尾行
禅僧達の目を盗んでどうにか歓楽街を離れると、リシュンは南の大通りに向かった。仕込みはこれで十分だ。ここから先は、シャビィの出番もあるだろう。海沿いに渦巻く人ごみに棹をさし、回り道しながら足早に進んでいくと、ナルガで最も騒がしい地区が近づいてきた。
南の大通りは、ナルガどころか、西の海の中心だ。奏やバムパ国、北方の島々や、はるかな東方の密林から、ありとあらゆる品物や通貨、言葉や風習が流れ込む。
今リシュンの上っている港と市庁舎をつなぐ階段にも、様々な屋台や食堂、水揚げされたばかりの魚や色とりどりの果物、それに行き交う人々の放つ、どろどろに煮詰まった匂いが渦巻いている。 人ごみをかき分けて向かいの古着屋に入ろうとしたとき、リシュンの後ろで大きな声が上がった。
振り返ってみると、昼食を摂りに坂を上ってきたのだろうか、数人の担夫が、妙に体の大きな物乞い二人に絡んでいる。リシュンはそっと胸をなでおろし、うらぶれた古着屋の庇に入った。
「いらっしゃい。何かご入用ですかい?」
古着屋は少しうつむき、ちらちらと上目遣いでリシュンを窺った。もちろんのこと、リシュンの眼鏡にかなう品はこの店の中にはない。
「新しい召使が来たので、大きめの男物を見繕っていただきたいのです。内働きの召使はみんな暇を出してしまいましたが、うちは父も年ですし、何かと男手が必要で……」
丁寧に仕立てられた厚手の笑顔は、古着屋の眼差しを音もなく塞いでしまった。
「お客さんも見かけによらず苦労してるんですなぁ。最近はどこも景気が悪くていけませんや」
老人の言葉には、いくらか訛りが残っている。野暮ったいがおおらかな、これは北海の島国の響きだ。
「大きめの男物……っと、これなんか、どうです? わりに綺麗だし、縫い目もしっかりしてますよ」
奥にかかった服の中から古着屋が取り出した長衣を見て、リシュンは小さく苦笑した。確かに大きめだが、シャビィの体は大きめではきかない。
「ごめんなさい。初めから一番大きいものを探してもらうべきでした」
服を選び直しながら、古着屋は胡麻塩頭をかきむしった。
「いっそのこと、その大男も連れてきてくれると話も早いんですがね……」
令嬢の外出に下男が添わないというのも、おかしな話である。
リシュンは慌てず、ゆっくりと言い訳した。
「出がけに連れてこようとしたのですが、ちょうど雨漏りを直してもらっていたところなので、声をかけるのを止めたのです。この天気も、いつまで続くかわからないでしょう?」
雨が絶えてしばらく経つが、今日の空には背の高い雲がいくつか浮かんでいる。古着屋は、いくらか鼻をひくつかせてから、頷いた。
「確かに、雨の匂いがしまさ。夜中に降ったから、しばらく降らないと思ってたんですがね」
今夜は、ひどい土砂降りになるかもしれません。古着屋は、今度こそとびきり大きな服を引っ張り出した。檜皮色をした麻の長衣はゴワゴワしているが、ゆったりと幅があって涼しそうだ。これなら十分間に合うだろう。
「ちょうど良い大きさです。これを貰いましょう」
リシュンからお代を受け取りながら、古着屋はそりゃ、本当に大きいですな、と驚いてみせた。シャビィの着替えは、畳んでもなお大きい。受け取った服を苦労して抱えると、リシュンはため息をつきながら長い家路についたのだった。
禅僧たちに見つからないよう、リシュンは寺院の近くを通ることを避け、海沿いを反時計回りに歩いて隠れ家を目指した。黄色い空はじっと眺めていられる程度の明るさしかなく、空一面に穿たれた黒い星もよく見えているが、出がけよりも波が高く、髪に絡みつく潮風が重たい。
古着屋の言ったとおり、今日は大雨が降りそうだ。通りに広がった露天の中にも、雨の匂いに気づいたのか、片付けを始めている店がちらほら見られる。一方で、雨の兆しを見逃しているものも多く、正面から歩いてきた男女など、海の上で肥え太り始めた背の高い入道雲を指して、間抜けな会話に花を咲かせていた。
