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35:平手と本音

 その日、館の使用人たちは、いつもとは違う種類の気疲れを味わうことになった。帳簿を抱えて歩いていた執事は、廊下の角でいきなりギデオンに呼び止められたのだった。


「おや、ちょうどいいところに。どうかな、この髪と服装」

 ギデオンは顎を引き、まるで肖像画でも描かれるかのような姿勢で立っている。褒め言葉が当然出てくるはずだとでも言いたげな目だった。


「……大変、お似合いでいらっしゃいます」


 執事は頭を下げながら、ほんの一刻だけ無表情になった。

 またこの流れかと、心の内で呟きつつも、顔には一切出さない。こうしてギデオンが新しい髪や服の感想を求めてくるのは珍しくない。取り敢えず、褒めておけば穏便にすむのも事実だった。

 ギデオンはすでに満足げで、次の自慢が口から出かかっているような顔つきだった。

 執事は、こういう時に話題を変えるタイミングを誤ると延々と続くことを知っていて、胸の内で、そっとため息をついた。


 厨房に向かう廊下では、パンを運んでいた若い下働きが、トレイを抱えたまま立ち尽くしていた。ギデオンは彼女にも声をかける。


「君はどう思う? この恰好。前の僕も良かったけど、この姿もなかなかのものだと思うんだ」

「は、はいっ。すごく……凛々しくて素敵です……!」


 そう言いながら、彼女の視線は宙をさまよった。

 真正面のギデオンをとらえきれず、肩口や襟元を行ったり来たりして、落ち着きなく揺れている。

 返ってきた言葉だけを聞けば満点の褒め言葉だが、声はわずかに上ずり、握りしめた両手には不自然な力がこもっていた。

 慣れない相手に対して、礼儀とお世辞の境目をどうにか探しているのが見て取れる。

 しかしギデオンは、それを照れていると好意的に解釈した。新しい自分が眩しすぎて、直視するのが難しいのだろう、と。



 褒め言葉が重ねられるたびに、ギデオンの気分は上向いていく。


(これだけ格好良ければ、現地で僕の顔を見た途端に、争う気も失せるんじゃないか?)


 そんな都合の良い幻想まで浮かび始めていた。

 彼の頭の中では、鋭い剣も重い槍も、領主の見栄えによって自然に収束する未来図が、きれいに出来上がりつつあった。

 廊下を曲がったところで、見慣れた姿が視界に入る。


「ベル」

「あっ、ギデオン様」


 ベルは会釈した。リネアの進言により、かつてギデオンの愛人として館に住んでいたベルは、十分な金を持たされ、今は別の場所で暮らしている。

 ギデオンとの関係も、今ではほとんど形だけになっている。それにもかかわらず、ベルは度々リネアを訪ねて館へ姿を見せていた。


「なぁ、ベル。僕の新しい衣装と髪型、どうかな?」


 ギデオンは、期待を隠そうともせずに胸を張る。

 ここでもひとしきり賞賛を浴びて、完璧な一日を完成させるつもりだった。だがベルは、固くこわばった顔つきでギデオンを上から下まで確認し、絞り出すように口を開いた。


「そんな事よりも領地が侵犯されたから、ギデオン様とリネア様は境争地へ向かうって聞いたの」

 声は静かだが、硬さが滲んでいる。ギデオンは、肩をすくめて軽く笑った。


「ああ、その話か。本当だよ。でもまぁ、実際に仕切るのはリネアなんだよ。僕は馬の上に座って、顔を見せてくるだけさ。領主がいると分かれば、兵たちも安心するからね」

 リネアに言われたとおりの言葉を、そのままベルに返す。

 ギデオンとしては、これ以上ないほど合理的な役割分担だと考えていた。できる者が前に出て、向いていない者は邪魔をしない。それ以上に賢い選択があるだろうか。

 だが、ベルの表情はにわかに険しくなった。


「現場の舵を取るのも、領主としてそこに立つのも、本当はギデオン様の役目じゃないの?」

「……まぁ、そりゃ本来は僕の役目なのかもしれないけど、無理なものは無理だよ。戦場の勝手なんて分からないし、僕よりリネアのほうが役に立つ。任せるのが一番だと思うんだ」

「それって、ギデオン様は高みの見物で、リネア様だけが前に出るっていうこと?」


 ベルの声は、きっぱりとしていた。ギデオンは「何か文句でも?」と眉を寄せた。


「文句しかないわ。だってリネア様を守るのは、ギデオン様の役目でしょう。奥様を守るどころか、守られて。それで恥ずかしくないの?」

「いや、守られてるんじゃない。リネアが勝手に強いだけだ」


 ベルの直球の言葉に、ギデオンの自尊心は見事に弾かれた。妙な理屈を言い放つが、答えになっているのかいないのか、自分でもよく分からない。

 そんなギデオンを、ベルはいつになく真っ直ぐな目で見つめる。しばらくの沈黙の後、口を開いた。


「もし、それでリネア様が大けがを負ったり、帰らぬ人になったら、どうするつもりなの」

「そのときは、そのときさ」

 ギデオンは肩を竦めて、軽い調子で言う。


「新しい妻でも迎えるよ。今度は、リネアみたいに手強くなくて、僕を慕ってくれて、もっと従順な子がいいな」


 わざとらしいほど軽く口にした。

 そうだ、もともとリネアの事など好きではなかった。いなくなるのなら、それはそれで新しい嫁を迎えればいい。理屈の上では、これ以上なく合理的だ。

 そう思っているはずなのに、胸の奥では鋭い痛みが走った。自分の舌を間違って噛んでしまった時のような、遅れてくる鈍い痛みだった。


 ギデオンの言葉に、ベルの瞳が揺れる。

 ゆっくり右手を持ち上げたかと思いきや、次の瞬間、乾いた音が廊下に響いた。

 頬に走った衝撃で、視界が軽くぶれる。

 ギデオンは反射的に瞬きをした。手のひらで打たれたのだと理解するのに、一息ぶんの時間が必要だった。


「……ベル?」

 名を呼ぶと、彼女は涙を溜めた目で見上げてきた。小さな肩が震えている。


「もし、そんなことになったら……。ギデオン様の事、絶対に許さないから」

 それだけ言い切ると、ベルは踵を返した。

 廊下を駆けていく足音が、遠ざかるにつれて小さくなっていく。


 残されたギデオンは、その場で立ち尽くしたまま動けなかった。


 しばらくしてから、ようやく頬に手を当てる。

 熱が残っている。痛みは、それほど強烈ではない。だが、皮膚の下から広がるようなじくじくした感覚は、なかなか引かなかった。

 確かに言いすぎたかもしれない。そんな素直な反省と、それでも自分は戦場には向いていないという思いが、胸の内でせめぎ合った。


『もし、それでリネア様が大けがを負ったり、帰らぬ人になったら、どうするつもりなの』


 ベルの言葉が嫌でも頭の中で繰り返される。「一生許さない」と言い放ったあの表情が、思った以上に胸へ重くのしかかった。


 ギデオンはゆっくりと目を閉じた。

 頬に残る熱は、なかなか冷めそうになかった。

 髪も服も、今見事に決まっているはずなのに、鏡を見に戻る気にはどうしてもなれなかった。

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