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☶☴(山風蠱)  作者: 筬群万旗
決闘
13/16

変装

 リシュンが振り返ると、戸口には浮かない顔をした面長の男が立っていた。

「リシュンさん」

 リシュンの施した変装は上手く行き過ぎたらしい。もともと備わっていた逞しい体のおかげか、顔の変わったシャビィはまるで水軍の頭目か何かに見える。

「大丈夫。その顔を戻すのは簡単ですから」

 シャビィはかぶりを振って、苦笑いを浮かべるリシュンに問いかけた。

「それも心配ではありますが……いいんですか? あの二人を信用して」

 豊泉絹布でも、今朝の井戸端会議でも、奏国だの薫氏だのに良い話など一つも出なかった。それどころか、虎紳士たちはリシュンを捕らえようとまでしていたのだ。それを忘れてころりと信じてしまうほど、リシュンはお人好しではあるまい。

「まだそこを気にしていたのですね……その点に関してはご心配なく。

 あのふたりはおそらく、街で暴れている兵士とは別です」

 目を白黒させるシャビィに、リシュンは聞き返した。

「属国の出先に優れた兵が配されることはほとんどありません。彼らの素行を見れば、それは明らかです。そんな兵士たちに、奏の大事に関わる寺院の調査が務まるとお思いですか?」

 顎に手を当てながら、シャビィは憶測を手繰り寄せた。

「さっきの二人は……寺院のためだけに……都から、送られてきたということですか?」

 というからには、二人共一介の兵士ではないのだろう。現に、虎紳はナルガに配された兵を指図できるような口ぶりだった。

「なればこそ、恩を売っておくだけの価値もあるのです」

 リシュンは小さく頷き、階段の先を見やった。

「シャビィさんへの土産が別にあったのを、すっかり忘れていました。

 取りに行ってくるので、かまどの火を熾してください」

 湿った足音を立てながら、リシュンは階段を上ってゆく。相当の雨水が階段を下り、踊り場に流れ込んだのだろう、石壁には、くるぶしほどの高さで真っ直ぐに水の跡が引かれていた。所々に小さな水たまりが残っているものの、殆どの水は洗い場から流れ出たようだ。シャビィが洗い場の排水口に顔を近づけてみると、中から低く、重々しい唸り声が這い上がってきた。

 雨のあとを一通り確かめると、シャビィは土間に戻り、弱っていた火をかき混ぜ、薪を継ぎ足した。昨夜の分も合わせてかなりの灰がたまっているが、掃除をする暇はなさそうだ。新しく加えた巻が香ばしい音を立て始めた頃、蝶番がシャビィを呼ぶ、景気のいい音が聞こえた。

「シャビィさん、たらいに水を汲んで、表に持ってきてください」

 開け放たれた扉から、薄い陰が伸びている。水瓶の隣に立てかけられた小さめのたらいを床に置くと、シャビィは膝をつき、軽々と瓶を持ち上げて直接水を注いだ。

「今、そっちに行きます」

 シャビィが瓶を起き直し、たらいを抱えて表に出てみると、踊り場には紐でくくった麻布を片手に、リシュンが待ちくたびれていた。

 リシュンの持ち帰った布は手土産と呼ぶにはいささか薄汚れ、おまけにしぼれるほど水を吸っていたが、見たところ他に荷物はないようだ。

「ありがとう。逃げる途中で放り出したせいで泥まみれになってしまいましたが、シャビィさん、変装にはこれを使ってください」

 リシュンはたらいのそばにかがみ込み、麻布にかかった紐をといた。高くはないが、なかなかに手こずった買い物である。決して見栄えのしない薄汚れた長衣を、しかし、リシュンは大きく広げてみせた。

