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☶☴(山風蠱)  作者: 筬群万旗
決闘
14/16

決闘

 夜明け前の港で、シャビィは眠たげに目をこするパロームと再会した。パロームがシャビィを荷担ぎの親方に引き合わせると、親方はシャビィの体つきに満足したのか、すんなりとシャビィを受け入れた。この世間知らずは、都会人にはない野暮ったい愛嬌を備えていたため、出稼ぎの男達にもいたく歓迎され、ひっきりなしに出入りする船の荷物を積んでは下ろし、積んでは下ろし、本人も馬鹿正直に、人並み以上の汗を流した。

 荷物を運んでいる間もシャビィはよくよく目を光らせたが、寺院の船はなかなかやってこなかった。リシュンの読みでも昼過ぎ以降という話だから、なんら問題ないのだが、待つ身にとって時は長い。新しい船の積荷が分かる度に、シャビィはこっそり肩を落とした。東の空に黒い半月が昇った頃、白い雨雲がナルガの空を覆い始めた。

 ほどなくして十歩先も見えない大雨となり、担夫たちは空き倉庫の中に避難した。

「こいつは通り雨じゃねぇな。風が出てきやがった」

 もみあげを伸ばした年嵩の男が、倉庫の外を見やった。港では、水夫達が雨に打たれながら、船を波止場に繋ぎ直している。

「これで少しは暇になるかね」

 頭にバンダナを巻いた男がキンマ(噛みタバコのようなもの)を噛みながら、もみあげの男に巻いたキンマを手渡した。

「この波じゃしばらく船は出せないだろう……来る方は知らんが」

 もみあげの男は、箱の上に腰を下ろし、キンマを口に入れた。二人がキンマを噛む音が、雨音に混じって足元を濡らしている。

「これから入ってくる分は、雨が上がったあとにまとめて下ろすんですか?」

 シャビィが尋ねると、肩に刺青をした男が、シャビィの脇腹を小突いた。

「そういうことは言いっこなしだぜ。積み替えずに出て行く船だってあらぁ」

 赤い汁を地面に吐き捨て、バンダナの男が口を挟んだ。

「遅れたら弁償だと言って、雨の中を運ばせる奴もいるがね」

 勘弁してくれよ。刺青の男が音を上げると、ほかの男たちが一斉に笑い出した。付き合って笑ったものの、寺院の船がいつ、何に扮してやってくるかも分からない。シャビィは難しい顔で、再び港を見つめた。

