大帆行
リシュンは大げさに溜息をつくと、温くなった緑茶を一息に飲み干した。
「あまりよい気持ちのする話ではありませんが、それなら本当に問題ないのではありませんか? いや、その、隠さなくてもよいというだけですが」
門徒から現金代わりに胡椒をたっぷりと受け取っているというのなら、門主もわざわざ危ない橋を渡るまい。ク―とて、ただ胡椒の量や質を確かめていただけかもしれない。
しれないが、シャビィにとってはそれでも十分忌々しき事態なのだろう、いかにも歯切れが悪そうな物言いに、リシュンは苦笑した。
「ですから、それだけではないのです……シャビィさん、豊先生のところで奏国の専売制に話題が及んだのを覚えていますか?」
シャビィは一瞬天井を見つめ、それから頷いた。
「はい。胡椒が売れなくて、景気が悪いという話でしょう?」
ヘムの言った小遣い稼ぎも、そこに端を発しているのかもしれない。
「売れなくて値が落ちたために大工は胡椒を多めに受け取ったのではないかと、私が米問屋に確認したかったのはそこです。しかし、大事なのはここから。私がそのお得意様に胡椒の値動きがないか訊いてみたところ、いいですか? 胡椒が安くなったのは専売制が始まってからの二、三カ月だけで、すぐに揺り戻しがあったというのです」
語気を強めて語るリシュンを前に、シャビィはただ目をしばたかせただけだった。頭は悪くないのだが、この禅僧は世間に疎すぎる。
「つまり、抜けているのです。行き場を失った筈の胡椒が、どこか見えないところから」
リシュンは額を押さえ、指先で机を叩いた。
「……胡椒の音が下がらないように買い支えているのは、昔から奏へ香辛料を輸出していた、大帆行という海商です」
このこと自体は、商人たちの間でよく知られていた。勝算のないその場凌ぎをいつまで続けられるものかと、彼らは馬鹿にしながら事態を見守り、実際大帆行は落ちぶれて召使いやら出先やらを次々に手放したものの、これがついぞ潰れることなく今に至っている。それ以上何も起きないために人々はすっかり興味を失い、米問屋の主人もリシュンに訊かれてはじめて思い出したという。
「確かに、大帆行が買い続けることだけでも胡椒の値を上げることはできます。在庫を大量に抱えている大帆行が胡椒の値を上げたがるのも、無理はありません。しかしながら、売る当てのない胡椒を延々と買い続けることは不可能です。たとえどんなに蓄えがあっても、いつか必ず尽きる日がやってきます」
大帆行の名が挙がるたび、シャビィの眉が小さく動くのを、リシュンは見逃さなかった。
「シャビィさん、聞き覚えがあるのでしょう? 大帆行という名前に」
心なしか、リシュンの口元が僅かに緩んだ。
「いや、それがなかなか思い出せなくて、困っているところです。」
シャビィは、また禿頭をさすった。シャビィが背を丸める度に、この頭は実に小気味よく陰を放つ。
小さく笑いながら、リシュンは大帆行の正体を明かした。
「私がたまたまシャビィさんに助けてもらったとき、赤い商館の前で見張りをさせられていたでしょう? あれが大帆行です。共に洋氏の権勢を支えてきた、カタリム山スピアン・タキオ寺院の相方ですよ」
プリア・クック寺院の地下室に隠されていた胡椒。大帆行が買い込み、どこかに流れ出している胡椒。ようやく繋がった二つの胡椒は、シャビィから一切の言葉を奪った。大きく開いた口の上下で、分厚い唇がわなわなと震えている。
「大帆行は白帯の商人ですが、早くに洋氏と結びつき、娘を何人も輿入れさせているようなところです。洋氏の後押しで成長したジャーナ宗との間にも、それなりの関係があると考えるべきでしょう」
シャビィにとっては、涼しい顔で説明するリシュンに、一言返すのがやっとだった。
「そうか、同じなんだ――」
ナルガ全体が困窮している今、余っているとはいえあれだけの胡椒が布施だけで集まるとは考え難い。シャビィが見たのは、大帆行の掻き集めた胡椒だったのだ。
「ええ、私もそう考えています。考えていますが、大帆行が集めた胡椒を寺院がばら撒いているだけでは、何の利も生まれません。ですから――抜け穴があります。大帆行によって寺院に集められた胡椒が、ナルガから出ていく穴が。そして、大帆行がさらなる胡椒を買い付けるための金貨が入ってくる穴が。シャビィさんが見たという、地下室の中は、つまり……寺院は胡椒を売っているのですよ。それもおそらく、取引そのものが禁止されている奏国で」
リシュンの考えを聞いて、シャビィは両手で頭を抱えた。
「まさか、そんなことまで……」
うろたえるシャビィをリシュンは慰めた。
「シャビィさんが気に病むことはありません。シャビィさんはもう寺院の人間ではないのですから。あなたは自分で、正しい道をえらんだのですよ」
リシュンは二人分の食器を片づけ出した。
「寺院は朝廷からも疑われにくく、また手を出しにくい組織です。税関を破るにも、胡椒を売りさばくにも、これに勝る隠れ蓑はありません。門徒に手伝わせて鼠講を仕掛ければ、出所を胡麻化すのも容易でしょう」
