占い師
娘の前には、小さいながらも行列ができていた。辛子色の僧服をつまんで身体を扇ぎながら、シャビィは行列に目を走らせた。ひと組の男女と、三人の娼婦。いずれも、こちらを窺う様子はなく、人目を気にしている素振りも見せない。
ところが、小さく溜息をついて再び辺りを見渡そうとしたその時、水夫らしい二人組がおぼつかない足取りで列に割り込んできた。酔漢は娘に何か話しかけたが、娘がその依頼だか誘いだかを断ったため、二人組のうちの一方が声を荒げて暴れ出した。見かねた娼婦たちが水夫をなだめにかかったが、男は全く取り合わず、がなっていた男が娘の手を強引に引っ張り、もう一人に指図して娘の両足を掴ませた。いよいよ見ているわけにもいかなくなって、多少の逡巡を振り切り、シャビィは持ち場を離れることにした。
すり減った石畳を、おおきな獣はさざ波より静かに滑った。一息に水夫の影に沈み込み、膝の裏に軽い蹴りを入れ、崩れた水夫を首に巻き付けた太い腕で釣り上げた。
「放してやりなさい。酔いがさめてから後悔するよりは、いくらかましでしょう?」
自分の首にぶら下がったあわれな男は、声を上げることもできずに弱々しくシャビィの腕を叩いた。もう一人の水夫も娘の足を放してそろそろと後ずさり、十分に距離が開いたのを確かめてから、シャビィは捉えた男をその場に立たせてやり、そっと解放した。
「足下、気をつけてくださいね」
水夫たちはまるで聞く耳を持たず、より深い夜の中へと一目散に逃げ出した。小さくなってゆく背中に娼婦たちが罵声を投げかけ、狭い通りには哄笑がこだました。
気がつくと、娘は既に立ち上がり、路上に散った商売道具をせっせと拾い集めていた。シャビィは小さくかがみこみ、足下に転がっていた棒きれを拾って娘に手渡した。
「災難でしたね。お怪我はありませんか?」
娘は、涼しげな微笑みを浮かべ、たおやかな仕種で棒を受け取った。
「おかげさまで、この身には傷一つございません、禅師様。
何とお礼を申し上げればよいか――」
恭しく頭を垂れた娘に、シャビィはつい説教を垂れてしまった。
「いえ、いえ。当然のことをしたまでのこと。それより、この通りは何かと物騒です。もう少し明るいところに移ってみては? 特に貴女のような、年ごろの――」
ふと目があって、シャビィは言葉を詰まらせた。涼しく冴えた切れ長の目に、浅黒い武骨な角顔が映っている。
「恐れ入りますが、禅師様」
すっかり舞い上がってしまったシャビィをよそに、娘の表情はころころと変わった。恥じらうように目を伏せたかと思いきや、口ごもったシャビィを横目でためらいがちに覗きこむと、今度はゆかしさでいっぱいに膨らんだ瞳を瞼で隠し、ほころんだ澄まし顔からはほろほろと笑みが零れるではないか。
そうして、袖から漏れた鈴の音がおさまるのを待って、
「お世辞は、もっとさりげなくお使いくださいませ」
と、ひび割れた唇を甘酸っぱい指先でふさいでしまった。山奥から出てきたばかりの堅物の目にも、いや、堅物の目なればこそ、鮮やかに移ろういわけない表情に眩まないはずがない。
「そんな、お世辞じゃ……だって、あなたはそんなに――」
美しいのに。やっとのことで絞り出せた言葉は、シャビィ自身の耳にさえあまりにも貧しく響いた。
「ありがとう、可愛い禅師様。でも、私はあなたの思うような綺麗な娘ではありません」
降り注ぐ陰の中へと、今にも消え入りそうな痛ましい笑顔を前に、シャビィはただ立ちつくした。
「禅師様は、この通りを物騒だと仰いましたね」
娘は、背後に伸びる底知れない夜を振り返った。
「けれど、この通りの奥で商売をしている女は沢山います。私のお客さんにも、沢山。私だって、占いだけで食べていけるようになったのは、つい最近のことです」
娘は、シャビィの顔を見ないよう、自分の顔を見せないように深々と頭を下げると、そのまま踵を返してしまった。
「シャビィ……私は、カタリム山で修業をしている、シャビィという者です」
シャビィの声は、もう悲鳴といくらも変わらなかった。
「もしよければ――」
「……リシュンです」
決して振り向く素振りを見せず、忘れてください、とだけ言い残して、薄暗い通りの奥へ、奥へと沈んでゆく細くて小さな背中を見て、シャビィはリシュンの負った儚さの理由が分かったような気がした。リシュンには、影がなかったのだ。
リシュンを追いかけるわけにもいかず、シャビィは重たい足取りで黄色い商館の前に戻った。門主や兄弟子達の姿は、朱く塗られた扉の前にも、扉の前の石段の上にもない。有りがたいことに、挨拶が長引いているらしい。アーチ状に石をくみ上げた基礎にゆくりと近づき、汗ばんだ背中を冷たい石組に預けると、全身に少しずつ澄んだ血がいきわたり、淀んだ表情を押し流してくれた。