 シャビィの仕事は、至極簡単だ。他の担夫達と一緒に寺院が持ち込んだ荷物を運び、港の中央、一番人の集まるところで、放り投げるだけでよい。だが――

「何緊張してんだ? 雨が降ったって、やることは同じだろう?」

 悪酔いしたバンダナの男が、シャビィの顔を見とがめた。シャビィは小さくはにかみ、手を振って誤解を払った。

「いえ、もっと個人的な問題です。私は、古巣を離れて――切り替えられたと思っていました」

 だが、いざ目の前に仲間が現れたとき、果たしてシャビィには何食わぬ顔ができるだろうか。彼らの方が間違っているのだと、信じ続けることができるだろうか。

「前の仕事の話はよ、気の毒だと思うが……」

 もみあげの男が、地面にキンマのカスを吐き捨てた。

「……俺あ、昔船乗りだったことがあってな。なんつうか、こう、船は風に乗って進むじゃねぇか。だから、放っておくと、どんどん流されて変な方に行っちまう。だから……」

 キンマのせいで、いさかさか話がよじれている。もみあげの男は、言葉に詰まって、顔の前で手を組んだ。

「……だから、なんだ。舵をきるのは、曲がるためとは限らねぇ。真っ直ぐ進むために舵をきることだって、いくらでもあるってもんだ」

 うん、まあ、そういうことよ。シャビィは口を開けたまま、もみあげの男を大きな瞳でじっと見つめた。

「格好つけるのはいいけど、ちゃんとアドバイスになってんの? それ」

 刺青の男がちゃちゃを入れると、バンダナの男も加わり、空き倉庫は再び笑い声で溢れかえった。

「何ぬかしやがる。ちゃんと話になってるよなぁ? 兄さん」

 もみあげの男に呼ばれて、シャビィは惚けたまま相槌を打った。

「ええ、ありがとうございます」

 無理に合わせなくてもいいんだぜ。バンダナの男がシャビィを唆したそのとき、分厚い雨を切り裂いて、一隻の帆船が姿を現した。

「噂をすればなんとやらだ」

 バンダナの男がため息をつき、重そうに腰を上げた。錨をおろした船からは次々に水夫が飛び出し、太い綱を渡して埠頭に船をつないでいる。役人が船に近づき、船上の男と話を始めたようだが、ここからではよく見えない。

しばらくして話し合いが終わり、役人が船に上がり込むと、外套をきた男が船の方からこちらにやって来た。

「荷物をおろして荷車に積み替えてくれ。荷車は仲間が呼びに行った。時期に迎えに来るはずだ」

 男の声を聞いて、シャビィは俯いたまま生唾を飲み込んだ。ヘムだ。リシュンの狙い通り、門主が誘いに乗ったらしい。もみあげの男に呼ばれて、奥から親方が現れた。

「畏まりました。雨が闇しだい、作業に取り掛かりましょう」

 ヘムの外套から水が滴り、音を立てて石の床に散らばった。

「何を悠長な。一刻を争うのだ。今すぐ運ばないか」

 フードに溜まった光の中で、ヘムの目が冷たく陰った。いよいよだ。シャビィは手のひらを服でぬぐい、親方の言葉を待った。

「雨の中の作業は危険です。簡単にお引き受けするわけには――」

「分かった、色をつける」

 ヘムの舌打ちは、離れて座るシャビィにも聞こえた。担夫達の間にも、険しい表情が広がってゆく。親方とヘムの間を、シャビィの眼差しがせわしなく行き来した。

「お前ら。仕事だ。さっさと終わらせるぞ」

 へーい。男たちがざらついた返事を吐き出す中、シャビィは一人そっと胸を撫で下ろした。あとは荷物を受け取り、港の真ん中で放り投げるだけでよい。打ち付ける雨の中、列を作って歩く逞しい男たち。自分の脈をこめかみに数えながら、シャビィは一歩ずつその時へと近づいていった。

「新入り、足、滑らせんなよ」

 役人と入れ違いで、シャビィ達は船に乗り込んだ。刺青の男は足の指で突起をつかみ、雨が流れる傾いた長板を器用に登ってゆく。これならば鷹爪の足とさほど変わらない。シャビィも男の真似をして難なく板を登りきり、ふと倉庫を振り返った。シャビィ達のいた空き倉庫のとなりがわずかに扉を開けている。今日は閉め切りにされていたはずだが、何かあったのだろうか。

「おい、何をしている」

 ささくれだったヘムの声に、シャビィは頬を引き締めた。件の荷物はもう甲板の上に固められ、欲深い白檀の香りを雨の下に這い回らせている。ヘムに目を合わせないよう、シャビィは木箱だけを見て、刺青の男と同じ動きを繰り返した。

 片膝をついて屈み、木箱の角に手をかけて、奥に傾ける。木箱の床に手を差し入れ、一息に持ち上げて肩に乗せ、立てた方の膝に力を入れて立ち上がる。何も難しいことではない。何も難しいことではないが、どこか一つでもしくじってヘム達に疑われるようなことになれば……そもそも箱の中身が目当てのものでなければ、全てが水の泡だ。

 シャビイは目を閉じ、水をまき散らしながらかぶりを振った。頭を隠したヘムがここにいるのだ。やましいものを運んでいるのでなければ、説明がつかないではないか。震える手で木箱を担ぎ上げ、シャビィは船のへりにかかった長板を目指した。後少しで、すべてが上手くいく。

 だが、横目でヘムを伺ったのが、大きな間違いだった。折悪しく、ヘムもシャビィを見ていたのだ。

「ん? お前、どこかで前にも会ったことがないか?」

 ヘムに呼び止められて、シャビィの足は凍りついた。

「いや、そんなことは……」

「ありません」の一言が、喉に使えて出てこない。シャビィは擦り切れた声を必死に絞り出そうとしたが、中途半端に口がわななくばかりだ。見覚えのない担夫が答えに窮しているのを見て、問いかけたヘム自身も首をかしげている。

