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☶☴(山風蠱)  作者: 筬群万旗
水風井
9/16

水風井

 翌朝、シャビィは物音で目を覚ました。明るいながらも部屋の中が見えるのは、まだランプが消えていないからだろう。蔵の中で寝過ぎたせいか、ゆうべはなかなか寝付けずかすかに聞こえるリシュンの寝息と夜明け前まで闘っていたシャビィだが、一度眠ってしまうと起きるのは辛いものである。

 重い目をこすりながら、シャビィは大きく欠伸した。

「おはようございます」

 慎ましい部屋を見渡し、ベッドの上にリシュンを見つけて、シャビィは呑気に首をかしげた。さっきの音は、どうにもリシュンが立てたわけではないようだ。リシュンの寝顔には下ろした髪が何本かかかって、不思議なほどあどけなく見える。

 うっとりと占い師に見蕩れる不届きな禅僧を叩き起こしたのは、天井を駆けまわる荒々しい足音だった。

「リシュンさん、起きてください。大変です。大変なことになりました!」

 こんなに奥まった場所だというのに、寺院はどうしてすぐ突き止めることができたのか。シャビィは血相を変えてリシュンに駆け寄り、細い肩を激しくゆすったが、リシュンは顔をしかめてシャビィに一瞥をくれると、何も言わずに寝がえりをうってしまった。藤のベッドもぎしぎしと、主と同じく機嫌が悪い。

