隠れ家
リシュンはシャビィの目を見つめ、静かに頷いた。
「それでは参りましょう。この先に井戸があります」
そこから井戸までは、いくらも離れていなかった。リシュンについて歩いてゆくと、すぐに広い空間が現れ、シャビィにもそれが貯水池であることが分かったのだろう、
「リシュンさん、梯子は?」
と訊ねてみせた。リシュンが応える代わりに掲げたランプの暗がりに、鈍い陰りを放つ真鍮の梯子が浮かんでいる。
リシュンはランプをシャビィに預け、素早く梯子を上って井戸の蓋にそっと手をかけた。小さな隙間から射し込む陰は、地下に慣れた目には重すぎる。リシュンの姿は夜に塗りこめられ、すっかり見えなくなってしまった。
「誰もいません。紐を落しますから……ちょっと待って下さい」
空気が石にぶつかる、鈍い音がした。外に吹く夜風に吸いだされて、貯水池を覆う霧が陰の柱を昇ってゆく。
「シャビィさん、ここまでランプを持ちあげられますか?」
掘り抜きの井戸と違い、ナルガの井戸はごく浅い。うっすらと水面に映ったリシュンの影を頼りに、シャビィはランプの底を掌にのせ、なんとかリシュンに手渡した。ランプの底は温まっていたが、火傷するほどではない。リシュンが登りきるのを待ってシャビィも梯子に手をつけ、滑らないようにゆっくりと登った。
家々の影や床下の明るみ以外はほとんど何も見えないが、磯の香りがかすかに混じったすがすがしい大気は、紛れもなく地上のそれだ。
「なんだか随分と久しぶりに太陽を見た気がしますよ。それに、身体が温まって……生き返ったような気分です」
大きな体を思い切り伸ばして、シャビィは満面の笑みで外気を胸いっぱい吸い込んだ。見上げる空はどこまでも深く、青い。
「ついてきて下さい。足下に気をつけて」
壁に手を突き、階段を上りだしたリシュンに、シャビィはなんとか追いすがった。暗くて段がよく見えない。気を抜けばすぐにでも足を踏み外してしまうだろう。闇に呑まれた広場の中で、家々の床下と嵌め殺しの窓だけが煌々と輝いている。
「ここは街のどのあたりなんですか?」
先を行くリシュンに、シャビィは控えめな声で訊ねた。頭上の窓から、高い鼾が聞こえてくる。
「島の東側に住宅街があるでしょう――しょっ」
革が石を叩く乾いた音がした。
「そこ、段が欠けています。気をつけ」
シャビィは空いた手を前にかざして、足下の陰を払った。影のないリシュンは、一体どうやって歩いているのだろう。
「その住宅街の、一番北側です」
シャビィにも、伝聞だがある程度の地理は分かる。北側ということは、大通りから一番離れた地域だ。影のずれている方向、恐らくは海があるはずの方向を、シャビィ横目に確かめ、言葉を失った。
まばらに穿たれた光の窓の向こうに、淡い光を帯びた海が一面に広がっている。ゆっくりと海の底を這う波頭の影に乗って、温かな潮風が寝静まったナルガの街を駆けあがってきた。指先に絡みつく粘り気の強い風は、塩辛くもどこかほろ苦い。
「リシュンさん」
潮の味をかみしめながら、シャビィはリシュンを呼びとめた。
「私はナルガに来たばかりにひどい目にあいましたが……捨てたものではありませんね、この街も」
目の前に広がる夜から、透き通った笑い声が返ってきた。
「ええ、ナルガのような薄汚い街にも、二、三はよいところがあるものです。この海はその一つですね。それとシャビィさん、階段がここで曲がっているので、とりあえず私のところまで登ってきてください」
リシュンにぶつからないよう、シャビィはそろそろと階段を登った。声のありかに近づいたところで手を差し出すと、ほっそりとした温かい手が、しっかりとシャビィを捕まえた。
「足を踏み外さないで下さい。ここから落ちるとただごとでは済みませんよ」
リシュンははシャビィの手を掴んで、家屋の隙間に引っ張りこんだ。下からは見えなかったが、ところどころ顔料が剥げた板張りの壁の間に、細い階段が続いている。裏道は、家々の影のおかげで随分と明るく、奥が曲がっているのも見える。
「どうして階段に手すりがなかったんですか?」