 顔を描き換え、ボロを身にまとい、ヘムの前に立っている男に、もはや禅僧シャビィの面影はない。どこの港にもいる、担夫そのものだ。あと一言嘘をつきさえすれば、ヘムは見逃してくれるに違いない。額に張り付いた髪から滴る雨だれを噛み締め、男は目をつむった。それでも、この男にはどうしてもつけなかったのだ。ただの担夫なら何の迷いもなくつけるはずの、たった一言の嘘が。

 周りの男たちが見守る中、シャビィは大きく息を吸い込み、やにわに飛沫を上げて駆け出した。長年潮風にさらされているのだろう。しなびた甲板が、たるんだ音を立てた。

「待て!」

 血相を変えたヘムが、叫びながら追いかけてくる。シャビィは素早く長板を駆け下り、振り向きざまに足で蹴飛ばした。

「逃がすな、盗人だ!」

 ヘムは大きく助走をつけて、船から埠頭へ飛び降りた。先をゆく担夫達をすり抜け、シャビィはがむしゃらに走り続けたが、木箱を担いでいたのではどうあがいても勝負にならない。目障りな男たちを蹴散らしながら、ヘムはみるみるシャビィに迫ってきた。

「何しやがる!」

 バンダナの男を躱すと、シャビィの目の前に広場が開けた。シケで船が止まったせいか、人通りはほとんどない。屋台の主人たちが火を止めて、世間話をしているくらいだ。

 ここで木箱をひっくり返したところで、悪事の証は立てられない。多くの商人と買い物客で賑わう、ナルガ一の大通りを目指して、シャビィはありったけの力を振り絞った。血の重みを振り払い、絶え間なく足を踏み出し、腱の悲鳴をねじ伏せて、石畳を送り出し、ただひたすらに前へ、前へ。勢いをつけて検問所を突き破ろうとしたそのとき、聞き覚えのある声がした。

「後は任せろ!」

 煬威だ。シャビィに向かって突き進む荒々しいヘムの走りに、検問所の兵士たちが体でぶつかってゆく。ヘムが地面に倒れ込んだ拍子に、青みがかった禿げ頭がフードの中から現れた。

「放せ、仏敵め。今に仏罰が下るぞ!」

 鼻血を垂れ流しながら、ヘムは煬威達を呪った。

「よく言うぜ、この不良坊主が!」

 煬威がヘムの頭を殴りつけ、すべてが片付いたように見えたが、兵士たちが勝どきを上げたのもつかの間、船に乗っていた力自慢の修行僧たちが、ヘムを助けに駆けつけた。倉庫から飛び出した虎紳達の班も加わり、黄色い僧服が棍に打たれ、緑の隊服が投げ飛ばされ、港の広場は、瞬く間に合戦場と化している。この隙に乗じてシャビィはなんとか人だかりに食いつき、木箱を放り投げようとした。

 だが、大きく振りかぶったそのとき、水溜りに足が入り、シャビィは見事に滑ってしまった。足にかかっていた重みが後ろに逃げ出し、大きな体が宙に浮き上がり、水溜りに倒れ伏したシャビィを捨て置き、木箱だけが人ごみに突っ込んでゆく。重たげな音を立てて木箱は角から階段にぶつかり、激しく回りながら高々と跳ね上がった。四角い蓋が弾け飛び、香木の板切れが中に振りまかれるのを、通りの人々が口を開けて眺めている。中身が減って軽くなった木箱は二、三度跳ね返り、石段に引っかかって漸くその場に落ち着いた。

「おのれ、よくも!」

 混戦から抜け出したヘムが、散らばった護符を這いつくばって集めだした。この場にもはや用はない。シャビィは手をついて起き上がろうとしたが、水溜りの中にとんでもないものを見つけてしまった。


