鍵
濁った欠伸を噛み殺しながら、シャビィは桶の中に豆腐を並べていた。寺院に戻って手が空いたはよいが、気が昂ってなかなか寝付けず、眠い目をこすりながら明日の会食の仕込みを邪魔させてもらっていたのだ。まな板の上にたまっていくばかりの切り終えた豆腐を横目に窺い、典座が膝をゆすっていることにも気付かず、シャビィは意識の戻るたびに作業を再開し、なんとかまどろみの手から逃れ続けた。
「シャビィ君、シャビィ君! おい、シャビィ君! 聞こえるかね!」
典座の鋭い呼びかけに、シャビィは五回目にしてやっと気がついた。
「……はい。どうかなさいましたか?」
「いや、すまんね。お客さんに手伝わせてしまって」
団子鼻の後輩が持つ生来の純朴さは、彼を邪険に扱うことを許さなかった。
「どうかお気になさらず。変に目が冴えてしまって、暇を持て余しているところだったんですよ」
歪に豆腐を並べるその手つきには、少しの冴えもない。
「それに、先輩には小さいころから散々お世話になっていますから」
明日式典が始まれば、シャビィは門主の傍を離れられない。一度ナルガに配された典座がカタリム山に戻ることも、やはりないだろう。あったとしても、それは骨になってからの話だ。
「いかんな、出汁が足りないかもしれん。下から干し椎茸を取ってきてくれんか?」
シャビィは期待通りに、子供じみた素直さで従った。
「何枚要りますか?」
「2、3枚あれば足りるよ」
大きな背中が階段を下りてゆくのを見届けてから、典座は桶の中の豆腐を並べ直し始めた。まな板の上には、まだまだ山ほど豆腐が残っている。シャビィが戻ってくる前に片づけるのはなかなかに難しそうだ。
厨房の奥の扉は、地階への階段につながっている。硬い地盤をくり抜いてあけられた貯蔵庫に続く細くてシャビィは燭台を片手にゆっくりと下っていった。
石室の底には冷たい静寂が幾重にも詰み重なっているのだろう、次の段を探るようにして足を踏み出すたび、深みに触れた爪先から重たい冷気がしみ込んできた。本当なら心地よいはずの涼しさに足を鈍らせ、シャビィはついに立ち止まって入口を振り返ったが、真新しい木戸の姿は見あたらない。蝋燭の炎が作りだした一粒の暗がりを、果てしない光の海が取り巻いている。シャビィは大きく息を吸い、汗ばんだ手で燭台をしっかりと握り直すと、手をあてて確かめた壁の感触を頼りに、足下に浮かび上がった仄暗い石段を再び下りだしたのだった。
ほどなくして、シャビィの足下に地階の床が現れた。階段と同じ幅の廊下の両側に、いくつかの扉が並んでいる。左右の扉を見比べながら廊下を進み、とうとう突き当たりまで来てしまったシャビィは、右側は五つ目の扉に手をかけようとしたが、取手に指先が触れたその時、背後から人の声が聞こえた気がした。
こんな時間まで残っている者が他にもいるのだろうか。シャビィは弱々しい陰の中に浮かび上がったチーク材の扉を見つめた。椎茸の保管場所を聴けるかもしれないが、作業の邪魔をするのも申し訳なく、二、三度手を伸ばしてはこれをひっこめ、やがて思い切って取手に手をかけた。
「すみません」
部屋の中を覗き込むと、明るい壁際にうっすらと人の輪郭が見えた。背中を丸めて机の上で作業をしていたのだが、シャビィの声を聞いた途端に影は慌てて振り返った。
「誰た?」
聞きなれた声に眉を開き、シャビィは重たい扉を押し開いた。
「クーさん、干し椎茸を―――」
シャビィの問いかけは、半ばで止まってしまった。クーが取り落とした袋から小さな何かが零れ出し、シャビィを包むささやかな陰の中に入り込んできたからだ。床を転がる黒い粒は紛れもなく胡椒だが、部屋に詰め込まれた芳香の出所は、棚にぎっしり並んだ麻袋の中である。
一つの厨房では到底使いきれない量の胡椒を目の当たりにして、シャビィはクーに色褪せた視線を送った。クーの形をしていたはずの白い影は何も答えず、シャビィの手にした灯りをめがけて、吹きすさぶ手をまっすぐ伸ばした。
融けた蝋の熱さも顧みず、小さな蝋燭ごと幼い炎を握りつぶそうとする影の手をすり抜けたわずかな陰は、光の中に一瞬だけクーの顔を映し出し、頭を殴られ白んでゆく意識にその形相を強く焼き付けた。
