珍客
男はなめらかに振り返り、ざんばら越しの静かな眼差しでリシュンを捉えた。
「占い師、寺院の奸計に手を貸した咎で、縛についてもらうぞ……まもなく俺たちの仲間が駆けつける。悪あがきはやめて、早くこの怪しげな呪いを解くんだな」
仲間の声に、煬威が振り返った。遠い陰に照らされた煬威は、目を丸くしているように見える。
「それはおかしな話ですね。私たちは、むしろあなたたちが門主を捕らえられるよう、お力添えしたく存じておりますのに」
澄まし顔で答えたリシュンに、階段を駆け下りてきた煬威が、シャビィを指して言い返した。
「力添えもクソも、そこにいる坊主は何なんだよ!」
ぐずつく空から落ちてきた一筋の雨が、シャビィの頭にあたって砕けた。見れば、足元にもいくつかの雫が咲いている。雨足が強まれば、壁の印は簡単に流れてしまうだろう。印に目が向かないよう、煬威を睨みつけながら、リシュンは声を張り上げた。
「私は彼を寺院から匿っているのです。とある理由によって寺院に追われている、この禅僧をね」
リシュンの言葉に、長身の男は眉を動かした。
「虎紳、どうもこの女の言うことは信用できねー。――おい、坊主。お前、マジで他の坊主から逃げてんのか?」
顎をしゃくった煬威の前に、シャビィがゆっくりと歩み出た。厚い肉に覆われた浅黒い両肩は、主に従い、穏やかに出番を待っている。シャビィは少しだけ煬威を見つめてから、息を吸って話し出そうとした。
ところが、シャビィの返事は早くも遮られてしまった。虎紳という長身の男が、二人の間に割って入ったのだ。
「いや、俺達が尋ねるべきは、そこではない」
虎紳は涼しく、しかし強い光を放つ眼差しをシャビィに突きつけた。
「お前は見たのか? 寺院で行われている悪事を、その目で」
虎紳の問いに、シャビィはゆっくりと頷いた。
「ええ。寺院の秘密を知って閉じ込められてしまった私を、リシュンさんが助けてくださったんです」
ランプの影に黒く染まった生暖かい雨足が、細くて明るい路地を駆けてゆく。
「今朝は妙に禅僧たちがせわしないと思ったが、そうか、確かに説明がつく。だが女、その男だけで足りるのか? 」
虎紳の目が、リシュンに差し向けられた。
「いいえ。しかし、あなた方の力になって差し上げることはできます――
知りたいのでしょう? あなたたちが追っている、寺院の資金源の正体を」
リシュンの涼しい笑顔の上を細かい雨がいくつも伝い、尖った顎から滴り落ちて冷たい石の段を叩いた。
「いらないな。ある程度は検討がついている。奴らは、胡椒の密輸を行っているのだ」
虎紳の瞳は、頭上に雷が閃いてなお、動かぬ程に重く、堅い。青白く大きな影は、リシュン立ちの上にまざまざとのしかかった。
「ではひとつ伺いますが……」
リシュンは眉ひとつ動かさず、虎紳に問い返した。
「……もし本当に国境破りが捕まったとしたら、いの一番にあなた方のもとへ報せが届かない道理はございますか?」
探り合いが重なるほどに、シャビィと煬威が口を挟むわずかな隙間も失われてゆく。二人は軽く身構えたまま、リシュン達のやり取りを見守っている。
「あの話がすべて嘘だったというのか?……だが――」
虎紳は眉を寄せた。
「それなら、門主はなぜ黙って聞いていた?」
リシュンは虎紳の顔をよく検め、暫くしてから漸く口を開いた。
「話の続きを聞きたければ――」
