表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
☶☴(山風蠱)  作者: 筬群万旗
隠れ家
5/16

抜け道

 シャビィが身をかがめて蔵から出てくると、リシュンは慎重に扉を閉め、閂をかけると、脇に転がしてあった南京錠をかけ直した。

「リシュンさん、鍵を返さないと――」

 リシュンが懐から取り出したそれをシャビィが見咎めると、リシュンはくすりと笑った。

「大丈夫。この鍵は寺院の物ではありませんから」

 シャビィは訝しげな視線を返したが、リシュンは取り合うことなく忍び足で階段を下り始めた。

「まあ、魔法の鍵とでも思ってください」

 聞きたいことが山ほどあろうと、今は黙って付いていくしかない。表の門は堅く閉ざされているうえに、シャビィ達を快く通してくれそうな不真面目な友人だが、見張りだっているのだ。


「井戸から地下に降ります。塀伝いにまわって行きましょう」

 屋根がかかっているために、石組の井戸は夜の中にうっすらと浮かびあがっていた。枯山水の上を走っていけばものの数秒で突いてしまう距離を、蔵の床下を通り、塀に張りついて進む姿はさぞ滑稽に見えることだろう――縁側からも。

「リシュンさん、塀の影に入るのは不味くありませんか?」


 高くそびえる塗り壁に背中を押しつけたリシュンは、塀の落した明るみにさらされている。陰の縁で二の足を踏んでいると、シャビィはリシュンに容赦なく急きたてられた。

「暗い所に目が慣れた人間には分かりません。そんなに見られたくなければ、早く渡ってしまってはいかがですか?」

 抑えた声でも、語気は出るものだ。シャビィはおそるおそる塀に張りつき、はるか先を行くリシュンを追いかけた。夜中の境内のそこかしこには陰の破れ目がぼんやりと輝き、じっとシャビィを狙っている。シャビィのこめかみを冷たい汗が伝った。大きな体を窮屈に動かしてなんとか井戸の傍まで辿りついたときには、リシュンは井戸の手前にかがみ笑顔でシャビィを睨んでいた。

 それでも、シャビィは一度だけ足を止め、静寂にたたずむ蔵の方へと目をやった。いくらも離れていないのに、ここからは随分と小さく見える。いや、なんのことはない。果てしないように思えた光の海は、外から見れば本堂の半分の大きさもなかったのだ。


 シャビィが井戸端までやってくると、リシュンは井戸の蓋を外した。灯りが備えられているのか、井戸の底には薄い陰が広がり、さらに奥からかすかに風の遠吠えが聞こえてくる。

「これが秘密の抜け穴ですか?」

 井戸を覗き込んだシャビィの頭に、リシュンは溜息とともに分厚い樫の蓋を載せた。


「秘密も何も、街の人なら誰でも知っています。夏場に夕立で貯水池が溢れないように、排水路が通してあるのです――持っていてください」

 リシュンは蓋から手を放し、シャビィは慌てて蓋を抑えた。とり落とせば、これまでの苦労が水の泡だ。さしものシャビィもこれにはたまらず、抗議の目でリシュンを見つめた。

「貯水池がこの下に? 井戸でしょう? これは」

 何食わぬ顔で井戸筒に登ると、リシュンはゆっくり井戸の中に降りて行った。改めて覗き込むと、リシュンの影の上に幾つかの梯子が光を放っている。


「こんな岩の塊の上に井戸水が湧くものですか。それなりの仕掛けがあって当たり前でしょう?」

 蓋、閉め忘れないでください。シャビィはそのまま蓋をしかけてから、思い直して井戸筒をまたぎ、へりにしがみ付いたまま梯子を数段下りた。その場で井戸筒に蓋を載せようとすると、身体が邪魔で思うようにかからない。一旦諦めて空いた手で梯子を掴むと、身体を沈めながらなんとか井戸筒に蓋を載せ、裏側から持ちあげて位置を合わせた。


「井戸は末広がりです。足を踏み外さないでください」

 心もとない灯りを頼りに湿った梯子と格闘しながらシャビィが底まで辿りつくと、背後には眩い水をたたえた水槽が広がっていた。照らし出された太い石柱が、向こう側におぼろげな影を投げかけている。初めて見るナルガの水脈にすっかり目を奪われ立ちつくすシャビィに、リシュンは小さく、しかし同じくらい鋭く呼びかけた。