「凄い、これなら誰にも気付かれませんよ。この服といい、顔のことといい、リシュンさんにここまでして頂いたからには、必ずお役に立ってみせます」

 シャビィは長衣を受け取り、たらいの中に浸した。生地から離れた細かいゴミが、水面に浮き上がってくる。


「どういたしまして。でも、実のところ、シャビィさんにはもう大層助けてい頂いているのですよ」

 袖で隠した口元から、軽やかな笑い声がこぼれた。シャビィには、まだ自分の立場が分かっていないらしい。

「助けるだなんて、そんな……宿と食事までお世話になっているのに、水汲みくらいですよ、私がやったのは」

 朝布をこすり合わせる手を止めて、シャビィは顔を上げた。リシュンは鎮まるどころか、一層大きな声で笑っている。

「シャビィさん、水汲みは、それは見当違いです。私が言っているのは、シャビィさんが手元から消えて、ジェンドラ大師達はさぞかしお困りだろうということですよ」

 目に浮かんだ涙を拭きながら、リシュンはシャビィにからくりを教えた。

「シャビィさんを捉えない限り、彼らはシャビイさんの口から内職の噂が漏れるのを心配しなくてはなりません。それも、虎紳さんや煬威さんのような……」

 そうか! やっとのことで事情を飲み込み、シャビィは眩しい声で叫んだ。

「捕まらないように、リシュンさんの提案を受け入れなければならなかったんだ」

 リシュンが得意げに頷くと、シャビィは再び服を洗い出した。雨ざらしにしてしまったとはいえ、もともとあまり綺麗なシロモノではなかったのだろう。たらいの中は、既に泥水と変わらない。古着屋も、人の良さそうな顔で碌でもないものを売りつけてくれる。

「師匠の口癖でしたね。人は難を逃れようとした時に、最も手痛い過ちを――」

 自分で頷きながら講釈をたれかけて、リシュンは俄かに口をつぐんだ。シャビィは再び手を止め、きょとんとしてリシュンを見つめている。リシュンはシャビィの手から長衣をひったくり、大雑把に二、三度すすいだ。

「だいぶ綺麗になりましたね。シャビィさん、この服を乾かすにも時間がかかります。いかがです? ついでに沐浴なさっては」

 蔵に押し込まれたのが一昨日の夜ということは、シャビィは少なくとも二日体を洗っていない。洗濯の途中で取り上げられた長衣に渋い眼差しを送りながらも、シャビィはリシュンの好意に甘んじることにした。

「ええ、この際、古い垢はみな落としてしまいましょう」

 リシュンは部屋から染みのついた手ぬぐいをとってくると、シャビィに手渡した。

「中庭に降りて、柱廊をくぐったところに洗い場があります。そこで体を洗ってください」

 水汲み場で体を洗っては、汚れた水が再び井戸に溜まってしまう。砂で濾してあるとはいえ、あまり気持ちの良い話ではない。

「分かりました。リシュンさん、ありがとうございます」

 手ぬぐいを肩にかけ、たらいの水を捨ててしまうと、シャビィはゆっくりと立ち上がり、長い階段を上りだした。

 階段を上りきると、シャビィの目の前に真夏の海が広がった。夕べとはまた違った暖かな桃色が、どこまでも続いている。シャビィは胸いっぱいに潮風を吸い込み、再び歩き出した。

 重たい陰から解き放たれた昼下がりの中庭は、椰子の葉を風が撫でる、目の細かい音色に染まっている。柱廊から左側をのぞくと、幾何学模様の入った石畳の奥に、勝手口につながる階段と大きめの洗い場が見えた。螺旋階段を下り、たらいに目一杯水を組んで、シャビィは中老を支えるアーチをくぐった。四角く切り取られた黄色い空に、鉄色の月が浮かんでいる。シャビィは洗い場の前にたらいを起き、崇福を脱いで階段の手すりにかけた。

 一度にいろいろなことが起こりすぎて気にする暇もなかったが、シャビィの肌はなんとなく脂ぎっている。試しに肩をこすってみると、細長い垢の塊が次々に這い出してきたからたまらない。シャビィは慌てて頭から水をかぶり、絞った手ぬぐいで体中の垢をこそいだ。シャビィが手ぬぐいを動かすたび、肩から、足から、背中から、黒ずんだ垢が音を立てて溢れ出し、洗い場に降り積もった。遠い潮騒とヤシの葉音は、擦りむけた肌にも気にならない程柔らかい。

 一通りの垢をこすり出すと、アーチの奥に広がる果てしない空に向かって、シャビィは小さく呟いた。

「大きい……」

 この潮風も突き詰めれば、そよぐ椰子の葉や澄んだ風の音、肌に触れるわずかな重みといったものの寄せ集めに過ぎない。けれどもその潮風は今、シャビィを強く巻き込み、後戻りのきかない所まで押し流そうとしている。シャビィは両足でしっかりと踏ん張り、桃色と黄色の境目を見据えた。

