02:美貌の貴公子(自称)
ギデオン・メルローズは、朝からひどく憂鬱だった。
髪型は完璧、今日のウェーブも、これ以上ないという程、美しく整えた。
鏡の前で小一時間、右から左から角度を変え、光の入り具合まで計算した結果の仕上がりである。だというのに、気分はどんよりと曇っていた。
理由は、親が勝手に結婚相手を決めてきた事に所以する。
「はぁ……ベル。聞いてくれよ。朝っぱらから両親に、そろそろ身を固めろなんて言われてさ。おかげで一日の始まりが最悪だよ」
ギデオンは膝の上の恋人、ベルに向かって、この世の終わりでも語るようにぼやいた。
「……身を固める?」
ベルは甘ったるい声を上げて、こくりと首を傾げる。
ギデオンは自分の髪の毛を指先でくるくると弄びながら、大げさな溜息を吐いた。
「ああ、僕さ、結婚するんだ」
「えっ! 結婚!? じゃあベルはどうなるの?」
ベルは目を大きく瞠り、ギデオンにふくよかな胸を押し付けた。
ギデオンの両手は流れるように動き、ベルの胸を揉みしだく。本人より先に、クセのついた手が反応したのだ。
「大丈夫さ、ベル。君は僕の愛しい人。結婚だの夫婦だの、そんなのは単なる形だけだよ。僕の心は君にある。ずっとずっと傍にいておくれ」
言いながら、微笑んで視線を斜め下に落とす。
哀愁の男を演じるベストな角度を熟知しているのは、ギデオンが毎日、鏡に向かって習得した技である。しかしベルは、その甘言をさらりと交わして唇を尖らせた。
「嬉しい。でもベル知ってるわ。ギデオン様って、他の恋人にも同じこと言ってるんでしょう?」
胸に置かれた手をぺちんと叩かれ、ギデオンはわざとらしく肩を落とした。
「はは、手厳しいな、ベルは。独占したい気持ちはよく分かるよ。でもね僕はみんなのものなんだ。……ただ、その中でも君の豊かな胸……あ、いや君は特別だよ。心配はいらないよ、僕の可愛いスイートピー」
ギデオンは甘く笑い、ベルの顎に指を添えた。
「ギデオン様……素敵……」
一方、こんなセリフで陶酔できるあたり、ベルもまた、なかなかギデオンと良い勝負だ。彼の胸に頬を寄せながらうっとりと呟く。
ギデオンは内心、「やっぱり僕は女性を幸せにする天才なんじゃないか」と本気で思っていた。
そもそもギデオンは女好きで、ナルシストで、そしてヘタレだった。
しかし本人はヘタレの部分については生涯気づかないだろう。自分を「みんなの恋人」と認識している男に、自覚など求めるだけ無駄である。
ただ一つだけ間違いないのは、彼は自分の顔が生きた芸術作品だと思っている、ということだ。
そんなギデオンが結婚の話を聞いたときの絶望はなかなかのものだった。
ベルはギデオンに体を預けながら、問いかける。
「それでお相手はどんな方なの?」
「知らないよ。リネアとかいう……なんだっけ……? 名前すら聞いたことないような貧乏貴族の娘さ。どうせ、僕の家の財産につられて来たんだろうさ」
「ふぅん……。ギデオン様はそれでいいの? 好きでもない相手を妻に迎えるなんて」
「いいも何も結婚なんて、家同士の儀礼みたいなものだ。僕の人生や恋とは関係ない」
強く言い切ったものの、その声にはわずかな苛立ちが滲んでいた。
(……とは言っても結局、面倒な役回りは全部、僕なんだ)
ギデオン・メルローズという男は、非常に幸せな生まれをしているのに、悲劇の主人公でありたい節があった。
遊び歩いてきた末に、ついに親が「これ以上は放っておけない」と結婚相手を決めてきた。
それなのにギデオン本人は、自分ほど美しく、モテて、才能に恵まれた男が、結婚という鎖につながれる現実がどうにも気に入らない。
(ああ、でも、どんな子なんだろうね。リネアって)
ギデオンは軽く顎に手を添え、鏡に映る自分を眺めながら思案に耽った。その顔は悲劇の美男を気取っているが、鏡の向こうにいるのはただの筋金入りのナルシストである。
「……まぁ、会えば分かるか」
最後は、自分の顔をうっとり眺めて締めくくった。
婚約者より自分の顔のほうが気になるあたり、ギデオンの自己肯定力は今日も盤石だった。
ギデオンとリネアが初めて顔を合わせたのは、代理での婚儀が整えられてから、一週間ほど経った頃だった。
妻となる相手との初顔合わせの日、ギデオンは朝から忙しかった。
鏡の前で上着を整え、指先で襟元をつまみ、全体のシルエットまで確認する。何度もため息をつき、最終的に「今日の僕、やっぱり反則級にかっこいいな」という結論に至った。
(リネアとかいう娘も、僕を見た瞬間、恋に落ちるだろうな。たぶん、今日中に抱かれたいって顔するよね)
そんな根拠のない確信を胸に、ギデオンは庭園へ出た。
天気は見事なまでの青空で、爽やかな風が花壇を揺らし、彼の髪もまた麗しい軌跡を描く。
これなら初対面の印象は完璧だ。自然もまたギデオンに味方している。
ところが。
屋敷前に馬車が止まり、扉が開くなり、ギデオンは固まった。
馬車から飛び出してきたのは、令嬢ではなく、筋肉の塊のような獣だった。黒曜石のように光る毛並み、岩のように盛り上がった肩、重機めいた首回り。
低く「ヴッ」と唸っただけで、庭師の三人くらいは倒れそうな迫力だ。
「……な、なんだ、それは」
ギデオンの声が情けなく裏返った。
すると馬車の奥から、澄んだ女の声が返ってくる。
「まあ。犬がお嫌いでしたか」
声とともに姿を見せたのは、リネアだった。
蜂蜜色の髪を一つに束ね、澄んだ瞳に迷いがなく、どこか凛とした気配をまとっている。
「キャンディ、入りなさい」
リネアは筋肉の塊のような巨犬に向かって命じる。キャンディと呼ばれた犬はリネアに従い、鉄製の頑丈な檻に悠々と収まった。
檻の扉が閉まり、ギデオンは肺の奥に酸素が戻るのを感じた。
呼吸が整ったのを確認してから、仕切り直すように一礼する。
朝から練習した角度だったが、犬による動揺の名残で、いつもより気持ち深めに頭が下がった。
「こ、これは失礼したね。僕はメルローズ家三男。ギデオン・メルローズだ」
「リネア・ルヴェルと申します。ギデオン様、お会いするのを楽しみにしておりました」
リネアはスカートをつまみ、ほんの小さな礼を返した。
ギデオンは頷きながらも、ちらりと檻の方を見る。
檻の中のキャンディは、静かにこちらを見つめていた。その眼差しは、もし隔てる鉄格子がなければ、噛みついてみせると言わんばかりだ。
ギデオンは視線を犬から逸らし、できる限り紳士的に微笑んでみせる。
「ま、まぁ……。とにかく中に入ろうか」
リネアに向かって手を差し出す。
しかしその胸中は、「どうして、あの化け物みたいな犬が、キャンディなんて甘い名前なんだろう」という、根源的な疑問が渦巻いていた。
こうして、ギデオンとリネアの初対面は、彼の想像していた甘い物語とは真逆の方向で幕を開けたのだった。