「こちらです」


 石柱の影が一斉に大きく踊り出した。声のした方を見やると、リシュンがランプを揺らしている。シャビィは壁に手をつきながら、細い足場の上を渡って、水槽の端で待つリシュンに合流した。

「さあ、参りましょう。迷いやすいので、あまり遅れないように気を付けてください」

 石壁に口をあけた眩しく長い回廊へと、二人は足を踏み入れたのだった。


 地下水路には、冷たく、そして湿った風が流れていた。冷えきった手足が水滴に覆われ、水気を吸った衣が体にまとわりつく――山の上で雲に呑まれた時と同じだ。

「驚いたな。まさか足下にこんな空間が広がっていたなんて。ここは――外とはまるで違いますね。どこまで続いているんですか? この通路は」

 水浸しの下り坂を注意深く進みながら、シャビィは明るい声で訊ねた。

 リシュンの背中越しに見える行く手は、墨色の霧に閉ざされ、分厚い帳の奥から濡れた足音を送り返してくるばかり。このまま地の底まで続いていてもおかしくない。

「シャビィさん、もう少し声を押さえてください。追手がいないとも限りません、寺院の外に出ただけで安心されては困ります」

 リシュンは振りかえることなく、低い声でシャビィをたしなめた。

「すみません、少々舞い上がってしまったようです」

 おとなしく引き下がったシャビィに、リシュンは細長い説明をこぼした。

「この水路は海まで繋がっていますよ。斜面に沿って蜘蛛の巣状に広がり――」

 十字路だ。手にしたランプの暗がりで湿った石壁を舐め、三日月の形をした印を見つけると、リシュンは険しい顔つきのまま、小さく息をついて再び歩き出した。

「――ナルガ中に走っているのです。それこそ、隅々まで」


 足下に現れた大きな水たまりを、リシュンは助走をつけて飛び越えた。ごくごく軽い足音のはずが何度もこだまして聞こえるのは、重くて冷たい霧と一緒にこの水路が物音を閉じ込めているためだろうか。

「よくこんなものが作れましたね。素材だって――」

 シャビィは水たまりを飛び越えようとしたが、天井でしたたかに頭を打ってしまった。むき出しの浅黒い頭を、ひと筋の赤い血が流れている。

「この水路は大部分が岩盤をくり抜いただけの代物ですよ。くりぬかれた石が、街を作るのに使われたと聞いています」

 道理で天井がごつごつしている訳だ。リシュンが無造作に取り出した手拭いを、シャビィは恭しく受け取った。

「すみません、染みになってしまいますね。これは……ああ、そうか。ナルガはもともとタミル人の街でしたね」

 傷を押さえる反対の手で、シャビィは滑らかに波打つ壁をさすった。この壁も、もとは天井と同じく荒削りだったのだろう。人の手ではなく、水路を流れる水が削ったのだ。


「タミル人? バムパの?」

 意外な名前に、リシュンは首をかしげた。商用でナルガを訪れるタミル人は珍しくもないが、彼らの祖国バムパはナルガのあるカヤッサ半島からはるか東に位置している。


「4世紀ほど前、バムパがこのあたりまで広がった時期があるんですよ。彼らはずば抜けた治水や建築の技術を持っているそうです。実物を見るのはこれが初めてですが……」

 リシュンは床からランプを持ちあげ、恍惚とした表情で岩壁を愛撫しているシャビィを急かした。

「やはり禅師だけあって博学ですね。また他の土地の話も聞かせてください――勿論、またの機会に」

 リシュンは小さく肩をすくめて見せた。

「すみません。また足を止めてしまいましたね」


 お気になさらず。答えながら、リシュンは早足で歩き出していた。シャビィはさして低くもない天井に気を配りながら、黙々とリシュンを追いかけた。またの機会――またの機会を得るためには、なんとか今を切り抜けなければならないのだ。

 しばらく進むと、床は水平になった。滑りやすい足場に苦戦していたシャビィは突然与えられた中休みに胸をなでおろしたものの、リシュンが急に立ち止まりシャビィは危うくぶつかりそうになった。