 これからやるべきことは、まだたくさんある。いつまでも裸でいるわけにもいかず、シャビィは垢の塊を洗い流し、残った水で手ぬぐいを洗った。今一度よく見てみると、手ぬぐいの染みは血の跡のようだ。色が変わりきっていないということは、ゆうべシャビィの傷を拭いたものかもしれない。

 手ぬぐいを強く絞り、もう一度肩にかけると、シャビィはたらいに残った水を流した。垢の漂う水たまりは、痛々しい音を立てながら排水口を中心に縮んでゆく。水が流れるのを見届け、シャビィは体を拭き、僧服を纏った。後は、この僧服を着替えるだけだ。

「お待たせしました」

 シャビィが部屋に戻ると、衝立にはくすんだ長衣と紺色の帯がかかっていた。

「もう乾かして下さったんですね。ありがとうございました」

 衝立の奥から、リシュンが気のない返事をよこした。

「それはどういたしまして。その服に着替えたら、早速出かけましょう」

 シャビィは黄色い僧服を脱いで、長衣に袖を通した。乾いたばかりで生地は硬いが、大きさはちょうど良い。これでもう、禅僧たちに怪しまれることもない。リシュンの用意した帯を固く締めて、シャビィは僧服を衝立にかけた。

「リシュンさん、この服はどこにしまいましょう?」

 リシュンは衝立の向こうから手を伸ばし、垢じみた僧服を下ろした。

「念のため、ベッドの下に放り込んでおきます」

 さすがにこれが見つかっては具合が悪い。僧服をたたんで隠してしまうと、リシュンは鞄を肩にかけ、シャビィの変装を確かめに来た。

「なかなかよくまとまっていますね。丈があっているか心配でしたが、これなら大丈夫そうです」

 腰に手を当てて鼻を鳴らすリシュンに、シャビィは微笑み返した。

「ええ。それにしても、大変じゃありませんでしたか? この大きさの――」

 シャビィの問いを、大きな腹の虫が遮った。頭をさすろうとして髪に手が触れ、伸ばした手を引っ込めてしまうあたり、シャビィの変装はまだまだ心もとない。リシュンは小さくため息をついて、一つ目の行き先を決めた。

「とりあえず、料理屋から回ってみましょうか」

 屋敷跡を出て長い階段を下ると、夕べの空き地が見えてきた。あの時は陰の下に埋もれて見えなかったが、急な斜面の上には、大小の墓石がひしめいていたのだ。ああ、そうか。墓地を見下ろして、シャビィは足を止めた。

「墓場だったんですね、ここは」

 リシュンは振り返らず、墓場の階段を下り始めた。

「似たようなところはいくつもあります。昔、流行病で墓場が間に合わなくなり、人のいなくなった辻から取り壊して墓場にしたのだとか」

 一段飛ばしでリシュンを追いかけながら、シャビィは訪ねた。

「流行病で人が寄り付かなくなったんですか?」

 墓石のほとんどは苔に覆われ、鳥の糞を浴びてまだらになっている。

「それもありますが……墓場だらけでは自然と周りも暗くなるというものです」

 リシュンは左手を指した。二人が出てきた井戸のある方向だ。

「井戸のある広場があったでしょう? あの並びの向こう側には、墓場がずっと続いていますよ」

 華やかな港町が人々で賑わう裏側で、忘れられた死が物言わず佇んでいる。シャビィは潮騒にまどろむ家並みを眺め、それから再び歩き出した。

 リシュンは大通りに出ることなく、裏路地をつないで商業地区を目指した。まっすぐな道は一つもなく、上り坂であったり、下り坂であったり、一本上の道に出るための階段などを辿っているのだが、リシュン曰く、これが一番の近道らしい。時折家々の間から顔をのぞかせる海を慰めに、シャビィは粛々と歩き続けた。

