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一筋縄ではいかない



 じゃあおまえが代わりをしてくれるのか


 そう一度だけ、今よりまだ頼りなかった手が伸びてきた事がある。彼の部屋で、荒れた女性関係を築き始めた彼の素行を注意しているときの事だった。彼は一度だって私を『そういう』風に見た事はなかったし、私が『女性』であると認識しているかどうかも怪しかった。

 だからそれは、一々口煩い私を黙らせる為に取った手段で。


 ただ、私が、彼の考える限りではなかった。私は彼に幼馴染以上の好意を抱いており、彼のそばにいる女の子へ人並みに嫉妬の感情を覚えた。それを悟られる事を嫌い、心の奥底へ押し込めていただけだ。

 だからそう言って押し倒されたとき、すぐに抵抗出来なかった。一瞬だけ、考えてしまったのだ。その役目を私が担えば、彼はもう他の女の子の事を見ないのかと。私の事だけを見てくれるのかと。馬鹿みたいに淡い期待だった。


『…………ちっ』


 考え込んでしまった私と数秒見つめ合って、彼は興が削がれたように舌打ちした。私を突き放す為にした事で、抵抗されない事が予想外だったのだろう。

 結局彼はそのまま私から離れ、自分の部屋から出て行った。その日はもう顔を合わせる事がなく、次の日になって気まずそうに目を逸らした彼に、小さな声で謝られた。謝らなくて良いから私だけを見て欲しいと、思った。









 その後、無言のビンタ一発で許してあげた私はとても心が広いと思う。半日誠一郎様の頬は赤く腫れ上がっていたが、当然の報いである。彼は女性の貞操観念の価値を、身を以って知る事が出来たのだ。ビンタ一発ではとても足りない、人として大切な感性だ。むしろ感謝して欲しい。


「意味が、分からないっ!」

「この世界には『無知の知』という言葉がございます。分からない事を分からないと知る事もとても大切な事のようですよ、坊ちゃま」


 年が明け、新春とは言いつつもまだまだ寒い日が続く。年始のご挨拶もようやく落ち着いた一月の末なんて、実際はまだ冬だ。吐く息は白く、空気は冷たく、手はかじかむ。また手荒れが進みそうだ。新しいハンドクリームを買おう。

 誠一郎様の部屋からリネン類を回収しながら、そんな事を考える。その間も後ろで何やら喚いているが、耳を貸す必要はないだろう。うん、適当にあしらおう。


「おまえ、俺の事が好きだって言っただろ!」

「そうでしたねえ。そんな事も言いましたねえ」

「じゃあ、何で俺が振られるんだ!」

「坊ちゃま、この世はままならず、愛だの恋だのだけでは成り立たないのですよ」


 僭越ながらこの世の真理の一端を説いて差し上げる。ずっと好きだった人が爛れた女性関係を築き始めても、別に世界は崩壊も変容もしなかった。だから愛も恋も、必ずしも優先する必要などないのだ。身を以ってそれを知った私の言葉はさぞ説得力に富んでいる事だろう。


「じゃあ、喜べよ!俺が好きなんだろ?その俺が、麻耶が良いって言っている!」

「ご自身の価値観を他人に押し付けるのは感心しませんね」


 枕から枕カバーを外しながら受け流す。私はどうも、枕カバーの着脱が苦手でいつも妙に手間取ってしまう。もう少しするっと着脱出来ないものかと思うが、そうなってしまうとカバーが大きすぎて枕カバーの体をなさないのだろう。


「俺の結婚相手を早く決めたいんだろう!なら麻耶が嫁になればいい」

「それだけは嫌だとも、申し上げたはずです」


 手間取りながらも枕カバーを取り外し、マットレスのシーツに手を掛ける。


「麻耶!」


 すると、誠一郎様は痺れを切らしたように私の名前を呼んで、シーツを引き剥がそうとしている私の腕を取った。そのまま彼の方へ身体を反転させられ、向かい合うとそのままマットレスの上に押し倒された。突然の事なのに痛みは全くない。何だろうこれは、あの荒んだ少年期に身に付けた無駄な能力か。