「どうしたんですか?」

 リシュンの肩越しに前を覗くと、ランプのかげりを映す水面が見えた。寺院の下にあったものほどの広さはないが、ここもどうやら貯水池の一つらしい。一面に広がる白い画布の上に、ほの暗い柱が何本か伸びている。

「助かりました。リシュンさんに止めてもらわなかったら、あのまま水槽に飛び込むところでしたよ」


 シャビィの謝辞など気にも介さず、リシュンは広間の入り口に立ち止まったまま左右を見渡している。緊張した面持ちで周囲を探るリシュンの様子につられて、シャビィも固唾をのんで底なしの光を見守った。何やら、行く手から幾つもの足音が聞こえてくる。


「こちらです。急いでください」

 何が分かったのか、リシュンは右手に向かって走り出した。大きな音をたてないように小さな歩幅で走り、二人は水槽の縁を辿って細い横穴に滑り込んだ。

「念のため、ランプの影を体で隠して下さい。物音は絶対立てないように」

 手渡されたランプを庇いながら、シャビィは小声でリシュンに訊ねた。

「追手でしょうか」

「向きが違います……しっ!」

 足音は、ぐんぐん近づいてきた。二人はじっと息を殺して横穴の中にうずくまって足音をやり過ごそうとしたが、足音は小さくなるどころか、一向に大きく、鮮やかになるばかりだ。ランプの把手を握る手は、寒さに震えながら汗をかいている。

 ついに足音がひと筋やふた筋のところまで迫り、貯水池に入ってくるかのように思われたその時、水路の奥で大きな音がした。


「コソ泥め、手こずらせやがって! 」

 遠慮のない罵声の応酬は、冷えきった霧を震わせ、水路を延々と駆け巡るかのように思われたが、拳が飛んだのだろうか、鈍い音がすると途端に止んでしまった。リシュンの顔からはいつの間にか険しさが抜け、瞳には軽やかな光が灯っている。

 追手達の会話はぼそぼそと聞き取りにくく、それもすぐに終わり、今度は盗人が引きずられるざらついた音が聞こえ出した。シャビィは自分が身を乗り出していたことに気が付き、はっとしてリシュンを振り返ったが、リシュンにも咎める気はないらしく、じっと遠ざかる音に耳を傾けている。そのまま音が光の奥へと沈んでゆくのを確かめると、二人は大きく息を吐き出した。

「今のは一体……」

 恐る恐る振り向いたシャビィの口から、なけなしの緊張が抜けていく。地下道に戻ってきた静けさの下には、しかし、今までとは比べ物にならない数の悪意が蠢いているのだ。

「大方、捕物でしょう。夜盗はこの道をよく使いますし、夜警も同じくよく見周りをしています」

 リシュンはいつの間にか立ち上がっていた。

「無論、どちらにも見つかりたくはありませんね……それと、念のために一つ細工を施しておきましょう」

 リシュンが差し出した手に、シャビィは手拭いを返そうとしたが、げんなりした顔に気が付き、ぎこちない手つきで後生大事に抱えていたランプを手放した。シャビィが手招きに従って道をあけ、水槽の縁を歩くリシュンの後ろ姿を見守っていると、リシュンは通ってきた道の入り口に屈み込み、チョークを使って落書きを始めた。

 いかがわしいまじないの類だろうか。こっそり近づいて後ろから覗きこもうとしたシャビィに、リシュンは投げやりな説明をよこした。

「最初に通った十字路に印があったでしょう? あれの相方です」

 これも三日月だが、確かに向きが違う。あるいは、二十七日の月なのかもしれない。最後に弧の内側から中央に向かって矢印を引き、リシュンはランプを持って立ち上がった。

「これで心配ないでしょう。あと少しです」

 水槽の縁を伝い、リシュンは足音が聞こえてきた入口に向かって歩き出した。さすがに夜警はもう行ってしまった後だろう。一瞬ためらってから、シャビィも及び腰で後を追い、リシュンの待つ水路の入り口に辿りついた。