「私が出かけている間、シャビィさんは何をしていたのですか?」

 石畳が途切れ、赤い欄干の太鼓橋が現れた。足下で、子供のはしゃぐ声がする。

茣蓙(ござ)を干して床を履いたのと、套路(とうろ)の練習と、そのあとは、座禅を組んでいました」

 この答えには、流石のリシュンも開いた口が塞がらない。この期に及んで、シャビィはまだ修行を続けるつもりのようだ。

「なんと、まあ……あなたも往生際の悪い人ですね」

 ため息混じりに嘆くリシュンに、シャビィは笑って答えた。

「ただの習慣ですよ。ああしないと、一日が始まった気になれないんです」

 太鼓橋から見える海には、大小の帆船が集まっている。リシュンが言ったように寺院の船が紛れ込んでしまえば、見つけ出すのは難しいだろう。

 橋を渡った先にも木造の建物は続いており、山側の石垣と海側の民家の間に細い板張りの通路が伸びている。小さな窓から漏れ出したエビの塩辛の匂いをくぐり抜け、二人は広い通りに出た。

「あの並びのむこうが、大通りです」

 三階建て、四階建ての連なる町並みの隙間からは、雑踏のうねりが聞こえてくる。

「これから行くお店はこの先ですか?」

 シャビィは向かいの裏道を指した。

「いえ、この階段を下ったところです。あまり綺麗な店ではありませんが、まっとうな味のする料理が出ます。それに――」

 リシュンは顎に手を当て、一瞬考えてから、自分で小さく頷いた。

「シャビィさんに合わせたい人の行きつけの店でもあります」

 昼時には少し遅いが、この暑さだ。まだ店で油を売っているかもしれない。港につながる暑い階段を、二人は足早に下り始めた。


「老師のお供で回った時にも驚かされましたが、本当にいろいろな店が並んでいますね」

 茶屋や料亭ののれんはもちろん、表で饅頭をふかしたり、そばを炒めている店も少なくない。狭い通りを行きかう人々の間に、鉄板がケチャップマニスをこがす甘辛い匂いが漂っている。

「奏の宮廷料理から、スパッタニの郷土料理まで、何でもありますよ。探せば精進料理の店もあるでしょうが、私たちには高嶺の花です」

 鳥の串焼き片手に走る少年を、リシュンは器用に避けてみせた。よそ行きにタレを頂いては洒落にならない。何事もなかったようにリシュンは再び歩きだし、やがてある店の前で立ち止まった。

「着きました。この定食屋です」

 定食屋の中は、様々な調味料の匂いを吸った分厚い光で満たされていた。いくつかの燈台がいたいけな陰を放つ他には、照明らしいものが見当たらない。リシュンは目を細め、カウンターに知人の姿を認めた。

「パロームさん、お久しぶりです」

 リシュンが声をかけるやいなや、男は鋭く振り向いた。

「リシュン先生! ご無沙汰です。この間は、どうもありがとうございました」

 パロームは傷跡の残る頬をゆるめ、二人を手招きした。パロームは日陰者の中では珍しく分別のある男で、リシュンも一目を置いている。

「いかがですか、その後は? うまく片付きましたか?」

 リシュンはパロームのとなりに腰掛けた。シャビィもリシュンに倣ってみたが、この店の椅子はシャビィには小さすぎる。シャビィの重さに耐え兼ねて椅子の上げるうめき声に、チャム人の店員がかけつけた。

「いらっしゃいませ。ただいまお茶をお持ちします」

 パロームが店員に手を振ってからかうと、店員はふくれっ面で小さく舌を見せた。

「そら、もう。先生の言うとおり、あの女と手を切って正解でしたわ。今思えば、あれは本物の疫病神だ。俺と別れた途端、大店のボンボンのところに転がり込んで、今じゃ店が傾くくらい貢がせまくってるって話ですよ」