ランプの映したリシュンの影が、湿った風に揺らめいている。
「――付いてきてください。雨の中で立ち話を続けるのもなんですから。お話しましょう、事件の真相と……簡単に門主を捕らえる、よい方法について」
肩をたたいてシャビィに構えをとかせると、リシュンは鋭く踵を返した。雨音を裂く湿った足音は、嘘のように軽やかだ。二、三歩後ずさってから、シャビィはリシュンを追って駆け出し、二人の兵士も後に続いた。月の印はとうの昔に、雨に流れて消えていたのだ。
隠れ家に戻ってくると、リシュンは竈に燈台の火を移した。まずは体を乾かさなくてはならない。炎が薪をゆっくりと舐め、塩辛い音を立てて火の粉が踊り始めると、シャビィ達が火の匂いの広がった部屋へと静けさを引きずりながら入ってきた。
「狭いところで大したおもてなしもできず、恐れ入ります。火を炊きました故、ここでお召し物を乾かしてくださいませ」
立ち上がったリシュンに、虎紳は硬い声で切り出した。
「こちらこそ、急に押しかけた非礼を詫びよう。気遣いはありがたいが、それより話の続きを聞きたい。俺たちも暇ではないのでな」
歩み出た虎紳を押しのけ、シャビィはリシュンの隣についた。シャンカから散々悪評を聞かされた連中だ。お人好しのシャビィにとっても、易々と信用できる相手ではない。それを――虎紳達を見張りながら、シャビィは横目でリシュンを見やった――あのリシュンが、仲間に引き入れようとしている。
「一言で申し上げるなら、私は門主に鎌をかけたのです。寺院が胡椒から資金を得ているかどうかを確かめるために。そして、それを利用して罠を仕掛けるために」
乾いた音と共に、火の粉が巻から飛び出した。火の粉がゆらゆらと昇り、静かに消え入るその先に、黒々と浮かび上がったリシュンの影が躍っている。
「お前はあの時――」
竈の火を見つめながら、虎紳は一旦言葉を切った。
「国境破りが露呈したと、俺たちが門主を捉えようとしていると、門主に向かってそう言ったな」
シャビィと睨み合っていた煬威が、虎紳の脇から口をはさんだ。
「だからよ、虎紳、こいつらが門主に入れ知恵して俺たちの邪魔をしようって――」
煬威が火にあたりながら顎をしゃくってリシュン達を指したのを見て、シャビィは太い眉を潜めた。虎紳はともかく、煬威はシャンカが語った通りの荒くれ者だ。虎紳も首を横に振り、煬威をたしなめた。
「今更蒸し返すな。話がややこしくなる」
リシュンは二人組に目もくれず茶を淹れる準備をしていたが、話だけは聞いていたらしい。水の入った小手鍋を竈にのせると、虎紳の質問に答えだした。
「門主が私の話を信じるなら、それは密輸が行われているという事実を『知っている』証です。逆に、密輸と無関係か、あるいは別の方法で密輸が行われているなら、門主が私の話に付き合う必要はありません」
リシュンは棚から茶杯を取り出し、一枚ずつ茶葉を入れた。後は、湯が沸くのを待つばかりだ。
「門主は自分たちが関わっていることを隠そうとしていたな……お前が寺院とグルでないということは、お前が密輸を知っていること自体が奴には想定外の事態だったわけだ」
虎紳の影は、あてどなく壁の上にたゆたっている。リシュンは虎紳を見つめ、相槌をうった。
「そして、私が知っているということが、密輸が発覚したことの証でもあると、そうお考え下さい」
リシュンの言葉に、虎紳は目を見開いた。
「そうか、ようやくつながったぞ!
