エリザ(ELIZA) 第一章
■第一章
レンガ造りの瀟洒な建物が、丘の上に並んでいる。季節は春、わずかに湿気を含んだ風が木々や家を撫でて、丘から海へ流れていく。
街の中心に建つ大聖堂に見守られて、街は穏やかな歴史を刻んでいた。
街の中心部には古くからの商店が立ち並び、買い物時ともなれば近隣の人々で賑わっていた。街の中心部から南下して川に向かい、これもレンガ造りの橋を越えると海沿いに工場地帯が見える。
工場ではガラス製品や鉄製品を多く生産し、海から船で運び、輸出していた。特に、細かな技工が凝らされたガラス製品は国内外からの評判がよく、街の発展を支えている。
工場地帯から海沿いに歩き、森に少し入ったところにロボット技師が1人住んでいた。
家は赤レンガ造りだが、蔦に覆われていて表面はほとんど見えない。蔦を取り除くのが面倒、というのが本音のようだったが、人から蔦の除草を促された時には「潮風が家に入るのを防ぐため」として、それとなく聞き流していた。
博士はジョセフ・ワインバーグという名前だったが、仕事相手の工場労働者達からは「博士」とだけ呼ばれ、名前を使うのは仕事の書類にサインをする時だけだった。博士はベルトコンベアーでの単調なライン作業を行うロボットを造ることを生業にしている。真面目な性格でよく働き、作るロボットも質がよく、仕事相手からは十分な信頼を得ていた。
30代半ばの相貌をしている博士は、誰かと食事を共にする機会は持とうとせず、結果的に特に親しい友人はいなかった。ロボットを潮風から守るために地下室を造り、朝から晩まで籠もっていた。
それでも青年らしさを残した柔らかい顔立ちと、品を感じさせる物腰、知性が必要となる職業に就いていることから街の人からも評判はよく、男の1人暮らしを気遣った女性から食べ物や着るものをもらうことも多々あった。博士はありがたく受け取ると、ロボットを作る傍ら、手慰みに作っている金属製のアクセサリーをお礼に渡したりするので、よりいっそう近隣の人達から愛されていた。
最近ではリサとジャンという、いずれも10歳程度の子どもが博士の家をよく訪れていた。リサは母親から差し入れの言付けを請け負って、ジャンは父親から工場からの書類の受け渡しを頼まれて、博士の家を訪れるようになった。
リサとジャンは級友で、学校では互いにそっけなくしていたが、博士の家に来ると仲良く過ごしていた。博士の家には一見してガラクタにしか見えない金属製品が、家のところどころに転がり、子どもの好奇心を多いに刺激していた。
「博士、少しは片付けしないとだめよ」リサが女の子らしい口調で言った。博士は困ったような、嬉しそうな顔でうん、と頷いた。リサの母親からもらったりんごパイを、ジャンと3人で食べている。紅茶は博士が入れると苦くなってしまうので、リサが代わりに淹れていた。
「仕事場の地下室はこれより綺麗に片付けているよ。道具置き場が狭くて、リビングまでこうなっちゃうんだ」
「雑然とした部屋は男のロマンだよな。女はうるさくてダメさ」
ジャンがしたり顔で頷く。リサがきっと睨むが、すぐに博士の方に顔を向け直す。
「地下室って、ロボットがたくさん置いてあるの?入ってみたいなあ」
「ロボットは作ったらすぐに工場に届けるから、置いてあるのは1、2体かな。細かいものがたくさんあるからね、誰も入れたことがないんだ」
博士はやんわりと断り、紅茶を飲んだ。リサはふてくされた顔になる。
「おれ、大人になったら父さんの後を継ぐんじゃなくて、博士の弟子になりたいんだ!大人になったら地下室に入れてよ」
ジャンが顔を目をきらきらさせて博士の肩を揺らす。博士の紅茶が揺れて、机に少し溢れる。
「お父さんが悲しむんじゃないかな…?大人になったらね、地下室にも入れてあげるよ」「やった!博士、約束だからな!」