 リシュンは両手で口を覆って、大げさに驚いてみせた。他ならぬそのボンボンの母親からもリシュンは結構な大金をせしめているのだが、パロームには知る由もない。

「それはひどい、ぞっとさせられますね」

 パロームはなぜか、締りのない顔で相槌を打った。

「危うく俺もひどい目にあうところでした。こうして呑気に飯食ってられるのも、先生のおかげですよ」

 リシュンは横目で、戻ってきた店員の様子を確かめた。カウンタ-で小ぶりの茶杯に煎茶を注ぎながら、リシュンをちらちらと窺っている。

「あの時と比べて随分と顔色が良くなりましたね。男ぶりも上がったのではありませんか?」

 店員の手元が狂い、茶をこぼしてしまったのを見て、リシュンは含みのある笑顔で付け足した。

「……ですが、それだけでは身なりが小ぎれいになったことの説明にはなりませんね」

 強面に照れ笑いを浮かべながら、パロームは髪をかき回した。

「いや、バレちまいましたか。実はあの後、とある女のこと知り合いまして。いい娘なんだな、これが。郷のお袋と弟たちのために、ナルガに出稼ぎに来たってんで――」

 話についていき損なって、シャビィは慣れてきた目で店の奥を眺めていた。慌ただしくネギを刻む店主、湯気立ち上る大きな鍋、棚に並んだ大小の壷……その中にあるものを見つけて、シャビィが凍りついたそのとき、店員が大きな音を立て、カウンターに茶杯を叩きつけた。

「お待たせしました。ご注文を伺いましょう」

 店員の引きつった笑顔に、リシュンは同じく笑顔で応えた。

「私はエビの焼きそば(ミーゴレン)を……これがその娘さんですか? 」 

 リシュンが目配せすると、パロームは頷いた。

「ええ。……カマニ、ちゃんと挨拶しろよ。この御方はリシュンさんつってな、うちの頭も頼りにしてる、そらぁすげえ占い師の先生さ」

 眉間にしわを寄せ、じっとリシュンを検めてから、カマニは渋々挨拶した。

「カマニと申します。パロームが何やらお世話になっているようで、恐れ入ります」

 リシュンは左右に手を振って、謙遜してみせた。

「いえいえ、二、三度筮を立てさせていただいただけですよ。いつも歓楽街で辻占をしているので、悩みが出来た時はいつでも来てくださいね」

 それはどうも。調子を崩されたカマニは、仕方なく仕事を再開した。

「お連れの方は、いかがなさいますか?」

 シャビィはだらしなく口を開けたまま、厨房の奥の方を虚ろな目で眺めている。目の焦点がどこにも合っていないが、その眼差しをたどった先には、上から吊るされた鶏の骸があった。

「鶏をサテにいたしましょうか」

 恐る恐るカマニが尋ねると、シャビィは我に返り、小さくのけぞった。

「とんでもない! ……い、いえ、その、豆腐にしてくださいませんか?」

 縮み上がった目で見つめられてうろたえるカマニに、リシュンが助け舟を出した。

「豆腐のサテに、白ご飯をつけてください」

 少々お待ちください。カマニが注文を伝えに行くのを見送ると、パロームはシャビィをしげしげと眺めた。

「あんた、変わってるなぁ……肉より豆腐か。先生、そちらの兄さんは?」

 シャビィの代わりに、リシュンはさらさらと嘘を並べた。

「カマニさんとだいたい同じですよ。シェブさんといって、スパッタニから丁稚奉公にきた人なのですが、ご存知のとおり不景気ですからね。奉公先の鍛冶屋が潰れて、路頭に迷っていたところなのです」