お前が知っていて俺たちが知らないはずがないと、始めからそこに持っていく算段だったんだな」
シャビィは火にあたりながら、二人の顔を交互に覗っていた。しばらくお会いでいるうちに衣もだいぶ乾いてきたが、まだ重たい生臭みは抜けきっていない。
「深刻な話をしているのに、老師はなぜあなた達の同席を許したのですか?」
シャビィはとうとうしびれを切らした。
「そもそも、あなた達に会うはずがありません」
機を逸した問いかけに、煬威は笑って答えた。
「その通り、爺さん達は、俺たちの頭の上でややこしい話をしてたのさ」
少しも気の利いていない軽口に、しかし、シャビィは手を打った。先日も、床下で門主の様子を探っている連中がいたのだ。
「大帆行の床下に潜んでいたのもあなた達だったんですね?」
大きな体に似合わない素直さが、煬威の脇腹をくすぐったのだろう。煬威の馬鹿笑いは雨音をかき分け、もはや手綱のとりようもないほどに活き活きと駆け回った。
「ああ、どうにも寺院の様子がおかしってんで、こんな格好させられて、くっさいおっさん相手に聞き込みしたり、じめじめした床下で我慢比べしたり、毎日そんなんの繰り返しよ。せっかく南の島に来たってのに、これじゃナンパもできやしない」
目を白黒させているシャビィの隣で、リシュンは小さくため息をつき、腰に拳をあてた。
「これで納得していただけましたか? 私が門主に協力しているのでも、シャビィさんが連絡係なのでもないということを」
話の腰を折られて眉間にしわを寄せた虎紳の向こうで、煬威は何度も頷いた。
「疑う気も失せちまったよ、少なくとも、このハゲは信じて間違いなさそうだ。あんたの考えてることは未だに全然わかんねぇけどな」
リシュンは煬威に微笑み返し、茶杯に湯を注いだ、いつの間に湯が沸いたのか、小手鍋からは暗い湯気がもうもうと立ち上っている。
「お茶の準備ができました。もうお召し物も乾いた頃合でしょう。どうぞ、部屋に上がってください」
なるほど、もう土間で火にあたっている必要もない。リシュンに招かれるままに、二人の兵士は卓子についたのだった。
男達に茶杯を配りながら、リシュンは再び説明を始めた。
「そうして、真相を確かめるついでに、門主に墓穴を掘ってもらうべく念を押してきたのです」
温い雨をたくさん吸って重たくなった部屋の空気を、茶杯の置かれる冷たい音は留まることなくすり抜けてゆく。
シャビィと虎紳は短く礼を述べ緑茶が出るのを待っていたが、
「おう、悪いな」
煬威は茶杯の蓋を開けると、傷だらけの手で茶杯を掴み、喉を鳴らして勢いよく飲み干してしまった。虎紳はこれを見て小さくため息をつくと、再びリシュンに問いかけた。
「お前が密輸のことを知っていることの言い訳は、確かに門主を追い詰めたわけだ。
だが占い師、そこから先の狙いは――追い詰められた門主を、だ。例えば騙すとして、奴に何をさせるつもりだ?」
胡座をかいて手を後ろについた煬威とは違い、虎紳の目はまだ鋭い光を宿している。
「私が門主に向かって、『黒幕は他にいる』と言ったことは覚えておいでですか? 」
茶葉が広がったのを確かめあやふやな作法で緑茶をすするシャビィの隣で、虎紳は茶杯に手をつける素振りも見せず静かにリシュンを窺っている。
リシュンは茶杯の蓋をずらし、一口だけ熱い緑茶を口に含むと、火傷しないよう少しずつ飲み込んだ。
「そうそう、それよ。俺が分かんねぇのは。あんたも、門主も、寺院がやってるのは分かってるわけじゃん。なのによ、いきなり他に犯人がいるとか。門主も黙って付き合ってるし、おかしくねぇ?」
回りくどくもリシュンの垂らした、形ばかりの手がかりに、勢いよく食いついたのは、呑気な煬威の方だった。
「いや、そこまでならまだ分かる」
わざわざ伸ばした無精髭を撫でながら、そぞろな声で虎紳が答えた。
「この女は、悟られたくなかったんだ。自分が門主を疑っていることを。
