虎穴
腐敗地区を東に出て、住宅地の大階段を上り、リシュンは寺院の脇に軒を連ねる茶屋の中で、一番空いている店に入った。貧相な八間が1つぶら下がったきりの明るすぎる店の中には、時間帯も手伝ってか、リシュン以外の客が見当たらない。
庇が作った陰の縁に陣取り、リシュンは暇そうな店主に声をかけた。
「イエグオを一杯頂けますか」
先払いで鳴朗通宝を五枚も出しておけば、流石に嫌そうな顔はされない。
「先にお茶をお持ちします」
恭しく銭を受け取ると、店主は玉暖簾の奥に下がった。独り者の多いナルガでは、どの店もこぞって若い呼び子を使う。年寄りが一人きりでは、店もあまり上手くはいくまい。
奥から店主が戻り、年季のいったプーアル茶を注いでくれた。小さな茶杯からは、香り高い湯気が立ち上っている。
「お客さん、イエグオには何を浮かべましょう?」
穏やかな欲のない笑顔に、商売上手を求めるのも野暮だろう。
「レイシを乗せてください――ご主人、待ち合わせの約束がありますゆえ、それまでこの席をお借りしてかまいませんか?」
店主は何も疑わず、リシュンに笑顔を返した。
「構いませんとも。ゆっくりしていってもらうための茶店ですから」
「ありがとう」
ここに座っていれば、こちらの姿を見せずに寺院の正門を見張ることができる。後は、門主が動き出すまで根競べだ。腰を据えて待つまでもなく、寺院からは黄色い服の坊主達がせわしなく出入りを繰り返していた。
シャビィの脱走が知れたのか、あるいは他の案件が生じたのか。いずれにせよ、浮足立っていることには変わりない。
「お待たせしました」
通りを眺めるリシュンの下に、店主がイエグオを運んできた。白に白では味気ないと気を利かせたのだろう、半分に切った椰子の実に浮かぶ角切りのイエグオの真ん中に、一輪の仏桑花が咲いている。リシュンは両手で椰子の実を受け取り、感嘆した。
「上品な、実によい香りですね」
店主は蓮華をリシュンに手渡し、愛想よく答えた。
「ついさっき仕入れてきたばかりですから。お気に召したようで、何より」
リシュンがイエグオに手を付けようとしたその時、大通りの階段を見覚えのある禅僧が駆けて行った。長身で、頬骨の張った男――豊泉絹布にいた門主の側近、ヘムに違いない。
「あら? また禅師様……ご主人、さっきから何人も禅師様が行ったり来たりしていますね。いつもこんな塩梅なのですか?」
「いや、あれは人を探しとるそうです。さっき来た坊様にも訊かれたんですがね、なんだか、坊様が一人居のうなったとか。しゃ、しゃあべい……だったかな? 体の大きい坊様だそうですよ」
眉を落して通りを見守る白髪の店主の隣で、リシュンはイエグオを蓮華で掬い、そっと口に運んだ。分厚い肉を噛みしめるたび、柔らかな酸味と甘みが口の中に広がり、身体中に染みわたってゆく。塩は若干利きすぎているがその分果汁が濃く感じられ、気品のあるレイシの香りと相まって、味にうるさいリシュンを飽きさせない。
イエグオの歯ごたえを楽しむリシュンの横で、店主は表を眺めていた。店の前では、寺院から出てきた禅僧と、港の方から戻ってきた禅僧とがなにやら話し込んでいる。流石に声まで聞き取れるわけではないが、二人とも険しい顔をしているのは確かだ。
「近頃はナルガも物騒になりましたね。居なくなった禅師様も、無事であればよいのですが」
リシュンは一旦手を止めて、温かいプーアル茶をすすった。
「ええ、儂もほんにそう思います。それじゃ、ごゆっくり」
急須をテーブルに残し、店主は隣のテーブルで客を待った。リシュンは言われた通りにゆっくりとイエグオを味わったが、寺院から門主が出てくる気配はない。何か動きがあってもよさそうなものだが、奏の兵隊を気にしているのだろうか。
「……いらっしゃいませ。お茶をお持ちいたします」
他の客が入ったらしい。店主が立ち上がり、椅子の動く固い音がした。満席にはならないものの、その後も昼時が近づくにつれ、少しずつ客は増えてゆく。店主が空になった椰子の実を下げてから一時も経ち、なかなか来ませんね、と誤魔化しながらプーアル茶を引っ張るのも苦しくなってきた頃、ようやく寺院に動きがあった。