「驚かれては困りますから、シャビィさんからお先にどうぞ」

 リシュンからランプを受け取り、シャビィは促されるまま水路に入りかけたが、入る直前になって振り返ってしまった。

「何かが起こるんですね?」

 リシュンの涼しい笑顔が、心なしか強張っている。

「振り向かずにまっすぐ進めば差し支えありません――さあ」

 口では勧めながら、リシュンは両手でシャビィを無理矢理押し込んだ。

 次の瞬間、シャビィの目の前からリシュンが消え去り、両手だけが宙から生えてきた。

「わ、あわわ!」

 宙に浮かんだ両手の背後には、霧立ちこめる明るい水路がまっすぐ伸びている。シャビィが自ら後ずさったのを確認すると、リシュンもゆっくりと歩き出した。

 風景を破って、リシュンの姿が浮かび上がる。

「素直にまっすぐ歩けばよいものを――」

 ランプを振った手が小刻みに震え、ヤシ油が零れかけている。真っ青になったシャビィを見て、リシュンは珍しく顔をしかめた。


「リシュンさん、何が起こったんですか?」

 シャビィの手からランプを取り返し、リシュンはゆっくりと地面に下ろした。

「ただの近道ですよ……ほら、そこにもさっきの印があるでしょう?」

 リシュンが目配せした先に書かれた印を、シャビィは食い入るように見つめた。確かに十字路になったものと同じだ。三日月の弧から中に向かって矢印が引いてある。


「こんなもので……本当に行き来できるものなのですか? その、離れたところを」

 シャビィは難しい顔を印に近づけてよくよく検めたが、普通のチョークで印が書いてあるだけで、他に仕掛けがあるわけでもなさそうだ。

「もう一度通って見せましょうか?」

 リシュンはその場で出入りを繰り返して見せた。シャビィは始め身構えたものの、じきに肩から力が抜け、むしろリシュンが浮き沈みする様子を唸りながらしげしげと眺めだし、しまいには自ら向こう側を覗きこむに至った。

「リシュンさん、これは、両側に跨っているとき反対側からどう見えるものなんですか?」

 呑気な質問に、リシュンは適当な返事をよこした。

「見たことはありませんが、陰が当たっていないから白く見えるでしょうね」

「ここに立ったまま印を消したら?」

「千切れます」

「私にもできますか?」

「印を正しく書けば」

「そうだ!……何だったかな? 気になることがあった筈なんですが……」

「無理に思い出さなくても結構です」


 印を消すから、早く出てきてください。リシュンが印に近づくと、シャビィは血相を変えて飛びのいた。が、作業が始まる気配がない。

 懐を探る仕種に気がついて、シャビィは手拭いを差し出した。

「これですよね? お返しします。おかげさまで、血もすっかり止まったようですから」

「え、ええ。ありがとうございます」

 うっかり礼を述べてしまったリシュンに、シャビィは不器用に微笑みかけた。

「こちらこそ、どうもありがとうございました」


 手拭いを受け取ると、リシュンは何も言わずにチョークを拭き取り、ランプを手に立ちあがった。

「さあ、これで一まずは安心です。念のために窺いますが、シャビィさん、寺院から匿ってもらえそうなあてはありますか?」

 シャビィは苦笑して、後頭部をさすった。

「いえ、寺院の頼みとあらば匿ってくれそうなところしかありません。私の知り合いは、殆どが寺院の中にいますから」


 それも、初めて訪れたナルガとなると絶望的である。リシュンは淡々と相槌を打ち、それから、シャビィに取引を持ちかけた。

「では、私が匿うことにいたしましょう。そのつもりでここまで連れてきてしまいましたからね。少々手狭なのは我慢して頂くとして――その代わりに、一つ手伝って頂きたいことがあります」

 遠くで水の滴る音がした。二人を包む薄い霧がかすかに震え、再びゆっくりと静まってゆく。

「何をすればよろしいのですか?」

 シャビィは努めて平静に聞き返した。堅く、まっすぐな、そして張りつめた声だった。

「シャビィさんにとっては、寺院の不正を暴き、これを止めさせることです」

 リシュンの声にためらいはなかった。ただ、字義の上に含みがあるだけだ。シャビィは静かに目を瞑り、そして最後の退路を打ち捨てた。

「お手伝いさせてください――」

 リシュンさんの目的が、何であっても。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