見破られれば、寺院に消されるのは目に見えているからな。門主も当然、自分が関わっているとは言えない。用意された狂言に乗るしかなかったんだろう」
燈台の仄かな陰が光の中から掘り出した、虎紳の顔をじっと見つめてシャビィが眉をひそめている。虎紳は気づいていないふりをして話を続けた。
「だが、そこから先が分からない。護符の中身がどうのこうのと――あんな出鱈目に、なんの意味があるんだ」
リシュンは卓子の下でしたたかにシャビィの脛をつねり、短く小さな返事をよこした。
「門主には、大帆行を黒幕に仕立て上げてもらいます」
虎紳は小さく唸りながらようやく緑茶を口にして、大きく目を見開いた。
「美味いな。どこで手に入れた?」
話を半ば虎紳に任せていた煬威は、これをきいて大きく足を投げ出した。
「なんだ、そんなことかよ。……身代わりか。まあ、古狸の好きそうなことだがよ、それじゃあ却って捕まえられなくなっちまうぜ。こっちの兵隊を4,5人連れてってよ、今すぐにでも押しかけたほうが手っ取り早いんじゃねぇのか?」
リシュンは煬威を見て小さく笑い、のこった緑茶を飲み干した。頭の回る男ではないが、一応要点はわかっているらしい。煬威の提案こそは、リシュンの待ち受けていたものだったのだ。
「俺も、その点に関しては煬威に賛成だ。力ずくでも乗り込んでいって、その男の言う地下室にたどり着くことができれば、そこにあるんだろう? 胡椒の詰まった護り袋が」
荒事こそ武人の本業だ。探し物がわかってしまえば、リシュンの手など借りずとも簡単に証拠を抑えることができる。ましてや、年寄り一人捕まえるのに、なんの苦労があるというのか。眉を下ろしてのんびりと緑茶を味わう虎紳に、リシュンは切り札を突きつけた。
「ええ、ですが……ナルガの人々は、誰一人としてあなた達を信じてはくれないでしょう」
涼しげなリシュンの一言が、忽ち虎紳の顔から血の気を奪った。
「宮様の崩御からこちら、朝廷と寺院の関係が冷え込み、今やいがみ合っていることは皆人の知るところです。奏の武人たるあなた達が――」
「適当な口実をでっちあげ、門主を捕らえようとしたとして、何も不思議なことではないと、そういうことか、占い師」
険しい顔で睨む虎紳を、リシュンは笑って見つめ返した。上座に座った二人の影を、椰子の香りを放つ灯りが部屋の隅へと追い込んでいる。
「冷え込んでいるのは、寺院と朝廷の仲だけではありません。突然跳ね上がった関税に、ナルガの人々は散々痛めつけられています。今はまだ朝廷に逆らえずにいる人々も、寺院の下に集まってしまえば、もはや朝廷の、もとい薫氏の言いなりになることはないでしょう」
洋氏と関係を持ち、薫氏に反感を抱く商人や貴族は、ナルガばかりでなく、奏国の中にも溢れている。朝廷とは異なる権威をもつジャーナ宗を後ろ盾に彼らが結束し、薫氏の権勢を揺るがすことも、あり得ないことではない。虎紳と煬威が寺院を探っていることこそが、今の朝廷が寺院を恐れている何よりの証拠だ。
「そして、俺たちが門主を捕らえることが、その引き金となる……分かった、認めよう。今の俺達には、寺院を失墜させる手立てはない」
無実の聖を捕囚した帝を、ナルガの市民はもはや君子と認めまい。薫氏に反感を持つ人間が集まり、寺院は衰えるどころか益々力をつけてしまうだろう。虎紳はかすれた声で負けを認めると、重い茶杯を何とか持ち上げ、残った緑茶を飲み干した。
「でもよ、そんなに寺院が手ごわい相手だってんなら、お前のペテンもやっぱ通じないんじゃねえか? ……その、大帆行を身代わりにさせるっていう」
黙り込んでしまった虎紳の代わりに、煬威がリシュンに問いかけた。
「いえ、手ごわいのは寺院と門主ではありません。寺院に向けられた人々の信心と、朝廷に対する不満です。お忘れですか? 門主が自ら、私の知恵を借りようとしたことを……門主は私の罠に、必ず飛び込んで来ます――」
