応えるべく、良い遊びの案だと、子供達を闘牛に見立て、シャツを振っていなして遊んだ。
使用人のことを告げると、表情を硬くした奥様だったが、その後の子供達との遊びを告げると、それも和らいだ。
「まあ……ごめんなさいね。そんな風に言ってはなりませんよ」
子供達にそう言いつつも、慈しむ笑みは増していた。
噂の内の一つ一つについて、真偽を提示されるのは、不思議なものである。
町の風評など、普通は特に解決しないまま終わるものではないのか。
奥様は、就寝用の薄手のドレスのまま、一日を過ごすこともあった。
原因が、産後に体調を崩したというのは定かではないが、実際に顔色が悪いことも多く、やせ細っている。そして、部屋で塞ぎこんでいるのは事実であった。
長引いているのは、この館で働く者のせいもあるのではないかと思う。
奥様がこのような状態にも関わらず、側付きの使用人は一人としていなかった。
食事は用意されている食堂で摂る、風呂も着替えも、お一人で済ませる。体調が優れないときでさえ、だ。
子守の私に、何かをする権限はない。
ただ、子供達への優しさは、本物であると思えた。本当は、もっと側で過ごしたいのだろう。去り際に、物寂しさが伝わったほどだ。
子供達も、母親を怖れているわけではないようだったし、その機会を作ることくらいは構わないだろうと考える。私自身が、でしゃばった行為をするわけにはいかなかった。
そこで、時折、子供達を奥様の部屋へ向かうよう、追い立てながら過ごした。
子供達と、長く過ごすことが増え、奥様は、目に見えて元気を取り戻されていた。
体に障るので、子供達が暴れまわる時は、私がその攻撃を受け止める。
それをやや羨ましそうに眺めつつも、側で姿を見ていられることが幸せなのだ、とのお気持ちは、十分に伝わってきた。
その精神的な回復は、奥様に力を与えたのだろうか。
館中が、十分寝静まった頃、奥様は、子供達の様子を見に、立ち寄るようになった。
私は、夜更けに一度、子供達の様子を見る役目なので、たまたまそれを知った。
奥様がいらっしゃる時は、なるべくかち合わないようにしていた。それでも、出会いがしらということは起こる。その時は、何事もなかったように、頭を下げ、奥様の姿を見送るだけだ。
奥様は、いつもと同じ消えそうな声で、ありがとうと、そう残して部屋へ戻る。
ご自身の子息でありながら、会うことに礼を言わねばならないとは。
奥様が、子供達へまで、人々の心ない言葉が及ばないように、遠ざけていることに気付いていた。やりきれない感情が過ぎるのを、振り払いながら、私は自身の仕事を終える。
館の皆の中でも、私の位置は定着してきた。
「さすがに下々の出だけあって、獣の扱いに長けている」
「無愛想で、子供達を荷物のように掴む姿は、牛馬のようだ」
だの、使用人達の、ひん曲がった心根と口は相変わらずだが、意地悪などではなく、話の種として自然にのぼっている。ある意味、仕事仲間の一人として、認められたのである。
子供達の相手をし、寝付く前には旦那様が、寝付いた後には奥様が現れる。そんなサイクルが暫く続いた。
◆
ある日、子供達の寝つきが悪かった。寝付いた後、しばらく、そっと見守るので、部屋を出るのが遅くなった。
部屋に戻る前に、お手洗いにと廊下を歩いていると、休んだと思っていた旦那様の背が見えた。裏手側の部屋、奥様の部屋の方へと、向かっているようにみえる。廊下の端は、全面硝子窓となっている。満ちた月明かりが、はっきりとその輪郭を浮かび上がらせていた。
私は特に気にもせず、用を済ませに向かった。
だが、部屋へ戻ろうと、十字路となる廊下の中央まで進むと、まだ旦那様の姿がありぎょっとする。思わず、十字の廊下の陰へ引っ込み様子を窺うと、奥様の部屋の前で佇んでいた。
