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36:溺れる者は妻をも掴む

 ベルに頬を打たれてから、いく日かが過ぎた。


 その間、ギデオンは毎日、馬場へ連れ出されていた。最初の頃は、鞍に腰を下ろした瞬間から全身がこわばり、蹄の音が一つ響くだけで心臓が跳ねていた。

 だがリネアの指導と、遠巻きに見ている使用人たちの視線に押し出されるようにして、最近ようやく何周か回る程度はこなせるようになった。


 優雅とは言い難い。

 ただ、少し離れて見れば、まあ乗れていると言えなくもない位の仕上がりにはなった。


(ここまで乗れれば、もう十分と言ってもいいはずだ)


 ギデオン本人としては、これを歴史的進歩と呼びたい気持ちが強かった。



 その日の午後、馬術の練習を終えて部屋に向かおうとした所で、廊下の奥から執事が歩いてきた。


 彼の手には、厚手の封筒が一通。


 いつもと変わらない所作のはずなのに、わずかな緊張がにじんでいる。


「ギデオン様、お目通しいただきたいものがございます」

 執事が差し出した封筒に押された紋章は、隣領のルーソン家のものだった。

 嫌な予感しかしない手紙を、ギデオンは溜息混じりに受け取った。


 部屋に入り、封を切る。

 羊皮紙を広げると、丁寧な筆致で長々と文言が並んでいた。


 冒頭は礼儀正しい挨拶と、隣領としての友誼に対する感謝。そこまでは、どこにでもある貴族同士の往復書簡と変わらない。

 だが、「遺憾ながら」「やむを得ず」といった言葉が見え始めたあたりから、文章の温度が変わる。


 境の石碑が不自然に移動しているとの報告があり、これはルーソン家の正当な領地を侵す行為である疑いが強い。

 ゆえに、両家の名誉と秩序のため、武装のうえで境争地に集い、公正な立会いを行いたい。

 メルローズ家がこれを拒むのであれば、ルーソン家としては武力によって本来の境界を回復する所存である。


 要約すれば、そういう内容だった。


 礼儀正しい言い回しに包まれていても、「出てこないなら殴り込みに行く」と言っているのと大差ない。


(……ついに来てしまったか)


 あの丘での一件が、相手の側でこういう形に整理されているのだと思うと、胃のあたりが重くなった。

 動かされた石碑を元の位置に戻しただけなのに、向こうの言い分では、こちらが勝手に動かした事になっている。

 

 ギデオンは手紙を置き、窓の方へ目を向けた。

 胸の曇りをよそに、空はどこまでも明るい。


 本当は、こういう手紙はどこか別の領主の所に届いていて欲しかった。

 自分は暖炉の前でワインを飲みながら、「物騒な話もあるものだね」と他人事として感想を述べていたかった。けれど、封筒にはしっかり自分の名が記されている。


「……リネアを呼んでくれ」

 ギデオンは呼び鈴を鳴らし、駆けつけた使用人にそう伝えた。 



 数刻後、執務室の机の上には、領地の地図と簡単な兵力の一覧が広げられていた。

 ルーソン家との境界線を示す赤い線、その付近の村々、動員可能な兵の数など。

 紙の上では全てが整然としているが、そこに実際の汗と血が積み重なることを考えると、ギデオンの胃はきゅっと縮こまる。


 対面の椅子にはリネアが座り、淡々と情報を整理していた。


 ギデオンは最初こそ真面目に耳を傾けていたが、やがて机の端に置かれたワインに手を伸ばした。


「だから、騎兵はここに回して、歩兵は丘の上に布陣させましょう。あとは……ギデオン、聞いてる?」

「聞いてる。ちゃんと聞いてるよ」

「さっきから、地図よりワインに夢中じゃない?」

「そんな事ないよ。……僕はね、地図とワインに平等に情熱を注げる男なんだよ」


 言い切った声は妙に誇らしげだったが、手元のグラスは地図よりはるかに近い位置にある。

 しかも、持ち上げようとして空をつかみ、二度目でようやく縁に触れるあたり、酔いが回り始めているのは明白だった。


 リネアは呆れたように眉を上げたが、ワインを取り上げはしなかった。

 代わりに、テーブルの端から水差しを引き寄せて彼のそばに置く。


 ワインの瓶が一本空き、二本目の半ばを越えた頃には、ギデオンの舌は明らかに軽くなっていた。


「つまりね、ここが重要なんだよリネア。ほら、この丸をつけたところ」

「そこ、さっきも重要って。もう三回くらい言ったわ」

「うん、だから重要なんだ。三回言ったってことは、すごく重要だって証拠だよ」


 三回言ったから重要だという理屈が出てきた時点で、考える力より酔いのほうが勝っている。


「そろそろ、ワインはやめましょう」

 リネアが椅子から立ち上がった。

 グラスを取りあげようと伸ばした手を、ギデオンはほとんど反射で握りしめた。


「待って。まだ……」

 勢いで前に身を乗り出したせいで、椅子の脚がぎしりと鳴った。

 重心を崩したギデオンは、そのままリネアのほうへ倒れ込み、ほとんど抱きつくような体勢で彼女の上半身に縋りついた。


「ちょっと、重いんだけど」

「嘘だ。男を馬から引きずり落した癖に、僕の体重ごときで文句を言うのかい」

「落とすのと、下敷きになるのは全然別よ」

「細かいことを言うね……僕は今、とても繊細なんだよ。精神が」


 言いながらギデオンは、さらに深くリネアに寄りかかった。肩口に額を押し付け、腕を掴む。その抱きつき方は、甘えというより、溺れる者が藁を掴む動きに近かった。


 酒の熱が、皮膚からじわじわと漏れ出しているようだった。

 頭の中も熱く、世界の輪郭が少しずつ柔らかくなっていく。その熱の奥では、まだ少しだけ冷静な部分が残っていて、自分は一体何をしているのかと呆れていた。


 けれど、口から出てくる言葉は、その冷静さとは別の場所で勝手にこしらえられているかのようだった。

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