「眠っちゃダメです。刺客です。私たちは見つかってしまったんです」

 足音は、今も頭の上を徘徊している。シャビィの手を払いのけ、リシュンはひずんだ声で応えた。

「あれは上の人です」

 シャビィは目をしばたかせた。

「上の人? 上の人ですか?」

 リシュンは二度寝を諦め、小さく呻きながら起き上がった。誰の仕業か、この坊主頭は簡単に納得しないよう作られているらしい。

「この上には別の家が建っているのです。あの人は市場で働いているそうなので、朝は早いでしょうね」

 手櫛で髪を直すと、リシュンはぶつぶつと恨み事を呟きながらおぼつかない足取りで台所に向かった。朝に弱いのか、洗面器に水を汲む様子も、どこかぎこちない。

「お騒がせしました」

 いつもの癖でさすった頭には、うっすらと毛が生えている。シャビィは手を止め、部屋の隅に置かれた鏡を覗き込んだ。

「おはようございます。ゆうべは……お互いよく眠れなかったようですね」

 顔を洗ったせいか、戻ってきたリシュンの顔はいくらか引き締まっている。シャビィは鏡の中のリシュンに、小さく会釈した。

「おはようございます」

 頭の上から足音が離れてゆき、最後に扉のしまる音がしたきり、物音はぴたりと止んでしまった。

「寝足りない気もしますが、もうこのまま動き出すことにしましょう。とりあえず、私は水を汲んできます」

 手桶を取りに行こうとするリシュンを、シャビィは呼びとめた。

「手伝わせてください。それくらいのことなら私にもできますから」

 シャビィは言われるままに、シュンについて昨日の道を引き返した。

 かめを担いで階段を上り、柱廊を抜け、螺旋階段を下りてゆくと、水汲み場には先客がいた。

「あら、リシュンちゃん、お早いお目覚めだね」

 浅黒い小柄な婦人は、親しげに笑いかけてきた。温かな笑顔を飾る、目じりの皺がやけに眩しい。

「おはようございます、シャンカさん」

 いろいろありまして。器用な微笑みを浮かべ、リシュンは肩をすくめてみせた。

「いや、それにしても珍しいもんだね。あんたが男を連れ込むなんてさ。それも、その……」

 夫人は笑いをこらえながら、リシュンを骨ばった肘で小突いた。

「お坊さんをさ」

 リシュンはシャビィにめくばせしてから、口に手を当てて笑った。

「ご冗談を。情夫ならもっとましな人を捕まえますよ……なんといっても、私は恋の『専門家』ですからね」

 違いない、婦人に合わせて、リシュンは一層大きな声で笑った。いかにも酷い言われようだが、生臭坊主よりは、それこそ遥かにましである。

「先日リシュンさんに危ういところを助けて頂いたので、お手伝いできることはないかと思いまして。力仕事なら、それなりに自信がありますから」

 嘘をつけないシャビィの怪しげな説明に、婦人は一応納得がいったらしい。

「ふーん、それで水汲みにね……ちょっと待っててね、これで最後だから」

 半分壁に埋め込まれた、小さな井戸に向き合うと、両手でしっかり綱を掴んで、婦人は勢いよくつるべを巻き上げた。決して軽くはなかろうに、やせ細って筋の浮いた腕には、少しも疲れが表れない。ぜいぜいと喘ぐのは、井戸についた滑車の方だ。たちまち井戸筒からつるべ桶が姿を現し、婦人は片手で桶を引きよせ、大きなかめに水を注いだ。

「よろしければ、私がお持ちしましょうか?」

 シャビィが手伝いを申し出ると、婦人は再び大きな声で笑い出した。

「ありがとう。でも、ウチはすぐそこだから一人でも大丈夫だよ。

 私より、そっちの生っ白い娘を助けてやって」

 それじゃあ、リシュンちゃん、お先に失礼。大きなかめを軽々と持ち上げ、婦人はパティオの向かいにある部屋に帰っていった。婦人の部屋の白い壁からは、むき出しのレンガで造られたかまどと煙突が飛び出している。リシュンの家にあるのと同じものだろうか。


「さあ、シャビィさん、ご待望の水汲みですよ」

 溜息混じりに名前を呼ばれて、シャビィは井戸の前についた。試しに綱を握ってみると、重くはないがやはりそれなりの手ごたえがある。

「すみません。どうも、私が来たのは失敗だったみたいですね」

 つるべ桶を手繰り寄せながら、シャビィは謝った。

「いえいえ、助かっていますよ。うちに戻ったら、何か変装を考えましょう」

 上ってきた桶を掴んで、シャビィは水を移し替えた。後六杯くらい必要だろうか。かめの中では、暗い泡が楽しげな音を立てて弾けている。シャビィは井戸につるべ桶を戻し、もう一方の桶を手繰り寄せた。


「どう?意外と楽でもないでしょ?」

 ひたすら手を動かすシャビィの背後に、婦人が手ぶらで戻ってきた。

「いえ、そこまでは。なにせ体力がとりえですから」

 シャビィを待ち構える階段縦走に比べれば、こんなものは準備運動だ。


 そりゃあ結構、婦人は退いて、リシュンと世間話を始めた。

「そうそう、リシュンちゃん、どうせまだあんた薄暗い路地で仕事してるんでしょ?

 気を付けなよ、最近奏国の兵隊がそこら中うろうろしてるみたい。昨日も、市場で騒ぎがあってね、干物屋が屋台をめちゃくちゃにされてね。誰も手を出せなかったけど、市場中がギスギスしてて、やな感じだよ」


 胡椒の密輸を止められずに業を煮やした奏国は、ナルガの大使館にかなりの兵隊を送り込んでいた。リシュンにとっては、嫌がる商人たちから繰り返し聞かされた話である。

「ええ、最近は妙に増えましたね。聞いた話では、華人の店にまで押し入って検閲していくとか」

 リシュンが相槌を打つと、婦人は苦々しい顔で吐き捨てた。

「華人はまだましだよ。連中、あたしらチャム人とか、クメル人にはなんでもするんだ。店に上がりこんでタダで飲み食いしたり、押し借りしていくばかりじゃない、難癖を付けてカツアゲしたり、子供や年寄りをいじめたり、よそ者のくせに……あたしらのことを毛の生えてない猿程度にしか思ってないのさ」