 浅黒く日に焼けた、団子鼻の禅僧である。

「坊さん、とんだ災難だな。この板切れは何だい……お経? がびっしり書いてあるけど」

 痘痕面あばたづらの水夫が、足元に落ちた護符を一枚拾い上げた。二人を手伝うつもりらしいが、シャビィにとってはありがた迷惑だ。

「お守りを運んでいたのですが、少し急ぎすぎたようです。面目ない」

 素顔のシャビィは立ち上がり、男から護符を受け取った。雨が降りしきっているというのに、騒ぎを聞きつけた野次馬たちが、人垣を作り始めている。よろめく体を支えようと、右足を下げたとき、シャビィの後ろで耳慣れた声がした。

「お前! ……シャビィ? 一体どうやって――」

 呪いの解けたシャビィに気づいて、ヘムがふらふらと立ち上がった。頭から引いた血の気が、シャビィの背筋を這っている。ヘムを振り返り、その顔を見て、シャビィは飛びすさった。

「貴様、お情けで生かされておきながら……後足で砂をかけるか……」

 いかめしい肩を震わせながら、ヘムはシャビィにゆっくりと近づいた。シャビィも構えて後ずさるが、ヘムに勝てたことなど一度もない。手近な棚を二人の間に引き倒し、シャビィは路地裏に逃げ込んだ。

「逃げるな、裏切り者め!」

 ヘムの怒号が、狭い路地を真っ直ぐに突き抜けた。荷物からは解き放たれても、半日分の疲れを引きずっていては、兄弟子を振り切ることは難しい。

 右へ、左へ、ナルガの奥に向かって曲がりくねった階段を駆けまわるうちに、シャビィはとうとう袋小路にあたってしまった。

 四面を家に囲まれた小さな広場の中心には、蓋の付いた大きな井戸がある。ゆっくりと近づいてくる足音に向かって、シャビィは小さく鶏歩に構えた。

「たまには老師も間違うらしい。やはりお前はあのとき殺しておくべきだったよ」

 広場の角から、ヘムが現れた。構えてこそいないものの、歩幅は小さく、肩は落として、いつでも動き出せる手本のような姿勢だ。

「先輩、なぜまだ罪を重ねようとするんです。寺院はそんなにお金に困ってるわけじゃないでしょう?」

 訴えながら、シャビィはまたじりじりと後ずさった。分厚い雨の帳の奥にヘムの姿は遮られ、僅かに見える輪郭だけが、次第に大きくなってゆく。

「ふん、この期に及んで俺が因果に落ぬよう気にかけてくれるとはな……だが、その心配は無用だ」

 ヘムの湿った足音が止み、尖った笑い声がこだました。白い影が、小刻みに肩を震わせている。

「はかない蓮華を毒虫からお救いしようというのだ。これを功徳でなくて何と言う!」

 シャビィは目を細め、ヘムの出方を窺った。

「それこそ無益な殺生です。老師の庵に飾られたのでは、蓮華も長くは持ちますまい」

 シャビィの踵が、冷たい石壁にぶつかった。ヘムがこの隙を見逃すはずがない。ヘムが振りかぶった拳をシャビィは右に動いて躱し、右手ですくい上げようとしたが、拳は飛んでこなかった。それどころか、伸ばした肘がヘムの左手につかまり、いつの間にか極められている。

「蘇るとも。その蜜で飼っていた、蜂の王子が捕まれば」

 ヘムは口元を歪めると、右手でシャビィの腕を引っ張り、左手で肘を押し出した。シャビィの強い足腰も、肘に走ったきしみばかりは止められない。ヘムに注文されるまま、シャビィは自ら石壁に飛び込み、重たく、鈍く、暗い音が、雨の広場に響き渡った。

 このむごい音もシャビィの耳にはまるで届かず、シャビィの体を貫いたのは、総身が叩きつけられる、はかりしれない力だけ。倒れる間際に踏みとどまりはしたものの、右腕は痛みに食い尽くされ、口の中には鉄錆の味が広がり、眉間を流れる血に染まって、目の前が真っ赤に見える。

