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28:尊厳より安楽を

 顔合わせが終わると、両親と兄たちは馬車に乗り込み、館を後にした。


 自室に戻るなり、ギデオンは上着の前を乱暴に外した。

 鏡台の前の椅子に腰掛けるつもりが、途中で面倒になり、そのまま寝台に倒れ込む。

 柔らかなベッドが背中を受け止めたが、気持ちは少しも浮上しない。


「……最悪だ」

 天井を睨みつけながら、絞り出すような声でそう言った。

 ギデオンに続き、部屋へ入ってきたリネアは、「お疲れ様」と軽やかな笑みとともに告げた。ギデオンは、その笑顔に胡乱な視線を向ける。


「お疲れ様じゃないよ。今朝の僕に、これからの話を全部教えてやりたい。絶対にベッドから出なかったのに」


 枕に顔を半分埋めたまま、くぐもった声でぼやく。

 リネアは、思わずといった風に笑ってベッドに腰かけると、よしよし、と子どもか、あるいは犬でも撫でるような要領でギデオンの頭を、くしゃりとかき混ぜる。

 不貞腐れているつもりなのに、その掌が妙に心地よくて、ギデオンはつい目を閉じてしまう。


「でも、ギデオンの家族みんな、優しい人たちで良かった」

「ああ、君には優しいだろうけど、僕には優しくない。優しい親なら、息子を抗争地に送り出そうなんて思わないはずだよ」


 ギデオンはベッドから起き上がり、乱れた髪を手ぐしで整えながら、彼女のほうをぴしりと指差す。


「そもそも、リネアは大丈夫なんて言ってたけれど、どこをどう考えたら大丈夫になるんだよ。僕があの場で黙ってたのは、反論しても無駄そうだったからであって、納得したからじゃない」

「そうだと思った。でも、お義父様が仰ったように、土地が侵犯されたのなら、放っておけないわ」

「土地はどうでもいい。僕が痛いかどうかが問題なんだよ」


 真顔で言い切る。

 名誉も命も大事なはずなのに、その前にまず「痛いかどうか」が気になるあたり、自分の価値観の順番がおかしい自覚くらいはある。それでも譲れない所だった。


「まずね、抗争地に行ったら刺される可能性がある。斬られる可能性もある。転ぶかもしれない。甲冑って重いから打撲もする。どれもこれも、痛い」

「……まぁ、怪我は、するかもしれないね」

「そうだろ? ほら、もう大丈夫じゃないじゃないか!」

「でも、死にはしないわ」

「死ななければ良い、という問題じゃないんだ。痛いのが嫌なんだよ」

「痛いだけ、よ?」

「「だけ」って言ったね、今」


 ギデオンは敵と対峙する時より、よほど真剣な顔つきをリネアに向ける。


「いいかい。痛い、というのは重大な事柄だ。人間は痛みで気を失うし、ショック死だってあり得る。僕はもともと繊細なんだ。痛みが嫌すぎて、その場で心臓が止まるかもしれない」

「そんな簡単には止まらない」


 淡々と返されて、ギデオンは歯ぎしりしたい気分になった。

 こちらは痛みの重大さについて、真剣に論じているつもりなのに、リネアの一言で、持論がただの愚痴に格下げされていく気がする。彼女にとって「痛い」は、ただの通過点であって、論点の中心にはなり得ないようだ。少し逡巡してから、ギデオンは言葉を継ぐ。


「じゃあ、もしだよ? もし僕が刺されたり…いや、刺されなくても、ぶつけたり、転んだりして、思いきり痛くて、そのまま死んでしまったら。責任、とってくれるんだろうね」


 リネアの肩が、かすかに震えた。

 真面目な顔を保とうとしているが、内心ではかなり可笑しく感じているのが見て取れる。

 自分の必死さが、完全に大袈裟な心配として受け取られているらしいと悟った途端、ギデオンはなおさら真剣に言い募った。笑いごとではないのだ。


「僕は君の夫だよ。夫を抗争地に送り出して、痛い目を見て、そのうえ死んでしまったら、大問題じゃないか。涙の一つや二つでは済まないと思うね」

 ギデオンの言葉を受けて、リネアは瞳に楽しげなきらめきを宿したまま、ゆっくりと唇を開いた。


「もしギデオンが死んでしまったら、その時は、私も後を追うわ。添い遂げてあげるから、大丈夫」

「……はい?」

 ギデオンは耳を疑った。

 リネアの声は落ち着き払っていて、それでいて冗談を言っているようには思えなかった。


「ちょっと待ってくれ。何が大丈夫なんだよ。それのどこに安心要素があるんだ」


 口では否定しながらも、本当は、今の言葉に、乙女のようにドキンと胸を鳴らしてしまった自覚がある。だがそれはあくまで状況が悪いだけで、決してリネアの発言がロマンチックだったからではないと、必死に自分に言い聞かせるしかなかった。


「だって一人じゃないから、寂しくないでしょ」

「死ぬ前提で話を進めないでほしい。つまりね、僕が言いたいのは、死ぬまでいかなくても痛いのが嫌なんだってことだよ」

「そこは諦めて」

「いや、人間そう簡単に諦めたらダメだと思っている」


 言いながら、諦めたくない対象が、痛くない未来だけなのが、当の本人以外にはよく分かる構図だった。信念というものにも色々あるが、ギデオンの場合、その芯に刺さっているのは「できれば一生、痛い思いはしたくない」という、妙に人間くさい願望だった。


「何とかして、行かなくて済む方法はないのか? 例えば、急に熱が出たとか。他には……そうだ、腕を骨折するとか。剣を持てなければ、現地に行っても意味がないだろう」

「それ、痛いと思う」

「ああ、もう分かってるよ。分かっているんだってば!」


 大きく嘆息したギデオンの頭に、リネアはもう一度、そっと手を置いた。

 指が髪を梳いていくたびに、これはリネアが愛犬キャンディを撫でるときの手つきと同じだな、とギデオンはぼんやりと思った。

 

「痛くない保証はできないけど、せめて準備はしましょう」

 リネアはギデオンの頭を撫でながら言う。「準備?」と首を傾げると、彼女は頷いた。


「ギデオン、馬には乗れる?」

「乗れる訳、ないだろう。馬は遠くから眺めているものだ。草を食んでるのを見て、ああ、のどかだなって感想を抱く対象であって、跨がるための生き物じゃない」

「……うーん、でも現場に行くとなると、そうも言ってられないわ。私が教えてあげるから、少しずつ練習しましょう」

「……君が?」


 ギデオンは目を瞬いた。リネアが馬に乗れる、しかも人に教えるつもりでいる程には乗り慣れているらしい、という事実を初めて突きつけられた気分だった。

 スティレットを欲しがったことで武器には明るいとは察していたが、乗馬までこなすとまでは思っていなかった。

 ゆっくりと息を吐き、天井を見上げる。どうやらもう逃げ道はないらしい。


「分かったよ。明日から、馬の練習とやらをしよう。ただし、約束してほしい」

 ギデオンは、横目で彼女をうかがう。


「僕が少しでも疲れたり、怖がったり、痛がったら、すぐ休憩を入れること。あと、落ちそうになったら、必ず支えてくれること」


 これでも本人は一歩踏み出したつもりなのだ。

 しかし分かったと言いながら、最初に口をついて出てくるのが「休憩」と「支え」なのだから、ギデオンの関心は自分の快適さのほうにまだしっかり留まっている。


 リネアは今にも吹き出しそうな気配をどうにか飲み込み、「分かったわ」と楽しげに目を細めて頷いた。

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