第1話(続き):魔窟への登校
第1話(続き):魔窟への登校
横浜の街を見下ろす「港の見える丘」。そのさらに奥、鬱蒼とした森を切り開いた先に、私立天詠学園はあった。 明治時代の洋館を思わせる赤レンガの旧校舎と、無機質なガラス張りの新校舎。新旧が奇妙に入り混じるその威容は、学び舎というよりは要塞に近い。
「……なんだ、この耳鳴りは」
正門をくぐった瞬間、蓮は眉をひそめた。 キィィン、と高い音が鼓膜の奥を刺激する。周囲の生徒たちは平然としているが、蓮の肌には、まるで高圧電流の流れるフェンスのそばに立った時のような、ピリピリとした不快感がまとわりついた。 ――まるで、巨大な檻の中に入っていくようだ。
「――あの、すみません」
不意に、鈴を転がしたような声がかかった。 蓮が立ち止まり、視線を落とす。そこには一人の少女が立っていた。 艶やかな黒髪は腰まで届く長さで、肌は透けるように白い。制服の着こなしも乱れ一つなく、まさに「深窓の令嬢」といった風情だ。
「これ、落としましたよ」 彼女が差し出したのは、蓮が生徒手帳だった。ポケットから滑り落ちていたらしい。 「……ああ。悪いな」 蓮は礼を言って受け取ろうとした。 だが、その手が触れ合った瞬間。
(冷たい――?)
彼女の指先は、春の日差しにはそぐわないほど冷え切っていた。 それに、匂う。 風に乗って漂うシャンプーの香りの奥に、微かに混じる線香の匂い。そして、もっと生々しい……鉄錆のような、血の匂い。
「……あんた、怪我でもしてるのか?」 思わず蓮が問うと、少女はきょとんと目を丸くし、次いで花が咲くように微笑んだ。 「いいえ? 至って健康ですよ。……ふふ、強面なのに、お優しいんですね」 彼女はペコリと優雅に一礼する。 「私は2年の日向 葵です。貴方は転校生の若槻くんですよね? これからよろしくお願いしますね」
彼女――葵が歩き去っていく。 その背中を見送りながら、蓮は自分の掌に残る冷たい感触を握りしめた。 一見、完璧な大和撫子。だが、蓮の野生の勘が告げていた。あの少女は、ただの女子高生ではない、と。
2年C組の教室に入った瞬間、空気が凍りついた。 ガヤガヤとしていた教室内が、蓮の一歩とともに静まり返る。 「……おい、あれが転校生か?」 「マジかよ、あの目つき……絶対ヤバい奴じゃん」 「どこの組の若頭だよ……」
ひそひそと交わされる囁き。 予想通りの反応に、蓮は内心でため息をつきながら、黒板に名前を書き、指定された窓際の一番後ろの席へと向かった。 孤立無援。まあ、いつものことだ。
「よっ! デカいな自分!」
その沈黙を破ったのは、快活な男の声だった。 隣の席の男子生徒が、屈託のない笑顔で話しかけてきたのだ。短く刈り込んだ髪に、スポーツマンらしい浅黒い肌。制服の下からでもわかる分厚い胸板をしている。
「俺は東雲 剛。よろしくな、若槻!」 「……俺の顔を見てビビらないのか?」 「ん? ああ、確かに目つきは悪いけどよ」 剛はバシバシと蓮の肩を叩いた。 「邪気はねえよ。俺、そういうの鼻が利くんだわ。これからよろしくな、相棒!」 底抜けに明るい男だ。蓮は少しだけ肩の力を抜いた。「……ああ、よろしく」
その時だった。 剛とは反対側、窓際の席から、本をめくる乾いた音がした。
「……うるさいわよ、駄犬」
氷のように冷ややかな声。 そこには、色素の薄い銀髪を揺らす美少女が座っていた。 手には分厚い洋書。こちらを見向きもせず、長い睫毛が落とす影が、彼女の美貌に憂いを帯びさせている。 クラスメイトたちが遠巻きにするその雰囲気は、まさに「高嶺の花」というより「氷の城壁」だ。
「げっ、氷室……。朝から厳しいな」 剛が苦笑いする。彼女が氷室 雫か。 蓮が会釈をしようとすると、雫はようやく顔を上げ、ガラス玉のような瞳で蓮を射抜いた。
「……貴方」 「あ、ああ。若槻だが」 「死相が出ているわよ」 「は?」 「忠告してあげる。放課後は寄り道せずに帰りなさい。……死にたくなければね」 それだけ言うと、彼女は再び本に視線を落としてしまった。