背の縮んだ老人の周りを、数人の大柄な禅僧が固めている。間違いない、ジェンドラ大師その人である。
西の大通りへ続く道に門主の背中が消えてゆくのを見送り、リシュンは立ち上がった。今なら店主も他人の注文をとっている。
「いけない!」
気づいた店主が、声をかけた。
「いかがなさった?」
リシュンは店主を振り返り、張り詰めた声で答えた。
「待ち人が気づかずに素通りしてしまったようです。追いかけなくては」
適当な言い訳に目を白黒させながらも、店主はリシュンに合わせた。
「それは、それは。お急ぎなさい。今なら間に合うかもしれません」
全くだ。リシュンは頷き、店主に笑いかけた。
「ごちそうさま。美味しいお茶でした」
小走りで店を飛び出すと、リシュンは門主の跡を追い、寺院と市庁舎の周りを一周する広い道を走った。人をかき分けて走り、大きな門をくぐった先に、果たして門主たちの姿がある。雑踏の中でも目を引く、黄色い僧服を目印に、リシュンは距離を置いて階段を下りていった。
焼き烏賊、ヤシの実、骨董、古着、首飾りに民芸品、果てはリシュンの同業者まで、歓楽街の大通りに溢れかえった露天の隙間を縫って、禅僧達は足早に麓を目指した。なるほど、シャビィに一人で逃げ出す度胸と才智があれば、この人ごみの中に紛れ込んでいたかもしれない。それも、浮浪者やごろつきの多い――腐敗地区との境目だ。
案の定、門主とその護衛たちは港に近い艶町へと滑り込んだ。高級旅館の立ち並ぶ海沿いの通りのすぐ裏手には、旅館に出向く娼婦を置くための妓楼だの、不潔極まりない連れ込み宿だのがひしめいている。汚れた金の入りやすいこの界隈は、おそらくナルガで最も濁った場所だ。
距離を詰めすぎないように少し間を置いてから通りを覗くと、入口近くに看板を掲げたけばけばしい飯店に、禅僧達が入っていくのが見て取れた。真紅に染まった店と同じく、辛いばかりで味がしない料理で知られた料理店だが、幸いにしてリシュンのお得意様が勤めている。
門主と話すには手下が邪魔だが、この機を逃す手はない。リシュンは往来を見渡し、客がつかずに弱った顔をしている靴磨きの少年に目をつけた。
「坊や、お使いを頼めるかな?」
リシュンは少年に近づき、甘い声で話しかけた。やせ細った少年からは、すえた匂いがする。
「お姉さん、いくら出せる?」
鋭くぎとついた目を覗き込み、リシュンは一瞬考え込んだ。
「……靴磨き3回分でどう? 簡単な伝言だから、直ぐに終わるよ」
少年は無遠慮にリシュンを眺めまわし、それから卑しい笑みを浮かべて、リシュンの目の前に片手を突き出してみせた。
「5回分ならやらなくもないけど」
勝ち誇る少年を前に、リシュンはうなだれた。
「困ったなぁ、実は私も頼まれてやってるだけだから、それだけ払うと儲けがなくなっちゃうんだ」
渋るほどの額ではないが、調子に乗って逃げられてはうまくない。リシュンが立ち去ろうとすると、少年は慌てて呼び止めた。
「わかった。わかったよ。4回分でいいだろ? な?」
信用しても大丈夫か、今度はリシュンが少年を値踏みしてから、仕事の内容を説明した。
「じゃあお願い。あの赤い料理屋があるでしょ? あの店にいるお坊さん達に伝えて。『シャビィって人が会いたがってる。茉莉花っていう店に来てくれ』って。お店に入れてもらえないようなら、呼子のお姉さんに頼んで伝えてもらって」
口の中で小さく復唱しながら、少年は何度か頷いた。
「シャビィって人が会いたがってるから、マツリカって店に来い、だね。あんたに伝言を頼んだのが、そのシャビィって人?」
どうやらそこまで心配する必要はなさそうだ。リシュンは頷き、少年に前金を握らせた。
「そう。体の大きなお坊さんだった。この伝言も、シャビィさんから直に頼まれたことにしてね」
分かった。少年は頷くと、人ごみの中に潜っていった。
少年は店先で足止めを食らったが、店員が少年の話に乗ったのか、店からあのヘムという禅僧を連れ出してきた。ヘムが少年を問い質す様子は遠目にもなかなか凄みがあり、微塵にも慈悲の心を感じさせない。リシュンは万が一のためその場に屈みこんだが、伝言が上手くいったらしい。少年は無傷で戻ってきた。