扉を叩こうと上げた手を、空で止める。不安そうに揺れる瞳が、胸中の迷いを覗かせていた。
結局、旦那様は、その部屋を訪れることはなかった。
私はそ知らぬふりをして、気まずい表情を浮かべていた旦那様に、会釈をし部屋へ戻った。
子供達への面会も、食事時も、お二人は時間をずらしている。
揃っているのを見たのは、パーティーの時以来ない。
当然、私が子供達を見ている間のことは分からない。だが、今ではそこそこの頻度で、奥様の部屋も訪れている。
そこに旦那様の影はなかった。
ある晩、子供達が寝付く頃に、仕事から戻った旦那様が顔を出した。旦那様と共に、子供達の寝息が聞こえてくるのを見つめていた。
疲れが癒えるのだろうか。旦那様は、少し柔らかな表情になると、部屋を出る。私も、後を付いて出た。
そっと扉を閉めると、立ち去ろうとした旦那様の背に声をかける。
「奥様は、皆が寝静まってから、様子を見にいらっしゃいますよ」
旦那様の背が、緊張に強張る。彼は振り返らず、肩越しに話しかけた。
「君は、妻を……遠ざけないんだな」
「当たり前です! お子様達を深く愛してらっしゃる方を、どうして責められましょうか」
思った以上に、強い声が出たことに内心驚いた。
旦那様の横顔にも、動揺が見てとれた。それは、私の与り知らぬお気持ちに由来するように思えた。
私は、口出しのような真似をお詫びし、その場を下がる。
◆
暑くもなく、日差しも柔らかな日。思い切って、昼は庭で子供達とのお食事をと、奥様へ提案した。ここのところ、体調も悪くないとのことであるし、大分、奥様も私を警戒せずに、過ごしてくれるようになったと思っていた。
だがそんな些細なことでも、奥様は戸惑う。
私は、子供達が望んでいるのですと後押しをした。
そうして、依然庭先ではあるが、少しばかり館からも、使用人達の視線からも離れた。
奥様と私は、木陰で涼みながら、芝生の上を転げては、走り回る子供達を眺めている。
聞き出そうとしたつもりはなかった。好奇心などもない。だが、子供達へ思いを移す程には、馴染んでしまっていた。子供達は、全身で精一杯、存在を主張している。それは、両親の愛情を求めてだった。今はまだ天真爛漫に、我侭を通すが、物が判ってくるとどうなるのだろう。
そんな心配が、つい言葉にのぼってしまっていた。
奥様は、胸に秘めたものを話してくださる。
「彼に助けてもらったから、恩を返したかったの。子供を二人も授かって、元気に育ってる。だから、もう……」
どこか、思いつめたような表情だった。
そしてその先の言葉に至る――もう、必要ない――。衝撃を受け、慌ててそれを遮っていた。
「子供達にとって、奥様は大切な方ですよ!」
暗い瞳に、似つかわしくない、乾いた微笑。
「元気な子供達の側に、ずっと居てあげられるほど、健康な母親には、なれなかったの。彼に返せるものは、この身一つしかないのに、それさえも」
逆に言えば、私は頑丈なだけが取り柄ですと、言いたかった。奥様ほどの細やかで深い愛情など、私には持ち得ようもない。
「……でも、今は貴女が居てくれる」
気落ちする奥様に、かける言葉もなかった。
そして、それ以上の会話も許されなかった。
奥様は、子供達を呼んだ。私も、バスケットを開け、食器を広げる。
到着するなり、用意したサンドイッチにかぶりつく子供達。その姿を、心から嬉しそうに、愛おしそうに、見つめる奥様に、何を言えよう筈もなかった。
翌日から、奥様は体調を崩したからと、部屋にこもってしまわれた。
無理をさせてしまったと、申し訳なく、せめて食事をと部屋に運ぶ。
誰も、部屋に寄りつかないのを知っているので、私が来たことには何も言われなかった。
