変化と困惑
何もかも諦めたつもりだった。
この恋が叶う事はなく、彼にとって私は鬱陶しい存在で、異性として見られる事さえ有り得なかった。だからこそ、何一つ期待などしていなかった。この恋が報われる事も、私自身が、彼の心を慰める事も。
『麻耶、俺が悪かった。今なら分かるんだ。おまえも、俺の事を心配してくれてたんだよな。本当に―――ごめん』
だけど、だけどだけどだけど。
そんな謝罪は聞きたくなかった。私ではない、私とは似ても似つかない、明るくて優しい女の子に癒されて出て来る謝罪なんて、一言だって聞きたくなかった。それならば、一生鬱陶しがられて距離を取られた方が、余程私は救われた。
何もかも諦めて期待などしないと言い聞かせながら、私は『嫉妬心』だけは捨て切れていなかった。諦めなんて、所詮は傷付かない為の自己防衛でしかない。
『馬鹿だな』
そう言って差し伸べられた手を、いっそ弱い心のままに掴んでしまいたかった。
最近、誠一郎様の様子がおかしい。
私に対する怯えは緩和されたように思う。屋敷内で鉢合わせても逃げなくなった。目が合っても逸らされなくなった。代わりに警戒する野生動物のように、こちらの一挙手一投足すら見逃すまいと睨まれてはいるが。
更に言えば、屋敷内で過ごすとき、何故か私の後ろを付いて回るようになった。何か用事があるのか、はたまた何か粗相でもしたかと尋ねれば、何でもないと返される。彼は特別何か話しかける事もなく、そのまま私の後ろ姿をじっと見つめているのだ。鬱陶しい上に居心地が悪い事この上ない。
そして、もう一つ大きな変化として、誠一郎様から多くの質問を向けられるようになった。
「綾瀬とは今も連絡を取っているのか」
それも、何故か綾瀬に関する内容が多かった。誠一郎様は私に興味などなく、それ故に私に対し質問を向けるという事自体稀であったのに、最近は一体何に引っかかっているのだろう。
そう言えば、昔から変な事にばかり凝り性だった。蝉の抜け殻を探す事に熱中して、私や他の使用人の方々が止めるのも聞かずに炎天下の庭で何時間も探し回り、熱中症で倒れた事もあった。一度興味を持てば、疑問が解消されるまで止められない性分なのだろう。
つまり、私へのこの態度や質問も、彼の中の何らかの引っかかりが解消されるまで続くという訳だ。
「取ってますよ。そう頻繁に会えませんし、お互いマメでもないので、時々メールか電話をするくらいですけど」
綾瀬も私もそういう所で無精だった。ただ、そういう連絡を取り合うペースや人と付き合う際のリズムが似通っていた為に、お互いに無理なく付き合えていたのかとも思う。
「何で」
「何でって、友人と連絡を取るのに理由が必要ですか?」
誠一郎様は、警戒の滲んだ目のまま、探るように私の目を見つめる。
「………付き合ってるんじゃなかったのか」
「私と綾瀬がですか?まさか」
まるでコンビニに行くような気軽さで『僕と結婚しない?』と誘われた事はあるが、間違っても付き合ってはいなかった。彼はそもそも、恋愛感情がないからこそ、あんなに気軽に言えるのだ。もしも綾瀬が誰かに恋愛感情を持って、その相手と結婚しようとする場合、もっと周到に準備をして周囲を固めてからプロポーズをするような気がする。彼は嫌になるほど冷静で、計算高い性格だった。
「良い友人です。お互いに恋愛感情はありません」
そうはっきり告げてもまだ、誠一郎様はどこか納得いかない様子で首を傾げていた。出会う女の子全てと恋愛関係にもつれ込むような十代を過ごした彼にとって、異性同士の友人というものが想像付かないのかもしれない。
誠一郎様は結局その場でそうか、とだけ頷くとようやく私から離れ、私室へと戻っていった。
奇行の目立ち始めた誠一郎様が、今度は何もかもを嫌だと投げ出し始めた。
『大学は面倒くさい』
『会社を継ぐ為の勉強も飽きた』
『会社に行きたくない』
『佐久間を継ぎたくもない』
突然そんな事を言いだして、何があったのかと問いかけても、とにかく嫌だ、としか答えない。最近着慣れて来たスーツを脱ぎすて、私室のソファにだらしなく寝そべって、私の問い掛けにも全く耳を貸そうとしなかった。
「誠一郎様、何があって、どうしてそんなに嫌なのか、きちんと順序立てて説明して下さらなければ、誰も納得などしてくれません」
「麻耶は一々うるさい。俺が嫌だと言ったら嫌なんだ」
わざとらしく耳を塞いで、私の言葉を拒絶する。何だこの人は、子どもか。ひたすら問い掛け、宥めすかそうとしても、まるで聞く耳を持たず、いい加減私も我慢の限界だった。
中学生の頃から、誠一郎様の女性関係などについて諫言を呈す事が多かった私は、彼の怠慢に対する怒りの限界値が低すぎる。
「いい加減になさいませ。貴方には佐久間の今後を担う使命と責任があるのです。誠一郎様が何不自由なく………いいえ。過分に贅沢な暮しを出来て来たのは全て、佐久間に関わる社員や使用人がそれを支えてくれたお陰です。その代わりに、貴方は彼らの人生を背負って立たねばなりません」
耳を塞いでいた手を外し、ソファの上で起き上がると、誠一郎様は私へ目を向けた。それは、特別私を鬱陶しがるようなものではなく、不思議と真っ直ぐなものだった。
「どうしようもなく辛いときは、皆で貴方を支えます。誠一郎様には責任があるのです。例えそれがどんなに重く苦しくとも、投げ出してはなりません」
だからせめて、何があったのか教えて欲しいと、解決出来るように共に考えたいのだと訴えようとすれば、予想外の事に、あまりにも軽い返事が誠一郎様から返ってきた。
「やっぱり、そうなんだよな」
「は?」
「麻耶は俺に甘くない。厳しい現実ばかり突き付ける。けど、俺は甘ったれだから、」
そう言って、誠一郎様はソファから立ち上がり、私の目の前に立つ。男の人のものらしい、節くれだった指が天辺から私の髪を梳き、最後にそっとこの頬を一撫でした。
「たぶん、その厳しさが俺には必要なんだ」
勝手にそう締めくくると、急に能動的に活動し始め、テキパキと荷物を用意し、私が目の前にいるにも関わらず、さっさとスーツに着替えてしまった。
誠一郎様が何を考えているのか分からなくて呆然としてしまい、使用人でありながら何の手伝いも出来なかった。これでは、使用人失格である。
「じゃあ、行って来るから」
そんな私に学生時代のように嫌味を言う事も、幼い頃のようにからかう事もなく、誠一郎様は私の肩をぽんと軽く叩いて部屋を出て行った。
私はこれでも、十二年間、誰よりも誠一郎様を見て来たという自信がある。幼少期からの片想いと言うものは、嫌になるほど根深いものだ。だからこそ、彼が星崎梨花さんに惹かれているときも、すぐに気が付いた。
けれど今、初めて彼が何を考えているのか、さっぱり分からなくなってしまっていた。
読んで頂きありがとうございます。
あと少しで終わるといいなあ、と願望を込めつつ。皆頑張って。