「ねえ、ヴァルマ、あの雲、何に見える?」
背の低い厚塗りの女が、挑発の男に訪ねた。
「うーん、……水鳥、かなあ」
考えるふりをしながら、男は女から目を逸らし、通りに漂わせている。リシュンと目が合い、一瞬顔を綻ばせた男に含みのある笑顔を寄越しても、男の腕に暑苦しく組み付いた女は、二人の様子に全く気付いていないようだ。
「うわ、何アレ、汚ーい」
女が露骨に眉をひそめ、横目に見やったその先に、先ほど大通りで見かけた物乞いの姿があった。女の物言いはいかにも品がないが、確かに物乞いはこの通りにはそぐわない。とかく雑然としたナルガの中でも、このあたりは小綺麗なことで知られている。
リシュンはわざと大げさに振り向いたが、二人の物乞いは眉一つ動かすことなく、座った目で水平線をにらみ、おぼつかない足取りで歩き続けた。
「ほら、よそに行こう、シータ。この上に素敵な店があるんだ」
つれの女を引っ張る男の足取りは、心なしか重々しく見える。リシュンも乞食を窺うのを止め、再び足早に歩き出した。
リシュンの部屋は、西の大通りから北側に入ったところにある。海側から見上げた西の大通りは、どの家も背を向けているせいか、他の通りと比べていささか味気ない。浜から少し上ったところに見える下宿屋の脇から、リシュンは身を寄せ合う家々の隙間に入り込んだ。
この脇道にしても玄関を構えている家は少なく、嵌め殺しの小さな窓や通りの名前が刻まれた赤いアーチがなければ、岩の裂け目と見分けがつかないだろう。ましてや、月のない昼間ともなれば、細い道は濃い光に塗りつぶされてしまう。
左右の壁を手で確かめながら、リシュンは急な階段を上り続けた。階段は緩やかに曲がり、左右に別れ、合流し、小さな広場につながり、広場の角からまた伸びだして、リシュンを深みへと誘ってゆく。時折知り合いとすれ違いながら、単調な足音を積み重ね、ようやくリシュンの部屋のある屋敷が見えてきた。
どうやら、寺院はシャビィを探すので手一杯のようだ。ずり落ちてきた手土産を抱え直そうと足を止めたリシュンの後ろで、小さな足音が聞こえた。
リシュンは振り向かず、同じ速さで歩き続けた。人目につかない裏通りだ。気づかれたと分かったら、追手はなりふり構わず力ずくで目的を果たすだろう。気のせいかどうかは、振り返らずともこの先の墓地で確かめられる。
追手がリシュンに歩調を合わせているのか、その後足音が聞こえることもなく、墓場の入口が目の前に迫ってきた。墓場は周りよりも開けている分、いくらか物の見分けがつきやすい。リシュンは墓場を抜ける階段の曲がり角に差し掛かったところで、横目に追手の姿を捉えた。間違いない。歓楽街にいた、あの物乞いだ。
家並みの隙間に吹き込む塩辛く湿った風が、丁寧に梳かれた黒髪をさらい、厚い雲を運んでくる。リシュンは飛ばされないようにしっかりと石段を踏みしめ、そして墓地の階段を上りきった。
雲の影が星空をおおってくれたのは、思いがけない幸運だった。これでもう、追手にリシュンの姿は見えない。足音を殺して急ぎ足で歩けば、追手に気取られずに間を開けることができる。
リシュンは靴の底が石畳を叩かないよう、丁寧に足を下ろしながら、素早く小刻みに歩を進めた。この道の突き当りには、邸宅につながる細い階段がある。忍び足で粘るのも、あと少しの辛抱だ。
二段飛ばしで階段を上り、辿り着いた三角形の広場は、既に真っ白に染まっていた。空一面に広がった重たい雲が、熱のこもった唸り声を上げている。物乞いを装った二人組が追ってこられるよう、リシュンは屋敷の勝手口を開け放したまま、大理石の廊下を走り出した。