 ふたりの話に耳を傾けながら、シャビィはひたすら水を汲んでいた。いつの間にか、かめの水は半分を超えている。リシュンは手を組み直し、目を伏せた。

「私もこんな商売をやっていますから、この先のことを思うと心配で……先日も、お客さんが大きな痣を作ってきて……」

 豪商相手からお呼びがかかるのは、多くて週に二、三回。リシュンのお得意様は、歓楽街の娼婦達だ。どんなに媚びへつらっても些細なことで殴られ、果てに斬られた仲間もいるのだと、リシュンの知り合いもこぼしていた。

「そりゃお気の毒に……とにかく、あんたも年頃の娘なんだから、用心しなくちゃダメだよ。しばらく柄の悪いところは避けて、大人しくしときなさい」

 念を押す婦人の手を、リシュンは強く握った。

「ご忠告どうもありがとうございます。シャンカさんも、くれぐれもお気を付けて」

 微笑んで頷き合う女達の後ろで、シャビィは最後の一杯をかめに注いだ。まだ満杯には至っていないが、持って帰ることを考えればこのくらいが調度よい。

「リシュンさん、あがりましたよ」

 リシュンはかめの中を横目で確かめ、婦人にお辞儀した。

「それでは、シャンカさん、ご機嫌よう。

 心配して下さって、どうもありがとうございました」

 婦人は腰に手を当ててリシュンを足から頭まで眺め、強く頷いた。

「あんたは賢い娘だから、きっとうまくやり過ごせるさ。そっちのお坊さんも、力になってやってね。それじゃあ、また」

 ええ、御機嫌よう。何となくお辞儀を返したが、シャビィが自らの言葉の意味を知るのは、もっと後になってからのことだった。

 水がめを抱えて階段を上り下りするのは、なかなかの重労働だった。両手と視界のふさがったまま、先を行くリシュンに導かれてなんとか部屋に戻ったときには、シャビィの体はすっかり流れる汗の下。顔は真っ赤にのぼせあがり、たまらず生水を飲んでしまったほどだ。

「リシュンさんが、桶を手に何度も往復する理由が分かりましたよ」

 茣蓙の上にへたり込み、肩で息をするシャビィに、リシュンは髪を梳きながら涼しい声で礼をよこした。

「おかげさまでとても助かりましたよ。おまけにかなりの時間が浮きました」

 前髪を梳くために、リシュンは頭を傾けた。黒くて深い流れに沿って、べっ甲の櫛が滑ってゆく。


「昨日の話の続きですが……」

 息の整ってきたシャビィは、リシュンに訊ねてみた。

「不正の証拠を押さえるなら、やっぱり狙うのは胡椒を持ちだすところですよね」

 リシュンは反対側の前髪を梳かし始めた。

「いえ、胡椒を運んでいるところを押さえたところで、周りに人がいなくては意味がありません。彼らも白昼堂々運ぶような愚は犯さないでしょう」

 鬼の首を取ったところで、リシュン達は寺院を追及できるような立場ではない。シャビィは腕を組み、難しい顔で唸ってみたが、絞っても、絞っても、出てくるのは唸り声ばかり。ついに何の閃きも得られず、とうとうシャビィは匙を投げた。

「だめだ。リシュンさん、どうしたものでしょうか」

 リシュンは引き出しに櫛をしまうと静かに立ち上がり、箪笥の脇にかけてあった仕事用の鞄から竹ひごの束を取りだした。

「大丈夫。策は考えてあります。先日豊泉絹布で占った折にも、そのための下準備を施していったのですよ」

 底しれない周到さに、シャビィは舌を巻いた。

「リシュンさんには、驚かされてばかりですね」

 ことによると、全てはリシュンの手の中で動いているのかもしれない。

「大したことはありませんよ。シャビィさんは途中から事件に巻き込まれたので、驚くことが多いというだけです」

 リシュンは竹ひごをくくっていた紐をほどいて、テーブルの上で高さをそろえた。

「念のため、この駆け引きの成否を占ってみましょう」

 息を呑んでシャビィの見守る中、リシュンは目を瞑り、大きく息を吸った。

「爾の泰筮、常有るに依る。寺院の悪を暴く謀について、未だ知らざるを以て、疑うところを神霊に質す。吉凶得失悔吝憂虞、これ爾の神に在り。希わくば、明らかに之を告げよ」

