表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/16

05:罪と罰

 ギデオンが「腹ごなし」を済ませて、さっさと着替えに消えてしまうと、寝室にはベルひとりが残された。

 ぐちゃぐちゃになったシーツと、まだ温かい体温と、扉の向こう側に消えていったギデオン。

そのどれよりも、ベルの胃をきりきり締めつけているのは、先ほどのリネアの横顔だった。


(よりによって新妻に見られただなんて、終わったわ……。怒られる…ううん、刺されるかも……)


 震える指で服を着ながら、ベルは鏡を覗き込む。

 乱れた髪、赤くなった頬は、妻に見せて良い姿ではない。

 かといって、今さら何を整えたところで、さっきの光景が帳消しになるわけでもない。


(いっそ、もっとひどい格好でいた方が、哀れまれて許してもらえたりするのかしら……)


 そんな甘い期待が、かすかに頭をかすめたが、リネアの落ち着いた瞳を思い出し、すぐに打ち消した。

 ベルの人生経験から言って、彼女のようなタイプに姑息な演技など通用しない。

 足はまだ少し震えていたが、それが情事のせいなのか恐怖のせいなのか、自分でも判断がつかない。たぶん両方だろう、と雑に結論づけて、部屋の外に出た。


 廊下に出ると、使用人たちがいつものように忙しなく立ち働いていた。

 誰もベルを咎めない。誰も蔑んだ目を向けない。視線はこちらをかすめて、すぐ日常へ戻っていく。


 サロンへ続く廊下は、やたらと長く感じられた。

 途中で、矢張り逃げようかと何度も思う。だが逃げて行ける先といえば、せいぜい屋敷の外か、娼館か、樹海の森かの三択である。どれも、あまり魅力的な未来とは言えない。

 意を決して部屋の扉をノックした。


「ベ、ベルです……」


 返事を待つ間の数秒が、ひどく長い。やがて澄んだ声が返ってきた。


「どうぞ、入って」


 扉を開けると、そこにはベルが想像していた断罪の場とは、似ても似つかない光景が広がっていた。

 朝の柔らかな光が差し込むサロンには、湯気を立てる紅茶と、きちんと切り分けられたケーキが二人分。

 その向こう側の椅子に、リネアが腰掛けていた。

 蜂蜜色の髪が、光を受けて淡く揺れる。凛とした面差しに、射抜くようにこちらを見つめてくる青の双眸。視線の奥で何かを量り取られているようで、息が詰まる。


(ああ……やっぱり、刺される)


 ケーキの甘い香りも、ポットから立ちのぼる湯気も、すべて最後の晩餐にしか見えない。


「どうぞ、座って」


 リネアが言った。

 ベルは慌てて一礼し、勧められた椅子に腰を下ろす。膝の上で手を組もうとして、指が上手く噛み合わない。


「あなた、ベルって言うのね。私はリネアよ。よろしくね」

「は、はい。リネア様……。えっと、その……先ほどは、本当に、その……」


 謝罪の言葉を探して、口の中でころころ転がしているうちに、リネアがそっと手を上げた。


「ごめんなさい、その話は後で聞くわ」


 そう言いながら、リネアは紅茶を注ぎはじめた。細い指先から、香り高い茶色がカップへ滑り落ちる。


「お砂糖は?」

「え、あの……。一つで、お願いします」

「ミルクはいるかしら?」

「だ、大丈夫。その、紅茶だけで、十分です」


 もっとも、今のベルにとって十分なのは紅茶ではなく空気だ。

 緊張するたびに呼吸が浅くなり、肺が小さくなっていく気がする。

 カップを受け取り、口をつける。それなのに、恐怖のせいで、何を飲んでいるかベル自身よく分からない。


「ねえ、ベル」


 名前を呼ばれて、ベルの肩がぴくりと跳ねる。


「……は、はいっ」

「身体は、大丈夫? 無理をさせられてはいない?」


 想像していた質問とは、まるで違う角度からの一撃だった。

 ベルはぽかんと口を開き、リネアの顔を呆然と見つめてしまう。


「からだ……?」

「痛かったり、気分が悪くなったりしていないかっていう意味よ」

「い、いえ……大丈夫。痛くは、ない…です」


 実際の所、ベルは痛みよりも、ギデオンが十中八九、自分だけ先にスッキリしてしまう問題の方が気になっていた。だが、それを妻に申告した所で事態が改善するとは思えず、無難な沈黙で蓋をする。


「そう、良かったわ」


 リネアは、少し微笑んで息を吐いた。

 その表情が本当に心配していた人間のものにしか見えなくて、ベルはますます混乱する。


「それとね、もう一つ。お金は、きちんと受け取っているの?」

「……お金?」

「ギデオンから。あなたが、彼に付き合ってくれている分のお金よ」

「えっと……その……」


 ベルは視線をさまよわせ、曖昧な笑みを浮かべる。


「もらっては、いる……けれど、そんなに、たくさんでは、ないわ。でもお屋敷にいられるし、ごはんも出るから、それで十分だから……」


 リネアはカップに口をつけてから、軽く首をかしげた。


「そう……。つまり、住み込みでなければ暮らしていけない程度の額、ということなのね?」

「……はい」

「じゃあ、どうしてギデオンに抱かれているの? お金がたいして出ないのに、身体だけ差し出しているなんて、彼のことが、好きなの?」


 質問されて、ベルはどう答えればいいのか迷った。そんなこと、きちんと考えたことがなかったのだ。

 好きか嫌いか、と尋ねられて、ギデオンの顔が頭に浮かぶ。


「好きかどうか……。よく、分からない。ギデオン様は……少なくとも、殴ったりはしないの。怒鳴ったり、蹴ったりもしないから」

「前にいた所では、そうじゃなかったの?」


 リネアの声が、少しだけ柔らかくなる。ベルは、遠い日を思い出した。

 薄暗い廊下に鼻につく安い香水の匂い。手入れの行き届いていないシーツ。扉が開くたびに、女たちが息を詰める空気。


「ベルは……娼館で働いていたの。そこでは、殴られたりするのは当たり前だったのよ。でもギデオン様はベルの胸を触ってきてね。それから急に、『よし、これだ!』って言って、買い取ってくれたの」


 話の後半に差し掛かった所で、リネアは何とも言えない胡乱な目をする。ベルはふと眉を寄せた。

 

 ギデオンと初めて会ったときを鮮明に思い出す。


 あの時の彼の目つきは、気に入った玩具を見つけた子どものようだった。

 いや、もっと言うと、あれはもう胸しか見ていなかったのではないか。

 女将が提示した額を値切らず即金で支払ったので、ベルはその時、太っ腹で優しい人だと思った。

 しかし値段の話にも、半分うわの空だったことや、「君はこれで僕だけのものだ」なんて台詞を、息を弾ませて言っていたこと。


 すべてを繋げてみると、ひょっとしてあの時、彼は胸に夢中で値段どころじゃなかったのではないかと、今さらながら、ベルは静かに衝撃を受けた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