33:引き金
剣と剣とが噛み合ったまま、しばしの均衡が続いた。
リネアは、斜面に踵をしっかりと据え、馬上の男を見上げている。
身体は細いのに、腕だけが妙に強い。
筋肉の太さでは勝ちようがないはずなのに、押し負けているのは、どう見ても上から振り下ろしている側の方だった。
「どけ!」
男が苛立ったように怒鳴り、さらに力任せに押し込んでくる。
そこで、リネアがわざと足を引き、体重を抜いた。支えを失って前にのめった男の腕を、彼女は素早くすくい上げるようにして剣を押し上げる。
馬が驚いて首を振り、嘶き声をあげる。鞍の上で男のバランスが崩れた。
「……っ、おい、待て」
待つ訳がない。リネアの左手が、男の胸元に巻き付いていた革紐を掴んだ。
それだけで、馬から引きはがされた男の身体は、きれいに空中を一回転して、地に叩きつけられた。
ギデオンは、反射的に自分の首筋を押さえた。どうしてかは分からない。落下したのは自分ではない。だが、後頭部を打ったような鈍い痛みが、なぜか自分の頭にまで伝わってくる気がする。
「キース!」
背後で馬を操っていた私兵の一人が叫ぶ。
彼は慌てて鞍から身を投げるように飛び降り、駆け寄る。その動きにつられるように、もう一人の男も馬を飛び降り、鞘から剣を抜き放つ。
「囲め! 女ひとり、何を……」
怒声の途中で、幾つもの金属音がぶつかり合った。
メルローズ家の常備兵たちが前に出たのだ。私兵二人の前に身を滑り込ませ、抜き打ちの剣を合わせる。刃と刃が交錯し、あっという間に小さな乱戦へと変わっていった。
ギデオンは、思わず近くの馬の影に身を滑り込ませた。
つい数刻前まで、倒れた石碑を元の位置に戻していただけの静かな丘だったはずだ。
それがどうして、こんな事になっているのか、まるで夢でも見ているかのようだった。
だが、そうこうしている間にも、事態だけは容赦なく進んでいく。
リネアは、地面に転がった男を見下ろしながら、剣を軽く振る。
追撃しようと上体を起こしかけた男の手元へ、彼女はつま先を滑り込ませた。指先から剣がはじかれ、土の上へと転がる。
「リネア、もういいよ。ここでやめておこう……」
ギデオンは、馬の陰から一歩だけ出て、慎重に声をかけた。
足をもう一歩前に出していいものかどうか、それさえも判断がつかない。
リネアは振り返らなかった。刃先を男の喉からわずかに離し、その代わりに右足を一歩踏み出す。
革靴のつま先が、男の顎の下に触れた。
少し力を込めて足を持ち上げると、男の顔が無理矢理、リネアへ向けられる形になった。くい、と顎を吊り上げられた男の姿は、どこか滑稽で、そして哀れだ。
「さっきまでの威勢は、どこへ行ってしまったの? メルローズ家のお坊っちゃんだなんて、随分と楽しそうに笑っていたのに。地面の味は、どう? 丘の土は美味しいかしら」
舞い散った土が、男の髪に張りついている。口元には、微かに血が滲んでいた。
唇の端が引きつり、何か言い返そうとしているのが分かる。
ギデオンは、その様子を見て、背筋が冷えるのを感じた。
視界の端で、メルローズ家の兵たちがちらりとこちらを見る。助けるべきなのか、このまま黙って立っているべきなのか、判断がつかないという顔だ。
ギデオンのほうも、同じように判断に迷っていた。
この状況で「やめてあげてくれ」と割って入れば、間違いなく格好はつく。貴族らしい寛容さとやらも示せるだろう。だが、ここで横から口出しをして、火の粉が自分のほうへ飛んできたらたまらない。
リネアは、そんな彼の逡巡など意に介さない。
「自分が誰に剣を向けたのか、分かっているのかしら。次はこちらから境界線を越えて伺っても、文句は言えないわね」
「……は、脅してるつもりかよ。こっちは、領主の命令で動いて……」
男が、かすれ声で言い返しかけた。
その瞬間、リネアの足先が、少しだけ軌道を変えた。
顎を支えていた靴先が滑り、半ば開いた唇の隙間を割り、切っ先が口腔へ押し込まれる。吐き出されかけた言葉は、喉の奥で濁った息に変わって途切れた。
「ルーソン家の当主に、きちんと伝えなさい。メルローズ家に喧嘩を売るなら、覚悟を整えてからになさいって」