気がつくと、シャビィは光の中に横たわっていた。広さも分からないこの部屋は、玄室さながらの黴臭さに満たされている。シャビィはしばらくの間細めた眼をしばたかせるばかりで、四肢を床の上に力なく投げ出していたが、今更になって後頭部の痛みに気付いたのか、突然頭を抱え身体を丸めた。そして――皮肉にも、この痛みのおかげで――はっきりと意識を取り戻した。
ゆっくりと上体を起こすと、シャビィは床を手で探りながら光の中をいざって進み、分厚い埃を刺し貫くうっすらとした影を見つけた。壁についた小さな窓から見える空には、幾つか黒い星が出ている。気絶している間に、朝を迎えてしまったらしい。
立ち上がって窓に駆け寄ると、シャビィは外の様子を窺った。裏庭だ。先日植えられたばかりの背の低い南天が見える。庫裡が向かいに見えるということは、ここは蔵の中だろうか。シャビィは勘を頼りに戸口まで走ったが、いかめしい観音扉は、閂がかけられているのか、押しても引いてもびくともしない。誰かに閉じ込められてしまったようだ。
シャビィは血相を変えて扉を叩き、声を張り上げたが、裏庭はもともとあまり人の立ち寄らない場所である。式典が行われているとすれば、尚更だ。後片付けが始まるまでは、あまり期待できそうにない。
シャビィが扉を背に座りこもうとしたそのとき、しかし、分厚い扉越しにわずかな振動が伝わってきた。
「おい、起きてるか、シャビィ」
聞きなれたヘムの声も、この期に及んでは何も期待させてくれない。扉の向こうで、恐らくはほくそ笑んでいるヘムに届くよう、シャビィはありったけの声で問いただした。
「先輩、あの部屋でクー先輩は一体何をしていたんですか? それも、誰にも知られないようにして!」
外から帰ってきたのは、ねじ曲がった哄笑だった。
「シャビィ、お前のおめでたいのには心底うんざりさせられるが……へっ、その物分かりの良さは唯一の救いだな!」
「ヘム先輩!」
シャビィの叫びは、途中で裏返ってしまった。分厚い唇が、わなわなと震える。
「簡単に言えばな、内職だよ。ちょっとした小遣い稼ぎだよ。寺院の経営が厳しいのは、お前だって知ってるだろ。詳しい話は後から老師がして下さるそうだ。ちなみに、俺がここに来たのもそれをことづけるよう頼まれたからさ」
長年シャビィを守り、育て、導いてきた寺院による裏切りは、浅黒い筋肉の塊を突き崩すには十分すぎる力を持っていた。
「そ、そんな……嘘だ……老――」
「嘘じゃないさ。さすがに俺も五戒は破れんからな。まあ、なんだ、老師に心を砕いて懇切丁寧に説明していただけるんだ。お前の気も変わるだろうよ。これを機に、世間というものを理解したまえ、お坊ちゃん」
世俗に肩まで浸かりきった先輩のありがたい忠告は、もはやシャビィの耳には届いていなかった。若輩の修行僧は分厚い扉に寄りかかったまま、ぐったりとうなだれて動かず、いつの間にかヘムがいなくなったことにさえ気づいていない様子だった。
何の沙汰もないままに、淀みきった光の底を時間だけが滔々と流れ去って行った。まだ日も昇っていないというのに、カタリム山で過ごした日々はみるみる押し流され、今や風化した記憶の彼方だ。持ちこまれた書物や骨董に染みついた悠久が、真新しい蔵の中に滲み出しているのかもしれない。ここは、置き去りにされた記憶の墓場なのだ。
窓から射し込む陰の中で身体を丸め、懐から取り出した数珠をうつろな目でじっと眺め続けるうち、シャビィはいつの間にか再び浅い眠りの中へ溶け込んでいったのだった。
シャビィが目を覚ましたのは、大通りさえ静まり返った夜半過ぎのことだった。色褪せたまどろみの中を彷徨いながら、埃の下に埋もれ行く哀れな青年を、彼方から呼ぶ声が聞こえたのだ。
「……さん、シャビィさん!」
物心ついた頃には、文字通り仏門に「放り込まれていた」シャビィである。よもや生きている間に女性から名前で呼ばれる機会があろうとは、微塵にも考えていなかったに違いない。ましてや、今シャビィの前には、人の形をした穏やかな陰が佇んでいるではないか。目に涙を浮かべながら、呆れ顔のリシュンに向かって手を合わせたのは、だから、至極まっとうな反応だったと評さなければならないだろう。
「ほら、寝ぼけてないで、しっかりして下さい」
強く肩を揺さぶられて、シャビィの頭は何度か床にぶつかった。後頭部の瘤のおかげでシャビィはたちどころに覚醒し、頭をさすりながら起き上ると、リシュンに気がついて目を丸くした。
