墓前にて想う
おそらく、極普通の家庭だった。
特別裕福でも貧乏でも無く、父はサラリーマンで母は専業主婦をしていた。優しかったが厳しく躾けてくれる両親に、深く愛されて育った。
日常的な些細な不満を感じない訳ではなかった。もっとこうして欲しい、と両親に我儘を言った事も、けして少なくはない。けれどそんな、小さな不満が芽生えるのは、私が大きな悲しみも孤独も知らなかったからで、両親がいつも大切に守っていてくれたからで。
私は、間違いなく幸福な子どもだった。
それを全て失ってしまったのは、八歳のときの事だった。
そのとき、私は初めて知った。幸福とは当たり前の日常の積み重ねで、失うのは一瞬だと言う事を。
あのときから佐久間の家に引き取られるまでの事を、全く覚えていない。後から聞いた話では、焦点の合わない目で一日中ぼうとして過ごしていたらしい。声を掛けられて返事をする事さえ稀だったとか。
『よろしくな、麻耶』
そんな中で、僅かに覚えている事が、頭を押さえつける無遠慮な手だった。気付けば、見ず知らずの男の子が乱暴に私の頭を押さえつけ、楽しそうに笑っていた。
思考にもやが掛かっていた私はその陰の無い笑顔に、何だかキラキラしている子だな、と呆然と思った。
その日は、毎年誠一郎様の方が朝から騒々しい。
窓の外を見ると色付いた紅葉が緩やかに風に舞っており、穏やかな気持ちになれたというのに、忙しない足音が聞こえてきてそっと溜息をついた。
「早くしろ、麻耶。遅いぞ!」
さして急ぐでも無く私室で外出の準備をしていると、朝早くから賑やかな誠一郎様が現われた。無遠慮に扉を開け放って私の部屋に侵入して来たのだが、着替えの最中だったらどうするつもりなのだろうか…………高校生の頃、まさにその状況になってしまった事があったが、まるで視界にも入っていない様子だった事を思い出した。昔から彼にとって、私は徹底的に『対象外』だった。
「落ち着いて下さい。第一もう、誠一郎様とて日々お忙しくされていらっしゃるのです。一人で問題ありませんし、私にお付き合い頂かなくとも結構です」
鞄の中に財布などを詰めながら、そう伝える。私の言葉に耳を貸す様子の無い誠一郎様をこちらも無視して、準備を進めた。黒のワンピースにグレーのカーディガンを羽織り、靴と鞄もそれに合わせて鏡を見てみると、改めて自身の地味さが際立った。今度気分転換に髪でも染めてみようか、と検討する。
鞄に荷物を詰め終わった所で、用意は終わったと判断したのか、部屋の扉付近でそっぽを向いていた誠一郎様は一息に距離を詰め、私の手を強く引いた。
「誠一郎様。ですから、」
「俺が行くと決めたら行くんだ。都合は付けてあるから、おまえは余計な事を気にするな」
例年通りの断り文句を更に重ねようとする私に、例年通りの言葉を返す誠一郎様。これではいくら訴えた所で無駄だろう、とそれ以上はもう何も言わずに大人しく付いて行った。
交通事故で揃って両親を亡くし、私は佐久間のお爺様によって引き取られた。
詳しくは教えてもらう事が出来なかったが、佐久間のお爺様とその時点ですでに亡くなっていた私の母方の祖父が知り合いで、佐久間のお爺様は祖父に何かしらの恩義を感じていたらしい。
そんな祖父の孫である私が一度に両親を亡くした。元々親しい親戚はおらず、突然現れた親戚を名乗る人々は私の持つ両親のささやかな遺産と、事故の賠償金目当てで私を引き取ろうとしていたらしい。見兼ねた佐久間のお爺様が無理矢理私を引き取ったそうだ。
縁故は無くとも、佐久間グループの会長であるお爺様の意向に逆らえる親戚はいなかった事だろう。
今思い返せば、両親共に近しい親族はすでになく、親戚付き合いを全くしていなかった。何か事情があったであろう事は容易に想像出来るので、そんな親戚に引き取られる事無く、佐久間の家で伸び伸びと育てられた事には感謝してもしきれない。
両親の墓前で手を合わせ、ここ最近の事情を報告し終えて顔を上げれば、隣で誠一郎様がまだ目を閉じて両親に手を合わせてくれていた。
彼は、両親の命日には何があってもこうして共に墓参りをしてくれる。それは幼い頃から変わらず、中等部で仲違いした後も、彼が星崎さんに夢中になっていたときも、この日だけは必ず私と共にいてくれた。
さすがに、幼い頃のようにぎゅっと手を握っていてくれる事はないけれど、今も真剣に両親の墓前に向かって手を合わせてくれる。
それを私は、とてもずるいと思う。だから私は、未だに彼を好きなままだ。
「もう良いのか?」
目を開けて、自分を見つめる私に気付いた誠一郎様が、そう問いかける。
「はい。十分お話出来ましたから」
「そうか」
幼い頃は離れ難く、一日中墓前で泣いていたものだが、一度それに付き合った誠一郎様が風邪を引いて以来、過度な長居はしないようにしている。大恩人のお孫さんに風邪を引かせては、むしろ両親に叱られてしまうだろう。
それに、今はもう分かっている。墓は生きている人間への慰めでしかない。どんなに墓に縋りついても、私を温かく包んでくれた両親に会う事は出来ないのだ。
『麻耶』
それでもいずれ、自身を呼んでくれる優しい声の記憶も褪せていってしまうのかと思うと、とても恐ろしいと思う。だから、墓前に縋らない代わりに、私は何度も何度も記憶を繰り返す。自身を呼んでくれる両親の声を、思い出にしない為に。
「麻耶」
誠一郎様に名前を呼ばれて顔を上げようとすれば、その頭をぐっと強く押さえつけられた。突然の事に抵抗して頭を上げようとしたが、彼は構わず二度三度と私の頭を押さえつけて、それからぱっと素早く手を離した。
「飯、食いに行こう。腹減った」
それだけ言って、誠一郎様は早々に水桶などの荷物を抱えると、私に背を向けて歩き出してしまう。しばし呆然としてしまったが、はっと我に返って私も慌ててその背を追った。
私の中で、酷く悔しい想いが生まれて来る。彼が彼なりに私を気遣ってくれている事は分かっていた。どんなに荒んだ生活を送っていた中でも、私の事を気に掛けてくれていた。冷たい事を口にして、私が負けじと生意気な口を利いても本気で切り捨てる事は無かった。
誠一郎様が当たり前だと思って行う事で、私は堪らない気持ちになる。
「ランチは何がよろしいでしょうか?誠一郎様」
何もかも誤魔化すように、私は彼の背に向かってそう呼び掛けた。
読んで頂きありがとうございます。
麻耶の実家は極々一般的な中流家庭。父は佐久間の子会社でサラリーマンをしていました。