リシュンは成功を請け合うと、一旦言葉を切り、小さく息を吸い込んだ。
「――それでも、手放すおつもりですか? 寺院の出鼻をくじいて、名を上げるこの好機を」
脅威の大きさは、そのまま手柄の大きさでもある。虎紳は長いため息をついてから、ゆっくりと面を上げ、とうとうリシュンに伺いを立てた。
「取り敢えず話を聞かせてくれ。乗るか乗らないかはそれで決める」
狙い通りの返事を勝ち取ると、リシュンは虎紳に頭を下げ、漸く二人に手の内を伝えた。
「既にお話したとおり、寺院が悪事を働いているという証は、あなた達によって見つけられてはなりません。
ならば、人々の目の前で、白日の下に晒してしまえばよいのです。寺院が大帆行を身代わりにするために持ち出した、袋に入っていない護符の山を」
真の黒幕は護符の中身を胡椒にすり替え、今もどこかに隠し持っている――リシュンの狙いを知り、虎紳はゆっくりと顔を上げた。
「迂遠な。他人に罪を被せようと小細工を弄したところを、取り押さえて証をたてようというのか。」
華人の常に違わず細く、冷たい光を放つ目が、力の限りに開かれている。リシュンは答えることなく、わざとゆっくり緑茶を飲み干し、その言葉を待っている虎紳達に告げた。
「やましいところのないものが、罪を逃れようと余計な企てに手を出すことはありません。小細工をしているところが衆目に晒されたなら、いかに寺院といえど、言い逃れる術は持たないでしょう」
卓子の中央を見つめながら、虎紳はしばらく無精ひげをさすっていたが、やがて目を瞑り、大きく息を吸った。
「門主自ら動くように仕向けることで、塀の中から証拠をおびき出すことが出来る……切れ者のつもりでいたが、俺はまだ力押しに頼っていたようだ」
虎紳が刀を納めると、煬威が卓子に身を乗り出した。
「でもよ、俺たちが来なかったら、あんたら、それを全部二人でやるつもりだったのか? 下手すりゃ、あっという間に土左衛門じゃん」
訝しがる煬威にリシュンが答えようとしたとき、話の行方を見守っていたシャビィが、煮えくり返った腹の中をぶちまけた。
「あまり感心しませんね。そんな風に軽々しく、殺すの殺されるのと口にするのは。あなた達には日常茶飯事かもしれませんが、仮にも僧侶なんですよ、老師たちは」
五戒を刷り込まれたシャビィの感覚は、俗人には俄かに理解し難いものである。わななく巨体を指差して、煬威は気安く返してみせた。
「あの爺さんが今更そんなこと気にするかよ。お前が生きてることのほうが、俺にはよっぽど不思議だね」
歯に衣着せぬ物言いに、シャビィは顔をしかめたが、リシュンは気にせず相槌を打った。
「ええ、私も初めはお二人を寺院の差金かと思っていました――広東語の叫び声を聞くまでは」
たとえ疑いを免れても、リシュンが事情を知り過ぎていることに変わりはない。寺院が小細工に失敗したとき、リシュンは寺院の罪を裏付ける証人になってしまう。リシュンは含みのある微笑みを浮かべ、二人の瞳の奥を探った。窓の外、次第に遠のく雨音が、不意に途切れた話の隙間に、ゆっくりと染み込んでゆく。
「そうか。それで……お前は見事に俺たちをさばいてみせたというわけだ」
虎紳は目を閉じ、小さく鼻を鳴らした。
「だが、用心するに越したことがないだろう。この先をどうやって凌ぐか、何か手は考えてあるのか?」
家の周りや地下水路にはいくつか罠が仕掛けてあるが、すぐに逃げ込める範囲に留まっていては、寺院に仕掛けることはできない。リシュンは頷き、シャビィに目をやった。
「幸い寺院は、シャビィさんを探すことで手が塞がっているようです」
シャビィと煬威は、にらみ合いを続けている。リシュンは小さく肩を落とした。