 このいかにもありがちな話を、パロームは鵜呑みにした。

「そうか、そういうことなら、いくらでも俺に任せてください」

 先生には、色々お世話んなってるからな。パロームは立ち上がり、シャビィの肩を軽く叩いた。

「これだけガタイがよけりゃ、何でも出来らぁ。なんなら、ウチの頭に直接引き合わせてやってもいいぜ」

 シャビィも立ち上がり、パロームに頭を下げた。リシュンの作ってくれたこの機を、小さな拘りで捨てるわけにはいかない。

「かたじけない。出来れば明日からでも、港の仕事を回してくださいますよう」

 シャビィがリシュンに目配せすると、リシュンは黙って頷いた。


「よしよし、話はつけといてやるから、心配すんな」

 パロームの笑い方には、狡さはあっても嘘がない。

「ええ、よろしくお願いします」

 ふらつく足元を力で押さえつけ、シャビィはなけなしの笑顔でパロームの手を取った。

「私からも、お礼を言わせてください。パロームさん」

 リシュンが深々と頭を下げ、話はあっけなくまとまってしまった。パロームは、何も知らないまま。

「お待たせしました。焼きそばと、サテの定食です」

 カマニが運んできた皿からは、薄暗い湯気が静かに立ち上っていた。リシュンの焼きそばは勿論、シャビィのサテも、ケチャップマニスで茶色く染まっている。

「俺はもう済ませてますんで、どうぞ、気兼ねなく」

 パロームに勧められるまま、二人は遅めの昼食にありついた。真っ先に広がるのはソースの酸味と甘みだが、どの具材も程よい歯ごたえに加えて、ソースに負けない味を湛えている。店主の火加減には、一分の隙も見当たらない。シャビィが空きっ腹に料理を詰め込む傍らで、リシュンはパロームの世間話を聞かされた。何でも、頭目の一人娘の婿取りで、少々揉めているらしい。

「そこんとこ、また今度先生のお知恵を拝借できないもんかと」

 持ちつ持たれつというわけだ。リシュンは箸を置いて、パロームに微笑みかけた。

「願ってもないお話です。多少の狂言くらいなら、喜んでお付き合いしますよ」

 娘か頭を、上手く説き伏せろといったところだろう。この手の仕事を善行よろしく爽やかに引き受けてしまうあたりが、リシュンの流石である。

「助かります」

 力みの抜けた胸をなでおろし、パロームは額を拭った。店には竈の熱がこもっているが、暑さだけではこれだけの汗は出るまい。リシュンは再び焼きそばを食べ進め、シャビィがおかわりを平らげるのを待ってから、パローム達に別れを告げた。

 店を出てから、リシュンは知り合いの商館を片端からあたっていった。この服で上がり込むわけにもいかず、シャビィはまたもや表で見張りだ。門主がまだシャビィを探しているのか、黄色い僧服が何度も目の前を横切り、そのたびに冷たい汗がシャビイの背中を伝った。虎紳の言ったことが正しければ、いつ彼らがリシュンを狙い出さないとも限らない。

 そうして東の空が青みかかってくるまで、リシュンは休まず粘り続けた。寺院まで噂が伝わらなければ、何の意味もないのだ。自由に動ける間に少しでも広めておかなければならない。

「このあたりで切り上げましょう。夜にうろつくのは危険です。それに、明日の朝は早いそうですから」

 リシュンは十件目から出てくると、肩掛け鞄をシャビィに預けた。さして小さな鞄ではないが、シャビィが持つとまるで玩具だ。

「上手くいきましたか? 他の人よりも長居していたような」

 来たのとは逆の道を歩き出したリシュンを、シャビィは小走りで追いかけた。次第に道が細くなり、廃屋が目立つようになる。

「自慢話が長いので困りました。イゲロイから取り寄せたと言って雪豹を見せてくれましたが、あれで20匹目ですよ。本当にとんでもない猫屋敷です」

 リシュンは肩をすくめてみせたが、シャビィが笑う気配はなかった。

「そんなに遠くから……この暑さでは、さぞ堪えるでしょうね」

 会ってもいない獣のことを、よくもまあ気の毒がれたものだ。リシュンは聞こえないように程々のため息をつき、それからシャビィに釘を刺した。

「化け猫の心配をしている暇はありませんよ。明日が大一番になるかもしれないのです」

 さあ、帰りましょう。リシュンは曲がった階段を上り下りしながら、迷うことなく飲み屋と、芝居小屋と、連れ込み宿の間を通り抜けた。夕暮れの匂いを嗅ぎつけ、漸く起きだした人々が、店の前に水を撒いている。リシュンの後ろに隠れながら、シャビィはなんとか悪徳の渦をかいくぐり、青い夕闇の差し込む広場にたどり着いた。

「広い……こんなに……」

 波間に太陽の陰を抱いた穏やかな海に向かって、なだらかな碧い坂が、冷たく横たわっている。墓場の上にはけたたましい海鳥の声が積み重なり、シャビィ達の下には、波の音さえ届かない。

「今朝お話した墓場です。眺めは悪くないのですが……この季節は渡り鳥がうるさくてかないません」

 リシュンは声を張り上げ、鳥の声を押しのけた。夕闇に塗りつぶされた藍色の坂を飛び交う、真っ白な塗り残しは、風をなぞる鳥の影。静かに佇む墓石の影を、立て続けに横切って、雛の元へと餌を運ぶ。