「私も入れてよね、博士。ところで、このりんごパイについての感想はないの?」
フォークにりんごパイを差し、空中でぶらぶら揺らしながらリサが鼻をツンと上向きにさせた。
少し慌てて博士は「とても美味しいよ。いつもありがとう」といい、「リサの母ちゃんは料理上手だからな!お前も見習えよ、リサ」とジャンは憎まれ口を叩いた。
「ふふん。今日のりんごパイは私が焼いたのよ。…焼いただけだけど」
リサは胸を張りながらも、正直に話す。母親と一緒に菓子作りをしたのだろう。そういえば、博士の家に来たときに、少し手と洋服の裾が煤で少し汚れていた。
「リサはいいお嫁さんになるね」博士はりんごパイを食べ、柔らかく微笑んだ。
「博士は結婚しないの?」リサは間髪入れずに尋ねた。ずっと疑問に思っていたのだろう。博士の年で結婚していない男性は、街の中でも非常に少ない。だいたい世話焼きの婦人が、若い男女をそれぞれの家に紹介し、結婚させるという昔ながらの風習が続いていた。「僕もね、昔は結婚していたんだよ」博士がぽつりと話すと、あまり興味が無さそうにしていたジャンも驚いて耳を傾ける。
「どんな人?!」リサが椅子から立ち上がった。博士の顔を食い入るように見ている。
「ここに写真があるだろう、えーと…」
混然と物が積まれた棚の上から、博士が一枚の写真立てを引き出す。上に積まれていたがらくたは、音を立てて脇へ崩れていった。
「ほら、あった。僕の奥さんのエリザだよ」
写真立ての中の女性は、ベッドの上に腰掛けて優しく微笑んでいる。長い黒髪で、柔らかく波打っていた。年齢は20代中頃に見える。白い肌に赤い唇、長いまつげが頬に影を落としていて、誰に聞いても美人の太鼓判を押される容貌をしていた。
「きれいな人!」リサとジャンが声を揃えた。生前、エリザが最も多く掛けられた賛辞の言葉だろう。
「うん。とても綺麗だ。彼女はいつまで経っても年をとらなかったし、こんなでくのぼうの僕にも優しくしてくれたんだ」
「博士はでくのぼうなんかじゃないわ。…エリザさんは死んじゃったの?」
リサは写真をじっと見つめている。過去を読み取ろうとしてる目だ。
「かなり前にね。とても悲しかった」博士は遠くを見つめた。エリザと過ごした日々が胸の中に思い起こされる。
「ふうん…。わたし、大きくなったら博士と結婚してあげようか」
「え?!いや、リサにはジャンがいるじゃないか」
「いやよ!ジャンは子どもなんだもの!」
リサはぷん、とそっぽを向く。ジャンが俺だってこんなおてんばご免だね、と言い返して、2人は言い合いの喧嘩になった。博士はおろおろとするだけで、何をすることも出来ない。エリザと結婚はしていたが、子どもは持たず、他人と触れ合う機会があまりないので、喧嘩の仲裁の仕方など身に付けているはずもない。
いずれ、はっと気付いたようにリサが言い、喧嘩は一時休戦となった。
「ジャン、そろそろ教会に礼拝に行く時間よ。帰りましょう」
街ではヨーロッパの多くの国がそうであるように、キリスト教への信仰が深い。日曜日の昼からは街の中心部にある大聖堂にほとんどの人が集まり、祈りを捧げている。
日曜日は工場も、商店もすべての店が休みになった。神の休日に働くことは、罪であると見做されていた。家の中で出来る仕事をすることはあっても、おおっぴらに店を開くことはない。
「じゃあ、またね、博士」
ジャンとリサは転がるように森の中を駆けていった。博士の家から大聖堂までは、子どもの足では走っても20分は掛かる。昼の礼拝に間に合うかどうか、ぎりぎりというところだろう。
「気をつけて」
後ろ姿を見送りながら、博士は礼拝の時間に気をつけて、早く帰してあげればよかったなと考える。大人として、子どもを家に預かっているのだからそのぐらいの事はするべきだ。真面目な博士はしゅんと肩を落として、また地下室に籠もり、午後の仕事に取り掛かった。