「どうだ? シャビィ。戻りたい気分になったか? 老師は寛大なお方だ。お前が一度道を踏み外したとしても、心から悔い改めれば迎え入れて下さるだろう」

 ヘムがシャビィの耳元で、そっと優しく囁いた。

「思い上がったお前の台詞も、今のうちなら忘れてやろう。今までどおり、素直に先輩の言う事を聞いて、修行に励めばいいじゃないか」

 依然ねじ伏せられたまま、シャビイは肩で息をしている。ヘムは再び、シャビィの右肘を絞った。

「このまま仏道に背けば、お前は永劫三悪道に閉じ込められることだろう。道はカタリム山にある! カタリム山に帰り、仏門に帰れ、シャビィ!」

 シャビィにとって、道とは寺院そのものだった。山裾の畑で流す汗、難解な公案をめぐる議論、心身を鍛えるための厳しい訓練、僧堂に満ちた水々しい墨の香り、心すらも忘れ去った座布の上のひと時、そして何より、志を同じくする仲間達……鐘の音と共に始まり、日の出とともに終わる一日の積み重ねは、確かに悟りへとつながっているように見えた。しかし――

「先輩、修行を続けた先に、道は開けますか?」

 再び始まった禅問答に、ヘムの手が一瞬緩んだ。

「それ以外の、どこにある?」

 シャビィの手首を捕らえたヘムの右手に寄りかかり、シャビィはヘムの体を崩した。倒れまいとシャビィを引っ張るヘムの体の前側に、力の隙間が生じているのが横目にはっきり見て取れる。シャビィは体を落とし込み、腰をひねって左足を狭い活路に差し込んだ。

「そこだ!」

 シャビィは右手の下をくぐって、力の隙間に滑り込んだ。翻った体の流れはそのまま左の拳に伝わり、ヘムが体を起こす動きにぴったりと合わさっている。シャビィはそのまま勢いだけを左手から送り出し、よろめいたヘムの体を真っ直ぐに突き飛ばした。――シャビィがまっすぐ進むためには、そこから外れる覚悟がいるのだ。

 ヘムは背中を井戸筒に打ち付け、痛々しいうめき声を上げた。円い井戸筒の上では、受身などとりようがない。間髪いれずにシャビィは駆け寄り、左の踵を叩き込もうとしたが、ヘムは見事にこれを捌いてシャビィの足を掬い上げた。

「調子に乗るなよ」

 左足を上に逃がし、立て直すのに精一杯で、蹴り込まれたヘムの足をシャビィは上手く掴めない。両手でなんとか受け止めたものの、シャビィは大きく突き放され、その隙にヘムも間合いの外に逃げ出してしまった。

 シャビィは大きく息をつき、左手で血の入った目をこすった。

「丁度いい。お前みたいなお利口さんが、俺は一番嫌いでな。前々から叩きのめしてやりたいと思っていたのさ!」

 石畳に唾を吐き捨て、ヘムはシャビィににじり寄った。暗い雨はいよいよ激しく、二人の顔を打ち付ける。シャビィも自ら歩みだし、あと一歩で打ち込めるところまで近づいたその時、額から流れてきた一筋の雨水が、ヘムの左目を塞がせた。この好機を逃す手はない。

 シャビィは左手でヘムの左手を叩き落とし、右肩から素早くヘムに密着した。ヘムの背後に刺さった踏み込みは、音を立てないほど優しく、深い。右手の手刀は雨だれを断ち切りながら、確かにヘムの腰を捉えたように見えた。

 だが、ヘムは腐ってもシャビィの兄弟子だ。シャビィの技は、あらかた知っている。ヘムは左足でシャビィの右足を刈り取り、シャビィはその場に膝をついてしまった。力の抜けた手刀も、再びヘムに捕まっている。シャビィは咄嗟に右足を投げ出し、尻餅をつきながら左に回ってヘムの左手を引きずり下ろした。シャビイの上に倒れたヘムは、放し損ねたシャビィの右手に引き込まれ、肩から地面に落ちてゆく。受身をとったヘムの左手からは高々と飛沫が上がり、色あせた広間を彩った。

「まだだ!」

 シャビィはいち早く起き上がり、立ち上がろうとしているヘムに、右の拳を叩き込んだ。ヘムは咄嗟に手で体を庇いはしたものの、勢いは殺しきれず、足が床から浮いている。シャビィはすかさず踏み込んで、立て続けに双把を放った。濡れた足場とは思えない、力の乗り切った一撃だ。