「その隙に先手を打って、寺院に入れ知恵したことを触れて回ります。私がいなくとも自ら真相に気付ける者を、そして、私がいなくなったときに寺院を疑う者を作ることで、私を消して生じる利を予め取り除いてしまうために」
リシュンの話を聞きながら、虎紳は節々で何度か頷いた。
「なるほどな。それなら、うまくいった時の世間の反応をよくすることもできる。人から聞いたことを信じなくとも、自分で考えたことにはあっさり騙されてしまうものだ」
いつの間にか、外が仄暗くなっている。リシュンは横目で天気を確かめ、左手で前髪を払った。
「そして何よりも、人目のあるところで護符に近づき、暴いてしまうことが大切です……今日明日にも、門主は本山に使いを送り、護符を密かに持ち込むはず。それも、人に紛れるため、最も船の多い時間に、表の港から入ってくるでしょう。そこで彼らが下ろそうとした積荷を、シャビィさん、あなたが担夫に化けて近づき、覆してください」
リシュンは、むつかしい顔をしているシャビィに向き直った。肉厚で浅黒い、団子鼻の禿げ頭。四人の中で門主達が一番よく見知っているのは、言うまでもなくこの顔である。的を外れた白羽の矢に、卓子を囲む皆が目を丸くした。
「おいおい、そりゃ、どう考えたってうまくないだろ。俺らが行くほうがなんぼかマシじゃねぇのか?」
真っ先に反対した煬威に、シャビィも口を揃えざるを得ない。
「先輩方が私に気づかないはずがありません。子供の頃からの顔見知りばかりです」
リシュンは二人を見比べてから、顎に手をあて、考え込んでいた虎紳にチャム語で訪ねた。
「虎紳さん、失礼ですが、チャム語の腕前は?」
虎紳は肩をすくめ、怪しげな声調のチャム語で答えた。
「練習してる。でも、上手いない」
虎紳の片言に、煬威はうろたえ、シャビィは肩を落とした。足の揃わぬ卓子の上を、虫の羽音がさまよっている。
「それならやはり、シャビィさんに担夫役を頼みましょう。シャビィさん、鏡の前に座ってください」
リシュンは立ち上がると、小さく手を振って虎紳と煬威を立ち退かせ、鏡台の引出しから化粧道具を取り出した。
「あの、リシュンさん? とても化粧でごまかせるとは……」
座りながらも訴えるシャビィを、リシュンはにこやかに黙らせた。
「真っ直ぐ鏡を向いて、目と口をとじていてください」
シャビィが渋々従うと、リシュンは小さな刷毛の先に虹色の粉をつけ、大きな顔の映った鏡に、慣れた手つきでまぶし始めた。
「おいおい、何やって――」
ため息混じりにヤジを飛ばした煬威の目の前で、俄かにシャビィの頬がやつれた。鏡に映った浅黒い顔をリシュンが刷毛でなぞる度、本物の輪郭が描き変えられている。腹の底からせり上がる叫び声をのどに詰まらせ、煬威は息もできずに変わりゆくシャビィの顔を見守った。
「信じられん」
小さく呟く虎紳のまなざしは、リシュンの横顔に向けられている。シャビィの後ろに膝をつき、左右の輪郭を合わせるリシュンの影が、薄い陰に染め上げられた石壁の上に踊った。背中に接した煩悩の柔らかさに耐え、目を瞑って息を整える大男には、自分の顔に呪いが施されているなどと、思いつきもしないだろう。
輪郭が仕上がると、リシュンは刷毛を持ち替え、シャビィの目鼻立ちに手を加えた。刷毛を使って目尻を持ち上げ、布で拭き取って鼻を細く尖らせ、唇も同じようにして、下の厚みを取り除き――シャビィを横を向かせて鼻の高さを水増しすれば、鍛え抜かれた伊達男の出来上がりだ。
固唾を飲んで見守る虎紳と煬威の額には、重く冷たい汗が浮かんでいた。
「よし……シャビィさん、もう目を開けて構いませんよ。私は眉墨をといてきます」
リシュンは小鉢を手に立ち上がり、後ずさった二人に一瞥をくれると、黙って前を横切った。リシュンが燈台の傍を通り過ぎると、大きな影はざらついた石壁の上を瞬く間に駆け抜けたが、今更リシュンを放して飛び去るはずもない。隣で鏡を見たシャビィが叫んでいることにも気づかぬまま、土間を覆う光の中、壁に焼き付いたリシュンの形から、二人は目を逸らすことができなかった。
