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号令を終えると教室内がわっと賑やかになった。話し声に、誰かを呼ぶ声。机を引く音が教室の床を震わせる。
「秋人、今日暇か?」
友人の誘いに首を振る。
「悪い」
右手を軽くあげ、教科書を放り込んだリュックを担いだ。「またな」と教室を出る。今日もかよ、そんな声が聞こえたが聞こえないふりをした。
思い思いの場所へ移動する人たちの間をすり抜け、階段を駆けおりた。階段をおりた先にある下駄箱なんか目もくれず、進行方向を変える。
目的地は決まっていた。校舎一階外れにある第二図書室。みんなが頻繁に利用する二階中央の第一図書室とは違い、人なんてほとんど来ない。たぶん存在していることすら知られていない。四半世紀も前に流行った本や、貸し出し禁止の本ばかりあるのだからだろう。けれど。
図書室の前、木製の古びた引戸の前に立ち、弾む息を整えた。口の中の水分が一気に奪われたが気にしている余裕なんてない。微かに滲んできた唾を飲み込んで、引戸に手をかけた。ぎゅっと目を瞑り、一呼吸おく。「いち、にの、さん!」の勢いで戸をスライドさせた。それから、そっとまぶたをあげる。
いた。
書棚の手前にある、ふたつの閲覧用のテーブル。窓際にある方の四人掛けのテーブルに髪の長い女子生徒がいた。いつもと変わりない定位置に座る彼女がゆっくりと視線をあげる。彼女がいたという嬉しさが緊張感へとすげ替わった。まるで審判がくだされるのをおとなしく待っているような感じだ。もちろん罪など犯していないし、今後もそのような予定はない。
彼女は僕の姿を確認すると、何事もなかったようにまたゆっくりと視線を本へと戻した。
セーフ。
緊張感を吐き出すように息を吐いた。
毎度のことながら、彼女にこの場所を共有することを許されたような気持ちになる。許すも許さないも彼女にはそんな思いなんて1ミリもないんだろうけれど。
深呼吸をして平然なふりをした。読書に戻った彼女の脇を通り過ぎ、窓際の低い位置に備え付けられた書棚の前にしゃがみこむ。
なにやっているんだ……
ここに目的の本があるわけじゃない。
同じ室内で同じ時間を過ごす。
ただそれだけで幸せだったはずなのに、気がつけば今日も予想だにしていなかった行動を起こしていた。
また、やってしまった。背後に回るなんてキモいよな。
同じメモ帳を買ってみたり、彼女が読み終わった本を読んだり。
目も当てられない行動に、膝へ顔を埋める。
バカなことをしてるって分かっている。欲求に従って動くだなんて単純で浅はかだ。もっと上手く立ち回る方法なんていくらでもあるはずなのに、なにも考えつかない。今まで聞き齧ってきた恋のアドバイスも、読み込んできた雑誌の恋愛特集記事もまったく役に立ちそうにない。
自分の愚かさを反省しつつ、適当な本を手に取った。そのまま何食わぬ顔をして、彼女とは別のテーブルにつく。彼女までとの距離はあるが、彼女と斜め向かいに座るようになる。
破れ掛けの表紙をそっと捲り、あくまでも本を読みにきたように振る舞う。まったく興味のない文字の羅列を指でなぞりながら、本来の目的である彼女を盗み見た。
色白な肌、ページを捲る細い指、瞬きする度に動く長いまつげ、時折赤みを帯びる頬。
今まで出会ってきた女の子とたちとは違う佇まいに目が奪われる。こんなに目立つのだから、図書室じゃなくても見つけることができてもいいはずなのに。クラスも名前も知らない。唯一わかるのは、上靴に入ったラインの色で同学年ということだけだ。休み時間の度に、あちこちの教室を覗いているが見掛けたことがない。
「あれ、ない」
思い耽っていると、彼女のものと思われる声で我に返った。彼女が自分の鞄の中を漁っている。
「おかしいな……」
探し物をしているようだ。
腕時計を見ると、いつも彼女が図書室から出ていく時間が差し迫っていた。きっとどこまで読んだか控えているメモ帳を探しているんだ。
困っている。助けてあげなくちゃ。
「これ、やるよ」
僕は立ち上がり彼女の前まで行くと、ブレザーのポケットに入れていたメモ帳を差し出していた。
「えっ……」
彼女の瞳が大きく見開かれる。僕の目も大きく見開いているに違いなかった。しかも彼女の手には板書用と思われるノートがある。
「えっと、これって……」
食い入るようにメモ帳を見つめる彼女のか細い声に冷や汗が流れる。
急に声を掛けられたから驚いた、ならいい。僕の手にあるのは、彼女とお揃いとなるメモ帳。同じものを持っているなんて知らない彼女は、僕が盗んだと思うかもしれない。いや、その方が良いのか。
どちらにせよ、咎められるはずだ。怒るか、気持ち悪がられるか。もう二度と現れないでと拒絶されてしまうかもしれない。
小刻みに震える手にヒヤリとした感触があった。彼女が細い指が触れたのだ。
「私が使っていたのと同じ。いいの?」
彼女から向けられる上目遣いに心が踊る。
「うん、いいんだ。妹に貰ったんだけど、使い道に困っていて」
彼女のまっすぐな瞳から目を離さずに、プレゼントなんてくれるはずもない妹を言い訳に使う。
「妹さんから? だったらお気持ちだけで……」
ブンブンと首を振る。
「使って貰えなければ捨てるだけだから!」
無理矢理、彼女に押し付けた。
彼女は困ったような表情を浮かべたが、微笑んでお礼の言葉をささやいた。
やった!
脳内でガッツポーズを取る。テンション高めに「ほらほら、時間がないんでしょ?」と彼女を追いたてた。
「そうだった」
慌てた彼女は、あげたばかりのメモ帳に本のページを書き込む。
「本は僕が戻しておくから」
でも、と申し訳なさそうな彼女の背を押して、廊下に出した。
「いろいろ、ありがとう」
彼女は改めてお礼を言うと、振り返っては何度も頭を下げながらふたつ隣にある保健室へと入っていった。
委員会かな?
彼女が読んでいた本を手に取り、元あった場所を探す。
こんな時間に?
書棚に並ぶ本の背表紙をなぞる指が止まった。
保健室登校ってこと?
つまり……、教室に入れないってこと?