変な学校だ。 おしとやかだが血の匂いのする委員長。 妙に「鼻が利く」と豪語する筋肉質の隣人。 初対面で不吉な予言をする氷の美少女。
そして極めつけは――。
「はーい、ホームルーム始めるわよー。席につきなさーい」
気怠げな声と共に教室に入ってきた、担任教師だった。 白衣の下に、胸元が大きく開いたワインレッドのシャツ。紫煙の匂いと、甘い香水を漂わせたその女性――九条 桜子は、教壇に立つなり、面白そうに蓮を見やった。
「あら、いい男が入ったじゃない。……ふふ、この学園は『退屈』しないでしょう? 若槻くん」 その妖艶な笑みに、蓮は背筋に冷たいものが走るのを感じた。 彼女もまた、知っている側の人間だ。
(……一刻も早く、家に帰って妹たちの顔が見たい)
蓮の切実な願いとは裏腹に運命の歯車は既に回り始めていた。
放課後、迎えに来るはずの妹・琴音の姿がどこにもないことを知るまでは。
放課後のチャイムが鳴り終わっても妹の琴音は待ち合わせの校門に現れなかった。
スマホを取り出し電話をしてみる。
無機質な呼び出し音が虚しく響くだけだ。
「……嫌な予感がする」
蓮は走り出した。
朝、校門で感じた不快な耳鳴りが今は警鐘のように頭の中でガンガンと鳴り響いている。
耳鳴りが大きくなる方へ無意識に向う。
向かっているのは学園の最奥で鬱蒼とした木々に囲まれた「旧校舎」だ。
旧校舎に関しては昼間クラスメートから少し聞いていた。
もう何年も使ってない旧校舎は生徒の立ち入りは禁止されており、廃墟になっていると。
そんな行ったこともない場所になぜか分からないが行かなければならないと本能が叫んでいた。
立ち入り禁止のロープを飛び越え、廃墟と化した旧校舎の扉を警戒しながらゆっくりと開ける。
鼻をつく黴と埃の臭いがする。そして――濃厚な鉄錆の臭気。
「琴音?」
呼びかける声は、広大なエントランスホールに吸い込まれた。
夕闇が差し込むホールの中央の吹き抜けの天井から無数の白い糸が垂れ下がっていた。
その網の中心に目をやると制服姿の少女が絡め取られていた。
「……う、ん……」
弱々しい声が聞こえた。
「琴音!」
「おにい、ちゃん……」気を失いかけながらも、琴音がうわ言のように兄を呼ぶ。
その体には粘着質の糸が幾重にも巻き付き、白い肌を赤く食い込ませていた。
そして、そのすぐ側に「それ」はいた。
「あらァまた美味しそうな雄が来たわね」
天井に張り付いていた影が、ボトりと音を立てて床に落ちた。
上半身は着物を着崩した艶やかな美女。だが、帯から下は、剛毛に覆われた巨大な蜘蛛の腹部と、八本の節足だった。
「土蜘蛛」の眷属。その複眼が、いやらしく蓮をねめ回す。
「いい体……。妹ちゃんを食べる前に、あなたで腹ごしらえしちゃおうかしら」 「なんだと……!」
蓮の全身の血が静かに滾る。
恐怖はない。あるのは妹を傷つけられたことへの純粋な殺意だけだ。
だが、丸腰の蓮が飛びかかろうとした、その刹那。
ヒュンッ!
風を切り裂く鋭い音が響き、蜘蛛女の目の前の床が爆ぜた。
「――下がりなさい、一般人」
凛とした、だが鋭く冷たい声。
土煙の中から現れたのは、セーラー服の少女――日向 葵だった。
しかし、その手には身の丈を超える巨大な薙刀が握られている。朝の清楚な雰囲気は微塵もない。瞳からはハイライトが消え、静かに蜘蛛女を見下ろしている。
「あ、葵……さん?」 「……チッ。結界の綻びから入り込んだ害虫が一匹。生徒会の不手際ですね」
葵は蓮を一瞥もしない。
ただ、ゆらりと薙刀の石突きを床に打ち付ける。
「私の神聖な学園を汚すゴミは――消毒が必要ね」
「生意気な小娘がァ!」 蜘蛛女が激昂し、口から白い粘液弾を連射する。
蓮が「危ない!」と叫ぶ間もなく、葵は舞った。
「遅い!」
銀閃。 薙刀が美しい軌跡を描き、飛来する粘液弾を空中で切り払う。
そのままの勢いで、葵は重力を無視したかのような跳躍を見せた。
「秘伝・神楽――『逆さ百合』」
回転しながらの袈裟斬り。 ズパンッ、と濡れた音が響き、蜘蛛女の剛毛の脚が二本、宙を舞った。 「ギシャアアアアアッ!?」 悲鳴を上げる化け物。緑色の体液が床にぶち撒けられる。
強い!