「リシュンさん? なんで――」
華奢な手で大きな顎を鷲掴み、リシュンは人差し指を立てた。
「あまり大きな声は立てないでください」
解放されたシャビィは、低い声で聞き返した。
「寺院の裏側は女人禁制ですよ。どうしてこんなところにいらしたんですか?」
寝起きにふさわしいなんとも悠長な質問だ。リシュンは思い切り唇の端を吊り上げた。
「シャビィさんがお腹を空かせていないか心配になって、差し入れに参りました」
それは、それは、と相槌を打ちかけてから、シャビィの表情は瞬く間に凍りついた。この女はなぜシャビィが幽閉されていたことを知っているのか。後ずさるシャビィに、リシュンは鋭い眼差しを突きつけた。
「やはり、あなたは折檻されていたわけではない――話して頂けませんか、あなたかここに監禁されている、その訳を」
シャビィは足を止め、震える目でリシュンをまじまじと見つめた。リシュンは一体、何をどれだけ、どのような経緯で知っているのだろう。涼しい顔は少しも表情を滲ませることなく、ただ首だけがはっきりと横に動いた。
「……いいえ。シャビィさん、彼らはここで何をしているのですか?」
二人の間を、短い沈黙がよぎった。今ここでそれを口にすれば、悪い夢は事実になってしまう。シャビィは深く息を吸い込み、同じだけの時間をかけて、ゆっくりと吐き出した。
「先輩は、内職だと言っていました。私は、食材を探しに行った折に別の先輩に出くわして……あれがその内職だったんでしょうね。その時後ろから殴られて、ここに閉じ込められてしまったんだと思います」
肩を落したシャビィの隣に、リシュンは静かに腰を下ろした。
「辛い思いをされたのですね。かくも見事に裏切られてしまうとは」
少なくとも、クーの手伝っていた『内職』とは、シャビィの口を力ずくで封じなければならない類のものである。それもおそらく、門主の指示に従って。
シャビィにとって、仏の道は常に恩師や仲間たちと共にあった。おごそかに仏の教えを説くとき、老師は一体何を思っただろうか。シャビイが先輩たちと机を並べて学んだものは一体何だったのだろうか。ともすれば、何も知らないシャビィだけが、耳触りのよい嘘に酔って一人浮かれていただけではあるまいか。
「本当に……何を信じればよいのか分からなくなりました。御仏の教えを信じるべきか、老師たちに従うべきか……いや、始めから、仏の教えなど幻に過ぎなかったのかもしれません」
シャビィはしなびた顔で笑おうとしたが、実際に出てくるのは、せいぜい轢きつぶされた咳くらいのものだ。寝ている間に、随分と埃を吸ってしまったらしい。
シャビィの弱音を聞き終えると、床に手をついて喘ぐシャビィをよそに、リシュンは黙ってゆっくりと立ち上がり、戸口から射し込む陰の中へと歩き出した。
「……リシュンさん」
敷居をまたごうとしていたリシュンは、シャビィの声に振り返った。呼びとめたものの別れの言葉はなかなか出て来ず、沈黙だけが足早に駆けてゆく。そのままシャビィが何も言いだせないでいると、やがてリシュンが口を開いた。
「いつまでも呆けていないで、少しは急いで下さい。夜半だからといって、あまり安心はできませんよ」
言われた通りの呆けた顔で、シャビィは戸口に立つリシュンを見上げた。四角く切り取られた陰の上に、リシュンの輪郭がぼんやりと浮かんでいる。
「檻の中にも、もういい加減飽きてきた頃でしょう。分からないなら、自分の目で確かめなさい――私がご覧に入れましょう。この世の真と――」
計り知れない陰の中で、リシュンが一瞬笑った気がした。
「――嘘の全てを」
どんなに探し回ったところで、真実には辿りつけないかもしれない。そもそも真実など、どこにもありはしないのかもしれない。あるいは……結局のところ、リシュンのいう「この世」は、ヘムが「世間」と呼んだものと、少しも変わらないのかもしれない――
だが、それでも――
「連れて行って下さい。私も見てみたい。あなたが見ているのと、同じ世界を」
――この占い師は、『鍵』を持っている。
これからは、耳より目を信じよう。世の中を見て回って、本当の知恵を見つけよう。シャビィが立ち上がるのを見届けると、リシュンは再び歩き出した。少なくともここには、これ以上探すべきものはないのだ。