05:罪と罰
ギデオンが「腹ごなし」を済ませて、さっさと着替えに消えてしまうと、寝室にはベルひとりが残された。
ぐちゃぐちゃになったシーツと、まだ温かい体温と、扉の向こう側に消えていったギデオン。
そのどれよりも、ベルの胃をきりきり締めつけているのは、先ほどのリネアの横顔だった。
(よりによって新妻に見られただなんて、終わったわ……。怒られる…ううん、刺されるかも……)
震える指で服を着ながら、ベルは鏡を覗き込む。
乱れた髪、赤くなった頬は、妻に見せて良い姿ではない。
かといって、今さら何を整えたところで、さっきの光景が帳消しになるわけでもない。
(いっそ、もっとひどい格好でいた方が、哀れまれて許してもらえたりするのかしら……)
そんな甘い期待が、かすかに頭をかすめたが、リネアの落ち着いた瞳を思い出し、すぐに打ち消した。
ベルの人生経験から言って、彼女のようなタイプに姑息な演技など通用しない。
足はまだ少し震えていたが、それが情事のせいなのか恐怖のせいなのか、自分でも判断がつかない。たぶん両方だろう、と雑に結論づけて、部屋の外に出た。
廊下に出ると、使用人たちがいつものように忙しなく立ち働いていた。
誰もベルを咎めない。誰も蔑んだ目を向けない。視線はこちらをかすめて、すぐ日常へ戻っていく。
サロンへ続く廊下は、やたらと長く感じられた。
途中で、矢張り逃げようかと何度も思う。だが逃げて行ける先といえば、せいぜい屋敷の外か、娼館か、樹海の森かの三択である。どれも、あまり魅力的な未来とは言えない。
意を決して部屋の扉をノックした。
「ベ、ベルです……」
返事を待つ間の数秒が、ひどく長い。やがて澄んだ声が返ってきた。
「どうぞ、入って」
扉を開けると、そこにはベルが想像していた断罪の場とは、似ても似つかない光景が広がっていた。
朝の柔らかな光が差し込むサロンには、湯気を立てる紅茶と、きちんと切り分けられたケーキが二人分。
その向こう側の椅子に、リネアが腰掛けていた。
蜂蜜色の髪が、光を受けて淡く揺れる。凛とした面差しに、射抜くようにこちらを見つめてくる青の双眸。視線の奥で何かを量り取られているようで、息が詰まる。
(ああ……やっぱり、刺される)
ケーキの甘い香りも、ポットから立ちのぼる湯気も、すべて最後の晩餐にしか見えない。
「どうぞ、座って」
リネアが言った。
ベルは慌てて一礼し、勧められた椅子に腰を下ろす。膝の上で手を組もうとして、指が上手く噛み合わない。
「あなた、ベルって言うのね。私はリネアよ。よろしくね」
「は、はい。リネア様……。えっと、その……先ほどは、本当に、その……」
謝罪の言葉を探して、口の中でころころ転がしているうちに、リネアがそっと手を上げた。
「ごめんなさい、その話は後で聞くわ」
そう言いながら、リネアは紅茶を注ぎはじめた。細い指先から、香り高い茶色がカップへ滑り落ちる。
「お砂糖は?」
「え、あの……。一つで、お願いします」
「ミルクはいるかしら?」
「だ、大丈夫。その、紅茶だけで、十分です」
もっとも、今のベルにとって十分なのは紅茶ではなく空気だ。
緊張するたびに呼吸が浅くなり、肺が小さくなっていく気がする。
カップを受け取り、口をつける。それなのに、恐怖のせいで、何を飲んでいるかベル自身よく分からない。
「ねえ、ベル」
名前を呼ばれて、ベルの肩がぴくりと跳ねる。
「……は、はいっ」
「身体は、大丈夫? 無理をさせられてはいない?」
想像していた質問とは、まるで違う角度からの一撃だった。
ベルはぽかんと口を開き、リネアの顔を呆然と見つめてしまう。
「からだ……?」
「痛かったり、気分が悪くなったりしていないかっていう意味よ」
「い、いえ……大丈夫。痛くは、ない…です」
実際の所、ベルは痛みよりも、ギデオンが十中八九、自分だけ先にスッキリしてしまう問題の方が気になっていた。だが、それを妻に申告した所で事態が改善するとは思えず、無難な沈黙で蓋をする。
「そう、良かったわ」
リネアは、少し微笑んで息を吐いた。
その表情が本当に心配していた人間のものにしか見えなくて、ベルはますます混乱する。
「それとね、もう一つ。お金は、きちんと受け取っているの?」
「……お金?」
「ギデオンから。あなたが、彼に付き合ってくれている分のお金よ」
「えっと……その……」
ベルは視線をさまよわせ、曖昧な笑みを浮かべる。
「もらっては、いる……けれど、そんなに、たくさんでは、ないわ。でもお屋敷にいられるし、ごはんも出るから、それで十分だから……」
リネアはカップに口をつけてから、軽く首をかしげた。
「そう……。つまり、住み込みでなければ暮らしていけない程度の額、ということなのね?」
「……はい」
「じゃあ、どうしてギデオンに抱かれているの? お金がたいして出ないのに、身体だけ差し出しているなんて、彼のことが、好きなの?」
質問されて、ベルはどう答えればいいのか迷った。そんなこと、きちんと考えたことがなかったのだ。
好きか嫌いか、と尋ねられて、ギデオンの顔が頭に浮かぶ。
「好きかどうか……。よく、分からない。ギデオン様は……少なくとも、殴ったりはしないの。怒鳴ったり、蹴ったりもしないから」
「前にいた所では、そうじゃなかったの?」
リネアの声が、少しだけ柔らかくなる。ベルは、遠い日を思い出した。
薄暗い廊下に鼻につく安い香水の匂い。手入れの行き届いていないシーツ。扉が開くたびに、女たちが息を詰める空気。
「ベルは……娼館で働いていたの。そこでは、殴られたりするのは当たり前だったのよ。でもギデオン様はベルの胸を触ってきてね。それから急に、『よし、これだ!』って言って、買い取ってくれたの」
話の後半に差し掛かった所で、リネアは何とも言えない胡乱な目をする。ベルはふと眉を寄せた。
ギデオンと初めて会ったときを鮮明に思い出す。
あの時の彼の目つきは、気に入った玩具を見つけた子どものようだった。
いや、もっと言うと、あれはもう胸しか見ていなかったのではないか。
女将が提示した額を値切らず即金で支払ったので、ベルはその時、太っ腹で優しい人だと思った。
しかし値段の話にも、半分うわの空だったことや、「君はこれで僕だけのものだ」なんて台詞を、息を弾ませて言っていたこと。
すべてを繋げてみると、ひょっとしてあの時、彼は胸に夢中で値段どころじゃなかったのではないかと、今さらながら、ベルは静かに衝撃を受けた。