リシュンが食器を重ねるのを、シャビィはぼんやりと眺めている。
「そして何より、薫氏が関税や専売制によって締めつけているおかげで奏国内の胡椒の値は以前の何倍にも膨れ上がっています。密輸がうまくいけば、それはよい商売になるでしょう。それこそ、贅を尽くした寺院が建てられるくらいの」
食器を盆にのせてリシュンが立ち上がると、シャビィも気づいて声をかけた。
「ご、ごちそうさまでした。私も手伝います」
立ち上がる際にテーブルで膝を打ち、小さく呻いたシャビィに頼んで、リシュンは釜に水を張らせた。
「そう、その水がこぼれないよう、気をつけてついてきて下さい」
肩で扉を開くと、リシュンは洗い場の脇に屈みこみ、シャビィはゆっくりと釜をリシュンの前に下ろした。
「これだけで足りますか?」
釜の中には、椀を一杯洗えるだけの水しか入っていない。
「なるべく汚れていないものから順に洗って、水を使い回します……そう嫌そうな顔をしないでください。水があまり残っていないのです」
リシュンはふやけた茶葉を捨て、茶杯を釜の水に漬けこんだ。
「それにしても、リシュンさん、お話を聞いていると何となく納得してしまうのですが、実際のところは地下室を見てみないことには分からないのではありませんか?」
シャビィも真似をして茶杯を洗った。滑らかな地肌の鳴き声は、どこかあどけない。
「確かめるにはそうするしかありませんが、寺院が出資者を明らかにしない以上、何かを売って資金を作ったと考えるのが自然です」
茶杯をさっと水にくぐらせてから、リシュンは水を切った。
「それに、ジェンドラ大師と話したときには手ごたえがありましたよ。私が寺院の影響力が云々と口にしたとき、大師だけが私に合わせたでしょう?」
リシュンは布巾で茶杯を拭き、盆の上に戻した。
「あのときはいい気がしませんでしたが……そうか、あのときに何かを確かめたんですね?」
茶杯をリシュンに手渡して、シャビィは匙を洗いだした。
「ええ、少なくとも、寺院が薫氏に目を付けられるような、それも私たちに言えないことをしているということですから。それに、彼らが胡椒を大量に隠していること、大帆行から誰かが胡椒を買い付けていることも確かです」
リシュンは手早く二つ目の茶杯を拭くと、シャビィから匙を取り上げた。
「後は税関破りの手が分かれば……胡椒を何に隠して運んでいるかが分かれば、鎌をかけることもできるのですが、シャビィさん、何か心当たりはありませんか? 怪しまれずに寺院から門徒に配れるようなものです」
シャビィは椀を洗う手を止めて考えた。
「……そうですね、寺院で在家の人に配るのは、お札とか、くじとか、お護りとか……」
お護り――匙を拭き終えたリシュンが、顔を上げた。
「その中ならお護りでしょうね。少々小さいのは気になりますが――中身を確認するのも気が引ける上、お礼参りの時に貨幣を詰めて返してもらうこともできます」
青黒い空に匙をかざし、リシュンは白い影をじっと見つめた。
「お護りに懸けさせてもらいますよ。私たちの命運を」
皿洗いを再開したとき、リシュンには穏やかな表情が戻っていたが、匙を見上げたリシュンの横顔にひらめいた鋭い知性は、椀を洗っている間中、シャビィの頭に焼きついて離れなかった。
椀を拭き終えると、リシュンは釜の内側をこそいで、排水口に水を捨てた。
「夜も既に半分終わってしまいました。余計なことはせず、今日はもう寝るとしましょう」
食器を元の場所に戻すと、リシュンは扉の掛金を下ろした。錆びついて今にも崩れそうな代物だが、風で扉が開くのを防ぐことくらいはできる。燈台からランプに火を取り、かまどの上へ。燈台の火を消してしまうと、俄かに部屋が明るくなった。
「申し訳ありませんが、適当にその辺に転がって寝てください」
リシュンは髪を下ろしてそのままベッドに横たわってしまった。取り残されたシャビィ一人が、ランプの陰を受けて波打っている。
「シャビィさん、まさか、私にベッドを譲れと言うつもりではないでしょうね?」
リシュンが寝がえりを打つと、藤のベッドは弱々しく抗議した。
「いえ、その、そういうわけではなくてですね……」
言わずもがな、酒と女は修行の最大の妨げである。リシュンは口ごもったシャビィを訝しげに見つめていたが、シャビィの戸惑いに気づくと含みのある笑みを浮かべた。
「仕方ありませんね。隣を半分開けてあげましょう……」
心にもない申し出に、シャビィは耳まで真っ赤になってしまった。
「結構です。わ、私は表で夜を明かすので、どうぞお構いなく!」
シャビィは戸口を目指したが、窓から折悪しくまばらな雨音が入り込んできた。念のために覗いてみると、外はいつの間にか雨で墨色に染まっている。御仏は、かくも立て続けに試練ばかりを与え給うものか。諦めて引き返したシャビィを、リシュンは笑って迎え入れた。
「これも修行と思って、よく耐えることです」
シャビィは押し黙って疑いの目をリシュンに向けたまま、壁際に陣取り横になったのであった。