連れ出したことを詫びたが、それは関係ないのよと、力なく微笑むばかりだった。
◆
子供達の様子を見ようと、深夜の廊下へ出る。緊張をはらんだ声が、耳に届いた。
奥様の部屋へ続く廊下に、浮かぶ身姿は、奥様と、旦那様だった。
旦那様が、何かを促すように、部屋へ戻ろうとする奥様を、押し留めているように見える。
顔を背けた奥様の顔に、光るものが見えた。それで諦めたのか、力が抜けた旦那様の手を振り切って、奥様は部屋へ戻っていった。
思わず、固まってしまったが、やるべき事を思い出し、子供達の部屋へ向かった。
旦那様は、その音に気付いたようだった。
それから奥様は、より一層塞ぎこみ、そして……。
「奥様が失踪?」
よりによって、子供達の前で、そんな話を聞くはめになるとは。
奥様は、そこまで思い詰めていたのかと心配で、顔から血の気が引くのを感じ、気分が悪くなる。
ただ、特に驚きはしなかった。もっとずっと前に、館を、この町を捨てていたとしても、良かったくらいだ。
私の両脇に寄り添っていた、子供達の肩をぎゅっと抱きしめた。
子供達の為というよりは、自身の不安を払うように。
私は、子供達を支えなければならず、動くこともままならない。
唇を噛んで、気持ちを飲み込む。ここは旦那様にお任せするしかない。
「心当たりはある。危険はない場所にいるだろう……このまま、好きにさせるべきなのかもしれない」
その言葉に驚いた。探す気もないのかと、問い詰めようと思ったのだが。
先日の、奥様の言葉が頭を過ぎった。
『でも、今は貴女が居てくれる』
その言葉に、酷く動揺していた。では、やはり、実行に移したのは、私のせいだったのではないかと。
旦那様は、いつもの如く、説明をするでなく、出て行こうとしていた。だが、私の動揺に気付くと、何を知っていると、険しい顔で問い詰めてきた。
怯えて、泣き出しそうな子供達を見て抑えはしたが、先程、まるで見捨てるような言葉を残したとは思えない、激しい剣幕だった。
子供達を、部屋に落ち着かせると、改めて応接室で対峙した。
奥様が心配していたことを、包み隠さず伝える。
たかが数ヶ月の関係だ。余計なお世話かもしれない、自己満足かもしれない、それでもと、私自身の思っていたことを、口にしていた。
「旦那様、どうかもう一度、奥様の心と向き合ってくださいませんか。たかが子守が、何を言うかとお怒りは承知です。ですが、旦那様も道を探してらっしゃるのではないですか」
あの夜、奥様の部屋の前に立つ、旦那様の顔に苦悩を見ていなければ、ただ情も冷めたのだと思ったろう。奥様を取巻く状況に、抗うことにも挫けてしまったのだと、思っただろう。
「奥様の部屋を訪ねようとしては、立ち去って行たのは、奥様に心を残していらっしゃるからではないのですか」
余計なことを言いすぎたと、深々と頭を下げる。
長い長い沈黙があった。
「森の家は、まだ彼女の物だ」
それで十分かのように呟く。
旦那様は、疲れきった顔を、自身の手の平で撫でると、立ち上がった。
奥様の生家のことだろう。
じっと見つめる私を、咎めていると受け取ったのか、言葉を添える。
「他に行くあても、体力もない。迎えに行ってくる。子供達を頼む」
連れ戻すのではなく、迎えという言葉に安堵する。
「お迎えに、行かれるのですね」
念を押すようになってしまったが、私の意図に気付いたようだ。
「何年ぶりだろうか、彼女が感情を見せたのは。私では、もう無理なのだと、諦めていたんだ」
部屋を出、玄関へ向かいながら、旦那様の言葉を聞く。
「君が来てから、息子達の癇癪も落ち着き、妻も健康になっていった。私にもまだ出来ることがあると、君の伝えてくれた妻の言葉を、信じてみよう。感謝する」
言葉少ない旦那様の、精一杯の謝意だ。