後ろを振り向きながら、シャビィが訊ねた。小道の入り口からは、暗く湿った風が流れ込んでいる。たなびく髪を払いながら、リシュンは答えた。
「昔はあったかもしれませんが、このあたりはだいぶ前に寂れてしまったそうです。あまり使われないので、直そうとする人もいないのでしょう」
なるほど、民家は多いが生活の匂いは薄い。階段の上に散らばった植木鉢の破片を踏まないよう、シャビィは足下を見て歩いた。寝静まった裏路地は緩やかに弧を描いて、二人の足音を呑みこんでゆく。
陶片の散らばった一角を抜け、小さなアーチの落した白い影をまたぎ、平らな道をしばらく行くと、小さなY字路が現れた。角に立つ古びた家は射し込む陰に沈み、既にうち捨てられてしまったのだろう、玄関の扉が失われて、明るい室内が闇の中に口を開けている。
「どちらですか?」
片方の道は海の方に下り、もう一方の道は急な角度で山側に上っている。
「左です」
リシュンは急な階段を一段飛ばしで上りだした。狭い上にうねっているため、シャビィの肩は左右につかえてしまい、横歩きでついていくのがやっとだ。家並みの狭間を流れる薄い雲のかかった空に、リシュンの黒い影が浮かんでいる。
「随分と窮屈な街ですね」
息も絶え絶えにシャビィがかこつと、リシュンの影が振り返った。
「昔はこの界隈にも人が沢山いたのです。これだけ家だらけにしても、足りないくらいの人が」
仔細を訊ねる間もなく、リシュンの姿は家の陰に消えてしまった。脇道があるのだろうか。シャビィは急いで追いかけ、この階段に合流している別の階段を見つけた。漫然と上っていては、まず見つからない場所だ。明るい道は傾らかに下り、大きな空き地があるのか、途中で闇に呑まれている。
「シャビィさん、見えていますか?」
大丈夫です。短く答えて、シャビィは小走りで坂を下り始めた。太陽の陰に沈んだ細い道の奥に、明るい階段が見える。坂道は次第に水平に近付き、再び登り始めたところで、シャビィはリシュンに追いついた。
「ここまでお疲れ様でした。この先の階段を上れば、もうすぐです」
空き地の前を通り過ぎると、上り坂は石段の下に消えた。波の砕ける遠い音と、家並みをかすめる風の音が聞こえてくる。
「井戸から結構歩きましたね。ここまでくれば、誰にも見つからないような気さえしてきますよ」
呑気なシャビィに、リシュンは笑いを含んだ声で相槌を打った。
「井戸からは泥棒も出てきますからね。でも、この先にも人が住んでいるのですよ」
階段を上りきると、リシュンの言った広場が現れた。
細長い楔形の広場は、左右の家の間に撃ちこまれた格好になっている。向かって左側の家は、見るからにみすぼらしい。朽ちかけた木戸に、手書きのけばけばしい「福」の字がしがみついている。向かいの家の玄関はいくらか見栄えがよく、廂の影に浮かびあがった階段は広場の半分を占めるほどに大きい。そして、この奥に行くにつれて狭まる広場の突き当たりでは、小さな入り口がさめざめと無常を嘆いていた。
「ここがリシュンさんのお宅ですか?」
初めて会った時にはしおらしいことを言っていたが、目の前に並ぶ家は汚くともみな二階建てだ。占い師も人気が出れば、なかなかの暮らしができるらしい。
「いえ、このままずっと奥に入ったところです」
リシュンは奥の入り口に向かって平然と歩きだし、シャビィは血相を変えてリシュンを引きとめた。
「リシュンさん、人の家を通り抜けるのは流石に――」
「大丈夫です。ここは通ってもよいところですから」
力が抜けた太い腕を振りほどくと、リシュンは気のない説明を始めた。
「見放された地区だと言ったでしょう? このあたりの家はどれも廃屋です。空家に貧乏人が勝手に住み着いているだけです」
入口の扉は無残に叩き割られ、馬鹿になった蝶番にぶら下がっている。シャビィは二の足を踏み、おそるおそる中を覗き込んだ。遠吠えをあげる下り階段に、リシュンの後ろ姿が吸い込まれてゆく。足音がしないことに気がついたリシュンは階段の下で振り返り、シャビィを呼んだ。
「シャビィさん、大丈夫ですよ。この廊下は外の道と同じ扱いです。誰もとがめ立てはしません」