「災難だったね。色をつけておいたよ」
リシュンが鳴朗通宝を三枚手渡すと、少年はその場にへたりこんだ。
「先に言ってよね。凄まれるのは慣れてるけど、まさかあんなチンピラみたいな坊さんがいるなんてさ」
あんたもあんまり関わらない方がいいよ。肩をすくめた少年に礼を述べると、リシュンは一旦その場を離れ、料理店の陰から様子を窺った。一人、二人、三人、四人、ヘム達が店から飛び出していくのを見届け、リシュンは赤い暖簾をくぐった。
「いらしゃ――先生、リシュン先生じゃないか! よくこんな店に来てくだすった――」
店員はリシュンの姿を認めるや否や、喜色をたたえて駆け寄った。
「ラティさん、お久しぶりです」
ラティは、リシュンが辻占を始めたばかりの頃からの常連客だ。よく焼けた馴染みの顔を見つけて、リシュンの顔もつい綻んでしまう。
「今、こちらにジェンドラ大師がみえていると思うのですが」
リシュンの質問に、ラティは目を丸くした。
「また坊様かい? 随分と人気者だねぇ」
リシュンは店の中にさっと目を走らせたが、何本もの燭台に照らし出された薄暗い室内に、門主の姿は見当たらない。
「また? 先客があったのですか?」
リシュンは眉を持ち上げて、白々しく訪ねてみた。
「そうそう、薄汚い小僧がやってきてね、坊様に伝えなきゃならない話があるからって、ええっと、誰だったかな……」
ラティは顎に手をあて、黒い大きな目で頭上を探った。手首に連なる腕輪が滑り、ぶつかり合って奏でる音は、涼しげに透き通っている。
「そうだ、シャビィだ。シャビィからの伝言だって言えば通じるはずだからって、聞かないからさ、仕方なくことづてたら、本当に坊様たちが皆色めき立っちゃって、今度は小僧を締め上げようとするじゃないか。あれにはびっくりしたよ」
何なんだろうね、そのシャビィってのは。首をかしげるラティに、リシュンは本題を持ちかけた。
「今、寺院はある厄介事に巻き込まれているのです。私もそのことでジェンドラ大師のお耳に今すぐ届けなければならない報せがあります。ラティさん、私を大師に引き合わせてください」
リシュンの言葉は、穏やかながらも鋭く冴えていた。今まで悩みを打ち明けるたび、自分を救い、導いてきた声に、ラティが抗う筈もない。
「先生、こっちだよ。坊様は奥の個室にお通ししたんだ」
生白いリシュンの腕を引っ張り、ラティは店の中に厚く立ち込める唐辛子とナツメグの香りを力強くかき分けた。化粧を落とし、地味な長衣を来ていても、肉付きの良いラティの体には、以前と変わらない活力が漲っているようだ。
ラティは赤い木戸を敲き、門主からの返事を得ると、一人で部屋に入って事情を説明した。木戸が厚いために話声はあまり聞こえてこないが、割にすんなり応じたのだろう。もめることもなく、ラティはすぐに部屋から出てきた。
「先生、坊様が、話聞かせてくれって」
「ありがとう。忙しいときに時間をとらせてしまって、ごめんなさい」
どれだけ間があるか分からないが、ヘム達が戻ってくるまでに話をつけられるかが勝負だ。リシュンは個室の扉を押し開き、悪僧の親玉と向き合った。
「お取り込み中失礼いたします」
リシュンは恭しく跪いた。
「いえいえ、よう来てくださった。弟子たちが戻ってくるまで手持ち無沙汰です故、どうか好きな席にお掛けくだされ」
恐れ入ります。リシュンが門主の正面に座ると、門主はリシュンに問いかけた。
「先ほど店のものが伝えてくれましたぞ。今日は何やら、急ぎの知らせがあるとか」
はい。リシュンは強く頷いた。はじめから本題に入れるならば、大きく時を稼ぐことができる。
「今朝、市場で不穏な噂を耳にしました。『白帯と奏の国境で、胡椒を持ち込もうとした男がいた』と」
門主は眉一つ動かすことなく、淡々と応じた。
「それは穏やかではありませんな」
大物だけあって、やはり簡単には崩れてくれない。シリュンは門主の間合いの内へと、さらに一歩踏み込んだ。
「その男は、捕まるまで何度も関を出入りしていたそうです。馬の背に大きな荷を積んでね。しかし問題は、その積荷です」
門主は力のこもった声で、荒々しく笑った。