シャビィは娘の消えていった通りを一瞬見やってから、目を閉じて息を吐き出し、それから再び大通りの見張りを始めた。通りには様々な肌の色の商人や水夫が溢れ、色とりどりの綺羅に身を包んだ妓達が漂っていた。
しばらくして、シャビィは背にした壁からかすかな音が伝わるのを感じた。音を立てずにかがみこみ、眩しさをこらえて細めた眼でアーチの奥を覗き込んだが、強い光の中に見えたのはうっすらとした石柱の輪郭ばかりで、何かが動く気配はない。
片手を地面に付いた姿勢のまま、床下に潜るべきか、それとも潜らざるべきか迷っていると、商館の扉が開く音が聞こえた。
「待たせたな……どうした、シャビィ。何かいるのか? 」
兄弟子のヘムがしまった声で問いかけてきた。シャビィは振りかえり、
「いえ、物音がしたので床下を探ってみましたが、誰もいないようです。先輩方の足音を聞いて勘違いしたのでしょう」
と、青味の残るはげ頭をさすって見せた。
「なんだ、お前もそそっかしい奴だな」
ヘムは苦笑して肩をすくめると、振り返って門主に安全を伝え、門主ともう一人の兄弟子を連れて階段をゆっくりと下ってきた。
「シャビィよ、表の様子はどうじゃった」
門主はシャビィを見上げて、白髭の下で口をもごもごと動かした。平凡な問いかけ一つで弟子を身構えさせてしまうのは、仙人じみた風体ではなく不意に襲いかかってくる禅問答のためである。
長年修行を積んだ兄弟子でも太刀打ちできないというから、この老師は恐ろしい。
「ご覧の通り賑やかな通りですから小さな諍いは絶えませんが、その程度のことでは目や耳が驚くことはあっても法やそれにしたがう思考を驚かせることはありません」
苦し紛れの答えに門主が顔をしかめた時、シャビィの心臓に兄弟子の溜息が突き刺さった。
「いや、曲者がおらなんだか聞きたかっただけなのじゃが……まあ、シャビィよ、焼け石の上を渡るつもりで歩きなさい。もっとも、後はプリア・クック寺院に戻るだけじゃが」
よい、よいと背中を叩いてシャビィを促し、門主は三人の弟子と共に坂を登り始めた。新しく建立された寺院は、ナルガ島の中心にある丘の上だ。隣り合った市庁舎とほぼ同じ敷地があるというから、商人たちの必死さも窺える。今まで香辛料の輸出先だった奏国が専売制を導入したせいで、ナルガに限らず近海の諸国はどこも景気が冷え込んでいるのだ。
門主に合わせてのんびり歩いていても、十数える間もなく全身から汗が噴き出してきた。汐を吸ったねっとりとした熱気は、山の上の暑さとはまるで別物である。
そうして帰路も半ばにさしかかったころ、門主と兄弟子たちの間の空気が一変した。世間話をしていたクーは懐からおもむろに手鏡を取り出し、鏡の中を巧みにまさぐった。
「あらやだ、こめかみの毛がもう生えてきちゃってるわ。朝剃ったきりだったから」
必要以上に声が大きいのは、鏡に何かが映ったからだ。振り向きそうになったシャビィにヘムが小声で釘をさす。
「振り返るな。気付いたのを気取られたくない」
ヘムは少しかがんで門主と何やら相談し、しきりに頷き合ったあとで提案した。
「我々が人気のない通りに出るのを待っているのでしょう。迎えを呼ばせるのが得策かと存じます」
「うむ。このまま少し行ったところに、以前から懇意にしておる商会の支部がある。一まずそこに逃げ込むとしよう。」
門主は淡々と答え、髭をいじりながら指示を出した。
「使いは……クーよ、任せられるかの」
承りました、と頷いて雑踏の中に消えてゆく兄弟子の姿を見送ると、シャビィは残った二人に謝った。
「申し訳ありません。あの時気づいていれば先手を打てたものを。」
ヘムは鼻先で笑って、
「なるほど、耳目をふさいでいれば心が驚くこともあるまい」
とからかったが、門主はこれを嗜めた。
「シャビィ、気にするでないぞ。何事も大事には至っておらん。さればこそ、ヘムよ、軽口を叩く余裕も生まれるというわけじゃ」
話している間にも角を二、三通り過ぎたが、静かに背を引くか細い視線は手繰られる気配も途切れた様子もない。シャビィ達も同様に、足を緩めることも早めることもなく、気づいていないふりをし続けた。
坂を登るに従って雑踏は薄まり、またよい身なりの商人が増えていった。ほれ、この館じゃ。門主が立ち止まったのは、壁一面が丹で塗り上げられた、中華風の商館の前だ。タミル人の召使いは、門主の声を聞くなり重たい閂を外し、三人を緑の溢れる中庭に通してくれた。