瓶から水をすくい、眉墨を延ばすリシュンにシャビィは情けない声で尋ねた。
「リ、リシュンさん、この顔は? 何が起こったんですか?」
リシュンは小鉢を携え、ゆったりとした足取りで戻ってきた。虎紳と煬威は、俯きながらリシュンを窺っている。
「あなたの大好きな先輩方が見ても分からないようにしただけです――よかったですね。だいぶ見られるようになりましたよ」
自分の仕事を晴れやかな笑顔でたたえ、リシュンはシャビィをあちこちから検めた。
「元に……戻りますよね?」
シャビィが再び問いかけた。いくら見栄えがよかろうと、他人の顔は落ち着かないものである。
「大丈夫。戻すほどの顔ではありませんよ。さあ、髪を描きましょう。鏡の前に戻ってください」
シャビィは大きく方を落として鏡の前にへたりこみ、リシュンはこれ幸いと鏡の上にくせ毛を書き込んだ。しきりに溜息をつきながら、右を向き、左を向き、まるでリシュンの為すがままである。
「亭客は……皆そのような呪いを用いるのか?」
目を伏せながら虎紳がためらいがちに尋ねた。リシュンは具合を確かめながら、シャビィの頭に髪を描き足している。
「これは亭客ではない、多麻州の占い師から教わったものです」
リシュンはシャビィに座り直させ、後頭部にとりかかった。
「俺たちが畏れるべきは、亭客ではなく占い師だったというわけだ」
虎紳は胡座の上に肘をつき、かすれた声で笑った。シャビィの頭は、いつの間にかまだらになっている。
「それでよ、俺たちはどうする? 港に加勢するか? それとも爺さんをおさえるのか?」
煬威に脇を小突かれ、虎紳は腕を組んだ。
「いや、港が上手くおさえられたなら、門主はもう再起できまい」
虎紳の視線を感じ、リシュンは手を動かしながら答えた。
「ええ。それと、もう一つ。国境破りの風評を、大使館の周りから流して頂きたいのです。寺院の船が着くのは、早くても明日の昼過ぎでしょう。まだいくらか間があります」
出会い頭にリシュンが指摘したとおり、虎紳達が一番に知らされるはずの話である。
「港に潜り込むのは明日からか……本山まで往復することを思えば、それでも早いくらいだな」
カタリム山はナルガから海峡を渡ってすぐのところにある。山を登っても半日の道のりだが、荷物を担いで夜の山道を下るのは難しい。
「分かった。ここの兵隊にも掛け合ってみよう。こちらから流すほうが自然に見えるはずだ」
虎紳が頷き、リシュンは深々と頭を下げた。
「恐れ入ります。私は知り合いの商人にあたり、寺院が咎人を探している旨を伝えましょう」
リシュンの言葉を確かめると、虎紳は立ち上がって窓の外を見た。
「何か、他に聞いておくべきことはないか?」
雲はもう出ていないようだ。雨も上がったばかりなので、朝ほど暑くはないだろう。虎紳につられて、煬威も腰を上げた。
「いいえ、今は何も」
リシュンは首を横に振り、二人を見送るために立ち上がった。
「そうか。なら、明日、港で」
雨を吸った思い扉が、音を立てて大きく開くと、潮の香りのいくらか混ざった蒸し暑い風が流れ込んできた。
「ええ。必ず成功させましょう」
力強い声に背中を押されて、虎紳たちは星空の下に歩みだした。雨上がりの空は深く、明るい家並みの隙間からも、いくつかの星が見える。
「そうだ」
階段の手前で、煬威が振り返った。
「あんた、もう自分で占ってみたか? この捕物が上手くいくのか」
リシュンは煬威に向かって、ふんわりと微笑んだ。
「ええ。『水風井』。水の湧くところに人が集まるという意味です」
手綱から解き放たれた煬威の笑い声は、狭い石壁の狭間を荒々しく駆け巡った。
「違えねえ! 占いも案外馬鹿に出来ねえもんだな!」
階段を上ってゆく二人の白い影の形は、眩しい光の中に滲み、曲がり角に消えていった。