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06:恋に落ちる瞬間

「……ま、まぁ、だから、えっと。その好きかどうかって、言われると……その……。ベルには、よく、分からなくて。殴られない男の人を、どう呼べばいいのか……」


 衝撃を吞み込み、言葉を探して最後は少しだけ笑ってしまう。

 自嘲とも諦めともつかない笑いだったが、リネアはそれを責めることはなかった。

 代わりに、ふと椅子から身を乗り出す。怒られると身構えていた所に、彼女の手が伸びてきて、ベルの頭に触れた。


「……っ」


 それは予想していたのとは、まるで違い、優しい手のひらだった。指先が髪をすくい、軽く撫でる。

 痛みはどこにもない。ただ、温かさだけが静かに降ってくる。


「教えてくれて、ありがとう。ベル」

「え…………」


 リネアの声は、先程までよりも、優しかった。ベルは目を丸くする。頭を撫でられながら「ありがとう」と言われる経験など、これまでの人生に存在しなかったからだ。


「でもね、ベル。身体がきつくなったり、嫌になったりしたら、その時はちゃんと教えて。相手が誰でも、我慢しなくていいのよ」

「……そんなこと、言って、いいの?」

「いいの。だってあなたは、物じゃないもの。私の夫に抱かれている女の人でしょう? 大事に扱ってもらわないと困るわ。……それと」


 リネアは指を離し、ベルの頬を一度だけ軽くなぞった。くすぐったさに、ベルは小さく肩をすくめる。


「お金のことは、私からギデオンに言っておくわ。あなたが生活に困らないくらいは、きちんと払うようにって。金銭の責任は彼と、私にもあるもの」

「そんな……。そこまでして貰うなんて……」


 ベルは慌てて首を振る。

 首を振りながら、頭の中では、今まで見てきた女たちの顔が次々と浮かんでは消えた。

 嫉妬に狂って髪を引きちぎる妻。涙で化粧を落として叫ぶ婚約者。ナイフを隠し持っていた誰か。

 そのどれもが、愛人に向けた反応として、ベルの中ではむしろ常識だった。

 しかし目の前の新妻は、そのどれにも当てはまらない。

 まるで、別の物語から間違えて紛れ込んできた主人公のようだ。


「怒って……いないの?」


 ベルは、恐る恐る尋ねた。ここまで聞いてなお、その一点が信じられない。


「怒っているわよ?」

「……っ」


 心臓が、どきりと跳ねる。

 やっぱり怒っていた。それはそうだ。夫が愛人と絡み合っている所を見たのだ。怒らない方が、いろいろと心配になる。しかしリネアは、そのまま微笑んだ。


「怒っているのは、あなたに対してじゃないの。……あなたを取り巻く、昔の世界に対してかな。女の子が殴られても、誰もおかしいと思わないような世界に」


 その言い方は、不思議なほど静かだった。

 世界に怒っていると言いながら、リネアの目は氷の下でゆっくり流れている水のように、冷たく澄んでいる。


「だから、ベル。あなたは、自分を安くしないで。殴られないだけで十分だなんて、そんな計算は、もういらないのよ」

「……そんなふうに、考えた事なかったわ」


 ベルは自分の足元に目を落とした。

 粗末な靴。少し擦り切れた裾。娼館を出てからも、贅沢には慣れないようにと自分に言い聞かせてきた。粗末なままでいれば、何をされても仕方ないような気がして、すこしだけ楽だったからだ。

 リネアは立ち上がり、ティーポットを持ってベルのカップに紅茶を注ぎ足した。


「ケーキ、食べて?」

「あ……はい。いただきます……」


 フォークを手に取り、一口すくうと、口の中に甘さが広がる。

 あれ程までに感じていた恐怖は、すっかり消えていた。

 リネアは、自分の分には手をつけず、ベルが食べる様子を静かに眺めている。観察されているはずなのに、不思議と居心地は悪くない。むしろ、ちゃんと見ていてくれる、という安心感がある。

 やがて、カップもケーキも空になった。


「そろそろ、行きましょうか」


 リネアが立ち上がりながら言う。


「ど、どこへ……?」

「今日はここまで。あなたには、少し休んでもらわないと。ギデオンの相手も、体力が要るでしょう?」


 ベルは、ふふっと小さく笑ってしまった。

 笑ってから、自分が笑っていることに驚く。こんなふうに、緊張の後で笑う感覚は初めてだった。

 扉へ向かおうとした時、リネアがふとベルを振り返った。


「ベル」

「はい」

「ちょっと来て」


 呼ばれるまま、ベルはリネアの傍に歩み寄る。

 すると流れるような仕草で、リネアはそっと手を伸ばし、ベルの額へ唇を触れさせた。


「……っ!?」


 温かいものが、軽く触れて、すぐ離れる。

 それは痛みとは真逆の感覚だった。柔らかくて、甘くて、けれど慣れていない分だけ、心臓に直接響いてくる。


「あなたのこと、大事にするつもりよ。ベル」


 耳元で、小さな声が落ちてくる。


「だから、もう自分を粗末に扱わないで。ギデオンを好きに使っていいわ。それに、私にわがままを言いに来てくれて構わないから」


 囁きの最後に、「ね?」と、少しだけ甘さを含んだ問いかけがつく。

 その一言に、ベルの胸は高鳴った。


(なに、これ)


 頬が一気に熱くなる。耳どころか、うなじまで火をつけられたみたいに熱が駆け上がる。


 心臓はきゅっと痛むほど速く、けれど妙に心地よい脈が、身体のあちこちで跳ねはじめる。


 ギデオンに抱きしめられた時とは、まったく違う。焦げるような熱でも、求められる圧でもない。

 ただ触れられただけで、息の仕方を忘れるような、ベルには初めての種類の鼓動だった。

 切なさも、満たされる感覚も、嬉しさも、すべてがひとつに溶け合い、それが恋なのだと気がついた。


「……リネア、様……」


 呼んだ声が震えている。空気に触れただけで壊れそうなほど弱い。ベルは、自分がこんな声を出せるとは知らなかった。

 リネアは「なあに?」と首を傾げる。その仕草がとても綺麗に見えて、もう駄目だった。彼女の髪が揺れただけで、自分の世界がぜんぶ傾いた気がした。


「……その……」


 好きです、という言葉は喉でつかえた。代わりに、もっと小さな言葉を選ぶ。


「ありがとうございます」

「どういたしまして、そしてこちらこそ、ありがとう。これから、よろしくね。ベル」

「はい」


 ベルは、こくりと頷いた。

 そのままサロンを出て、廊下に出た途端、足が少しふらついた。額に残る感触を、指先でそっと押さえる。


 その日、ベルは世界で一番危険なものがナイフでも拳でもなく、優しいキスと甘いひと言であることを、身をもって知ることになった。

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