ここから先は、体力勝負だ。
リシュンの軽い足音を追いかける二つの大きな足音は、忍耐強く積み立てた距離をみるみる手繰り寄せてゆく。リシュンが柱廊を渡り切り、テラスへの階段を駆け上がると、雨雲のまたたきが白い空にひらめき、リシュンの影を冷たい石壁に投げかけた。
「亭客か!」
広東語の喚声は、そう遠くない。リシュンはテラスを横切り、最後の階段を降りだした。深くて狭い石組みの谷間に、荒々しい足音に混じって、金具のぶつかる残忍な音がこだまする。リシュンは一つ目の印の横を通り過ぎると、シャビィの服を放り出し、懐からチョークを取り出した。
あまりゆっくりと描いている余裕はなさそうだ。リシュン壁に取り付いて大急ぎで月の輪郭を描きだした。眩しくて手元がよく見えない上、手が汗ばんでいるせいで、うまく力が入らない。たどたどしく月を塗っている間にも、追手は階段を駆け下りてくる。
それでもなんとか月を塗り終え、仕上げに矢印を描き加えようとしたその時だった。横に線を引いた拍子にチョークの先が壁のくぼみに引っかかり、勢いよくリシュンの手を飛び出してしまった。リシュンは音を立てて転がり落ちていくチョークを横目で追ったが、壁のあいだに降り積もった光の底に飲み込まれては、見つけることさえままならない。追手の足音も、すぐそこまで迫っている。
追い詰められたリシュンは強く目を瞑り、息を止め、一瞬考えてから、目を見開き、親指をねぶった。一度目を離したせいで、矢印の場所が分からなくなってしまっている。
印を探すリシュン背後で、光を打ち払う鋭い陰が放たれた。雷の生み出した闇は、二人の追っ手と共に、リシュンの姿をも浮かび上がらせてしまったが、この期に及んでは、そんなことにはさしたる意味もない。リシュンの目に映っているのは、壁の上に殴り書きされた歪な月の印だった。
印の姿を捉えると、リシュンは親指で横線をなすり、まじないの印を書き上げた。一瞬見えた女の姿に追手も勢いよく飛びかかったが、伸ばした手がリシュンに届くはずもない。
「クソッ、逃げても無駄だぞ!」
大声で凄みながら再び駆け出した物乞いたちは、勢いよく抜け穴の入口に飛び込み、階段の上の方にある出口まで引き戻されてしまったが、色濃い輝きの中では、それに気づくこともできない。
リシュンが大きく息を吸い、ゆっくりと階段を下りだすと、騒ぎを聞きつけたシャビィがランプを携えて様子見にやってきた。
「リシュンさん、何かあったんですか?」
初めから、この大男に任せてしまう手もあったのかもしれない。リシュンは肩をすくめ、階段の奥を振り返った。
「手土産に、鼠を二匹捕まえてきましたよ」
シャビィがランプを掲げると、物乞いを装った二人組は鼻息荒く階段を駆け下りてきた。
「女、逃げられると思うなよ」
光の底にリシュンの影を見つけて大口を叩いたものの、獲物を目の前に堂々巡りを繰り返すうち、二人の足取りは次第に重さを増した。
「クソッ! 亭客め、怪しげな術を使いやがって!」
背の低い方の追手が立ち止まって毒づいた。
「煬威、深追いするな。引き返すぞ」
背の高い方の追手に従って、煬威と呼ばれた男はしぶしぶ引き上げようとしたが、相方が階段の半ばで姿を消すのを目の当たりにして、すっかり腰を抜かしてしまった。
「い、一体どうなってやがる?」
甲高い声を上げる煬威の後ろ姿を眺めながら、シャビィは小さく呟いた。
「……こういう仕組みだったのか……」
シャビィの目の前には、同じく煬威の背中を見つめるもうひとりの追っ手が立ち尽くしている。リシュンは男の背中に向かって、艶やかに問いかけた。
「逃げ場を失ったのは、どうやらあなた達のようですね――さあ、答えてください、誇り高い奏国の武人が、なぜそのように身をやつしてまで一介の占い師を付け回さねばならぬのか」