23:初めてのデート
リネアはギデオンに向かって、恋はしていないけれど、愛してはいるのだと言った。
恋とは何か、愛とは何か。
そんな哲学的で深淵な問いに引きずり込まれているうちに、ギデオンはふと思い出した。
恋というものが、いかに非合理的で、非効率的で、そして何より自尊心の敵であるかということを。
確かにギデオンも恋をしたことはない。だが自分が恋をしないのは、何も問題ではない。むしろ当然だ。恋は、するものではなく、されるものなのだから。
しかしリネアが恋をしたことがないのであれば、それは問題だ。勝手に似た者同士にされては困る。
朝の陽が、真鍮の扉に反射して、きらりと輝きを見せていた。雲ひとつなく、冴えわたる青空を見上げて、ギデオンは小さく息を吐いた。
館の玄関先から、リネアが姿を現した。
ダークブルーのワンピースに、同色のケープを軽く羽織り、髪はきちんとまとめられている。耳元には、ひと粒の青い宝石のピアスが控えめに留められていた。
対して、ギデオンは濃紺の上着に明るいグレーのベストを重ねていた。光の下で、手間と金のかかった素材が控えめに主張する。髪も、いつもより十五分多くかけて整え、見栄えのする角度も心得ている。
恋をされる側として、抜かりがあってはならない。
何と言っても、今日はリネアと初めてのデートなのだ。
馬車から降りてきた御者が、恭しく会釈し、扉を開ける。
ギデオンはひとつ頷くと、リネアに手を差し出す。リネアは目を瞬かせたが、素直にその手を取った。あくまで礼儀の範囲内という温度感だったが、ギデオンにとっては申し分ない。
自分の所作は、完璧なエスコートだったと確信していた。
街は活気に満ち溢れていた。
休日と好天が重なり、石畳の通りには観光客と地元の人々が入り混じっている。
お菓子屋の前には列が並び、通りの一角では薄くのばした肉入りパンが鉄板で焼かれ、立ちのぼる匂いが通行人を引き止めていた。
噴水広場では子どもが鳩を追いかけ、家族連れがその様子を優雅に眺めている。
ギデオンはリネアを引き連れ、まず宝石店へと足を踏み入れた。
通りに面したガラス窓には、きらびやかな装飾品が整然と並び、室内には香水とベルベットの匂いが微かに漂っている。
さっそくショーケースの前へ進み、いくつもの宝石を目でなぞり始める。
店員が姿勢を正し、気品ある声で応対を始めた頃には、すでに視線は一点に釘づけだった。
彼の目を惹いたのは、一対のルビーのピアスだ。
滴のようなカットの石が金細工に収められ、耳元で光ればさぞ目を引くだろう。
控えめとは言えない。だが、美しい。そして何より高価だ。ギデオンはそれを指差した。
「これを包んでくれ。……いや、まず、つけて見せてほしい」
リネアがギデオンを見る。驚きというより、確認するかのような視線だ。
けれど彼女は何も言わず、店員に従って試着用の小さな椅子に座る。
ピアスが彼女の耳たぶに留められたのを目にして、ギデオンは満足げにうなずいた。
「やっぱり君には、それくらい華のあるもののほうが似合う。今つけてる控えめなのじゃ、少し物足りないね」
さりげなくマウントを取りながら、リネアの格を整えてやっているつもりだった。だが、彼女の表情に特段の変化はない。
「……ありがとう」
リネアは静かに礼を言った。口調も、表情も控えめだった。嬉しくないというわけではないのだろうが、そうした感情は表に出てこない。
やはり没落貴族の娘なのだ。贅沢に慣れていないのだろう、とギデオンは判断する。
こうした贈り物も、おそらく初めてに近いはずだ。
あまりに高価なものを贈られて、どう振る舞えばいいかわからないのだろう。
ギデオンは満足そうに金貨を数え、その音を聞きながら、またひとつ、自尊心の石を積み上げた。
続いて訪れたのは、名高い高級菓子店だった。
ギデオンが選ばせたのは、熟成されたラム酒が香る黒曜石のようなトリュフと、黄金に透ける砂糖細工の詰め合わせ。どちらも、貴族の贈答品として使われる逸品だ。
品物を手渡すと、リネアは丁寧に礼を言い、微笑んだ。
だがその笑顔には、喜びや驚きといった感情は見えなかった。贈られたから微笑む。それだけの礼儀のようで、どこか義務的だった。
次に仕立て屋で選んだのは、銀糸の縁飾りを施した深緑のマントだ。
生地の光沢、肩口のカッティング、どれを取っても一級品だ。
さすがにこれには目を見張るだろうと期待したのだが、リネアは「綺麗な色ね」と微笑んだだけだった。
ようやく、ギデオンの中でふつふつと膨らみ続けていた違和感が、明確な形を持って顔を出す。
些細な表情のゆらぎ、抑えられた反応の数々が、今になってようやく重くのしかかってきた。
(……これは、おかしい)
どうして平然としていられるのだろうか。贈ったものの価値が分からないのか。
高価なものを手にした事もないだろう娘に、こうして与えていけば、懐の深さにも気づくだろうと信じていた。だが今、リネアの冷静すぎる受け取り方は、その目論見を鼻で笑うかのように、淡々と打ち砕いてくる。
ギデオンは思わず立ち止まり、リネアの横顔を見つめた。
「……なんだか、つまらなさそうだね」
軽口のつもりだった。からかうような言い回しで、深い意味はない筈だった。
だが、言い終えた途端、胸の奥にひっかかっていた本音が滑り出たと、自分でも分かった。
思わず舌打ちしそうになったが、どうにか口元を歪めて笑みに変える。リネアは少し目を瞠ってから、すぐに落ち着いた口調で言った。
「前から思っていたんだけれど、ギデオンって……意外と鋭いのね」
「ふん……。鋭いというか、まあ、僕くらいになればね」
とりあえず、虚勢で上塗りしておいた。
勘が鋭いなどと、あまりにも凡庸な評価ではあるが、何も言われないよりはマシだ。
「つまらなくはないのよ、本当に。ただ……たぶん私は、贈られるより見つけたい方なのかも。一つずつ、これがいいかなって考えたり、迷ったりする時間が好きなのよ」
リネアは少し困ったように言う。
拒まれたわけではない。だが、どこか小さく肩すかしを食らったような気分だった。
「……だったら、今度は君の好きな場所に行けばいい。君が迷って選ぶ、その時間ごと買ってあげるよ」
「買ってあげる」という言葉にさえ、どこか誇らしげな響きを込めながら、ギデオンは言う。
どれだけ無駄遣いしようとも、それで妻の目が輝くのなら、それもまた投資であるなどという、浪費家に都合のいい言い訳を胸の内で唱えながら。
リネアは少しだけ思案するように視線を泳がせてから、口を開く。
「それなら中央広場に行ってみたいわ。たまに市が開かれるの。きっと面白いものが並ぶと思うのよ」
中央広場。あまりにも庶民的な響きに、ギデオンの眉がぴくりと動いた。
だがすぐに、「なるほどね」と気取った口調で返す。そうしながらも、金貨を惜しげもなく積んで高級品を買い漁る、といった優雅なプランを、慌てて塗り替えていた。
どうやら今日の主役は、陽を跳ね返す金貨ではなく、庶民の財布に眠る銅貨や銀貨のほうらしい。