 前回からうって変わって、リシュンの手つきは随分と大人しい。

 肩すかしをくらったシャビィがおずおずと尋ねた。

「あの、リシュンさん? この前占った時は、もっと、こう、賑やかに――竹ひごを転がしたり、回したりはしないんですか?」

 竹ひごを数えながら、リシュンはそっけなく答えた。

「竹ひご? ……ああ、筮竹のことですか。あれはお客の気を引くための曲芸です。何の御利益もありませんよ」

 はい? 目を丸くしたまま二の句を継げずにいるシャビィをよそに、リシュンは黙々と筮竹をより分け、数え、木の棒で卦を作っていく。筮竹の立てる乾いた涼しい音だけが、狭い部屋を通り過ぎた。


「陰陽陽陰陽陰、☵ ☴ (水風井)ですね」

 出来上がった卦を見て、リシュンが呟いた。下半分は、シャビィも見たことのある形をしている。

「これは“ 風”でしたっけ?」

 シャビィは卦を指した。リシュンは頷き、

「風、もしくは木、白、行き来、商い。意味は色々ありますが、風が木の下にもぐった形、水風井の示すところのものは、即ち井戸です」

 大ざっぱに卦の説明を始めた。

「『井は邑を改めて井を改めず。(うしな)うなく得るなし。往来井を井とす。(ほとん)ど至らんとしても、また未だ功あらざるなり。その瓶をやぶる、ここをもって凶なるなり』。国は変わっても井戸は変わらず人を養い続けますが、そのためには水を汲めるようにしておかなければなりません。変爻も九三『用いて汲むべし』。さしずめ今回は……機は既に熟しているのだから、ためらわず機を活かして大きな利を上げよ、といったところでしょうか」

 リシュンは筮竹をそろえ、再び紐でくくった。

「今すぐにでも動くべきだというのはいいんですけど、利というのは?」

 シャビィの問いを、リシュンは受け流した。

「言わずもがな……私たちの目的を達することです」


 リシュンは立ち上がって道具を片づけ、訝しがるシャビィを部屋の外に追い立てた。

「ジェンドラ大師に直接会って探りを入れてみます。着替えるので、出ていってください」

 口答えできるわけもなく、シャビィはそそくさと逃げ出し、リシュンは箪笥の引き出しを開けて、じっくりと服を選んだ。この間の格好は硬すぎるかもしれない。下は白でいいとして、身構えさせないよう、上着は翠を選ぶべきか。箪笥から選んだ服を取り出してベッドの上に広げ、青灰色の普段着をベッドの背にかけて、リシュンはクワンの紐をほどいた。

 滑らかな音を立ててクワンから現れたのは、すらりと伸びた白い肢。薄絹のクワンに肢を通し、翠のアオザイに袖を通し、くるみボタンを引っ掛ければ、初々しい町娘に見えなくもない。リシュンは鏡の前に座って余った髪を一つにまとめ、蝶をかたどった小さな銀の髪留めで右寄りにとめた。


 大分娘らしい愛嬌が出てきたが、鏡の中のリシュンにはまだどこかに圭角が残っている。白粉の上から薄く頬紅をさし、明るめの紅を引いてから、リシュンは少しだけ自分を値踏みして、笑顔で頷いた。後はこの表情を保つだけでよい。荷物をまとめて家を出ると、表には強張った顔でシャビィが突っ立っていた。

「シャビィさんもこのような格好の方がお好みでしたか」

 やはり坊主も男ですね。リシュンは冷ややかにシャビィを眺め、青白い溜息を吐きだした。

「私は、その、ついていかなくても大丈夫ですか? 」

 シャビィの問いは、いかにも頼りなく響いた。

「今回は一人で上手くやりますよ。帰りしなに着替えを調達してきますから、今日のところは留守番で我慢して下さい」

 リシュンはこともなげに言い置くと、軽い足取りで階段を上って行った。


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