第1話 凶眼の兄と二人の妹
「――ッ!」
若槻蓮は、喉の奥から漏れるうめき声とともに目を覚ました。 心臓が早鐘を打っている。背中は寝汗でぐっしょりと濡れていた。 視界が明滅する。 網膜に焼き付いているのは、どこかの暗い路地裏と、食い散らかされる少女の残像。
(……またか。最近、この手の夢ばかり見る)
蓮は荒い息を吐きながら、額の汗を拭った。 不吉な夢だ。まるで誰かの最期の記憶を、勝手に受信してしまったかのような生々しさがある。 だが、その陰鬱な空気を吹き飛ばすように、不意に重たい衝撃が腹部に降ってきた。
「おっはよー! お兄ちゃん!」
ドスン、という音と共に、布団の上からダイブしてきたのは、三女の結衣だった。 「ぐっ……! ゆ、結衣……朝からボディプレスはやめろ……内臓が出る」 「えへへ、だって今日から新しい学校でしょ? 遅刻しちゃうよ!」
結衣は中学生になったばかりだというのに、遠慮というものを知らない。パジャマ姿のまま蓮の腹の上で無邪気に笑っている。 そこへ、パタパタとスリッパの音が近づいてきた。
「こら結衣! お兄ちゃんが苦しがってるでしょ、降りなさい!」
呆れた声と共に部屋に入ってきたのは、次女の琴音だ。 エプロン姿にお玉を持った完全武装の彼女は、蓮の妹ながら、我が家の実質的なお母さんポジションである。
「まったく……お兄ちゃんも、いつまで寝てるの。転校初日から遅刻なんてしたら、ただでさえ悪い目つきが余計に悪印象だよ?」 「ほっとけ。生まれつきだ」
蓮は結衣をどかして身を起こし、洗面台の鏡を覗き込んだ。 そこに映っているのは、常に機嫌が悪そうな、鋭すぎる三白眼を持つ男の顔だ。 身長は180センチ近くあり、無駄に筋肉質。おまけにこの目つきだ。前の学校でも、ただ歩いているだけで「喧嘩を売っている」と誤解され、幾度となくトラブルに巻き込まれた。
(……俺はただ、平穏に暮らしたいだけなんだがな)
ため息をつきながら、蓮は冷水で顔を洗った。 両親は海外赴任中で不在。この横浜の祖父の家――今は空き家となっていた古い日本家屋――で、兄妹三人だけの生活が始まって一週間が経つ。 妹たちを守らなければならない。それが、長男である蓮の絶対的な行動原理だった。
「ほらお兄ちゃん、ネクタイ曲がってる」
リビングに降りると、琴音が甲斐甲斐しく蓮のネクタイを直し始めた。 朝の光に透ける栗色の髪。ふわりと香る味噌汁の匂い。 テーブルでは、結衣がトーストを齧りながらテレビの占いコーナーに一喜一憂している。
「あーっ! 今日のさそり座、最下位だって! 『失くし物に注意、暗い場所には近づかないで』だってさ。お兄ちゃん、さそり座だよね?」 「占いなんて信じない主義だ」 「むー、可愛げがないなぁ」
琴音がネクタイをキュッと締め上げ、蓮の胸をポンと叩いた。 「はい、完成。……うん、黙っていればイケメンなんだけどねぇ」 「余計なお世話だ」 「ふふ。行ってらっしゃい、お兄ちゃん。私たちも片付けたら出るから」
二人の妹の笑顔。 それは蓮にとって、何よりも代えがたい「平和」の象徴だった。 先ほどの悪夢――血なまぐさい気配が、この穏やかな食卓に入り込むことなど、あってはならない。
「……ああ、行ってくる」
蓮は鞄を手に取り、玄関を出た。 目指すは、港を見下ろす丘の上に建つ名門校――私立天詠学園。 だが、蓮はまだ知らない。 その学園が、単なる進学校などではなく、人の世の闇を祓うための「最前線」であることを。