男は、喉を鳴らしながら、かろうじて頷いた。頷く以外の選択肢は、今の彼には与えられていない。
常備兵が、押さえつけていた二人から力を抜いた。彼らはふらふらと立ち上がり、互いの肩を借りるようにして倒れた男を引き起こす。
三人の私兵に、先ほどまでの尊大な態度は、跡形もなく消えていた。
館に戻ったのは、陽がすっかり西へ傾いた頃だった。
ギデオンはまず浴室に向かい、熱めの湯に身を沈めた。
肩に張りついていた緊張が、ようやくほどけてきた頃には湯気の向こうに、先ほどの出来事がありありと蘇りはじめた。ギデオンは必死にそれを頭から追い出そうとしていた。
馬から人間が、きれいに一回転して落ちる。
そんな場面を現実で見る日が来るとは、思ってもいなかった。しかもそれを成したのは、自分の妻である。世の夫たちは、もっと穏当な場面で妻を誇るものだろう、と。風呂場でひとしきり考え込んだのは内緒だった。
湯から上がり、身支度を整えた頃には、さすがに心拍数も落ち着いてきた。
自室に戻り、椅子の背にもたれて深く息を吐く。ようやく一息つけると思った所に、リネアが入ってきた。
彼女の髪も服も既に整えてあり、馬上の男を地面に叩き落としていた人物と同一だとは、とても思えない穏やかな顔をしていた。
「間違いなく抗争になるよな……」
ギデオンは、独りごちる。リネアはベッドの横にある小さな椅子に腰かけた。
「ギデオンに剣を向けてきたのだから、あちらは元々、仕掛けるつもりで来ていたわよ」
「まぁ、そうなんだろうけどさ。みんな、血の気が多くて良くないよ。もう少し穏便に収める、という選択肢はないのかな」
「こちらがどれだけ穏便を選んでも、あちらが剣を抜くつもりなら結果は同じよ」
正論すぎて、何も言い返せない。ギデオンは大きく溜息をついた。
「……言ったよね。裏は任せてもいいって。念を押すけど、僕はその場に行くだけだからな?」
「もちろんよ。何もギデオンに前線で戦えと言っている訳じゃないもの。あなたは馬の上に座っているだけでいいの。顔を見せて、兵たちに領主がいると思わせるだけで意味があるのよ。ただ……」
そこで、彼女の視線が、ギデオンの額から足先まで、ゆっくりと往復した。
値踏みされている、と思った。つい数時間前、私兵に向けたのと似た目つきで自分を見られていることに気づき、ギデオンは背筋を伸ばす。
「領主としての威厳は、今のままでは少し足りないわね」
「……どこが?」
思いがけない言葉に、ギデオンは眉をしかめた。
今日着ている上着は、線の美しさにこだわって選んだものだ。髪型も、鏡の前で何度も角度を変えて確認した。
それを威厳が足りないと一刀両断されるのは、正直なところ、あまり気分が良くない。
「まず、その髪。戦場に行くのに、風に揺れるほどの長さは要らないわ。視界を遮るし、邪魔よ。少し短く整えましょう。ギデオンは顔立ちが整っているから、今みたいな、飾りに全振りした髪型でなくても大丈夫」
リネアに顔立ちについて言及されたのは初めてだった。胸の奥で、何かがほんの少し持ち上がる。
「……まあ、確かにね。僕の顔なら、どんな髪型でも似合うだろうね」
「それから、服。いつものキラキラしたやつは、終わりにしましょう」
「キラキラって……。僕の服装は、洗練された装飾なんだよ。言っておくけど、服のセンスは、君より上だと自負しているんだけどね」
それだけは譲れない。ギデオンには、身なりへの執着だけは一貫してあった。鏡の前で服の線と色合いを延々と吟味する時間だけは、人よりずっと多く費やしてきたのだ。
しかし、リネアは首を横に振った。
「センスと、その場にふさわしいかどうかは、別の話よ」
短く放たれた一言が、妙に深く刺さる。
ギデオンは、口を開きかけて、そこで言葉を失った。彼女の言い分は、悔しいことに正しい。金持ちの道楽場で映える服と、兵たちの前に立つ領主としての服装は、まるで別物だ。
どれだけ飾り立てたところで、場違いだと判断されれば、それはただの滑稽な衣装に成り下がる。渋々ながらにもギデオンは「分かったよ」と小さく頷いた。




