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09:脱兎の如く

 朝の光がリネアの部屋に差し込み、薄いカーテンを透かしながら、室内を淡い金色に染めていた。

 静けさは、昨夜の喧噪をすっかり洗い流してしまったように思える。もっとも、その喧噪の元凶は、今ごろどこかで縮こまっているに違いない。


 リネアはソファに腰を下ろし、横で堂々と寝そべっている巨大犬キャンディの頭を撫でていた。撫でれば撫でるほど、犬は「もっと」とばかりに体重を預けてくる。


「昨日は、ご苦労さま」


 誰に向けた言葉かは曖昧だ。キャンディか、もしくは昨夜、書類の山と共にうなだれていた夫か。

 指先が止まり、リネアはギデオンに想いを馳せる。

 金持ちを鼻高々に振りかざし、鏡の前で自分の横顔に酔いしれる男。美貌はある、身なりも整っている。だが仕事は嫌い、面倒は嫌い、努力はもっと嫌い。そして豊かな胸が大好きだと、分かりやすいにもほどがある嗜好まで備えている。愛人との逢瀬を妻に見せつける材料に使おうとした厚顔ぶりは、むしろ感心してしまう。


(本当に、どうしようもない人)


 ため息をつきながらも、その吐息の奥には微かな笑みが混じっていた。怒りよりも呆れが勝り、呆れた先にはどうにも消しきれない可笑しみが残る。

 ギデオンを見ていると、なぜか思い出すのだ。

 自分の尻尾を追いかけ、くるくる同じ場所を回っては座り込み、また思い出したように回り始める間抜けな犬の姿を。


 キャンディの耳の後ろをくすぐりながら、次はどう躾けようかと、リネアは考え込む。


 昨日は鞭と犬と、ちょっとした威圧で十分だった。

 しかし、あれは序の口だ。躾は段階が命である。初手で強すぎても折れてしまうし、緩すぎてもつけあがる。


(まずは椅子に座る習慣。次に書類の読み方。数字と文字の区別。……その前に、逃げない心構え)


 課題の山を前にしても、リネアの胸に重さはなかった。むしろ、小さく灯る火のような愉しさがあった。あの男をまともな夫にする作業は、確かに面倒だが、面倒であるほど興味深い。

 キャンディが鼻先でリネアの膝をつついた。

 真剣そのものの眼差しでこちらを見るその表情は、昨夜の光景を振り返っているように見える。


「キャンディ。ギデオンのこと、どう思う?」


 犬はわずかに首を傾げて、ふん、と鼻を鳴らした。評価は芳しくない。


「そうよね。あなたの方がよっぽど利口だもの」


 そう言いながら、リネアはキャンディの頭をもう一度撫でた。温かな毛並みに触れながら、彼女の瞳に柔らかな色が宿る。


(でも……)


 反抗し、子供のように駄々をこね、不服そうに唇を尖らせたかと思えば、追い込まれると肩を落として「やります」と言う。

 そんな昨夜のギデオンの表情が鮮やかに蘇る。

 自尊心が崩れた後に、無力さが透けたあの顔は、なかなか悪くなかった。リネアは、知らず知らずのうちに唇の端を上げていた。


「とりあえず、今日も仕事をしてもらいましょうか。キャンディも昨日みたいに、一緒に見張ってね」


 その声音には、隠しきれない愉悦がそっと滲んでいた。キャンディは小さく声を漏らし、尻尾で床をぱしんと一度叩いた。やる気は十分らしい。頼りになる忠犬だ。

 その時、遠慮がちなノックが響いた。


「失礼いたします……」


 部屋に入ってきたは、真面目さだけは折り紙つきといった風の、若い使用人だった。髪の分け目まで几帳面に整え、両手を胸の前で固く組んでいる。


「リネア様。……あの……お話がありまして……」

「どうしたの?」

「……ギデオン様が、どこにもおられません」

「どこにも?」

「はい。この館の隅から隅まで探しましたが……。影も形も見当たらなくて……」


 使用人は申し訳なさそうに視線を落とした。言葉にするまでもなく、彼の肩の縮こまり具合がすべてを語っていた。


(逃げたのね……)


 昨夜、鞭と書類の山に挟まれ、死んだ魚のような目をしていた男だ。

 あの後、心がぽきりと折れたとしても驚くに値しない。むしろ、折れずにいたらそちらの方が奇跡だ。


「分かった。私も探してみるわ」


 そう告げると、使用人はほっとしたように目を伏せ、「ありがとうございます」と、深々と頭を下げた。緊張から解き放たれたのか、退室するときの足取りは、先ほどよりもわずかに速い。


 扉が閉じると、廊下の気配がすっと遠のき、部屋にはいつもの静けさが戻った。張りつめていた空気が、薄い膜のようにすべり落ちていく。リネアは軽く息をつき、キャンディの方へ視線を向けた。


「……家出?」


 言葉にした瞬間、胸の内で可笑しさがじんわり広がった。

 自己愛に関しては王族でも目を伏せるほど豊かで、自分の見栄えには惜しみなく情熱を注ぐくせに、困難となれば脱兎のごとく姿を消す。外見と精神の釣り合いの悪さにかけては、彼の右に出る者はいないだろう。


 キャンディがごろんと寝返りを打ち、リネアの膝に鼻先を乗せてきた。


「さて、どうしましょうね」


 逃げた先を探すのか。戻ってきた際の次の躾を考えるのか。それとも、逃げた行為そのものに点数をつけるべきか。どれを選んでも、ギデオンにはたっぷりと教育を施す余地がある。

 リネアは頬に落ちた髪を、ゆっくりと耳にかけた。彼女の声音には、追う気配も、急ぐ気配もなく、余裕のある静けさだけが漂っていた。

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