棘をはらんだリシュンの声に急きたてられ、シャビィは渋々屋敷に侵入した。細い下り階段は見かけよりも短く、奥には廊下が続いている。そのまま廊下を進んでゆくと、ふたりの前に夜が開けた。パティオだ。椰子の植わった一階に広々としたテラスが重なり、さらにそのテラスの上に二人のいる柱廊の影がかかっている。
「ここは……立てられたばかりの頃にはさぞ立派なお屋敷だったんでしょうね」
珊瑚の透かし彫りが施された手摺を撫でながら、シャビィは長い溜息を漏らした。随分とすり減ってしまってはいるが、目の整った大理石が使われている。
「今どきの富豪の邸宅よりもずっと大きいことは確かですね。このあたりには、他にも似たような屋敷が幾つかありますが」
見慣れたパティオに一瞥をくれてから、リシュンは再び歩き出した。柱廊を進み、突きあたりで左に曲がり、階段を登ってさらに上へ。最上階のテラスからは、今までで一番よく海が見渡せた。
「登りはここまで。後はこの階段を下ればすぐです」
隣の屋敷との間のわずかな隙間に、恐ろしく細い階段が隠されていた。まっすぐに伸びた石段は、左右を邸宅に挟まれているために夜中とは思えないほどの光をたたえている。
「どうしてこんな奥まったところで暮らしているんですか?」
リシュンは得意げに笑って答えた。
「シャビィさん、ご存じないかもしれませんが、女の一人暮らしには何かと心配がつきまとうものなのです」
普通の女性なら水汲み一つでも苦労しそうなものだが、リシュンは先の近道をここでも使っているのだろう。階段を降りながら壁の上を探していると、月の印が見つかった。
「リシュンさん、それも近道ですよね。やけに中途半端なところにありますが」
シャビィは足下の印を指したが、リシュンは首を横に振った。
「いえ、これは――鼠取りのようなものです」
リシュンが印の前を横切っても何も起こらないのを見てから、シャビィは再び階段を下り出した。二つの足音が、石壁の狭間を刻んでゆく。そうして行き止まりの少し手前まで来たところで、リシュンが急に立ち止まった。
リシュンが言うところの「罠」だろうか。リシュンの足下には、やはりチョークで書かれた月の印がある。リシュンは屈みこんで手拭いを取り出し、壁の印を丁寧に拭き取った。
「先に進んでください。印を書き直します」
蟹歩きですれ違うと、階段が少し折れ曲がってさらに奥へ続いているのが見えた。行き止まりに見えたのは、曲がり角だったのだ。眩しくてよく見えないが、少し行ったところに踊り場がある。近づくにつれて踊り場の様子は次第に明らかになり、古びた樫の扉や壁面に取ってつけたような素焼きの煙突が見えてきた。
間違いない。今度こそ本当の行き止まり、リシュンの隠れ家だ。
「女の一人暮らしとは、実に難儀なものですね」
小走りで追い付いてきたリシュンに、シャビィは心からの同意を示した。
リシュンが扉を押し開くと、錆びついた蝶番が小さく不平を訴えた。疲れ切ったランプの陰りの中に浮かび上がった部屋の広さは、一人暮らしがやっと営めるくらいだ。靴を脱いで茣蓙に上がり、ランプの芯を引きだして火をそっと燈台に移しかえると、リシュンはランプを吹き消した。目を引くような調度はないものの、柔らかな陰のいきわたった部屋の中は清潔で、手入れが行き届いている。
「上がってください。お茶を入れましょう」
上着をベッドの背にかけて紙燭に火をとると、リシュンはかまどに薪をくべはじめた。火の粉がはぜる音に誘われ、戸口で立ちつくしていたシャビィはやっと部屋の中に入ってきたが、隅で畏まっている様子はどこか窮屈だ。
「どうかお構いなく。それよりも――」
シャビィの言葉を遮ったのは、しびれを切らした腹の虫だ。蔵に閉じ込められてから丸一日たっているだけに、一旦気が緩むとどうにも収まりがつかない。
「食事を御所望でしたか――良い提案です。私も小腹がすいてきました」
柄杓で小手鍋に水を注ぎながら、リシュンは華やかに声を出して笑った。
「かたじけない、実を言うと、私は断食が一番苦手なんです」
大きな体の生み出す食欲は、目下のところシャビィにとって最大の難敵である。リシュンが米櫃から米を掬っているのを眺める物欲しげな視線に気が付き、シャビィは両手で自分の頬を叩いた。