 ヘムは抗うこともできずに軽々と吹き飛ばされたが、あまりに壁が近すぎた。ヘムの体は倒れる前に背中から壁にぶつかり、受身を取ったヘムの前に、シャビィは全くの無防備だ。突き出された左足はシャビィの胸板に音を立ててめり込み、重い筋肉の塊を軽々と押し戻した。吸い込む息が痛みを押し広げ、全身を駆け巡って再び胸へと帰ってくる。息を浅く抑えながら喘ぐシャビィに近づくと、ヘムは大きく体を沈めた。足払いから、死角に潜り込む技だ。

 研ぎ澄まされた水音を、シャビィは高く飛んで躱し、大きくのけぞり手を伸ばして、井戸の蓋の取っ手を掴んだ。弧を描いたシャビィの体は井戸の上で逆さに止まり、再び弧を描いて腹側へ跳ね返った。軽やかな音と共に着地したシャビィの手には、井戸の蓋が握られている。井戸を挟んで構えたまま、二人はしばらく睨み合ったが、それも長くは続かなかった。

「ヘムーっ、ヘムーっ、どこに行ったのーっ? こんな時に、何してるのよーっ!」

 ヘムを呼ぶクーの声は、ここからそう離れていない。ヘムはにやりと笑って勝ち誇り、大きな声で呼び返した。

「クー、ここだ! シャビィもいるぞ!」

 風が強くなったのか、四角く切り取られた小さな空を、真っ白な雨雲が勢いよく流されている。入り組んだ路地の上げる擦り切れた悲鳴に負けじと、クーも声を張り上げた。

「シャビィが? 大変じゃない!」

 胸と頭を打ち鳴らす脈に耐え、シャビィは目頭に皺を寄せた。傷ついたシャビィの体には、クーどころかヘムの相手をする力も残っていない。風と雨の音に混じって、広場につながるたった一つの階段を、湿った足音が上ってくる。

 だが、広場に流れ込む音の洪水の底には、聞き覚えのある低い唸りが潜んでいた。頭上でもなければ路地でもない、目の前に口を開けた石組みの井戸筒から、雨水が水路を削るすさんだ音が湧いているのだ。水路の音にシャビィの目が開き、ヘムの姿を再び捉えた。

「一切万物皆無情なり。恨むらくは我が身を以て、獅子に食われざりしことを!」

 シャビィが未曾有経を引いたそのとき、四角い広場が闇に包まれた。井戸の内側に、梯子の影が伸びている。顔を背けたヘムに向かって、シャビィは井戸の蓋を投げつけ、井戸に向かって走り出した。ヘムは蓋をなんとか弾いて、大声で叫んでいるが、空の怒号に叩き潰され誰の耳にも届かない。井戸のへりに手をついて、石畳を強く蹴り、シャビィは白い光の中へひと思いに飛び込んだ。

「逃がすか!」

 シャビィを追って、ヘムも井戸に飛び込んだ。梯子につかまるシャビィの脇を、勢いよく通り過ぎ、激流の餌食となって、ヘムが押し流されてゆく。シャビィは小さく身を縮め、ヘムの悲鳴が遠ざかるのを震えながら聞いていた。

「ヘム? シャビィはどこなの?」

 クーがたどり着いた時には、広場に二人の姿はなかった。雨の打ちつける石畳の上には、井戸の蓋だけが残されている。少しの間蓋を見つめ、それからクーは大きく目を見開いた。

「嘘……待って、そんな……」

 クーは井戸に駆け寄って中を覗いてみたものの、眩しいばかりで中の様子は分からない。水路の唸り声だけが、むごい顛末を物語っている。

 クーは目を瞑って、小さく項を垂れた。

「なんてこと……いけない!」

 クーはかぶりを振り、走って広場を跡にした。

 しばらくしてクーの足音が聞こえなくなってから、シャビィは井戸の外に這い出し、ボロボロに傷ついた体を冷たい石畳に横たえた。

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