蓮は呆然とその光景を見ていた。
あのおっとりとしたクラス委員長が、緑の返り血を浴びても表情一つ変えず、淡々と事務的に化け物を解体していく。
「あら、まだ死なないなんてしぶといのね」
葵は口元に微笑みさえ浮かべていた。
だが、その目は笑っていない。 「次は確実に首を落とします。」
薙刀の一閃
勝負あった、かに見えた。 だが、化け物は狡猾だった。
葵がトドメの一撃を放とうと踏み込んだ瞬間、蜘蛛女は切断された脚から極細の糸を射出し、天井の琴音を人質に取るように引き寄せたのだ。
「動くな!この小娘の首をへし折るぞ!」 「ッ……!」
葵の薙刀がピタリと止まる。 その一瞬の隙を、怪異は見逃さなかった。 蜘蛛女の手から肌を突き破って鋭利な毒針が伸び、葵の腹部を狙って突き出される。
「死ねェ!」 「くっ――」
蜘蛛女の動きが想像より速く回避が間に合わない。
葵が苦悶の表情で目を細めた、その時。
ドスッ。 鈍い音が肉を貫いた。
「……え?」
葵が目を開ける。 腹部に痛みはない。 代わりに目の前にあったのは、彼女を庇うように立ち塞がり、左肩を毒針に貫かれた蓮の背中だった。
「わ、若槻……くん……?」 「ぐ、ぅ……!」
蓮は歯を食いしばり、貫通した毒針を素手で掴んでいた。 鮮血が滴り落ちる。傷口から熱い毒が入り込み、視界がぐらりと歪む。
「な、何をしているんですかバカですか貴方は! 逃げろと言ったのに!」 葵の悲鳴のような罵倒。 だが、蓮はニヤリと笑い、血の混じった唾を吐き捨てた。
「……目の前で、誰かが串刺しにされるのを……黙って見てられるかよ」 「なっ……」
葵が絶句する。 蜘蛛女が嘲笑う。「馬鹿な雄ねえ。じゃあ、お望み通り二人まとめて喰ってあげるわ!」 毒針を引き抜き、さらに巨大な顎を開いて蓮の頭を噛み砕こうとする。
死ぬ。 そう思った瞬間、蓮の中で何かが切れた。
(ふざけるな…)
妹を攫われ。 助けに来た少女を傷つけられ。 自分もここで死ぬ?
(――ふざけるな化け物…!)
ドクン、と。 蓮の心臓ではなく、右目の奥が脈打った。
世界の色が反転する。 時間は泥のように遅くなり、蓮の右目から、黄金の光が溢れ出した。
「――【跪け】」
蓮が短くそう呟いた瞬間。
ズウゥゥゥゥンッ!!
旧校舎全体を、巨大な重力が押し潰したかのような轟音が揺らした。
それは物理的な重さではない。 格の違い。魂の質量の差。 「王」の前に立った者が感じる、根源的な畏怖の具現化だった。
「ギ、……ア、ガ……!?」
蜘蛛女の動きが止まる。いや、動けない。 まるで目に見えない巨人の手が、化け物を床に縫い付けているかのようだ。八本の脚がミシミシと悲鳴を上げ、自らの重みに耐えきれずにへし折れていく。
「な、なに……これ……?」 背後にいた葵もまた、その光景に戦慄していた。 自分たちには影響がない。しかし、目の前の怪異だけが、蓮の視線一つで圧殺されようとしている。
蓮の右目は鮮烈な金色に輝いていた。 瞳孔が縦に裂け、人のそれではない。
神話の龍の如き威光を放っている。
「俺の家族に手を出して、タダで済むと思うなよ」
蓮が一歩踏み出す。 それだけで、蜘蛛女が「ヒィッ」と情けない悲鳴を上げて失禁した。 捕食者と被食者の立場が、完全に逆転していた。
「葵さん」 蓮は振り返らずに言った。声色は普段通りだが、そこには逆らえない響きがあった。
「こいつをやれるか」 「……ッ、はい!」
葵の戦士としての本能が、恐怖をねじ伏せて体を動かす。 葵は薙刀を構え、金色の瞳に見据えられて動けない蜘蛛女へと疾走した。
「天詠流・退魔剣――『彼岸送り』!」
渾身の一閃。 今度こそ、化け物の首が宙を舞い、黒い霧となって消滅していった。
同時に、天井を覆っていた糸の結界が解け、琴音がふわりと落ちてくる。 「っと……」 蓮は滑り込むようにして、妹の体を受け止めた。 温かい。息はある。ただ眠っているだけだ。
「よかっ……た……」
安堵した瞬間、全身の力が抜けた。 金色の輝きが失われ、視界が暗転する。 毒と、未知の力の反動が一気に押し寄せてきたのだ。
「ちょっ、若槻くん!?」
薄れゆく意識の中で、普段の清楚な顔に戻って慌てふためく葵の顔が見えた。 ……戦闘のときより、こっちの方が可愛いな。 そんな場違いな感想を抱きながら、蓮の意識は深い闇へと沈んでいった。