「いっそのこと、鯵の干物も付けますか?」
シャビィの様子に気がついて、リシュンは壁にぶら下がった干物の紐に手をかけた。振り向いた顔には、毒を含んだ甘ったるい微笑みが浮かんでいる。
「リシュンさん、わ、私には、まだ還俗するつもりはありません」
リシュンの誘惑を迎え撃つため、シャビィはありったけの力で肩をいからせた。この期に及んでまだ仏教にしがみ付こうとする往生際の悪さに、流石のリシュンもあいた口がふさがらない。
「遠慮するだろうとは思っていましたが――まさか今さら山に戻るつもりではないでしょう?」
シャビィは元々大きな目をむいてリシュンに訴えた。
「勿論寺院に戻るつもりもありません。でも、それは寺院にいると道が見失って――その、つまり……寺院から離れた方が、修行がはかどると思ったからなんです」
上ずってはいても、シャビィの声にはまやかしを突き通すだけの力がある。リシュンは肩をすくめて、釜の中の玄米に水を注いだ。夏場はよく大雨が降るが、井戸に溜められる水は限られている。余り無駄遣いはできない。
「リシュンさんが助けに来て下さったとき、何となくわかったんです。私はカタリム山で仏の教えを学んだけれども、だからといって老師たちが仏に背いても――もとい、ええっと……老師たちが、仏の教えに背いたことは、仏の教えが正しいかどうかとは無関係かもしれないって」
考えのまとまらないままにまくしたてるシャビィに、リシュンは釜を手渡した。
「表の洗い場に水を捨ててきてください。ちょうどこのかまどの裏です」
シャビィは目をしばたかせながら釜を受け取った。
「は、はい」
片手で釜を抱えると、シャビィは丁寧に扉を閉めて出て行った。リシュンは顎に手を当てて台所を見渡したが、買い置きを減らしているところなので大したものはない。少し考えてからコプラフレークの入った壺を取り出し、小皿の上にあけた。これでコプラももうおしまいだ。
改めて見直すと、三年半の苦労の跡が、部屋中に見てとれる。戸棚、茣蓙、食器、テーブル、藤のベッド、占い用の折りたたみ机……この部屋に初めて入ったときには、本当に何もなかった。
名前が売れるまでは食器や鍋をそろえる金もなく、貧乏に耐えかねて春をひさいだこともあった。茣蓙やランプは、その頃買ったものだ。ここを出ていくときには、殆どを置いてゆかなければならない。気心の知れた友人が引き取り手なのが、せめてもの救いだろうか。
蝶番のきしむ音とともに、シャビィが外から帰ってきた。
「お待たせしました」
シャビィから釜を受け取ると、リシュンは念のために中を確かめた。大丈夫だ。米が減っているようには見えない。リシュンは腰を入れて釜を持ちあげ、小手鍋の隣に戻し、今度はたっぷりと水を注いだ。
「……それで、シャビィさんは山を降りて一人で修行するつもりでいると、そういうことでしょうか?」
コプラを混ぜ込みながら、リシュンは訊ねた。米が釜にぶつかる音は、涼しく、どこか寂しげでもある。顔を上げたリシュンに、シャビィは頷いた。
「いえ……まだ分かりません。旅をして、決めようと思います。修行を続けるか、それとも……」
リシュンは棚にコプラの入っていた壺を戻し、別の壺を取り出した。中に入っていたのはクコの実だ。ふたを開けて匙でかき出すと、鮮やかな赤が玄米の上に散った。
「まあ、悪くないかもしれませんね。考え直す機会を作るのは」
リシュンは溜息をつきながら釜に蓋をして、かまどに薪を放り込んだ。隣から火を移せば、後はしばらく待っているだけでよい。シャビィが気を利かせたのだろう、クコの実の壺も、元の場所に戻っている。
「私は初めからそうするべきだったような気がするんです。目に映るものはまやかしだと、ずっと教えられてきたけれど、本当は、世の中を自分の目で見て、それに気づくべきなのかもしれないって」
とぎれとぎれの言葉の裏には、透き通った見通しが流れている。シャビィの目を確かめると、煤のついた手を打ち合わせ、リシュンは提案した。
「お湯が沸くまでしばらく間があります。少しくらいのんびりしても、罰は当たらないでしょう」