「何でそんなに嫌がるんだ!」

「私に貴方の妻は務まりません。もっと相応しい方がいらっしゃるでしょう」

「俺は麻耶が良い。麻耶じゃなきゃ嫌だ」


それは幼い頃、夢にまで見た言葉だった。その言葉を、十代のあの頃に聞く事が出来たなら、私は天にも昇る心地だっただろう。彼以外の何もいらない、と恥じも外聞も無く言いきれた事だろう。幼い恋に酔って、浸って、私の心を溶かした。

 けれど、彼があの幼い日からその真っ直ぐな心を歪めてしまったように、私の恋心もまた、修復不可能なほどに歪んでしまったのだ。誠一郎様が星崎さんにそうしてもらえたように、誰かに正される事も無く。

真上にある本来なら甘く整った顔立ちの、顰められた表情を見て、私はにっこりと笑った。


「かしこまりました。『マヤ』という名前の素晴らしい御令嬢を見付けてご覧に入れましょう。楽しみにお待ち下さいませ」

「なっ…そうじゃなくて!」


 私の言葉に反論しようとする誠一郎様を遮るように、彼の頬にそっと触れた。すると、誠一郎様は一度驚いたように目を見開いたものの、すぐに真剣な表情でじっと私の目を見つめて来る。だから私は、うっすらと笑ったまま彼の頬を一撫でして―――――――


「ぶっ!?」


 その手を振りかぶって誠一郎様の頬を平手で張った。押し倒してくる彼の両腕が私の顔の横に置かれていたのが邪魔で、上手く振りかぶれなかった。威力は半減してしまった事だろう。惜しまれる。

 弾みで体勢を崩し、ベッドに倒れる誠一郎様の隙間から抜け出して、痛む頬を抑える彼を見下ろす。私は努めて冷たい声を出した。


「よろしいですか?誠一郎様。女性を同意なく押し倒す男性はただの下種です。そのような事、佐久間の跡継ぎたる貴方がしてはなりません。そして、私は下種に人権を認めません。もし次、同じ行動をされる際は、下半身の心配をなさいませ」


 私はわざと右足を持ち上げ、見えない何かを踏み潰すように立ち上がった。誠一郎様の顔から真っ青に血の気が引いている気がするが、良い薬である。夜這い計画を立て掛けた事もあったが、それはあくまで誠一郎様の女性恐怖症改善の荒療治の為だ。無体を許すつもりはない。

 もっとも、実際にそれを行えば、おそらく佐久間の跡継ぎ問題なども発生してくるので、本当は出来るはずもないのだが。


 怯える誠一郎様をマットレスの上から追いやって、手早くシーツを引っぺがす。戯れも終わりだと、誠一郎様のお部屋からお暇しようとすれば、はっと我に返ったように慌ててこの手を掴まれた。


「ま、麻耶!」

「痛いです。放して下さい。貴方は今日、お休みかもしれませんが、貴方がお休みの日こそ私は忙しいのです」


 佐久間のお爺様と社長から誠一郎様のお世話を仰せつかり、他の使用人の方々にも誠一郎様の事は私に任せておけばいい、と思われている風潮がある。信頼されているのだと自負するには、あまりに厄介事が多かった。特に今は。


「俺は、諦めない。絶対」

「誠一郎様、今は意地になっておられるだけです」

「そんな事はない。俺はちゃんと考えて、分かった。俺に必要なのは、麻耶なんだ」

「そう言って頂けると使用人冥利に尽きます」


 そう、またあしらおうとした。しかし、今度はそれも許してくれなかった。誠一郎様は感情のままに否定する事無く、私の事を強く見詰めた。その目は真剣だが、どこか昏い光を放っている。


「…………おまえがそのつもりなら、俺にも考えがある」


 そして、不気味なほどぼそり、とそう呟かれるとようやく私の腕を解放し、リネン類の回収を終えた私よりも早く自室から出て行こうとした。


「覚悟しろよ、冷え性女!」


 最後にそんな、小学生みたいな嫌味を残して。






読んで頂きありがとうございます。

強情な麻耶と、こいつが跡継ぎで大丈夫かと心配になる誠一郎くん。回りの人が優秀だからきっと大丈夫。彼だって仕事はきちんとしているさ、と自分に言い聞かせています。

あと四話くらいで終わる、かな?

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