「そうでしょうとも。なにせ、朝廷が売買そのものを取り締まっている、胡椒を積んでおったのですからな」
歯をむき出して吠える門主に、リシュンは鋭く切り替えした。
「いえ……それまでその男が運んでいたのは、護符だったということです。それも、ジャーナ宗総本山、スピアン・タキオ寺院の銘が入った」
スピアン・タキオ寺院の名は、リシュンからも逃げ場を奪った。ここまで迫れば、もう嘘を間違いに戻すことはできない。
「事情が飲み込めませんな」
門主の声は、若干強ばっている。
「手に入りにくいこともあって、奏国では総本山の護符が高値で取引されていると聞きます。その男にとっても、護符はかなり良い商売になったのでしょう」
結局のところ、人々を惹きつけるのは目先の現世利益である。話を聞いて、門主は渋い顔をした。
「嘆かわしい。その護符は元々ただで配っておるものです。それを金銭でやり取りするなど……」
苦々しい顔で首を振る門主に、リシュンは相槌を打った。
「ええ、浅ましい限りです。まして、男が護符は売りものではないことを利用して税関をすり抜けていたことを思えば、到底看過できるものではありません」
リシュンは、門主の顔を伺いながら、続けた。
「しかし、男の商売もやがて破局を迎えます。最近関所へ新たに赴任した役人が、男の荷を検め、胡椒を見つけてしまったのですよ……札が入っていたはずの、お守り袋の中に」
門主は大きく肩を落とし、かすれた声で小さく嘆いた。
「なんたる、なんたる罰当たりな」
老人のこめかみを、一滴の汗が伝うのを、リシュンは見逃さなかった。
「大師も既に気づいていらっしゃるものと存じますが、巷には既に様々な憶測が広がっております。今まで男が運んでいた護符にも、実は胡椒が入っていたのではないか。奏国で護符の値が上がったのは、胡椒の取引に利用されていたからではないか……」
リシュンは小さく息を吸い、わざと続きを引っ張った。
「護符には初めから、胡椒が入っていたのではないかと」
リシュンの鋭い眼差しは、門主の答えを朱塗りの壁に縫い付けた。
「まさか、いた、そんなことが……」
曖昧な言い逃れの上から、リシュンは大きな声を被せた。
「勿論です。特の高い禅師様達が、売僧などに手を染めようはずもございません。大方、黒幕は白帯の商人でしょう」
思わぬ助け舟に、門主は素早く飛びついた。
「ええ、そうですとも。そもそも噂が本当に流れているかどうかも分かりますまい」
平静を装う門主に、李俊はすかさず釘を刺した。
「いえ、私はこの話を、信頼の置ける海商から聞かされました……それに、噂が真かどうかは、この場合はさほど重要ではありません。それも、寺院の失墜を望んでいる、薫氏にとっては」
生唾を飲み込む音が、門主の喉を下ってゆく。
「薫氏はこの隙を見逃さないでしょう。このまま放っていれば、いずれ事態はジェンドラ大師、あなたの破滅につながるやもしれません」
薫氏の名を口にすると、門主はリシュンから目をそらした。
「ず、随分と剣呑な予言をなさるが、黒幕が別にいるなら、この身の潔白はいずれ明らかにされるでしょう」
門主の声は、心なしか上ずっている。ここまでくれば、あと一息だ。
「いずれでは遅すぎます。大師、薫氏の尖兵は、既にあなたの前に姿を現しているのでしょう?」
手負いの獣は燻る眼で、手練の狩人を睨み返した。
「儂は占いを信じませんが、もし、万が一に、ですぞ。あなたの読みが当たったとして、あなたなら、どうやって身を守りますかな?」
門主は用心深くリシュンを窺っているものの、既に手綱はリシュンの手の内にある。
「いずれでだめなら、今すぐ潔白を証明すればよいのです。先に申し上げたとおり、事件の黒幕は別のところにいます。護符に見せかけて関所を破り、胡椒を奏国で売りさばいている商人が、おそらくこのナルガの中に」
門主は何も言わず、小刻みに二回頷いた。
「……この黒幕は、どこかで護符から札を抜き取り、胡椒に詰め替えて運んでいる筈。ですから彼らは、一時的に護符の中身を数多く抱え込んでいます。この札の在り処に、真の黒幕が必ずいます」
大師の幸運をお祈りしています。険しい顔付きの門主を残したまま、リシュンは静かに立ち上がり、赤い部屋を後にした。