大きな吹き抜けからは太陽の影が降り注いでいるが、中央に植え込まれた椰子の木が床一面に大きな光の花を描き、鉢植えの並んだ中庭は隅々まで見渡せるほど明るい。仏桑花に山百合、水を張った鉢には蓮が大輪の花を咲かせ、桃源郷とも見紛うばかりだ。息を呑むシャビィとヘムをよそに門主と召使いがこのささやかな楽園をすたすたと通り過ぎ、ロビーに入っていったのを目にして、シャビィ達は小走りで追いかけた。
分厚いチーク材の扉を遠慮がちに押し開いて部屋の中を覗き込んだシャビィは、門主と握手を交わしている恰幅の良い中国人を見つけ、その隣に控えている女に気がついて目を丸くした。そこにいたのは、先に見かけたばかりの占い師だったのである。
後につかえていたヘムに押し出され、シャビィがロビーに転がり込むと、音に気付いた門主が振り返り、奥に控えるリシュンが柔らかく微笑みかけた。
「弟子のヘムとシャビィです――二人とも、こっちに来て挨拶なさい。豊泉絹布のご主人、豊傑さんじゃ」
門主は弟子たちに中国語で話しかけた。特に布教に力を入れているわけでもないが、寺院では修行僧に語学を徹底して叩き込む。周辺に港市が多く、参拝者にいくつもの民族が含まれるためだ。
「お会いできて光栄です、豊先生」
手を合わせて深々と頭を垂れた二人に、豊氏も軽く辞儀を返した。
「こちらこそ、ジェンドラ大師からお話しを窺って、お会いできるのを楽しみにしていました。それに、皆様実によいところにお見えになりましたな」
豊氏が振り返って手招きすると、リシュンは慎ましやかな足取りで歩み出た。
「占い師のリシュンと申します」
リシュンが跪くと、白銀の髪飾りが怜悧な音をたてた。怪しげな光を纏う黒髪が流れるのは、細やかな刺繍の施された繻子の真白い長衣の上だ。
「彼女の占いがまた、怖いくらいによく中たりましてね。皆さんもいかがですか?」
豊氏の勧めに、ヘムは顔をしかめた。占いの類は、仏典の中で大抵まやかしとして扱われる。シャビィとて、怒るほどではないがあまり乗り気にはなれない。
「私も僧侶ですから占いを信じてはおりませんが、豊さん、余興ということならやぶさかではありませんよ」
門主は、空気の裂け目に敏感だった。このとりなしに強張っていた豊氏の顔はいくらか和らいだが、頭を垂れたままのリシュンの表情は窺い知れない。
「光栄に存じます……が、その前に場所を移しましょう。上階の方が、ここよりも安全ですから」
面を上げたリシュンを見て、二人の弟子は生唾を飲み込んだ。その微笑みが、まるで含みが見えない程に丹念に織り上げられていたからだ。
一方、事情を知らない豊氏は首をかしげた。
「安全? 何を言いだすのかね? 浜の方と違って、この界隈は十分安全だよ」
大通りに面した大きな窓からは、静かな夜風が勢いよく流れ込んでいる。窓辺のプーリーを回して通りを覆う幌をたためば、リシュンが占いをしていた辻とは比べ物にならない、清潔で健康的な風景が見えるだろう。
だが、その中には先の追手が混じっているはずだ。あるいは、いつ襲ってこないとも限らない。ロビーに入ってから、シャビィとヘムはしきりに中庭を窺っていた。
「いや、どうも先ほどから不埒ものに付け回されているようでしてな。こうしてお邪魔したのも、そのことでご協力をお願いしたかったからなのです」
門主の話を聞いて、もともと細かった豊氏の目がさらに引きしまった。
「それは一大事だ。大師様、私どもにできることならなんなりとお申し付けください」
「豊さん、かたじけない。徳の高い友人は何よりの宝です。じき寺から迎えが来るので、それまでかくまって頂けますかな?」
手を合わせて一礼した門主に付き合いながら、豊氏は、
「勿論ですとも。もとよりおもてなしさせて頂く所存にございます。小蘭、お茶の用意を頼むよ」
召使に指示を出し、一行を応接間に案内した。
四階の応接間からは、夜のナルガ島が一望できた。路地から漏れたかすかな光が街中を縦横に走り、陰をとるための窓がそこかしこで光を放っている。昼の間なら、対岸が海峡に移りこんだ姿も望めるだろう。この街では、高い区域に居を構えることこそが何よりの贅沢なのだ。
皆が席に着くと、召使いが手押し車に乗せてジャスミン茶を運んできた。仄かに甘い香りを放つ白磁の湯呑みとにらみ合う傍ら、シャビィはちらりとリシュンの様子を窺った。街角で出会ったとき、リシュンに影がないように見えたのは、果たして気のせいだったのだろうか。
それとなくリシュンの背後の壁に目を走らせて、シャビィは思わず声を上げてしまった。窓からうっすらと差し込んだ陰の中、リシュンの後ろには、確かに同じ形の影があったが、その影は周りより明るいどころか、陰の中にあって一層暗かったのである。