私も、どうかお二人のわだかまりが解けますようにと、旦那様の背に祈りを捧げた。
子供達を安心させるために、急いで部屋へ戻る。
ただでさえ、非情な環境に育っている。あんな、怯えたような顔や、不安に胸を締め付けられるような顔を、見ていたくなかった。
きっと、お二人共に、戻ってくるだろう。そう信じて、私自身の不安を消す。子供達に見破られないように。
いつの間に、こんなに深く、この館を家族を、愛するようになったのだろうか。
保護官となったのは、生まれ育った環境で、出来ることが、これしかなかったからだ。
そのせいか、立場は変われど、孤児院で子供達を見ることは、過去の自分を見ているような、どこか閉じた感覚でいた。
こんな強い感情や、弾けるような想い、胸を掻き毟りたくなるような苦しさ。それらに触れたことで、自分と外の世界を隔てるように覆っていたものが、剥がれていた。
私は、遠くない未来に、元居た世界へと戻る。子供達の成長を、見届けたら、契約は終わりなのだから。
そしてまた、同じ職場に、予想できる未来が待っている。
だけど、以前のまま続けていたのとは、全く違う自分を想像できた。
この館で、彼らと過ごせたこと。
それは、この先、生きていく上で、力を与えてくれるだろう。
◇◇◇
「約束してたのに、迎えに来るのが遅れて、ごめん」
「私で、いいの? 何もできないのに」
孤独は互いの距離を量り損ねて、寂しさが心を閉じ込めてしまう。
自ら閉じ込めた檻から、恐る恐る、出てきた二人。
傷だらけの心のまま、今ようやく向き合う。
「帰ろう、私達の家に」
「私達の、家……う…ん、帰りたい。一緒に、帰りたい……」
少しだけ二人ははぐれ、道に迷ってしまった。けれど、また初めに戻っただけ。
二人は、そっと手を携えて、歩き出す。
でも、今度は間違えないだろう。
交わした誓いを思い出したから。
薄暗い森の家。
そこは二人の出会い、全ての始まりの場。
役場の者が、家主から何かしらの事情を聞こうと、玄関の前に立ち、扉が開かないかと集中して見ている。どう切り出したものかと考えているのだろう、研修で付いてきた若き主の方へは、気が回らないようだ。
主は、その様子を見、こっそり家の裏手に回った。
表に回ってくる途中に、木々の隙間から垣間見えた窓には、人影が見えていた。
あれが娘だろうか。
興味本位だった。
二階の薄汚れた、小さな窓ガラスから、一対の暗い瞳が見下ろしていた。
主は側の木に登り、開けられた窓越しに彼女を見る。
身長を見ると、自分よりは、やや年下のようだが、よく分からないほど、痩せていた。
人見知りなのかな、安心させようと、笑顔で主は名乗った。
笑顔もなく、無表情で少女は名乗り返す。
そして、出会ったばかりの、信頼できるかどうかも分からない男に言った。
たすけてください。
主は、少女の体、わずかに見える部分の肌のあちこちが、擦り切れたような痕を残しているのに気付いた。
足音が聞こえ、少女は慌てて、主に木の陰に隠れるよう懇願した。
主は注意深く、部屋の様子を窺う。
父親は部屋に入るなり、少女の頬を、平手で打ち据えた。少女は勢いで倒れこむ。
理由は、窓を開けたから。
外へ出るどころか、窓を開けることすら禁止されていた。
乱暴に窓を閉めると、父親は罰として、少女の両腕をまとめて縛り上げ、床を引きずる。
少女の口を布で塞ぐと、その腕を、天井の梁から吊るし、出て行った。役場の者と話す為だろう。
先程の、無感情な暗い目は、今は、痛みと恐怖に震え見開いている。
窓越しに、少女と主は、見つめ合う。
主は、ゆっくりと少女に見えるように、約束を告げるべく口を動かした。
たすける。
絶対に助けるから。その決意を胸に走り出す。涙に光る少女の瞳にそう誓って。