「昔はここにも賑やかな街が広がっていたのでしょうか」

 また一羽、海鳥の影が、シャビィの上を滑っていった。目の前の墓場に街の面影はなく、その墓場も草むらに呑まれて、今はただ墓石が残るばかりだ。シャビィの問が聞こえないのか、潮風に乱れた髪を直しながら、リシュンは草むらに分けいった。

「シャンカさんから聞いた話ですが――」

 リシュンは立ち止まり、シャビィを振り返った。物憂げな表情を、低い太陽が青く照らしている。

「ナルガでは、死んだ人の魂が、夏になると渡り鳥になって戻ってくるそうです。そうして、たまに生きた人間を連れて行ってしまうのだとか」

 リシュンは再び、碧い海を眺めた。

「じゃあ……」

 シャビィは草をかき分け、リシュンに向かって歩きだした。

「彼らはここに集まって、失われた故郷を偲んでいるんでしょうか」

 神妙な顔で黄昏るシャビィを見て、リシュンは肩をすくめた。

「まさか。鳥たちは子作りに来ているだけですよ。それに……人が住み着く前も、ここは鳥の島だったのです。人が島を取り上げる前に、戻っただけのことではありませんか」

 いつかナルガが滅びても、この島は同じ夕日に染まり、鳥たちで溢れかえるだろう。

 リシュンはあたりを見渡し、草むらを足でかき分けた。

「ああ、ありましたよ。潰された街の跡です」

 草むらの中から現れたのは、踊り子が彫り込まれた玄武岩の柱だった。同じ踊り子が様々な姿勢で、ざらついた石の肌にびっしりと並んでいる。

「今は草に覆われていますが、この下は全て瓦礫の山です。片端から掘り返せば、棺桶の間から金銀財宝の一つや二つは出てくるかもしれませんよ」

 悪趣味なリシュンの提案を、シャビィはきっぱりと断った。

「もうその手には乗りません。心にもないことを言って人をからかってばかりいると、そのうちツケが回ってきますよ。これを機に、日頃の行いを見直してみてはいかがですか?」

 したり顔で説教されて、リシュンは小さく鼻を鳴らした。

「残念、もう慣れてしまいましたか……いかがです、その顔の方は。そちらにも慣れましたか?」

 リシュンの誂えた前髪をいじり、シャビィは苦笑した。

「慣れてきたとは思いますが、慣れすぎるのも困りものです。修行に差し支えがなければ良いのですが」

 近くの茂みに、一羽の海鳥が降り立った。小さな巣の中では、雛たちが首を伸ばし、ありったけの声で餌をねだっている。

「シャビィさん、世の中を見て回ると行っていましたが……本当に旅に出るつもりなのですか?」

 リシュンの問いに、シャビィは笑って答えた。

「ええ。托鉢しながら、着の身着のままで、とりあえず……バムパを目指してみようと思います。なんといっても、仏教の本場ですから」

 聞けば聞くほど死出の旅だ。あまりの無謀さに、リシュンは眉を寄せた。

「他の人ならともかく、シャビィさんがバムパとは……今から先が思いやられますね」

 先の海鳥が二人の前を横切り、最後の漁に飛び立った。あたりが暗くなってきたせいか、空を飛んでいた海鳥の殆どが、自分の巣に戻りつつある。

「そういえば、リシュンさんはどうするおつもりですか? この捕物がうまくいったら」

 髪を掻き上げながらシャビィが聞き返すと、リシュンは曖昧なほほ笑みを浮かべ、それからシャビィに背を向けて何かを呟いた。

「リシュンさん?」

 鳥の声に埋もれた言葉を確かめようと歩み寄り、シャビィはリシュンの手に、あの鍵が握られているのを見た。

「お金を貯めて、私も、旅に出るつもりです。この鍵の正体を確かめ、元の世界に帰るために」

 風に揺られる青い草原に、亭客の黒い影は深く焼きついて離れない。シャビィは立ち止まり、うつむいたまま、弱々しく請け合った。

「見つかりますよ。きっと」

 リシュンは振り向くことなく、風の中に両手を広げ、大きく息を吸い込んだ。

「ええ、あと少しです。あと少しで、私たちの道が開ける。だから……勝ちましょう、必ず」

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